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2025年10月13日月曜日

大宮・村山口登山道を準踏破して思う、活性化できない8つの理由

世界文化遺産富士山の構成資産である「富士山域」の構成要素はいくつかあるが、うち登山道は以下のものが含まれる。

  1. 大宮・村山口登山道
  2. 須山口登山道
  3. 須走口登山道
  4. 吉田口登山道

私はこのうち「大宮・村山口登山道」を一部分を除いて踏破している。管見の限り、踏破した報告は殆ど聞いたことがない。中にはテント泊を兼ねて大宮口より一度の登山で踏破した強者も居るようだが。そしてこのうち「吉田口登山道」の活性化が昨今のニュースとなっている。私はこのニュースを注視してきたが、重要な局面のように思えたので記事化することとした。

富士山に唯一麓から登れる「吉田口登山道」復活へ…1707年に建てられた中ノ茶屋リニューアル(2025/06/27 読売新聞オンライン)

7月1日に解禁予定の山梨県側の富士登山。有料道路「富士スバルライン」を車で上り、5合目から山頂を目指すのが一般的だ。しかし、スバルラインの完成までは、登山者らは麓からの登山道を利用しており、かつては行者らでにぎわっていたという。今はすっかり荒れ果ててしまったこの古道を復活させて多くの人を呼び込もうと、富士吉田市などが動き始めている。
 「吉田口登山道は麓から登れる唯一の登山道で、歴史と文化が色濃く残る」5月16日、登山道の起点である北口本宮冨士浅間神社と1合目の中間地点にある休憩所「中ノ茶屋」前で、同市の堀内茂市長が、力強くあいさつした。
 この日は、リニューアルオープンした中ノ茶屋の発表会。1707年に建てられ、富士山を信仰する「富士講」の行者らの登山を支えてきたが、近年は利用客が減少し、存続が危ぶまれていた。
 市では3月、富士山周辺の活性化を目的にフランスのアウトドアブランド「サロモン」を展開するアメアスポーツジャパン(東京都新宿区)と包括連携協定を締結し、第1弾としてリニューアルに着手。内装を一新して、1階には同ブランドのハイキング用シューズのレンタル場を設けたほか、2階には登山者が利用できるシャワーを2基設置した。
 堀内市長は「富士山の入り口でもあるので、きれいに整備して多くの方に来ていただきたい」と期待を込めた。
 市歴史文化課によると、富士山では、1964年にスバルラインが開通するまでは、登山者らは麓から吉田口登山道を登って頂上を目指していた。麓から5合目まで約11キロの道沿いには多くの山小屋や茶屋が並んでいたという。
 しかし、開通以降は5合目から山頂を目指すのが主流となり、麓からの登山者は激減。山小屋や茶屋は、営業が立ちゆかず軒並み廃業し、維持管理ができなくなった登山道の建物や神社は老朽化や損壊が深刻化していた。
 市では建物の解体撤去など景観整備を図ってきたが、土地や所有者の権利構造の複雑さなどから制限も多く、対策が打てずにいた。
■信仰の歴史など発信
 状況を打開しようと、市では2023年度、国や県、有識者を交えた委員会を設置。山小屋所有者らからも意見を聞きながら、2年かけて「富士山吉田口登山道保存と活用のための活動計画」を策定した。
 34年度までの10年間で、倒壊の恐れがある1合目の鈴原社の整備や復元、4合5勺の御座石浅間神社の待機所としての再整備を進めるほか、倒壊が懸念されるほかの建物についても、所有者らと協議しながら、補強を行っていく。
 富士講らを世話した「 御師 」の町(現在の市街地)と登山道を連動させたイベントも展開し、麓の登山道の認知度向上や活性化を図っていく。
 今秋には継続的な協議体も設置予定といい、同課の沢柳幸司課長補佐は、「富士山信仰を体感できる登山道を伝承していきたい」と強調する。
 アメアスポーツジャパンとも、同社の培ってきたノウハウを生かしながら登山道の価値を高めていく考えで、富士山信仰の歴史、麓よりの神社などの建造物などに関する情報発信を強化していくほか、環境保全などを通して県内外に登山道をPRしていく。(以下略)

大宮・村山口登山道も富士山麓から登拝できるため、このニュースはミスリード(誤報)である。無論、殆ど知識など持ち合わせていないであろう富士吉田市長の発言を引用したことによる結果だとは思うが。

驚くべきは、山梨県側の博物館の学芸員までもが知見が浅いことである。「ふじさんミュージアム企画展富士山世界遺産登録10周年記念企画展 富士山登山案内図の世界 展示目録(2023年)」には以下のようにある。

東海道から大宮口を経て村山口へ出るのが、「冨士本道」とされますが、前述のとおり東海道から村山口へ直接向かう道もあり「富士山表口真面図」には東海道の吉原宿から村山口へ向かう「登山道」が描かれています。

「富士本道」の認識、全然違います。参考文献に『富士山巡礼路調査報告書 大宮・村山口登山道』が挙げられてはいるが、1ページでも読んだのか疑わしいレベルである。

というように、学芸員ですら4つの登山道史の概要ですら把握するのは困難なのであるから、富士吉田市長の知識がまっさらなのも無理はない。そしてこの『富士山巡礼路調査報告書 大宮・村山口登山道』に詳細なルートが明示されている。これが学術調査を経た、正式なルートである

思えば、村山口登山道は早い段階から積極的な調査がなされてきた登山道であるように思う。その一端を示すのが、以下の資料である(富士山世界文化遺産協議会「富士山-信仰の対象と芸術の源泉ヴィジョン・各種戦略」、2014年)。


つまり1993年には既に学術調査を基とした調査報告書を刊行しているのである。私はここから富士宮市の熱量、先進性、勤勉さを強く感じる所であり、この時代に提起した事実そのものを称賛したい。そしてこの時点で完成度が高い報告を世に出したことは、決して軽んじられるものではないと思う。

この事実を把握した上で、以下のニュースを読んで頂きたく思う。

幻の「富士山・村山古道」が人気 5年前、ガイド本が出版され話題に(中日新聞 2011年1月13日)
 行政困り顔「本物確証なく危険」
幻の富士山大宮・村山口登山道(通称・村山古道)とされるルートが、登山者の間でひそかな人気を呼んでいる。明治末に廃絶した古道を再発見した、と主張するガイド本が5年前に出版されたのを契機に登山熱に火が付いた。しかし、国や富士宮市教育委員会は、同書が紹介するルートが本物の古道である確証はなく、登山者の安全も確保できていないと懸念している。
昨年10月24日未明、富士宮市の村山浅間神社を出発。富士山富士宮口新6合目までの標高差約2000メートルを12時間半かけて踏破した。たどったのはガイド本「富士山村山古道を歩く」(風濤社)が村山古道だと主張するルート。富士山信仰を研究する登山家で、同書の著者畠堀操八さん(67)=神奈川県藤沢市=が率いる登山者グループに同行した。畠堀さんは、約8年前から同市村山の住民有志と協力して古道を調査。古老の記憶などを頼りにルートを特定し、倒木や雑草を切り払って整備した。2006年に、「幻の古道の在りかを突き止めた」としてガイド本を出版、インターネット上などで話題になった。地元では、古道を活用した“村おこし”への期待も高い。
一方で、行政側は登山者の増加に頭を痛めている。市教委はガイド本のルートについて「学術的な調査に基づいていない。本物だとの誤解が広がっては困る」と懐疑的。県埋蔵文化財調査研究所が08年度に実施した調査も、札打ち場など古道沿いにあった施設の遺構16カ所を確認したが、施設同士を結ぶ登山道までは確定しなかった。地元住民の有志はガイド本のルート沿い約20カ所に案内板を設置したが、数年前に静岡森林管理署に撤去を求められ、やむなく応じた。有志からは「登山者の遭難を防ぐための案内板をなぜ」と不満が渦巻く。管理署は「ガイド本のルートは獣道との違いも不明確な道もあり危険。利用を促すわけにはいかない」と説明する。(抜粋)

つまりこの村山古道というのは、いわゆる"勝手橋"と同じようなものなのである。そもそもこれらは、1993年の『富士山村山口登山道跡調査報告書』の成果に大幅に拠ったものである。

しかし記事からも分かるように、あくまでも自らの成果という体は崩さないように見受けられる。そもそも「国有林への入林について」にあるような規定を守っていないことも明らかである。これが、活性化できない理由の1つ目である。

【活性化できない理由①】学術調査を基とした大宮・村山口登山道を素直に受け入れない人々が居るため、活性化できない

また問題は、そちらが正式なものであるかのように流布されていることである。例えば「OpenStreetMap(OSM)」には「村山古道」という呼称名にて村山口登山道に類似するルートが登録されている。


村山古道の定義がよく分からないため、"これは村山古道です"と言われればそうなのかもしれないが、"「大宮・村山口登山道」のルートとは異なる何らかのルート"以上の言い方が出来ない。

【活性化できない理由②】学術調査を基としたルートでないものが、地図サイトに登録されている

次に自治体としての問題である。大宮・村山口登山道の学術調査には、実は富士市の予算も投入されてきた。それは大宮・村山口登山道が富士宮市を大部分としながらも富士市域をも含む登山道であるからである。

では富士宮市と富士市、互いにアピールすれば周知は時間の問題だな…と普通の人であれば思うであろう。しかし実際は富士市が大宮・村山口を真正面から取り扱うことが殆ど無い。これまで投入され続けてきた予算は一体何だったのだろうか…と思う

以下はYAMAPの登山計画作成画面であるが、ここに「富士山登山ルート3776」というものが出てくる。つまりYAMAP公式で登録されているルートなのだ。これは富士市のシティプロモーションの一環のルートである。




このような形で新しく策定する必要性が良く分からないのであるが、事実なので仕方がない。各地域が学術的に担保された登山道調査を行い、報告し、そして公開するという流れで歩調を合わせている。そのような中でのこのアクションなので、富士市はNATOでいうところのトルコみたいな地域と言えるだろう。

しかしこれがYAMAP公式で載っているということは、リスク面もクリアされているということであるし、大宮・村山口も不可能ではない。活性化できない理由の3つ目と4つ目がここにある。

【活性化できない理由③】自治体も大宮・村山口以外のプロモーションに躍起
【活性化できない理由④】大宮・村山口のGPXデータやルートが一般公開されていない

特にGPXデータを公開すれば一般認知度は一気に向上することは自明の理である。GPXデータが無い状態で登るよりあった方が良いのは明白であるが、登山者の絶対数が増えればトラブルも増えるかもしれないという危惧もある。しかし既に「富士山登山ルート3776」の取り組みがあるため、これを先行事例として大宮・村山口のデータ公開を主張するという理論武装は可能である。逆に言えば、今しなかったら一生できないように思う。

大宮・村山口登山道で通過できない箇所があるのなら、「OpenStreetMap(OSM)」で示される道を迂回ルートと定めればいいだけの話なのである。「迂回」とすれば、学術面も担保されている。

次に環境団体の問題がある。2013年の「環富士山地域広域連携ビジョン」に環富士山地域の取り組みとして以下の紹介ページがある。


このUTMF(現在はMt.FUJI100)であるが、現在富士山南麓の団体が潰すことに躍起になっている。それは「大宮・村山口登山道を巡る問題行為およびガイド問題について考える」にて詳細に取り上げたので、見ていただきたく思う。実は天子山地は山梨県も含まれており、例えば天子ヶ岳も長者ヶ岳も山梨県に跨っているのであるが、山梨県側は天子山地を経由するMt.FUJI100に特に異を唱えていないという点はもっと注目されても良い気がする。ところで吉田口登山道のニュースでこのようなものがあった。



このような、山梨県側では当たり前に受け入れられていることも(登山競争・トレイルランニング)、富士宮市では難しい。同じ事柄でも、こちらでは普通に行うことすら困難なのだ。これが4つ目の理由である。

【活性化できない理由⑤】登山道を活用したスポーツイベントの廃止を標榜する団体の存在

また山梨県側の山小屋の店主のインタビューがあったが、このように不明なことは"不明"と言えることは重要であって、簡単なことのようで簡単ではない。この方は断定できないことは"想像している"という表現をしており、このような謙虚な姿勢が静岡県側は無いように思われる。



昨今富士山南麓において、憶測に過ぎないが断定するような風潮が強く見受けられる。例えば鈴川の富士塚を修験道の巡礼地であるかのように喧伝する団体が居る。その動き自体は以前より感知していて、2012年にTwitter(現在X)に投稿したことがある。



翌2013年にはもう少し踏み込んだ発言をした。


2018年になると富士市市民部文化振興課により『鈴川の富士塚』が刊行された。同書の(富士市2018;p.82)には以下のようにある。

鈴川の富士塚の信仰的背景を探ってきた。しかし、確実に富士山禅定に結びつく根拠は得られなかった

であるから、分からないことは「分からない」とした方が良いのである。この地域に巣食う問題は相当に根深い。一部の人々による無邪気な無秩序さが、この地を荒れに荒らしている。

鈴川の富士塚の信仰的背景は、同報告書にもあるように富士山本宮浅間大社の神職および神事から見出すことができるわけだが(つまり「大宮」)、はっきりとしているその部分に関しては上のような団体は何故か等閑視している。私は当初、この特殊背景の理由がよく分からなかった。関係性が確認されないものを"関係する"とする一方で、明確に関係性が指摘されるものに触れない理由は特段無いためである。

しかしこれは後述する(山本2020)などにヒントが隠されているうように思う。また(静岡県富士山世界遺産センター2021;p.239)に同氏のインタビュー内容が掲載されている。

山本氏にとって、浅間神社と大日堂は分けられない存在で、一緒に「センゲンサン」という存在であるという。村山集落の人口が減少する中、村山浅間神社や大日堂興法寺の建物や史料があるだけでなく、より多くの人に参拝や行事に参加してもらうことで、村山集落の歴史や文化が伝わっていくことを願いながら活動を続けている。

このようにあるが、氏の論稿を読む限りではそうは思えない。排他的で、歴史認識も誤りが多く、村山が良い方に向かうような糸口すら感じられない。

なぜもっと胸を張れないのか?先人の考えに思いを偲ばせることはできないのか?…これが論稿を読んでまず感じた所感である。

富士宮市には「身延道」の道標がある。これは甲斐国の身延山久遠寺に至るために富士上方各地に設けられた道標である。山梨県南巨摩郡の人々は、これを見て誇りに感じることだろう。"これは自分が住む地域に来るために建てられたものなのだ"と。求心力が無ければ、そのようなものは歴史の中で絶対に存在し得ないのである。そこには人々の強い思いがある。

舞々木町には「右富士山道」と刻まれた道標がある。何を隠そう、大宮口を用いて村山口に至るための道標である。村山の求心力を示す象徴とも言える。"これは大宮口を用いて村山に来るための道標なんだ"と、なぜ胸を張って言えないのだろうか?

論稿内(山本2020;p.67)で「富士山頂までを表口村山登山道とか村山口登山道という名称で認識、承認されてきた登山道が、近年の登山道解説書とか冨士山登山案内書で、大宮・村山口登山道と記されていることでは、村山住民はもとより、村山口登山道を利用して村山より登山する登山者等は、大宮と記されていることに疑問を投げかけているのである」とあるということは、これを否定しているということになる。

ちなみに歴史用語として「大宮口」と「村山口」は存在するが(つまり大宮・村山口)、「村山古道」という言葉は存在しない。またこの道標は大宮町の人によるものとされている。そういう先人の普通の思いも、後世の人間によって歪められてしまうのだ。私はただただ、先人に申し訳ない思いでいっぱいである。

村山口の道中の石造物も大宮町の人々によるものが散見されるが、後の時代に「大宮つけるな」と言われているとは露ほども思わないだろう。本当に寂しい話である。このような「おらが村」精神では人は集まらない。

そして衰退したのはすべて外部要因だと盲目的に決めつける。こういうことも辞めたほうが良い。こういうことをしている地域に人々は来たいと思うだろうか?

【活性化できない理由⑥】活性化させたいようで活性化から逆行したスタンスという実情

冒頭の記事で山梨県の取り組みをみたが、このようなことが静岡県側は出来ない。"市では3月、富士山周辺の活性化を目的にフランスのアウトドアブランド「サロモン」を展開するアメアスポーツジャパン(東京都新宿区)と包括連携協定を締結し、第1弾としてリニューアルに着手"とあるが、これも絶対に出来ない



何故なら、富士山南麓の団体が山林部でのスポーツを排斥しているからである。そんな地域にSALOMONが来るはずがない。山梨がサロモンならこちらはMILLET(ミレー)でどうだろうかとも思うわけだが、受け入れ体制が出来ていないところには企業は見向きもしないだろう。


(静岡県富士山世界遺産センター2021;p.227)には以下のようにある。

富士山村山口からの登山の目的は、禅定登山や成人儀礼など様々な要素があったと思われるが、富士登山をはじめ近世の旅自体に次第に観光の要素が増大したものと思われ、村山口の宿坊や登山道上の山小屋や室の対応は必ずしも十分であったとは言いがたいのではないだろうか。特に北口吉田口では、街に風呂屋が二軒開業したり、富士講を中心とする団体登山に対応して御師宅に奥座敷が用意され、風呂や禊ぎの川が屋敷内を流れ、御師外川家では上総の檀家の酒造家との関係で、酒は飲み放題であったとも伝えている(近世までさかのぼるかは不明)。とにかく、いわゆる「おもてなし」が格段に向上したのである

簡単に言えば、山梨県側には見いだせる「おもてなし」の精神がこちらには皆無なのである。これを著した菊池氏は甲斐国側の歴史にも深く通じており、その目を通したからこそのごもっともな見解である。

もちろん観光化は文化・伝統との兼ね合いの点で難しい部分もあろう。しかしこの現代においてもそうであるのは、もはや説明がつかない。

ここには富士宮市民の差別意識が関係するように思う。富士宮市は気候も温暖で、少なくとも富士北麓の寒さや飢えは経験することが少なかった地域である。『妙法寺記』を読むと、凶作の年に富士北麓の人々が越国して富士上方(≒富士宮市)で食料等を調達し、なんとか食いつないでいたことが記される。作物が育たないので試行錯誤してなんとか辿り着いた結果生まれたのが「うどん」だったのだ。

現代においても、富士宮市の製造品出荷額等が約1兆円であるのに対し、富士北麓は恵まれては居ない(忍野村は除く)。富士宮市民には"うちらは観光に頼らなくともやっていける"という慢心がある。ここに、密かな差別意識があるのだ。そういうものは要らない。

富士宮市民は観光で儲けることを卑しいと思っている節すらあり、例えば富士宮やきそばを売るお店にも難癖をつける人すら居る。これはとんでもない話で、モノに付加価値をつけて売るのが経済なのだから、富士宮市民はもはや観光を経済として見ていないということにもなりかねない。

【活性化できない理由⑦】観光を頑張れない/観光を経済として捉えることができない

例えば「富士宮市立郷土史博物館の地域説明会における質疑応答に対する意見」でも「観光客誘致を目的としたいが隠しているようにみえる」という一般市民の意見が見られたが、このように観光を相当下の次元で見ていることが分かる。この方の中では、博物館の目的の1つに"観光"があるのは後ろめたいことであるのだ。

私は大宮・村山口において1度だけ人にすれ違った時に声を掛けられたが、とりあえずの応答だけに留まってしまった。簡単に言えば、仮に①のような人であったら面倒臭いことになりそうなので、リスク回避が働いてしまうのだ。おそらく普通の人々ではないと思うし、現に山梨県側で「吉田古道」などといって活動する者は見たことも聞いたこともない

これが地元民から見た真実の姿である。傾向として言えるのは、①も⑤も⑥も年齢層は上の方であるということである。上手くいかない理由が、見えてきただろうか。

【活性化できない理由⑧】やっぱり上の世代の方々が前時代的

そして冒頭の記事に繋げて言えば、おそらく吉田口登山道の活性化はできても、大宮・村山口は難しいだろう。まだ活性化の途上にあると見える吉田口登山道に、今ならまだ間に合うのかも知れない。もう既に大きく離されているように思えるが。


何処よりも先んじて登山道の学術調査を行ってきた富士宮市が、何故活性化に関しては遅れを取るという憂き目に遭うのか

これが不思議で仕方がない。富士宮市および富士市は、今からでも良いから共同で活用計画を策定すべきであろう。


具体的には、以下の取り組みは必須となろう。

  1. 大宮・村山口登山道のルート・GPXデータの一般公開
  2. 同登山道中の看板の設置
  3. 土地所有者・権利関係の整理
  4. 同登山道の各登山口(大宮口・村山口)の整備、特に村山口に開業する民間事業者への補助金等の検討(基準は厳格化)
  5. スポーツイベントの推進化(民間企画者が円滑に行えるための体制確立)

私は吉田口活性化の取り組みにおける"正当性"およびその手法を強く称賛する立場である。

ちなみにであるが…大宮・村山口登山道は英語で「Omiya-Murayama Ascending Route」(推薦書英語版)である。英語でブラウザ検索すると、1~3番目のうち1・2番目は山梨県HPで3番目はANAのページという結果となっている。やはり圧倒的に山梨県側の方がプレゼンスが高い。




---追記(2025/10/24)---

これら事象の背景をもう少し詳細に考えてみよう。そして浮かび上がったことに「前提の説明不足」が関係するのではないだろうか、ということがある。

というのも、上記のように学芸員ですら明確に誤った認識を持っている。"東海道から大宮口を経て村山口へ出るのが、「冨士本道」とされる"のであれば、道中図や紀行文で記されるような"東海道の吉原宿から大宮口に至り村山口より登拝を行う"その道は冨士本道であるのだろうか。否である。

(静岡県富士山世界遺産センター2021;p.159-161)に登山記の一覧があるが、大宮・村山口登山道と記されていて富士本道が併記されていないものは、一体何処から来たと考えているのだろうか。不思議である。

こんな当たり前のことも伝わらないほど、前提を描出できていないのではないだろうか。様々な用語の「初見」が記される中、まず「大宮口」と「村山口」の初見に焦点を当ててみも良いだろうし、それに言及した史料をもう少し見ても良いのではないだろうか。

そう考えると、(山本2020)の論調の理由も見えてくる。レベルを極限まで落として考えた時、仮説ではあるが、そもそも当人が「大宮口」という概念そのものを知り得ていなかったという可能性はありはしないだろうか。であれば合点がいく。

ここ15年間くらいの各論稿(専門的)を見ると、確かに村山道が常套手段であったかのような印象を受けなくもない。村山道というものはそれほど多用された道であったのだろうか?そうは思われない。そういう印象をそのまま受けとってしまったその結果として、(山本2020)のようなものがこの世に生まれてしまったというようにも思えてくる。

  • 参考文献
  1. ふじさんネットワーク会議(2013)「環富士山地域広域連携ビジョン」
  2. 富士山世界文化遺産協議会(2014)「富士山-信仰の対象と芸術の源泉ヴィジョン・各種戦略」
  3. 富士市市民部文化振興課(2018)『鈴川の富士塚』
  4. 山本哲(2020)「村山浅間神社の今昔」『富士学研究』Vol.16 No.1、61-68
  5. 静岡県富士山世界遺産センター(2021)『富士山巡礼路調査報告書 大宮・村山口登山道』
  6. ふじさんミュージアム(2023)「ふじさんミュージアム企画展富士山世界遺産登録10周年記念企画展 富士山登山案内図の世界 展示目録」

2020年4月23日木曜日

富士山登山道の山小屋または石室の歴史

現在富士山には登山者が宿泊する「山小屋」が存在している。この山小屋の前身は「室」「石室」「穴小屋」と言われたものであり、多くの史料に残っている。奥屋・大場(2019)の報告ではこれらを指す形で「富士山の山小屋建築の原初形態」という表現を用いている。今回は主に大宮・村山口登山道における「室」を取り上げたいと思う。

奥屋・大場(2019)は

遅くとも、大宮・村山口登山道では近世以前に、他の登山道では近世前期には各合目に複数の小屋が存在した

としている。また以下の富士参詣曼荼羅図は、石室を考える上で大変重要な史料となっている。


  • 富士参詣曼荼羅図に描かれる石室

同報告でも指摘されるように、『松栄寺本紙本着色富士曼荼羅図』に石室が描かれており、注目される。

石室(松栄寺本
この曼荼羅図に描かれる「富士山本宮浅間大社」(静岡県富士宮市)の本殿が浅間造ではないため、制作時期は中世まで遡る可能性があるとされている。

富士山本宮浅間大社(松栄寺本

富士曼荼羅図に石室が描かれていることは、大変に重要な事実である。富士山の登拝において石室が一つの象徴的存在であったことを示唆するものである。

  • 古文書より

奥屋・大場(2017)は武田家の発給文書等に「中宮之室」「半山室」「室」といった文言があることに注目している。このうちの「半山室」は永禄8年(1565)5月「武田信玄願文写」に「于士峰半山室」とあるそれである。しかし、これらすべてが小屋に類するものであるかどうかの検討は必要である。

例えば登山口が位置する村山に対する掟判物として、天文22年(1553)5月「今川義元判物」がある。この文書の冒頭に「村山室中」という文言があるが、これは小屋ではない。村山の空間を「室」と表現し、その室中において掟が定められたのである。

しかし上記の武田家発給文書や小山田信茂の発給文書、その他文禄4年(1595)の免許状等の文面から、近世以前の時代に中宮に小屋が複数以上存在していたことは確実である。同文献はこれらの史料から

近世以前、五合目下の中宮に社が造営された。その近傍には、神仏を祀るとともに水などを商い登拝者を休息させる中宮小屋が派生、御師や百姓らによって運営された。やがて信仰観の変化や山役銭の徴収制度の変更に伴い、五合目上へ小屋が創設されるようになった

とし、これを吉田口の小屋の成立過程としている。そこで大宮・村山口登山道について考えていきたいが、奥矢・大場(2019)には

天文2年(1533)今川氏輝が辻之坊の諸権利を安堵する朱印状には「中宮」や「御室」、天正19年(1591)頃に井出氏より辻之坊へ宛てた『富士山参銭所之事』には「室四箇所」ほか山内の地名6箇所の存在を確認できる。

とある。辻之坊宛の「富士山参銭所之事」は確認していないが、「中宮」「御室」は共に社であり、小屋とはまた異なるものである。

  • 荷田春満と富士信章の富士登山

比較的時代が遡ると考えられる室の記録として、荷田春満『万葉集童子問』(1722年成立か)が挙げられる。荷田春満は「国学の四大人」として名高く、物事に対して毅然と向き合う姿勢はその著作物に現れていると言える。『万葉集童子問』を見ると問答という形で事実を論する形を取っており、時に俗説を強く否定するなどしている。ここに春満の学者の気質を感じるのである。

荷田春満

春満は富士大宮司である富士信章の招待を受け、享保7年(1722)6月に富士大宮の地を訪れた。その際に富士登山を行っているのである。その際の記録が断片的に記されており、これは富士山の歴史を考える上で貴重な史料になると言える。また享保7年(1722)という時代背景も重要であり、富士登山の道中を記した記録で18世紀前半以前のものは案外少ないように思えるのである。それが学者による筆という点も重要である。

富士信章の名は春満の各著作の中で「富士中務少輔信章」や「和迩部信章」、また神職名を冠する形で「富士大宮司信章」「富士大宮司」「大宮司」等とあり多様である。以下、『万葉集童子問』の室に関する部分を抜粋する。

予富士大宮司信章に請招れて富士の大宮にしハらく滞留せし時富士山にのほりて見侍しに水海といふものハなし(中略)かの山の半腹にといふ所ありて室より上ハ草木もなくただあらしのミなれハかの愚詠をも 
      雲霧ハふもとの物よよりハあらしを分るふしの芝山 
かく書付て大宮司信章にハみせぬ。

とある。富士山の中腹辺りに室があり、そこから上は草木もなく嵐のみであるとしている。「かの山の半腹に室といふ所ありて」という言い方であるところを見ると、中腹より下には室は無かったのだろうか。また奥屋・大場(2019)には「小屋が3領域の境界や登山道の合流点付近に集中して建てられている」という指摘があったが、まさに今回の場合もその例に漏れないと言える。

記述からは、自然発生的な石室なのか人為的な石室なのかは読み取れない。この時代のいわゆる"合目"の区分が「八」であったのか「十」であったのか分からないが(歴史的には「八」→「十」へと変化していったとされている)、「半腹」というからには少なくとも現在の五合目以上の箇所であったと思われる。

また別史料の草稿に富士登山の際の歌が確認される。詞書を「冨士山にのほりてあまた読侍る歌の中に」とし複数首詠んでいるが、その歌中に「月のふし」「六月のひかけも寒き雪のふしのね」等とある。これはやはり享保7年(1722)6月に富士登山を行ったことによる。

『万葉集童子問』含め富士登山に関わる記録はいくつか見いだせるものの、この登山道がどの登山道であるかは実は明記されていない。勿論富士大宮は大宮口が位置する地であるので、大宮から登ったことは確かである。

普通に考えればその後村山口登山道を用いたと考えられるが、富士大宮司は村山口を避けたという記録もある。例えば平田篤胤『古史伝』には以下のようにある。


富士郡浅間の大宮司を例祭には、北口を登るを例とするなり


このように例祭にのみ限局された慣例であったのであれば、別に村山口から登拝していても何ら不思議ではない。今の所、この記録は村山口を用いたものであると考えている。

また以下は、現存未詳であるがそれ以前に採集され記録として残る和歌である。富士登山の際に詠まれたものである。

ふじの山に上る時みなづきのふじの山といふことを句の上下にすゑて 
見よやけふなつともいはじつみし雪のきゆる世なくやのこるこの山 信章
見まく思ふなる沢も見えじついまつ(たいまつ)のきえなばうしやのほる芝山 東丸

また以下には「穴子屋」「穴小や」とあり、これは室のことである。何故なら『万葉集童子問』において、富士信章に自作の和歌を紹介する場面にて明確に「室」と表記しているためである。

みな月のふじといふことを第五句にすゑて 
世にたぐひ嵐をしのぎ雲をわけ雪路をつたふみな月のふじ     
穴子屋より大宮司のもとへ詠みておくり侍る  東丸
   思ひやれ巌の枕こけ莚のぼりつかれふじのつらさを 
   返し 
思ひやるもいそこ寝られぬ穴小やのあらぬつかれのふじの仮ねを 信章

また別史料の「東丸歌集雑上案」に同様の歌が収録される。

富士の山にのほりし時、いたつくことありけれは、和迩部信章かもとへ申遣しける 
思ひやれ岩かね枕こけむしろのほりつかれふじのかりねを 
   返し                信章 
思ひやるもいそねられねあなこやのあらぬなつみのふじのかりねは

とあり、やや異なっている。奥屋・大場(2019)に「『富岳雪譜』によると、石室は宿泊よりむしろ悪天候時の一時避難に利用され」とあるが、この和歌を見るにこのときも同様の用い方をしていると思うのである。

富士大宮滞在時の記録は断片的であるが残り、「古今和歌集箚記」にも「富士大宮司のもとに久しく有し時…」とある。富士大宮では「つつ鳥」なる鳥に関心をもったようである。断片的にではあるが、これらの記録から富士山における当時の風習が読み取れるように思う。

奥屋・大場(2019)は小屋に言及している史料を年代別に示すなどしているが、『万葉集童子問』はその早例の部類に入るといって良いだろう。

  • 参考文献
  1. 奥矢・大場 (2019)「近世富士山における山小屋建築の諸相と山岳景観」『日本建築学会計画系論文集』84巻
  2. 奥矢・大場 (2017)「富士山の吉田口登山道における山小屋建築の成立過程とその形態」『日本建築学会計画系論文集』82巻
  3. 奥矢・大場 (2018)「富士山の吉田口登山道における山小屋建築の近代化の様相」『日本建築学会計画系論文集』83巻
  4. 奥矢・大場 (2018)「富士山の吉田口登山道における山小屋建築の近代化のおこり」『日本建築学会計画系論文集』83巻

2019年9月9日月曜日

富士市や富士宮市は竹取物語発祥の地であるのか

まず、「静岡県富士山世界遺産センター」(静岡県富士宮市)の企画展のチラシを以下に掲げたいと思う。


ここに

しかし、ここ富士山周辺では、かぐや姫は月ではなく富士山に帰り、富士山の神様だった、というストーリーが伝承されています。この話は、「富士山縁起」という富士山信仰に関わる寺社の縁起書などに記され、特に富士南麓に位置する静岡県富士市・富士宮市を主な舞台としていることから、当地周辺にはいくつもの伝承地が残されています。

とあるように、富士宮市・富士市は「かぐや姫説話」の舞台の地である。しかしこれが拡大解釈され、「=竹取物語発祥の地」と一般には解釈されている節がある。また「≒(ほぼ等しい)」かと言われれば、とてもそうは言い難い。

同じ富士地区(富士宮市・富士市)でも明確な差異があり、富士市においては「竹取物語発祥の地である」と認識する人々がある一定数存在している。その一方で富士宮市においては「(富士宮市が)竹取物語発祥の地である」とする人は居ないように思われるのである。なので先ず「何故富士市でそのような風潮が生まれたのか」という点から説明していきたいと思います。

  • 富士市のイメージ戦略
例えば富士市の広報等では昔から盛んに「竹取物語発祥の地である」と宣伝され続けてきた事実があります。それは以下のようなものであり、何十年にも渡り宣伝され続けてきました。「行政」は市民からすれば圧倒的に「公式」なのであり、それを富士市の市民等は何十年にも渡り見続けてきたのです。以下はほんの一例です。

1987年10月

1991年10月




1996年10月

また富士市のHPが初めてできた際も「かぐや姫誕生の地」としていました。

広報ふじ No.694

しかし『竹取物語』の原型は平安時代には既に成立しているのであり、またそれは「都」で生まれたものであると言って良いはずです。もし仮に富士市が発祥であるのならば「富士市→都」と言っているということになり、最低限の史料的説得は必要となります。しかしそういうものは提示されないまま、行政が「発祥の地である」と言い続けてきたという長い歴史があります。

富士市は郷土史家があまりにも"郷土顕彰"に寄りすぎてしまい、その上でそれをそのまま行政の方にまるまる取り入れてしまったという歴史があります。昔の広報等を見てみますと、頻繁に郷土史家が登場していますが、述べていることはかなり疑義のあるものが多いです。新出史料によって解明されたとかそういうことではなく、そもそも史料検証的でない。結果として、富士市は文化後進的になってしまっています。

また郷土史家が様々な媒体で民話を紹介していますが、意図的に改変している様子すら見られる。これは要検証であるが、不可解が現象が発生している。

『源氏物語』に「物語の出で来始めの祖(おや)」とある、最古級の物語である『竹取物語』。その発祥の地としているのですから、凄いことです。このような背景かられっきとした差異が生まれているということを、まず理解しておく必要性があると思います。


  • 富士山縁起
富士山世界遺産センターの資料等で述べられているように、富士山麓には「富士山縁起」という史料が各寺社に伝わっており、そこには「かぐや姫説話」が含まれているものがあります(すべてではありません)。存在自体は古くから知られ、例えば『修験道史料集 1 (東日本篇)』(名著出版, 1983)等にも散見されます(福田2016;p.249)。これは富士市に隣接する富士宮市の村山浅間神社に伝わるものを翻刻し発表したものです。これらを含む断続的報告により「富士山南麓にかぐや姫説話を含む富士山縁起が多く伝わっている」という認識は従来より持たれていたと言えます。ちなみにこの富士山縁起は文化9年の村山浅間神社に伝わる富士山縁起と同内容であることが、大高氏の労作により判明している(富士市,2010;p.57)。

富士山縁起のおおまかなあらすじを知りたい方は「富士山縁起の赫夜姫説話」(富士市立博物館)が参考になると思います。またもう少し詳しく知りたい場合は(大高,2013)が良いと思います。

そして20世紀末に富士山縁起の新出史料の発見があり、同縁起が再び注目されるようになった。「富士縁起(全海写)」と「浅間大菩薩縁起」(鎌倉時代、滝本往生寺所伝)の発見である(金沢文庫1996;p.56)(西岡2004)。(西岡2006)には「それと前後して…」とあるため、両者はほぼ同時期に表に出てくる形となったのである。それに伴う金沢文庫の一連の報告、つまり西岡氏による報告は圧巻であり、「白眉」という言葉がふさわしい。その昔、これらを貪るように読み続けたことを記憶している。富士郡のかぐや姫説話に関しても「妙な境」(後述)を設けず、素晴らしき示唆を提示された。富士山縁起研究の1つの転換期が間違いなくここにあったと言える。

そして近年「六所家総合調査」が行われ富士山縁起に関する研究が更に深化し(六所家の史料に富士山縁起が含まれているため)、多数の報告がなされるようになったのである。かぐや姫説話に関する知見が従来に比して飛躍的に深まったことは間違いなく、ここで我々が「一連の研究で得た今現在の見解は概ねどのようなものなのか?」ということを知ることは重要であると思う。

私は「六所家総合調査報告書」および「六所家総合調査だより」をすべて確認してみたが、この調査により

改めて、富士市が竹取物語発祥の地とは現時点で到底言えないということが確認された

と言えるのではないかと思う。というより、そう言わざるを得ない。各史料を詳細に検討され、やはり「富士市→都」の流れは確認できなかったという帰結が確実に示されたのである。同調査では富士市とかぐや姫説話との関係性について、出来うる限り限界まで言及されているように思える。富士市の刊行物もかぐや姫説話に触れているものが多く、それらを汲み取った上で言えることである。これまで歴史学の論文等で「富士市が竹取物語の発祥に関わる」とするものは1つもなく、また当ブログでも現時点でそれを示すものは無いとしてきたが、この六所家総合調査はそれを支持する結果となったと言って良い

研究の深化は大変喜ばしいことであり、それら労作には感心以上のものを誰しもが感じる所であると思う。その過程で80点近くもあるとされる富士山縁起諸本が詳細に調べ上げられ、多角的に検討された。しかし行政としての富士市は上記のような"イメージ戦略としての展開"を何十年としてきたのであり、そこは聖域であって、「富士市が竹取物語発祥の地であることを示す史料は無い」とはどうしても明言できず、報告書内でもそこまでは言及はされてはいない。不文律に近いものがあるのである。

  • 富士山縁起の研究
ここでまず六所家総合調査の成果(富士山縁起に関わる部分)と総合調査以外の富士山縁起研究から導き出された概要を以下に簡易にまとめてみようと思う。まず富士山縁起とは

富士山および富士山信仰に関わる寺社の、その由来や伝説などを記した縁起書の総称

であり、諸本が存在する。(富士市2014;p.21)によると、およそ80点以上は存在している。そしてその中で成立年の古いものは(『富士山記』を除く)


  1. 『浅間大菩薩縁起』(鎌倉時代、滝本往生寺所伝)
  2. 『浅間大菩薩縁起』(建長三年の奥書あり)
  3. 富士縁起(鎌倉時代、全海写)


が挙げられる。そして1の『浅間大菩薩縁起』の続きが2の『浅間大菩薩縁起』(参考文献1における「文献二」)であるとされ(富士市2010;p.15)(西岡2006)、1には「建長三年辛亥六月十四日於冨士滝本往生寺書写了」とあり、滝本往生寺で書写したとある(金沢文庫2003;p.38)(西岡2003)。この滝本往生寺は富士宮市村山に存在した寺社であるため、まずこれら古例の縁起が村山で伝えられてきたということが確認できるし、それは数多くの文献で指摘されている(福田2016;pp.243-256)(西岡2004)

そして現時点で「かぐや姫説話」を含む富士山縁起で最も成立が古いとされるのが3の「富士縁起」(鎌倉時代、全海写)である(西岡2006)。この縁起には村山で伝えられてきた末代上人の伝説等が記されている。特に縁起中の「往生寺の大日如来の御身中に納め奉る者なり 瀧本は悪王子の嶽の麓東南の角に在り」という部分は明らかに村山を指していると言える。ここでも村山の関与が先ず想定される状況である。そしてこの「富士縁起」は極楽寺(鎌倉)の全海という僧により記されたものである。

これら成立年が古いとされる富士山縁起を挙げていく中で、いまのところ富士市が直接的に関与している様子は無い。まずこの時点で富士山縁起を持ち出して「富士市が竹取物語発祥の地である」とするのは難しいのである。竹取物語の原型は平安時代には確認されているのであって、やはりそれを遡ることはできていない。つまり「竹取物語」どころか「富士山縁起の成立」と限局しても、富士市から発祥するとするのは現時点では難しいのである。末代上人の伝説等が説かれている点を見ても、村山から発生したと考える方が自然である。


  • イメージ戦略の行く末
この富士市のイメージ戦略・展開は実際のところ多くの人を翻弄してきたことであろう。私もその1人であるし、例えば以下の大学生もそうだろう。このテーマを考えると、どうしても以下のやりとりを想起してしまう。どうあっても忘れられないのである。以下に以前私が運営していたメインブログにおけるコメントのやりとり示す(※コメントはブログ上で公開されていたものであってメール等ではない)。2013年のことである。

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2013-11-26T23:49:48.573+09:00
こんばんは。大学の卒業研究で富士市の竹取説話について研究している者です。確かに、図書館などで先行研究を探しても(先行研究自体が少ないのですが)、富士市の竹取説話(姫名郷の説話や富士縁起系の説話)をただ紹介している文献ばかりな気がします。なぜこの地に竹取説話が生まれたのか、(富士市を発祥の地とするなら、)それがどのようにして都に伝わったのか、そのあたりを論じたいと思っているのですがなかなか進みません・・・

ネットでこちらのブログを偶然見つけたので書き込ませて頂きました。
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とあります。そこで私は以下のように返信しました。といいますより、当時の私はそのように返信したようです(5年以上前のことです)。

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2013-11-27T00:33:33.450+09:00
この富士市という地が『竹取物語』との接点を求めるようになったのは、実際のところは歴史的経緯とは全く無関係な、観光的な理由が大きいと思います。現実的に考えると、「富士市→都」という流れはまずあり得ないと思います。もし有り得るのならば、もっと多くの研究者が着目しているはずです。そういうものが、全く確認できません。圧倒的に観光・イメージ戦略からきていると思います。(中略)「富士山縁起」はそことは無関係の部分から由来する、しかし当地でかぐや姫との接点が認められる要素の1つです。現在の風潮と私の独断と偏見を入れて説明しますと、おそらく富士山とかぐや姫を結びつける考え方は、富士山信仰の拠点の1つである村山で発生し、後々に拠点から少し離れた現在の富士市に伝わったのだと思います。これらと上の伝説をゴッチャにしてしまい、なんだか「本当に関係性がある」となってしまっている状況が実際のところだと思います。

ですから、このテーマは卒論には不向きだと思います。富士山縁起なら富士山縁起に絞られた方が賢明かもしれません。
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そして以下のような返信を頂きました。

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2013-11-27T01:43:28.533+09:00
貴重なご意見ありがとうございます。
不向きと言われてしまいましたが、今更テーマを変えることもできませんし、何よりかぐや姫関連の地名が昔から残っているということは、観光目的のために作りだされた話、というわけだけではないと思いますので、なんとかこのまま書きすすめたいと思います。富士市→都という流れですが、吉永郷土研究会から出されている『かぐや姫伝説と富士山』という本に興味深い意見が載っていますのでぜひ読んでみて下さい。

もし富士市と竹の関係についてご存知でしたら教えて頂きたいです。(良い文献が見つからないので...)
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つまり富士市による「竹取物語発祥の地」という行政による宣伝を信じ、このコメント主は卒論テーマに選んだのである。無論「大学生なのだから誇張した宣伝であることを疑うべき」であるとか、「卒論の作成には下準備が必要であり準備がなされていれば予めテーマから除外できたはず」といった指摘は出てくるのかもしれない。しかし私には翻弄された人々の中の1人として映ってしまうし、現在もそう思える。私は「富士山縁起に焦点を絞らないと成立しない」と勧めることしかできなかった。行政による被害者と言っても良い。富士市では教育委員会が機能していないのだろうか?これは氷山の一角であろう。

コメントで私は

現在の風潮と私の独断と偏見を入れて説明しますと、おそらく富士山とかぐや姫を結びつける考え方は、富士山信仰の拠点の1つである村山で発生し、後々に拠点から少し離れた現在の富士市に伝わったのだと思います

としているが、この部分については上の説明で十分に補完できていると考えている。ただこのコメント時は2013年であり、あくまでも「私の独断と偏見である」ということは明記しておきたい。以下で詳細を示しているので、興味がある方はご覧になって下さい。


  • 富士市・富士宮市におけるかぐや姫説話舞台の地
仮に富士市が「竹取物語発祥の地」である根拠や相補的材料として「富士山縁起」を担ぎ出す場合、成立年が古いもので富士市と直接的関わりがないと苦しいと言える。また富士山縁起がそもそも「富士市に限局したものではない」ので、どうあっても難しいのである。例えば縁起中に見える「中宮」は村山の中宮を指していると考えられ、かぐや姫説話の舞台の地である。(井上 2013)には以下のようにある。

村山興法寺を発った道者は「ヨコ子」(横根ヵ)、「駒立」と記載された場所を経由し、「中宮」(中宮八幡堂)へと到着する(註:富士山禅定図の説明である)。(中略)また、現在当館において総合調査を実施している六所家旧蔵の『富士山大縁起』という資料に所収されているかぐや姫の説話では、この中宮が富士山の岩窟へと入るかぐや姫と翁の最後の別れの場所であったとされている

「中宮」は富士山縁起諸本でも大抵記されており、物語の鍵となる箇所である。

富士山禅定図に見える「往生寺」「中宮」「冠石」等

また富士縁起(鎌倉時代、全海写)に「王冠ハ石ト成テ今二在リ」とある。帝が姫を追い富士山(般若山)に行き、その際に脱いだ冠が石となったとされるものである(金沢文庫2003;p.37)(福田2016;pp.241-242)。この伝承を基とした石は実在したと考えられる。「富士山禅定図」には現在の富士宮市域の箇所に冠石が描かれており、他の建築物等が当時実在するものであることを考えても、冠石は実在したと考えるべきである。これまで数多くの文献で「富士山禅定図」が持ち出され、そして場所の比定等が行われてきたのはその証左である(井上卓哉,「登山記と登山案内図に見る富士登山の習俗-大宮・村山登山道を中心に-」『環境考古学と富士山 3』)や(井上 2013)が詳しい)。

「駿河国富士山絵図」(村山三坊版)

またかぐや姫は最終的に富士山へ登り穴へ籠もるのであるが、この導線をみると乗馬の里(おおつなの里)から北上し村山を経て富士山頂へと至っているのである。その導線すべてがかぐや姫説話の舞台の地と言えるのである。一方富士郡におけるかぐや姫説話を説明する際に、下の一部分のみ(≒富士市域)を切り取って伝えている例が明らかに多い。ここに「妙な境」があるのである。これには『修験道史料集 1 (東日本篇)』(名著出版, 1983)でかぐや姫説話を紹介した故・遠藤氏も驚かれているのではないだろうか。

また「乗馬の里」については諸本により「富士郡」とあったり「駿州」とあったりするが(福田2016;pp.246-260)、具体的地名は縁起中には示されていない。また「おおつなの里」についても、それを示す地名もない(西岡 2003)。ただ「麓」であることが強調されており、かなり山体に近い箇所であったと考えられる。そういう意味では「今泉」等が候補として挙げられていることには違和感は無い。また「比奈」を比定地とする説は有名である(福田2016;pp.313-321)。(竹谷 2005)では比奈が乗馬の里であることを懐疑的に見てどちらかといえば今泉・原田に比定しているようにも思われるが、里が村山より下であるということは諸家で少なくとも一致している。


  • 富士山縁起と地名
富士山縁起も霊験譚やストーリーの型だけでは構成できない。やはり舞台となる「地名」が必要となる。しかし富士山縁起に見える「地名」「建造物」で、書写当時(古例の縁起)または原本が作成されたと推定される時代に実在したものは、実はかなり限られるのではないか。寺社縁起の性質上そうであるが、特にかぐや姫説話に限局した場合同説話中にて「実在する地名・建造物」が出てくることは稀であり、逆に「そういえるもの」は大変重要になってくるはずである

「富士郡」を筆頭に「中宮」(「瀧本」)「往生寺」「岩屋不動」「憂涙川(潤井川)」「凡夫川」等が浮かぶが、あまり挙げられるものではない(※「岩屋不動」に関しては(井上 2013)が特に示唆に富む)。現在の「潤井川」は当時「宇流井川」等と表記されることが多かったが、それを「憂涙川」としているのはいかにも縁起の演出と言えるだろう。

またここに「比奈」をいれるかどうかは判断が分かれるところだろう。ただ数少ない、実在すると明言できる地名・建造物がかぐや姫説話の中で語られている場合、そこは間違いなく注目されるべきである。それこそが代表的な「かぐや姫説話舞台の地」ではないだろうか。これさえも「妙な境」によって霞められているのである。

  • 「妙な境」を生んだ結果

これまで「妙な境」を持って語られることの多かった富士郡におけるかぐや姫説話であるが、それを如実に示した例が以下のようなものである。以下の質疑応答は、富士宮市役所で新聞記者が富士宮市長に対して行ったものである。


この奇想天外で奇異な質問の意図が分かる人間も少ないことだろう。ここでは質問の意味というよりは「その背景」に着目した方が分かりやすいので以下で説明したいと思う。

まず富士宮市にはコノハナノサクヤヒメから採った「さくやちゃん」というゆるキャラが居る。対して隣接する富士市は上記で示したように「竹取物語発祥の地」として展開しており、また「ミスかぐや姫コンテスト」などを行い「かぐや姫」をマスコットキャラクターのようにしているのである。なので記者は「富士宮市=コノハナノサクヤビメ、富士市=かぐや姫」としているのである。これは「イメージ展開上」での話である

ここからは歴史の話をしたい。大雑把に言えば「中世=かぐや姫」「近世=コノハナノサクヤビメ」という流れが歴史的にはあるとされている(富士市2014;pp.24-25)。例えば中世に成立したとされる富士山縁起には、全くコノハナノサクヤビメは登場しないのである(大高(2013))。

でも「富士山とかぐや姫説話」の舞台は富士郡に広く分布しているのであって、当たり前であるが富士市も富士宮市もかぐや姫説話の舞台の地である。繰り返しますが、これは歴史の話である

かぐや姫説話を含む富士山縁起諸本の一例(南麓における)を以下に示す。


富士山縁起成立年備考
富士山大縁起1560年東泉院資料。1546年に五社別当代「頼秀」と別当「頼恵」が発見し書写したと記す。現存する写本の筆写年は実際はかなり後世であると推察されている。「赫夜妃」と記載。
富士大縁起公文富士氏本。富士山大縁起(六所家旧蔵、1697年)と内容は同一。「赫夜姫」と記載。
富士山大縁起1848年杉田安養寺本、原本には1639年に「書之」されたことを注記(植松 2013)。「赫夜姫」と記載。
富士山略縁起寛政年間村山浅間神社所蔵。「爀夜姫」と記載。
富士山縁起17世紀(書写)村山三坊池西坊本、諄榮筆。「赫夜姫」と記載。


東泉院は現在の富士市であり、杉田安養寺や村山浅間神社は現在の富士宮市である。まず「かぐや姫説話を含む富士山縁起が富士山南麓に広く分布している」という事実は、これだけを見ても理解できる。

永禄3年(1560)「富士山大縁起」

ちなみに、この富士山縁起は中世年号を有するものである。村山出身の「雪山」が編纂したとされる(富士市2016;p.10)(富士市2015;p.17)。しかし「富」の文字に点が指摘され、明治期かそれ以降に筆写された可能性が指摘されている(富士市2014;p.21)。当ブログでは「富」の文字の変移について取り上げたことがあるが、おそらく筆写年はかなり下るものと推察される。

この「富士山大縁起」には「五社記」と題した箇所があり、当該箇所に滝川神社を指して「愛鷹 赫夜妃誕生之処」とある(富士市2015;pp.27-28)(福田2016;pp.293-295)。この記述には富士市域とかぐや姫説話の密接性を強く感じるところである。

また興味深いことに本宮(富士山本宮浅間大社)とかぐや姫の関係も指摘され(富士市2018;pp.27-28・66)(福田2016;pp.267-274)、六所浅間宮の赫夜姫の御神躰を本宮に御幸する神事等があった。その宿は「富士民部」が務めているが、これを富士下方の者とするかどうかは判断が分かれるところであろう(本宮か)。また本宮は富士山噴火の際に幕府より祈祷を命じられ富士大宮司らがそれを務めているが、六所浅間宮をはじめとする富士下方五社の別当である「東泉院」にも同じくその命が下っているのである(富士市2015;p.31)。これはやはり東泉院が富士山との関係において無であるとは捉えられていなかったと言えるのであり、重要な事実である。

この「イメージ展開」と「歴史の話」の区別がこの記者は出来ていないのである。ただ記者の肩を持つわけではないが、このように「違いがわからない」理由として富士地区(富士市・富士宮市)にて「妙な境」を持って語られたことの弊害があると言え、また富士市によるイメージ展開の先行が原因とも考えられる。

私は富士市域の特徴というのは、「中世=かぐや姫」「近世=コノハナノサクヤビメ」という歴史の流れがあった中で、より富士市域でそれ(中世)が残ったということにあるのではないかと考える。間違いなく、これこそが富士市域の特徴なのではないかと。この点を取り上げたのが実は「六所家総合調査」なのである。これが六所家総合調査の素晴らしさなのである。

(大高 2013)には以下のようにある。

浅間大菩薩は、さらに赫夜姫と結びついていくが、それが中世に生まれた富士山縁起である。富士山の祭神である浅間大菩薩は浅間神社の祭神でもあり、赫夜姫は富士山の祭神と考えられるようになった。近世の江戸時代に入ると、赫夜姫にかわって富士山の祭神として木花開耶姫命が定着してくるが、必ずしも一様に変えられたという訳ではない。江戸時代の長い年月の間に、富士山の祭神は赫夜姫へと徐々に塗り替えられていったものと思われる。

まさにこの「塗り替える」の部分が、富士市域の富士山信仰の密度といった背景もあってか(流動性の少なさ)、「残った部分がある」ことに意義があるのである。

  • まとめ

まとめとして、以下の3点に要約することとしたい。

  1. 現時点で竹取物語の原型に関与していない(富士山麓の史料が)
  2. かぐや姫説話を含む富士山縁起は南麓に広く分布している
  3. 上記における成立年の古いものが、富士市と直接的には結びつかない

この3点から考えても富士市は「竹取物語の発祥の地」ではないはずである。逆説的に言えば

富士宮市もかぐや姫説話の舞台の地であるが、富士宮市は竹取物語発祥の地とは言っていない

という言い方もできるだろう。根拠もないのに「発祥の地」として宣伝しているのはお世辞にも「文明的ではない」という声も無論あるだろう。実際多くの人を困惑させているわけである。ただこの富士市・富士宮市には独自のかぐや姫説話が残り、その舞台の地であるという事実は変わらないのである。

  • 参考文献
  1. 富士市立博物館(2010)『富士山縁起の世界 : 赫夜姫・愛鷹・犬飼』
  2. 富士市教育委員会(2014)『六所家総合調査報告書 古文書①』
  3. 富士市教育委員会(2015)『六所家総合調査報告書 聖教』
  4. 富士市教育委員会(2016)『六所家総合調査報告書 古文書②』
  5. 富士市教育委員会(2018)『六所家総合調査報告書 古文書③』
  6. 神奈川県立金沢文庫編(2003)『寺社縁起と神仏霊験譚』
  7. 福田晃(2016)『放鷹文化と社寺縁起-白鳥・鷹・鍛冶-』,三弥井書店
  8. 井上卓哉(2013)「収蔵品紹介 木版手彩色「冨士山禅定圖」にみる富士山南麓の信仰空間 」 『静岡県博物館協会研究紀要』第37号
  9. 西岡芳文(2006)「富士山をめぐる知識と言説-中世情報史の視点から-」『立教大学日本学研究所年報 (5)』
  10. 西岡芳文(2004)「新出『浅間大菩薩縁起』にみる初期富士修験の様相」『史学』73巻1号
  11. 西岡芳文(2003)「中世の富士山 : 「富士縁起」の古層をさぐる」『日本中世史の再発見』, 吉川弘文館
  12. 神奈川県立金沢文庫(1996),『金沢文庫の中世神道資料』
  13. 竹谷靱負(2005)「古伝の「富士山縁起」に見る富士山祭神の諸相--地主神・不動明王と垂迹神・天照大神の幸魂千眼大天女を中心に」『富士山文化研究』第6号
  14. 大高康正(2013)「富士山縁起と「浅間御本地」」『中世の寺社縁起と参詣』,竹林舎
  15. 植松章八(2013)「杉田安養寺本『冨土山大縁紀』翻刻・解題」『富士山文化研究』

2018年7月3日火曜日

富士宮市の基本情報及び富士山との関係

このページは「富士宮市の基本情報」と「地理上の富士山との関係」についてを簡潔に説明するページです。ただこのページは「歴史」についても少し触れようと思います。イメージが湧きやすいように画像を多用しておりますので、御覧ください。

富士宮市からの富士山
キーワード:
世界文化遺産、構成資産、富士山本宮浅間大社、富士上方、富士大宮司、富士氏、大宮城(富士城)、富士川舟運、中道往還、大宮(富士宮市の中心部の従来の地名、登山口)、村山(登山口、富士山修験道の中心地)

最低標高:35m  最高標高3,776m、標高差日本一

富士宮市は静岡県東部の市。富士山を主体として考えた際の静岡県側の中心自治体である。「富士宮」(=富士ノ宮)という富士山本宮浅間大社を指す古来の言葉が市名の由来である。中世より「富士上方」と称され、その範囲は現在の富士宮市域と概ね一致している。富士宮口新五合目が位置する、富士山への玄関口である。

歴史的に見てこの地で何が大きな事象とされていたかといえば、それは「富士大宮司の動向」であった。「富士大宮司」は富士氏の筆頭が名乗る神職名である。つまり以下の構造が見えてくるのである。

  • 富士氏:富士宮市を根拠地とした氏族
  • 富士大宮司:上の氏族の当主が名乗る「神社の神職名」
  • 富士山本宮浅間大社:上の神社のこと

これは先ず押さえておく必要があるだろう。富士氏は戦国時代には大宮城(富士城)の城主でもあった。

紫の箇所は護摩堂跡とされ、また周辺には三重塔もあった。大宮城は大社の東側に位置した

ここからは市域の下→上に移動しながら説明しておこうと思う。市域の下には富士川が流れており、この地域の人々は富士川舟運を糧としていた。「森家」や「沼久保の問屋跡」が知られる。

現在は両者は1つの市である

森家は市域でも「旧芝川町域」を根拠地としていたが、この芝川には「佐野氏」や「篠原氏」もおり、特に佐野姓は現在多く存在している。

また中道往還の存在がこの地域の文明を支えていたとも言え、中道往還沿いに富士山本宮浅間大社は位置している。


その一帯は古来より「大宮」と言い、登山道の起点である。大宮は戦国時代楽市が行われたことでも知られている。


以下はその朱印状である。

発給者:今川氏真 宛:富士信忠

また大宮より東北に「村山」という地があり、ここも登山口である。それをまとめた呼称が「大宮・村山口登山道」であり、以下のような地理的関係にある。


つまり「大宮」「村山」という富士山関係の主要な歴史地区が複数含まれているのが富士宮市なのである。そのため「富士宮市と富士山」という枠組みで歴史を説明するのは、あまりに大きすぎると言える。村山には富士山興法寺があり(以下の各施設群を総称した呼称であるが、主に中世の呼称)、それを管理する村山三坊が知られる。


大鏡坊・辻之坊・地西坊を合わせて「村山三坊」という。



世界文化遺産富士山の構成資産として当市に関わるものを以下にまとめた(富士山域を除く)。


構成資産
大宮・村山口登山道
富士山本宮浅間大社
山宮浅間神社
村山浅間神社
人穴富士講遺跡
白糸ノ滝

富士上方でもより上方に至ると富士五山の各寺が見えてくるし、構成資産のうち「人穴富士講遺跡」や「白糸ノ滝」も姿を見せてくる。

様々な「講」による建立物が現在も残る
人穴富士講遺跡には富士講信者による多くの建立物が残り、また白糸ノ滝にも関連する石碑がある。環境省により公開された「富士山がある風景100選」の、本市に関わる展望地一覧を以下に示す。


No.「富士山がある風景100選」展望地
61道の駅朝霧高原
62朝霧さわやかパーキング
63朝霧自然公園(朝霧アリーナ)
64田貫湖
65長者ヶ岳
66白糸の滝付近
67白糸自然公園
68狩宿下馬桜
69西臼塚駐車場
70天母山自然公園
71山宮浅間神社
72柚野の里
73興徳寺
74潤井川桜並木
75神田川御手洗橋
76富士山本宮浅間大社
77稲瀬川

また富士宮市は「特別天然記念物」を複数保持する市でもあり、1つは「湧玉池」ともう1つは「狩宿の下馬桜」である。狩宿の下馬桜は日本五大桜にも数えられる著名な一本桜である。市の最北部に行くと毛無山が位置するが、毛無山は鉱山でもあり、それは富士金山と呼ばれた。このように自然関係の文化財に恵まれた市と言えるだろう。


千居遺跡
以上が、「富士宮市と富士山との関係」についての簡潔な説明である。

  • 富士宮市における「富士〇〇」

富士宮市には「富士」を冠する歴史的名称が多い。これは周辺の静岡県の地域と比較しても圧倒的である。概ね、以下のようなものが該当する。

  1. 富士山
  2. 富士川
  3. 富士野(富士の巻狩の地)
  4. 富士氏
  5. 富士城(大宮城)
  6. 富士海苔
  7. 富士金山
  8. 富士五山(ここは含めたり含めなかったり。比較的最近の名称です)

実は「富士山の歴史」というのは、このうちの1つに過ぎないのである。このうち「3」と「6」と「8」は当ブログではまだ未着手である。

何より恐ろしいのは、富士宮市の刊行物を見ると「3」と「6」は出てきているのかさえ疑わしいことである。例えば、『富士野往来』も言及しているケースが殆ど無いように思われる。多くの時代に関して、同じようなことが言える。

「富士川と富士宮市」というテーマで論じるものも思いの外少ない。富士市が同テーマで企画展を、しかも複数回行っている点から考えても不可解である。「森家」や「富士山木引」といったことも、富士宮市の刊行物で見かけたことがない。そもそも「富士氏」自体も"取り上げている"とはとても言えない状態なのである。「等閑視の常態化」が垣間見えるのである。

実はこれらには共通項があり、「中世期」というワードが挙げられる。例えば富士宮市教育委員会による歴代の「調査報告書」を見ても、中世期を取り上げたものは殆どないのである。対して「古代」は多く見いだせる。このような両極端な状況は深く危惧するところであり、改善を求めたいところである。かなり可能性を狭める行為であると言わざるを得ない。

2016年12月26日月曜日

松栄寺本紙本着色富士曼荼羅図について

比較的最近発見された「富士曼荼羅図」に「松栄寺本紙本着色富士曼荼羅図」(以下、当図または当曼荼羅図)がある。参考文献として「富士山の参詣曼荼羅を絵解く 重要文化財指定本と新出松栄寺本」を参考に、解説していきたいと思います。まず、以下がその図である。

「松栄寺本紙本着色富士曼荼羅図」  (※両端少々切れています

まず著名な「絹本著色富士曼荼羅図」(重文)は「絹本著色富士曼荼羅図を考える」にあるように、”富士山信仰を広める目的があり、富士山信仰を絵画という形で説いたもの”であり、それは当曼荼羅図でも同様である。文献によると、この作品を伝来していた松栄寺(愛知県常滑市)の周辺で富士先達を勤めていた歴史があり、ここに伝来していたことには相関性がある。絹本著色富士曼荼羅図では全体で237人の人物が描かれているが、当曼荼羅図では75人が描かれている。また以下のような説明がなされている。

白装束に身を包んだ富士山への参詣者である道者を画中に45人配置することで、道者が富士参詣する賑わった様子を表現している。またこの道者を導くかたちで頭襟を額に付けた山伏の人物図像が各所に配置されている点は、道者を案内する先達を意識した図像であっただろう。

とし、中世後期に作成された富士曼荼羅図の特徴を持つものであるとしている。


  • ルート

構成は絹本著色富士曼荼羅図と同様で清見ヶ関周辺が道者のスタート地点として設定されている。つまり当図は駿河国側を描いたものであり、もっと言えば「大宮-村山」(大宮:浅間大社のあるところ 村山:富士山興法寺等があるところ)を中心として描かれたものである。

清見ヶ関周辺(当図)

ルートは「富士本道」であり、「駿河国富士郡大宮と吉原の関係と富士山登山ルート」にある「岩本-高原/山本-黒田/田中-大宮」(黒字は確実)のルートである。例えば文政6年(1823)の紀行文に「東海道蒲原吉原の間、富士川東より左へ入、参詣道なり。大宮に凡二里斗、大宮に社人寺院も有」とあるのも、このルートである。

  • 時代背景
浅間大社が現在のような「浅間造」となったのは、江戸時代以降とされている。絹本著色富士曼荼羅図では浅間造が確認できず、一方「紙本彩色富士曼荼羅図」(静岡県立美術館蔵)では描かれており、前者は中世作で後者は近世作であるというように推定がなされてきた。

浅間造(「紙本彩色富士曼荼羅図」、静岡県立美術館蔵)

浅間造でない(絹本著色富士曼荼羅図)


富士浅間曼荼羅図(県指定)、浅間造でない

当図は浅間造が確認できず、上の法則に従うと中世期のものと推察される。

富士山本宮浅間大社(当図)
  • 絵解き
絹本著色富士曼荼羅図では全体で237人の人物が描かれているが、3名の女性が図示されている位置より上では女性が描かれず、女性が登拝できる限界点が示されていた。つまり「女人禁制」であるが、当図でも八幡堂前の3名より上では描かれず女人禁制が示されている。

3名の女性(絹本著色富士曼荼羅図)

3名の女性(当図)
当図上方に目を移すと柵の横で焚き火をしている様子が描かれ、その少し上でも小屋内にて火を燃やしている様子がある。絹本著色富士曼荼羅図では上方で松明に火を灯して登拝する様子が描かれており、夜間登山を示す構図となっている。

松明に火を灯し登拝する様子(絹本著色富士曼荼羅図)

焚き火や小屋の様子(当図)

また文献では復路として潤井川と凡夫川が合流する「龍巌淵」付近を描いているといい、龍巌淵での禊を描くために復路が描かれるに至ったと推察している。

また「富士山決」(『神道門前法則・三種紙祇之事』所収)という史料がある。ここには"山体から下山し凡夫川の水を浴びる事は神道灌頂の「長生不老初湯」である"とする記述が見えるという。六所家所蔵『富士山大縁起』でも類似性がある記述があり、大変注目される(大東敬明,「「富士山決」覚書」『「富士山−その景観と信仰・芸術−」特別展図録』,2014)。

富士山興法寺(当図)

村山から国へ戻る際、往路として通った浅間大社(大宮)ではなく直接この龍巌淵へ至ったとしている。

  • 参考文献
  1. 大高康正「富士山の参詣曼荼羅を絵解く 重要文化財指定本と新出松栄寺本」『聚美18号 富士山 ─信仰と美の象徴』,2016