2014年11月15日土曜日

古記録に見る富士山北麓西麓南麓の文言

富士山を地域別で大まかに分ける際、「西麓」「南麓」「北麓」という表現で区別することが多い。しかしこの表現は、かなり昔まで遡ることができる。

  • 西麓
甲斐国の江戸時代の地誌『甲斐国志』に「富士山ノ西麓ヲ過ギ駿州上井出二至る」とある。これは「中ノ金王路」という甲斐国と駿河国を結ぶ道路の説明における文言である。中ノ金王路の詳細は不明であり、また記録上決して多くは確認されていない。

しかしながら興味深いのは「西麓ヲ過ギ駿州上井出二至る」という表現である。駿州上井出とは現在の静岡県富士宮市上井出のことであるが、中ノ金王路が甲斐国-駿河国のルートであることで間違いがない以上、この表現は甲斐国の部分も西麓と言っているということになる。

「富士山西麓「駿河往還」の成立」によると、「『鳴沢村誌』にある絵図によると長尾山・片蓋山辺りを通るのではないか」としており、そうであるとすると鳴沢村辺りを西麓としているということになる。だとすると、山梨県側=北麓、静岡県側=南麓とするのは、現代の考え方であって歴史的にはそうでない可能性が高い。

  • 北麓
同じく『甲斐国志』に、「弘安五年壬午九月某日 日蓮往クトキ武州池上ニ富士ノ北麓ヲ過ギ 号鎌倉海道  川口村上野坊ガ家ニ宿ス」とある。これは日蓮が弘安5年(1282)9月に身延山を下り、武蔵国池上に至ったことを示す内容である。日蓮は同年10月に没している。『甲斐国志』の記録なので江戸時代に記されたものであるが、当記述は「川口村上野坊ガ家ニ宿ス」とあり蓮華寺(現・富士河口湖町)に関する記述の中での文言であるため、川口村周辺は北麓と考えられていたと言える。鎌倉街道については、単に鎌倉方面に至る道を「鎌倉街道」と称していたことも多いといい、具体的なルートは不明である。

  • まとめ
細かく探せば「富士山南麓」という表現も多く見出せるはずである(という意味で題名に南麓を含んだ)。「どこまでを富士山南麓・北麓・西麓としているか」という点は興味深い。現代では「富士山麓」といったときに広範囲を指しすぎているように感じる。古来のように移動が容易ではない時代、もっと限局した地域を指していたのではないだろうか。中世の使用例を探す必要性がある。

  • 参考文献
  1. 末木健,「富士山西麓「駿河往還」の成立」『甲斐第121号』,山梨郷土研究会,2009
  2. 山梨県埋蔵文化財センター編『山梨県山岳信仰遺跡群詳細分布調査報告書』 ,山梨県教育委員会,2012