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2018年8月10日金曜日

駿州往還と富士宮市内房の歴史

まず富士宮市というのは、街道が複数以上通過する地域である。詳しくは「中道往還と浅間大社そして大宮口登山道」にて記しているが、今回はそのうちの「駿州往還(河内路)」について取り上げていきたいと思う。

「足利尊氏軍勢催促状」(正平6年12月15日)に見える「うつぶさ

河内路は甲斐から駿河へ至る主要街道の1つであるが、その役割はとても大きいものがあった。現在の富士宮市でいうと内房(旧庵原郡)が河内路に属しており、重要な中継地点であった。「駿甲同盟」の際の嶺松院(今川義元娘)の輿入れの様子が好例であるので、挙げることとする。

「足利尊氏軍勢催促状」(正平6年12月17日)にみえる「駿河国内房山

まず今川義元の正室であった定恵院(武田信玄姉)が、天文19年(1550)6月に死去した。同盟関係上新たな関係構築が求められ、信玄の嫡男である武田義信に義元の娘である嶺松院が嫁ぐことになった。そのため駿府・甲斐間で婚儀のためのやりとりがなされ、信玄家臣である駒井高白斎がその取次を行い、天文21年(1552)11月に嶺松院は輿入れした。その様子が『甲陽日記』に記されている。

十九日丁酉御輿ノ迎二出府、当国衆駿河へ行(中略)廿三日ウツフサ廿四日南部廿五日下山廿六日西郡廿七日乙巳酉戌ノ刻府中穴山宿へ御着

駿府-興津-内房(富士宮市)-南部-下山-西郡-甲府というルートで移動している。これは河内路である。

武田信玄

またこの輿入れは大変華やかであったとされ、『勝山記』には以下のようにある。

武田殿人数ニハ、サラニノシツケ八百五十腰シ、義元様ノ人数ニハ五十腰ノ御座候、コシハ十二丁、長持廿カカリ、女房衆ノ乗鞍馬百ヒキ御座候

武田側は850人、今川側は50人が随行し、輿は12、長持(衣類等を収納する箱)は20、女房衆の馬は100頭にも上ったという。特に武田側の850人は驚くところであり、その壮大さを感じるところである。もちろん内房の地も通過したのである。

しかし、「桶狭間の戦い」以後の今川家の凋落を好機とみた信玄は駿河侵攻を展開。現在の富士宮市域も武田氏が領するところとなった。


その過程で「内房口の戦い」も行われた。

穴山信君

そこで以下のような文書が残る。



(齋藤2010)には以下のようにある。

この史料は勝頼段階の天正8年の史料であるが、河内路の要衝を書き連ねている。(中略)河内路の谷間の重要地点は万沢・南部・下山・岩間であったことがわかる。

この史料については、(小和田2001;pp.365-366)や(柴辻2001;p.281)でも言及されている。また(齋藤2010)は以下の史料をあげ、次のような説明を加えている。


年未詳


「爰駿州境目本栖・河内用心等、不可由断之由、申遣候」と富士南麓に出陣した武田勝頼が甲斐府中で留守居を務める跡部勝忠に報じていることが確認できる。具体的な年次が確定できないが、本栖および河内が北条氏に対する甲斐国境の拠点に位置付けられ、勝頼の代に至っても軍事的に重要な地点であることは不変であった

ちなみに当書状について『戦国遺文』では永禄10年(1567)とし、(齋藤;2010)は天正8年(1580)としている。永禄10年というと駿河侵攻の頃であるが、このとき富士山南麓に信玄の出馬はあっても勝頼の出馬は無かったため、永禄10年の可能性は大変少ない。

そして本栖側の街道は「中道往還」なのである。

武田勝頼

現在の富士宮市というのは、この「本栖」と「河内」に隣接している。例えば本栖湖は富士宮市の目と鼻の先にある。富士郡の要衝であり大宮城が位置した「大宮」まで距離はあるものの、本栖や河内から武田軍が進行していた際は特に緊張した状態にあったことは言うまでもない。

  • 参考文献
  1. 齋藤慎一(2010)「武田信玄の境界認識」『中世東国の道と城館』,東京大学出版会
  2. 小和田哲男(2001)『武将たちと駿河・遠江』,清文堂出版
  3. 柴辻俊六(2001)『戦国期武田氏領の展開』 (中世史研究叢書),岩田書院

2017年4月21日金曜日

中道往還と浅間大社そして大宮口登山道

中道往還は「甲府盆地と吉原宿を結ぶ街道」である。


中道往還は甲斐国から駿河国に入ると、そのまま真下に直行する。しかし富士山本宮浅間大社のある地点の西側でL字型に曲がり(桝形)、浅間大社前を通過し富士大宮の町を過ぎた後、斜め下に降り吉原宿に至る。これが駿河国側のルートである。ルートをみると桝形の部分が大変特徴的であることが分かる。これは駿河国側の中道往還の大きな特徴と言っても良い。

橙:中道往還ルート 青:登拝道(登山道)
  • 中道往還の位置づけ

『甲斐国志』に以下のような記述がある。
本州九筋ヨリ他州ヘ通ズル路九条アリ
本州(=甲斐国)から他国に行く道が9つあったという意味であり、それぞれ
①若彦路②中道往還③河内路④鎌倉街道⑤萩原口⑥雁坂口⑦穂坂路⑧諏訪口⑨大門嶺口
が該当するとされる。下線のものが駿河国へと繋がる街道である(④は御殿場へ至るのでここに含めた)。これが甲斐国から見た場合である。以下に街道のルートおよびその名称を載せる。

名称(+別名)経路
中道往還、右左口路甲府盆地-吉原
駿州往還、河内路、身延路甲府盆地-静岡市(富士市)
鎌倉街道、駿州東往還、御坂路甲府盆地-御殿場

実は九条(九の街道)ある中で現在の富士宮市にかかるものは①若彦路②中道往還③河内路と大変多く、如何に現在の富士宮市域が甲斐国と交通面で密接であったのかがこれだけでも十分読み取れる。戦国時代、武田氏はあるときは河内路を用いて、またあるときは中道往還を用いた。そのため、河内路沿いの地である松野(富士市)の領主「荻氏」は何度も武田氏と交戦している。16世紀中盤の領主は「荻慶徳」であったといい、甲斐の武田信虎軍と戦い討死している。次代は「荻清誉」であり、信虎の次代である武田信玄軍と戦いやはり討死している。これは「内房口の戦い」と呼ばれるもので、内房(現在の富士宮市)で討死している。そのため首塚は富士宮市内房尾崎の地にあるのであるが、もちろん内房も河内路に属する地である。

中道往還は起源が大変に古いとされ、3世紀頃には既に成立していたと見るものもある(甲斐国と駿河国で差異はある)。また源平合戦(治承・寿永の乱、最期は壇ノ浦の戦いにて平氏は滅亡)の1つである「鉢田の戦い」の際は若彦路が用いられた。

  • 遺跡と中道往還
仮に3世紀という古代の時代に拓かれていたとすると、遺跡群の分布を考えていく必要性がある。富士郡下では主要路沿いに古墳群が分布しており、5世紀末期頃に築かれたという「伊勢塚古墳」は根方街道と東海道の交差点にある他、5世紀から7世紀にかけてとされる東平遺跡を構成する富知六所浅間神社周辺の集落部分は、やはり根方街道と東海道の交差地点にある。8世紀頃になると伝法古墳群と東平遺跡一帯に集約させる姿を見せ、この一帯に機能が集中している。このように東平遺跡一帯が拠点であったが、9世紀になるともっと広い地点に機能を分散させる形で遺跡が分布されるようになる。10世紀代には浅間大社の地点で墨書土器が出土している他、近くには「泉遺跡」が確認されており、この辺りは中道往還沿いである(泉遺跡は中道往還と河川の中間地点)。これらの事実は、意図を持って中道往還沿いに集落機能を持たせたと考えても良いように思える。富士郡庁と富士郡官舎は未だ発見されていないが、おそらく発掘地点はやはり街道沿いになるであろう。

  • 中世の中道往還
先程「浅間大社は中道往還沿いにある」と記しましたが、いよいよここから中道往還の経路に関わる部分について書いていきたい。まず浅間大社が位置した富士大宮において、交通面を中心として考えた際にまず浮かんでくるものは「六斎市」、そして「楽市令」である。

「富士大宮楽市令」の発給文書から、この神田の地で六斎市(月に六回市が開かれる)が行われていたことが分かり、またそれらが楽市化されたことが知られる。またそれに伴い神田橋関が廃止されたことも知られる。現在も神田橋が残るが、その辺りに神田橋関があったと推測され、ここを中道往還が通過していた。六斎市が行われていた事実から、中道往還の経済路としての位置づけを改めて確認することができる。

「楽市論」では以下の興味深い指摘をしており、傾聴すべきである。

実は私は、富士浅間神社の地図を見たとき、神社参道、神社から山宮への道、さらには富士山頂への道という「信仰の道」が、基本的に〈南北の道〉なのに、浅間神社の門前町、駿州中道往還の〈社会経済の道〉が〈東西の道〉で、両者が直交することに大変興味をもった。これは建築学の神代雄一郎が述べる「奥宮・神社・御旅所を結ぶ信仰の道と、紐状にならぶ人家を数珠つなぎにするように走る社会経済の道が直交する」の定式そのものだからである。(中略)神社が今の敷地内に営まれたのは、ここが四神相応の地だったからだろう。東の川〈青龍〉は湧玉池から流れ出す神田川である。西の大道〈白虎〉は駿州中道往還で、古くは甲州から立宿に来て、桝形からそのまま直進し潤井川に出て、黒田、山本、高原と中道往還を下ったと思われる。北の〈玄武〉の山は当然富士山で、南の〈朱雀〉は今の駐車場辺りや神田川の中洲などだろう。(中略)中世の富士大宮は門前町でもあり、宿場町でもあった。江戸時代の宿場町の多くに桝形が見られるが、すでに中世の富士大宮には結界性があった。

確かに、各地の社寺参詣曼荼羅図をみても、「東:川ないし滝、南・西:道 北:信仰山(神社を基準として)」という構成は多いように思える。浅間大社もそれらの例に外れることなく計画されたものであったと思われる。ここでいう「数珠」とは、以下のような意味である。

注:繋いだ場合であり、実際の路順ではない

"神社から山宮への道、さらには富士山頂への道という「信仰の道」が、基本的に〈南北の道〉"とあるのは、下の地図で「青:登拝道(登山道)」と示した部分を指す。これを氏は「道者たちの動線は駿州中道往還と一度も交差しない」という表現をしているが、確かに登拝道と中道往還は直接的にはクロスしていないし、異なる方向へと向かっている。例えば『富士の道の記』(「天保十四年癸卯八月」の後書あるため、それ(1843年)以前に記されたと言える、天保9年頃という)には以下のようにある。

大宮の駅 駿州富士郡に属す。此所は東海道の官駅吉原の宿より甲州にの往還にて、常に人馬の往来絶間なく、繁花なる市中也。且また身延山等にも是を行くもの有。(中略)富士山本宮浅間大明神の社 大宮の駅の左の方にあり。(中略)本宮東の方回廊の内より、富士登山の関門有。是なん大宮口と称す
とあり中道往還の説明をしつつ、社殿の東から登山道が始まることを説明している。これは丁度湧玉池の部分であり、中道往還と登山道を区別していることが分かる。

橙:中道往還ルート 青:登拝道(登山道)
説明中の「桝形からそのまま直進し潤井川に出て、黒田、山本、高原と…」の部分はいわゆる「富士本道」が該当すると思われ、実際は中道往還とは区別されることが多い。富士大宮は六斎市、または後の楽市が行われる商業地であったが、それは中道往還の存在があって成立するものであった。また明らかに浅間神社の門前を通す形となっており、社人町または商人・職人等が住まう雑色町を通過する形が確認できる。『楽市論』では神田橋が境界となっていたとしているが、桝形からなるこの通りが「商業」「信仰」といった上で重要地点であったことは間違いないと言える。


吉田口登山道は北口本宮冨士浅間神社境内の金鳥居(登山鳥居)から延びる形となっているが、富士山本宮浅間大社も登山道が境内から延びる形となっていると考えるべきであろう。

  • 参考文献
  1. 安野眞幸,『楽市論―初期信長の流通政策』,2009
  2. 藤村翔,「富士郡家関連遺跡群の成立と展開 富士市東平遺跡とその周辺」『静岡県考古学研究 45』, 53-66, 2014-03 
  3. 西川広平,「世界遺産富士山「巡礼路の特定」に関する作業報告,『山梨県立博物館研究紀要9』, 70-63, 2015
  4. 加藤浩徳・志摩 憲寿・中西航,「交通システムの発展と社会的要因との関係:山梨県を事例に」,『社会技術研究論文集8』,11-28, 2011
  5. 山梨県教育委員会,『若彦路』(山梨県歴史の道調査報告書第8集),1986

2015年6月22日月曜日

富士山における合目や階層の概念について

富士山には「何合」という概念が存在する。しかしこの「合目」を学術的観点で説明する文献は意外にも限られている。

この説明をする上で、まず富士山に「階層」という概念が存在していたということを知る必要性があります。「合」は「階層」を示しているわけであり、当然階層の概念を示す史料を探る必要性があるわけです

『富士の歴史』では以下のように説明している。

室町時代末期の作なる富士浅間縁起に「富士山形蓮華合似、絶頂八葉、層々第八層到」と見ゆ。(中略)更に村山浅間社の萑修験大鏡坊から、嘉永年間に寺社奉行所に呈出せる「富士表口南面路次社堂有來之次第絵図」を按ずるに、砂振を第一層とし、順次二層・三層・四層・五層・六層・七層・八層・九層と記して、頂上に達する登山道を描き、始めて之を十分して居る。(中略)果して然らば、古くは何合といはずして何層と称したのかも知れぬ。(中略)

と説明した上で、あくまで「○合」の初見や由来の可能性として以下を示している。

  1. 『隔掻録』(1814)に「富士山を測る場合、その形から山形穀を盛るのに似ているので、一里を一合というようになった」という旨の記載がある。もちろん『隔掻録』の影響をそのまま受けた『甲斐国誌』も同様である。
  2. 『甲斐叢記』に「是より峰頂に至るまで、里数を称ずして合勺を以て数へ、十合に至る」とある。基本的に『隔掻録』と同様の解釈が示される。
  3. 芙蓉亭蟻乗の富士日記(「駿河国富士郡大宮と吉原の関係と富士山登山ルート」にて一部掲載)は胎生十月に準ずるとしている。「木花木花開耶姫は富士山の御神にして、御山も女躰にかたどるなり。麓より頂上迄一合・二合・三合目と次第に登り、絶頂迄十里有り、是を胎生十月に准ず」とある。
  4. 山頂のことをお鉢というが、仏寺の供米も御鉢料といい、そこから飯米になぞらい五勺一合というように「合」を用いるようになった
  5. 洪水のとき水量を図るのに「合」を用いるように、富士山にも用いるようになった
しかしこれらは推測の域を全く出ない。また十合の理由として、富士山縁起(村山三坊地西坊)は「六道(仏教用語)に声聞・縁覚・菩薩・仏を加えた数」としているという(「富士山とかぐや姫伝説」の「竹取翁説話を含む富士山縁起」の3のもの)。これも十合の由来の1つに数えられる。

「中世の富士山-「富士縁起」の古層をさぐる-」では以下のように説明している。

しかし近世以前の資料には、登山道を十合に区分する説を見出すことはできない。むしろ中世までは八層に区分する概念が通用していた形跡がある。鎌倉時代の書写である『浅間大菩薩縁起』では八層の地質の様相を具体的に記したうえに「八層はいわゆる頂上なり」と説明しており、当時の村山修験では八層説が用いられてたことが判明する。(中略)こうした資料を踏まえれば、中世において富士山の登山道が八層に区分されていたことは確実である

「富士山における階層の概念」は中世まで遡ることができ、ここは非常に重要な点であると言える。また他山での場合(他山では階層の概念があったのか、共通項はあるのか)と比較する必要性がある。

  • 参考文献
  1. 西岡芳文,「中世の富士山-「富士縁起」の古層をさぐる-」『日本中世史の再発見』,吉川弘文館,2003
  2. 『富士の歴史』(再販:名著出版,1973),260-264

2014年11月15日土曜日

古記録に見る富士山北麓西麓南麓の文言

富士山を地域別で大まかに分ける際、「西麓」「南麓」「北麓」という表現で区別することが多い。しかしこの表現は、かなり昔まで遡ることができる。

  • 西麓
甲斐国の江戸時代の地誌『甲斐国志』に「富士山ノ西麓ヲ過ギ駿州上井出二至る」とある。これは「中ノ金王路」という甲斐国と駿河国を結ぶ道路の説明における文言である。中ノ金王路の詳細は不明であり、また記録上決して多くは確認されていない。

しかしながら興味深いのは「西麓ヲ過ギ駿州上井出二至る」という表現である。駿州上井出とは現在の静岡県富士宮市上井出のことであるが、中ノ金王路が甲斐国-駿河国のルートであることで間違いがない以上、この表現は甲斐国の部分も西麓と言っているということになる。

「富士山西麓「駿河往還」の成立」によると、「『鳴沢村誌』にある絵図によると長尾山・片蓋山辺りを通るのではないか」としており、そうであるとすると鳴沢村辺りを西麓としているということになる。だとすると、山梨県側=北麓、静岡県側=南麓とするのは、現代の考え方であって歴史的にはそうでない可能性が高い。

  • 北麓
同じく『甲斐国志』に、「弘安五年壬午九月某日 日蓮往クトキ武州池上ニ富士ノ北麓ヲ過ギ 号鎌倉海道  川口村上野坊ガ家ニ宿ス」とある。これは日蓮が弘安5年(1282)9月に身延山を下り、武蔵国池上に至ったことを示す内容である。日蓮は同年10月に没している。『甲斐国志』の記録なので江戸時代に記されたものであるが、当記述は「川口村上野坊ガ家ニ宿ス」とあり蓮華寺(現・富士河口湖町)に関する記述の中での文言であるため、川口村周辺は北麓と考えられていたと言える。鎌倉街道については、単に鎌倉方面に至る道を「鎌倉街道」と称していたことも多いといい、具体的なルートは不明である。

  • まとめ
細かく探せば「富士山南麓」という表現も多く見出せるはずである(という意味で題名に南麓を含んだ)。「どこまでを富士山南麓・北麓・西麓としているか」という点は興味深い。現代では「富士山麓」といったときに広範囲を指しすぎているように感じる。古来のように移動が容易ではない時代、もっと限局した地域を指していたのではないだろうか。中世の使用例を探す必要性がある。

  • 参考文献
  1. 末木健,「富士山西麓「駿河往還」の成立」『甲斐第121号』,山梨郷土研究会,2009
  2. 山梨県埋蔵文化財センター編『山梨県山岳信仰遺跡群詳細分布調査報告書』 ,山梨県教育委員会,2012

2013年5月3日金曜日

富士山噴火と甲斐国八代郡浅間神社の創建

富士山信仰において、その富士山を祀る神社として「浅間神社」がある。甲斐国における浅間神社創建の直接の動機となった出来事は富士山の噴火であり、噴火の様子と合わせ甲斐国初の浅間神社建立までの過程は比較的詳細に記録されている。

※正史で確認できる富士山噴火の最初の記録は天応元年(781)である。

  • 浅間神社建立までの背景

『日本三代実録』の貞観6年5月5日の記録に

駿河国言。富士郡正三位浅間大神大山火。其勢甚熾。焼山方一二許里。光炎高廿許丈。大有声如雷。地震三度。歴十余日。火猶不滅。焦岩崩嶺。沙石如雨。煙雲鬱蒸。人不得近。大山西北。有本栖水海。所焼岩石。流埋海中。遠卅許里。広三四許里。高二三許丈。火焔遂属甲斐国堺。

とあり、駿河国側が富士山の噴火を報告している。

『日本三代実録』貞観6年7月17日の記録に

甲斐国言。駿河国富士大山。忽有暴火。焼砕崗巒。草木焦殺。土鑠石流。埋八代郡本栖并剗両水海。水熱如湯。魚鼈皆死。百姓居宅。与海共埋。或有宅無人。其数難記。両海以東。亦有水海。名曰河口海。火焔赴向河口海。本栖剗等海。未焼埋之前。地大震動。雷電暴雨。雲霧晦冥。山野難弁。然後有此災異焉。

とあり、今度は甲斐国側が噴火の被害を報告している。こうやってみると噴火の報告は甲斐国でかなり遅れているが、それほど被害が大きかったのだと解釈されることが多い。

このとき「セの海」が分断され、現在の「精進湖」と「西湖」が形成されている。つまり元はくっついていたわけであり、甲斐国の地理を一変させるほどの噴火であった。

『日本三代実録』貞観6年8月5日の記録に

下知甲斐国司云。駿河国富士山火。彼国言上。決之蓍亀云。浅間名神祢宜祝等不勤斎敬之所致也。仍応鎮謝之状告知国訖。宜亦奉幣解謝焉。

とあり、中央側から甲斐国に「駿河国が亀ト(きぼく)を行い富士山の噴火の原因をつきとめたところ、浅間明神の禰宜・祝らが斎敬を怠ったためであったと言上してきたので、駿河国司に浅間明神に鎮謝するよう告知した。したがって甲斐国も駿河国の浅間明神に解謝せよ」と言った。

この記述から「駿河国に浅間神社は存在するが、甲斐国にはこの時点で存在していない」ということは明白である。この事実は非常に大きく、浅間神社の由来を駿河国に限定することができる。またこの「浅間明神」については、富士山本宮浅間大社を指すとされている。文中にある「浅間名神祢宜祝等」とは現在の富士山本宮浅間大社の神職を指すのである。

『日本三代実録』貞観7年12月9日の記録に

勅。甲斐国八代郡立浅間明神祠。列於官社。即置祝祢宜。随時致祭。先是。彼国司言。往年八代郡暴風大雨。雷電地震。雲霧杳冥。難弁山野。駿河国富士大山西峯。急有熾火。焼砕巌谷。今年八代郡擬大領無位伴直真貞託宣云。我浅間明神。欲得此国斎祭。頃年為国吏成凶咎。為百姓病死。然未曽覚悟。仍成此恠。須早定神社。兼任祝祢宜。々潔斎奉祭。真貞之身。或伸可八尺。或屈可二尺。変体長短。吐件等詞。国司求之卜筮。所告同於託宣。於是依明神願。以真貞為祝。同郡人伴秋吉為祢宜。郡家以南作建神宮。且令鎮謝。雖然異火之変。于今未止。遣使者察。埋剗海千許町。仰而見之。正中最頂飾造社宮。垣有四隅。以丹青石立。其四面石高一丈八尺許。広三尺。厚一尺余。立石之門。相去一尺。中有一重高閣。以石構営。彩色美麗。不可勝言。望請。斎祭兼預官社。従之。

とあり、噴火から1年半経過し、甲斐国八代郡に浅間明神祠が建立され官社に列し、祝や祢宜がおかれ祭が行われることとなったと記している。

『日本三代実録』貞観7年12月の記録に

令甲斐国於山梨郡致祭浅間明神。一同八代郡。

とあり、山梨郡にも浅間神社が建立されている。つまり富士山噴火により「八代郡と山梨郡」にそれぞれ浅間神社が建立されているのである。

これら一連の動きについて、「富士山噴火による甲斐国八代郡浅間神社の創建」では以下のように分析している。

当時甲斐国は中国であり、駿河国は上国であった。(中略)この時期に甲斐国は国力を増進させていることがわかる。甲斐国府の移転もそれと関連しているという指摘もある。そこで、甲斐国司や其の配下の郡司らは、富士山噴火のパニックを機に駿河と同じ浅間神を祀る神社を造ること、それも他に類のない壮麗な石造の社にしつらえて、力量を誇示し、この神の加護を得て甲斐の国土の安全をはかること、(中略)駿河国と互角の国になる、という政治的意図もあったであろう。
としている。

  • 八代郡の浅間神社はどの浅間神社を指すのか

甲斐国初の浅間神社は、『日本三代実録』では八代郡に建立されたことを示している。『和名抄』によると、国司が勤務する国府は八代郡であったという。つまり甲斐国の中心は八代郡であったということになる。その八代郡であるが、この時代はある同一の場所でも郡の所属は変移しているという事実がある。そのため、郡の範囲としては計りがたい部分がある。例えば現在の南都留郡の一部も、この時代は八代郡に属していたと考えられている。

また『日本三代実録』貞観7年12月9日条の「郡家以南作建神宮」という記録は注目される。これは「八代郡家の南方」という意味であり、八代郡の中でも南方の位置に建立されたことを示している。そうするといっそ「現在の南都留郡辺り」は無視できない。多くでは、以下の3説が有力視されている。

  • 一宮浅間神社(甲斐国一宮)
  • 市川大門の浅間神社
  • 河口浅間神社

また「埋剗海千許町。仰而見之。正中最頂飾造社宮」という記録も無視できない。「湖を埋めた地点より千町程離れたところにあり、仰ぎみると富士山の山頂を背にして浅間明神祠がある」と言っている。富士山から近いとも遠いともどちらもとれるような印象であるが、仰ぎ見るという表現はあまりに遠い場所というわけでもないと思える。中世以降の言い方であるが、いわゆる「国中」(甲府盆地)辺りでは明らかに富士山は隠れており、「仰ぎみる」という状況にはないと思える。また市川大門も富士山からみて西方向に遠く、仰ぎ見るという状況にはないと思える。そうすると、個人的には「河口浅間神社」が有力に思える。実際最近は「河口浅間神社説」が有力視されてきています。逆に「北口本宮冨士浅間神社」という説はほとんどない。そもそも北口の浅間社が形成されたのは16世紀以降と考えられている。

  • 参考文献
  1. 菅原征子,「富士山噴火による甲斐国八代郡浅間神社の創建」『シャーマニズムとその周辺』,第一書房,2000

2012年11月8日木曜日

高橋虫麿の不尽山を詠める歌

高橋虫麿の「不尽山を詠める歌」は以下のようなものである。

なまよみの 甲斐の国 うち寄する 駿河の国と こちごちの 国のみ中ゆ 出で立てる 不尽の高嶺は 天雲も い行きはばかり とぶ鳥も とびも上らず 燃ゆる火を 雪もち消ち 降る雪を 火もち消ちつつ 言ひもえず 名づけも知らず 霊しくも います神かも せの海と 名づけてあるも その山の 包める海ぞ 不尽河と 人の渡るも その山の 水のたぎちぞ 日の本の やまとの国の 鎮めとも います神かも 宝とも なれる山かも 駿河なる 不尽の高嶺は 見れど飽かぬかも

原文は「万葉仮名」である。もちろん、「田子の浦に うち出でてみれば…」の歌も原文は万葉仮名ですね。意味は以下のようになる。

甲斐国と駿河国の真ん中に立っている富士山は、雲をも行く手を阻まれ、鳥も飛ぶのをはばかる。燃える火を雪が消し、降る雪を火が消している。言い表すのが難しい、名をつけることもできない程の霊験あらたかな山である。せの海と名付けられるのも、富士山に包まれているためである。人が渡るその富士川も、富士山から流れい出でている。日本の国を鎮める神とも宝とも言える山である。駿河の国の富士山はいつまで見ていても飽きないことだ。

「せの海」については「富士五湖とは」を参照。以下反歌。

(1)富士の嶺に降り置く雪は六月の十五日に消ゆればその夜降りけり
(2)富士の嶺を高みかしこみ天雲もい行きはばかりたなびくものを

の二首である。その後に「右の一首は高橋虫麿の歌の中に出づ。類を以ちてここに載す」の注釈がある。もしこれがただ純粋に「右」だとしたなら、(2)の短歌を指すことになるので、他のものは虫麿作とは言えない。しかし「類を以ちて」がこれら3つを指しているのだとして、この「不尽山を詠める歌」は虫麿作という風に一般には考えられている。

「なまよみ」の意味について諸説あるが、「半分、黄泉」という意味であり、「死者の国と、この世の堺の国」という意味である。「死」や「未開の国」というニュアンスである。この「なまよみ」は甲斐国の枕詞とされているが、このようなおどろおどろしい意味が枕詞であるということに懐疑的な見方もあり、齋藤芳弘氏が「枕詞ではなかった」と指摘している。

「黄泉」自体は「イザナギ・イザナミ」の神話などに出てくるが、当時の識者はこれら神話も知っていたのであろう。「古事記」が撰上されたのは711年とされ、高橋虫麿が富士山を詠める歌を作成したのが「719年-742年」辺りとされる。だから黄泉の説話を知っていてもおかしくはない。つまり「黄泉」が「死」に直結する意味を持つことを知っていたため、「よみ」という言葉を用いたことは想像できる。「なまよみ」が用いられている古代・中世の歌は、『万葉集』『夫木和歌抄』に限られるという。そして双方とも高橋虫麿作と推定されている。つまりこの時点では、単独の人物にのみによって用いられたとしか言えない。そうすると、たしかに枕詞とは断定できないかもしれない。

不尽河と 人の渡るも その山の 水のたぎちぞ」の部分は注目である。ここでは「人が渡るその富士川も、富士山から流れい出るのだ」としている。「人の渡るも」というのは、道の途中で富士川が通っているため人が富士川を渡っていく様を表しているのであり、その山というのは富士山を指している。そしてその後「駿河なる 不尽の高嶺は 見れど飽かぬかも」としていることから、駿河国の富士川付近から甲斐の国を見て歌ったものであるとされる。しかし当然ながら富士川は富士山から発生しているわけではない。つまりイメージで言っていることになる

この事実から、「たった一例しかなかった…(参考文献)」「富士川と五湖への虫麿の誤解…(参考文献)」などで「この人物は甲斐国にいったことは無かった」としている。これだけで甲斐国に行ったことがないとは断定できないかもしれない(実際せの海などを知ってはいるので)。ただ知見があまりないということは言えるし、だとしたら「未開の国」というニュアンスを含めたことも頷ける。この人物は東国・西国を行き来していた人物であり、それでも知見がないとなると、やはり甲斐の国は(他の国と比較して)未開の国として見られていたのかもしれない。その印象を先ず冒頭にもってきたのだろうか。

『古今和歌集』に小野貞樹の歌があるので、挙げてみる。

宮こ人いかにと問はば山高みはれぬ雲いにわぶと答へよ

この歌の詞書に「甲斐の守に侍りける時、京へまかりのぼりける人に遣はしける」とある。つまり、まとめるとこうなる。小野貞樹は甲斐守の任期を終え京へ戻る下僚に対しこう伝えた。もし都で「小野貞樹は甲斐でどのように暮らしているか」と聞かれたら、そのときは「山が高く、雲が多く陰鬱な国で心も晴れずに日々を送っている」と答えて欲しい、と。つまり「なまよみ」と歌われてもおかしくないような印象は、他の人物でも同様と言えるのである。

そしてこの「イメージで言っている」という事実は重要である。この歌は、ある事実からもよく知られている。それは「国のみ中ゆ出で立てる」ということから、例外的に「富士山は駿河国と甲斐国に跨る」と詠っている点である。他の歌では、まずこのように表現するものは見当たらない。つまり他の歌と比較して、かなり例外的なのである。他の歌では一貫して「駿河の国の富士山」としているのであり、この例外を普遍的であると考えてしまうと、富士山を巡る歴史の理解が進まない。先程のように印象で語っている部分が見られることを考えると、やはり「富士山は駿河国と甲斐国に跨る」という部分も、印象や根拠のない雑感から歌ったものであろう。ちなみに「せの海と名づけてあるもその山の包める海ぞ」という部分から「せの海」を「富士山に囲まれている」としている。しかしそれも誤りである。だから、例外的認識が出現した原因もこの事例で説明できてしまうのである。

さて、枕詞となった背景としては「国学者が用いたため」としている。先程「この時点では、単独の人物にのみによって用いられたとしか言えない」と書きましたが、大きな時期を隔て、かなり後世になって甲斐国の枕詞として用いられているのである。酒折宮にある、本居宣長撰文平田篤胤筆の石碑「酒折宮寿詞」には以下のようにある。

なまよみのこの甲斐の国のこの酒折の宮はもよ(書き出し部分の読み下し)

このように、枕詞として「なまよみ」を用いている。そして同じく国学者で本居宣長の弟子の「萩原元克」は、以下のような歌をうたっている。

なまよみの甲斐の国みすずかる信濃の国の二国の国のみ中にいや高く(読み下し)

その後も多く用例が見られ、二葉亭四迷の『浮雲』には「殊にはなまよみの甲斐なき婦人」などとあるという。この時代、かなり定着していることが伺える。甲斐の国の古典的表現が、江戸時代になって再び用いられたことが大きいと指摘されている。

  • 参考文献
  1. 斎藤芳弘,『たった一例しかなかった「なまよみの」-甲斐の枕詞を考証する』,甲斐路No.93,1999年
  2. 斎藤芳弘,『富士川と五湖への虫麿の誤解 枕詞でなかった「なまよみ」-万葉集「富士讃歌」解剖-』,甲斐No.122,2010年

2012年11月1日木曜日

富士川の歴史民俗編

富士川は長野県-山梨県-静岡県-駿河湾と続く河川である。富士川の歴史については多面的に考えてみたいが、ここでは主に民俗的な視点で追求したいと思います。

「一遍聖絵」第6巻(一遍上人絵伝)に見える富士山と富士川
  • 文明の基点という考え方

網野善彦「甲斐の歴史をよみ直す」では、以下のように記している。

山梨については、これまで「孤立した山国」という固定したイメージ、理解の仕方がかなり広く行き渡っていたのではなかろうか。(中略)山は周囲から人を隔てるという性格を一面に持っている。しかし、山には山なりの道があった。と同時に甲斐を縦横に流れる河川は山や盆地を海とつなぐ、海に向かって開かれた道だったのである。(中略)このなかで田代氏は、直径五十センチメートルを超える大型の渥美焼が河川に沿って分布している状況を確定しながら、不安定な馬の背に限る陸路よりも、船によって海から富士川をさかのぼって甲斐にもたらされた可能性が高いことを指摘している

これが真実であるとすると、甲斐の国というのは富士川などの河川を基点として文明が開いたといっても過言ではない。このように、富士川から歴史を考える必要性もあるかもしれない。

笹本正治「早川流域地方と穴山氏」には以下のようにある。

河内領という名称について文化十一年(一八一四)に成立した『甲斐国志』は、「河内カワウチ訓ズ。河落ノ転ナルベシ。三郡諸河一道二会集スル処」と伝えているが、この地はまさに富士川を中心として開けているといっても過言ではなく、人家は富士川の沿岸と富士川に流れ込む小河川のまわりを中心として点在している

上は交通手段としての河川の役割についてであるが、この場合は在地の民衆が水の恵みを頼りとし、沿岸に住み着いていた事が感じ取れる。

  • 富士川水運

富士川を語る際、外せないのは「富士川水運」であろう。「『富士川流域河川調査書』にみる物資物流」より引用。

富士川舟運は、(中略)山梨県ばかりでなく長野県、特に、その中信地域の物資物流の大動脈であった。しかし、明治三十六年(一九〇三)には中央線が甲府まで開通し、さらに、富士川に沿って北上してきた富士身延鉄道の昭和2年の完成によって富士川舟運は近世初頭以来のその役割を終える。 

とある。そしてこのような認識で正しい。しかしそれまでは非常に重視された物流手法・ルートであった。その地域における位置づけも大きく、外せないものであっただろう。しかし後に完全に衰え、過去富士川水運で栄えた地域は今は衰退している(例:鰍沢町(現・富士川町)、南部町など)。田山花袋の『赤い桃』には以下のようにあるという。

鰍沢は十年前とはまるで変ったやうなさびしい町になってゐた。(中略)依然として川舟の出る河港はあった。しかしそのさびれてゐることよ。その衰へてゐることよ。その茶店のさびしく田舎的になってゐることよ。

つまり水運という糧を失って、町自体が寂れてしまったのである。鰍沢は舟運の町と言ってもよく、鰍沢の人口増加は水運の発達によるところが大きい(明治二十年代は最盛期だという)。「富士川運輪会社」なるものも、鰍沢に設立されている。これは明治八年のことであるが、中央線が甲府まで開通した明治三十六年から数年後の明治四十四年には、富士川運輪会社は総会を開き会社存廃の件を議題にしている。この事実からも、中央線開通の影響力の大きさが感じ取れるだろう。その後は悲惨な状況であったという。

『富士川流域河川調査書』には「鰍沢、青柳、黒沢、三河岸、市部、切石、南部、下稲子、沼久保、星山、松野、岩本、松岡、堀川、岩淵」のデータが記されているという。そしてこの地域は共通して富士川沿いであり、河岸・船着場などがあった地域と想定される。広域であり各地域について取り上げることは不可能であるため、ここでは富士宮市を例に説明していきたい。

富士宮市で富士川水運で栄えた場所は概ね「稲子」「沼久保」かと思う。沼久保は現在も問屋跡が残る地域である。問屋は物資などを保存・管理する場所である。以下の建物がそれである。

問屋(富士宮市沼久保)
「富士川-富士川水運-問屋」のイメージは重要である。




実は私は敷地内に入れてもらい、詳しく話を伺っています(ありがとうございます!)。なので、内部からも撮影できています。やはり私は、重要な歴史遺産だと思いますね。

  • 角倉了以
角倉了以は、富士川水運の環境を整えるため開削を行った人物である。角倉了以は本性は吉田氏といい、宇多源氏の流れという。近江佐々木氏の一流で、近江の吉田の地を根拠地とし吉田氏を称したという。その後(吉田)徳春が京にて室町幕府に仕え、その子宗臨が土倉を営んだため「角倉」と称されるようになったという。

「近世の富士川水運」によると、以下のようにある。

慶長十二年角倉了以が幕府の命を受け開鑿浚渫を行い通船が可能となった。(中略)しかしこの大事業が慶長十二年に完成したとは考えられない。市川大門村(町)円立寺の鎮守天神祀の天神画像の裏書に「慶長十七年(中略)京都角倉勝左衛門富士川通船始之砌祈願之天神」とあり、おそらく慶長十七年に富士川通船が創始されたと考えるのが妥当であろう

としている。また同論考によると貢米(年貢米)は「-岩渕-蒲原(陸送)-清水港-江戸」と運ばれたようである。そしてこれを扱う問屋は独占的特権であったという。これらの地域は重要な輸送ルートであっただろう。

  • 難所
「富士川水運の民俗」によると、以下のようにある。

鰍沢から岩淵まで富士川十八里を船頭たちは『カワタケ』とよんでおり、『カワタケ』とは川が滝をなして流れることからよぶので、『カワタキ』というのだともいわれており、『カワタケ十八里』のうち支流早川の合流するところから上流を『クニガワ』といい、富士川とは早川の合流する下山以南を指してそうよんだのだといい、船頭らは船がクニガワに入つて来るとホッとしたという。

この論考は1961年のものである。そして鉄道開設(=水運の終わり)が明治三十六年の1903年であるから、この当時の論考でなければわからぬ部分もあると思う。習慣などについても詳しく掲載されており、大いに参考になる。

富士川において、難所は最も厄介であった。十坂舎一九『金草鞋』には以下のようにある。
舟のあたらざるやうに岩をよけて、舟を自由にまはすこと、まことに見るにあやうく、(中略)かくて富士橋の下、釜が淵といふところは、まことに目をあきてみられず、恐ろしき難所なり、そこを過ぎて、ほどなく東海道富士川にいでたり
このように、非常にスリリングなものでした。「富士川水運の悪場(難所)」によると、「天神ヶ滝、屏風岩、銚子ノ口(釜口=旧芝川町)」の三箇所は「富士川水運三大難所」と呼ばれていたという。ある種、賭けのような場所であったのだろう。川の合流点が「釜」で、水深があるところを「淵」というといい、そういう地名が多い。

しかしここまで犠牲を払ってまで水運に頼るのは、やはり生産の拡大や流通の必要性があったからである。水運は効率的であり、選択肢としては外せなかったのだろう。上で年貢米の例を出しているが、幕府の天領であった甲州は直轄の支配を受けていた。甲府の支配域の年貢分は鰍沢河岸から、市川の年貢分は青柳河岸から、石和の年貢分は黒沢河岸からと各河岸から積み出されることが決まっていたという。その関係で、これら地域には大規模な蔵があったであろう。特に鰍沢は諏訪領の米も積みだしていたといい、鰍沢に位置する諏訪問屋の裏の出入り口が由来となって『裏門』という地名があるという。

また『甲斐国志』にも「アクバ」が記され、やはり「銚子の口」などは記されている。古くから懸念の案件であったのだろう。鰍沢には「八幡神社」があるが、これは舟運安全祈願の社であったという(「研究材料七、建築」)。

  • 水運と客船

東海道線が開けてからも、水運は尚生活に必要なものであったという。例えば、電車の発着時間に合わせ水運の時間も調整していたようである。それ故に「時間船」「普通船」といったようなものがあったという。実は私もこの話は聞いたことがある。不特定多数の山梨在住の高齢者に話を聞いたことがあるが、水運で下って静岡の鉄道線に乗った方が圧倒的に効率的に移動できたらしい(私が静岡なのでこの話題を出したのだろう)。これはかなり強調されていたので、習慣的な方法であったのだと思う。「郵便船」というものもあったといい、『甲府局誌』によると「明治四年甲府柳町二十二番地に郵便取扱所を設置、東海道吉原より甲府へ郵便枝道を開いた」とあるという。

以上、富士川の歴史でした。

  • 参考文献 
  1. 青山靖,「富士川水運の民俗」『甲斐路』No1,1961年 
  2. 齋藤康彦,『富士川流域河川調査書』にみる物資流通,『甲斐路』No.88,1996年 
  3. 望月武実,「角倉了以と富士川の開削」,『甲斐路』No.88,1996年 
  4. 清水小太郎,「近世の富士川舟運」,『甲斐路』No.88,1996年 
  5. 石川博,「富士川下りを描いた文学」,『甲斐路』No.88,1996年 
  6. 立川實造,「富士川水運の悪場(難所)」,『甲斐路』No.88,1996年 
  7. 羽中田壮雄,「建築」,『甲斐路』No.88,1996年 
  8. 網野善彦,『甲斐の歴史をよみ直す―開かれた山国』P11-14,山梨日日新聞社,2008年改版 
  9. 笹本正治,「早川流域地方と穴山氏」『戦国大名武田氏の研究』,思文閣史学出版,1993年