2026年4月6日月曜日

富士野の絵画化例考、18世紀までの富士巻狩図と夜討図

令和7年12月19日付で、文化審議会文化財分科会の答申を経て26の「文化財保存活用地域計画」が承認された。この中には富士宮市のもの含まれている。他「小田原市文化財保存活用地域計画」の資料には、富士宮市も関連する事柄が挙げられている。




文言としては、以下のようにある。

源頼朝が平家方に敗れた石橋山合戦や、富士野の巻狩りで決行された曽我兄弟の仇討ちは、浮世絵・浄瑠璃・歌舞伎などで広く知られ、市域にもゆかりの遺跡が残されており、鎌倉時代の出来事を今に伝えます。

〇曽我兄弟と曽我の里

曽我兄弟の仇討ちは、「赤穂浪士の討ち入り」「伊賀越えの仇討ち」と並ぶ日本三大仇討ち事件として有名です 。鎌倉時代末期に成立した「曽我物語」は修験比丘尼などによって語り継がれ、江戸時代には浄瑠璃・歌舞伎などの演目として演じられました。曽我兄弟の父河津三郎祐泰が工藤祐経の従者に暗殺された後、兄弟の母である満江御前が曽我祐信に再嫁したことから曽我兄弟と呼ばれています。曽我兄弟が育った曽我の里には、曽我兄弟に関連する伝承地が数多くあり、曽我兄弟に関わる遺跡を現在に伝えます。

この点については過去「曽我兄弟の敵討ちの史実性、曽我物語と吾妻鏡から考える」「曽我兄弟の仇討と富士宮市・富士市、鎌倉殿の意図考」等にて取り上げたことがある。また示されている「構成文化財リスト」のうち「2」「3」「4」「5」「6」「13」は実際現地に訪問している。これら訪問地における体験は忘れがたいものとなった。残りも是非訪問してみたいと思う。

さて、小田原市が挙げている「富士野の巻狩り」であるが、今回はその絵画化例に着目していきたいと思う。「富士野」は富士宮市の歴史的地名である。歴史の中で数多描かれており、作例を数え上げるのは困難である。

つまり富士宮市は、歴史的に絵画化例が極めて多い地なのである。これも、富士宮市の特徴であろう。これほどまでに多い理由の1つとして、(小口2020)にあるように東国に政権を樹立した源頼朝と徳川将軍を重ね合わせる意図があったものと思われる。またそれは徳川政権だけでなく、頼朝以降のすべての武士が意識していたものと思われる。であるから、屏風図などが作成されてきたのだろう。この地に対する武士の眼差しは、頼朝像というフィルターを通しての極めて実直なものであっただろう。

富士野の絵画化例は、主に以下の6つが挙げられるのではないかと思う。

  1. 曽我物語図屏風
  2. 挿絵入り本の『曽我物語』
  3. 奈良絵本(一例に『小袖曽我』があるが、富士野の場面は有していない。他の奈良絵本が有するのかは未調査)
  4. 絵巻類
  5. 浮世絵
  6. 単発の富士の巻狩図・夜討図


「1」は室町時代末期に成立、以降制作され続けてきた(井澤1999;p.431)(井澤2008;p.289)。「2」は(林2020)によると大きく3種に分けられるといい、元和寛永頃の古活字本が最初の挿絵入り本であるという(林2020;p.13)。

「3」の奈良絵本は詳細に解説するものを見ないが、(林2020;pp.23-24)にあるように「2」との共通性が指摘され、(井澤1999;p.442)は曽我物語図屏風の左隻は奈良絵本や絵巻の図柄を材料としたとする。つまり、奈良絵本が先行するとしている。「4」の絵巻は(大月2009)の紹介などがある。こちらも体系的に検討するものはない。

「5」は体系的に追った研究以前に基礎的な研究自体が皆無であるが、作例を調査し、その早例のみを一応推察してみた。本稿ではこの「5」および「6」を検討していきたいと考える。また今回は源頼家の「富士の狩倉」に関する絵画化例は取り上げない(仁田忠常の人穴探索のものなど)。


【解説】

  • 『月次風俗図屏風』第7扇「富士巻狩」
現存するものでは最古の富士巻狩図である(井澤1999;p.435)。従って、まず先んじて挙げられるべき絵図である。井澤氏が指摘されているように、後世の富士巻狩図にも描かれている伝統的図柄が既に認められる。

  • 曽我物語屏風(日本民藝館蔵)

「素朴絵」にカテゴライズされている日本民藝館蔵の屏風図。通常の曽我物語図屏風とは傾向が異なるため、特別にここに挙げた。(日本民藝館2013)によると、17世紀の作であるという。

この屏風図の図柄は興味深い。というのも、富士曼荼羅図の影響を見出すこともできるからである。(三井記念美術館他2019)に「巻狩りは山頂付近で展開し、頼朝を取り巻く一団はまるで空を飛んでいるようだ。館での仇討場面も富士の山容の中に溶け込んでいる」とある。指摘されている部分の猫写は、確かに富士の巻狩り・夜討に関するものであろう。

一方で左奥に描かれているのは「駿河湾」である。また寺社も描かれているが「清見寺」である可能性が高い。他に「桜」などが見える。しかしながら駿河湾との位置関係を考えると、清見寺以外である可能性も考えられる。更に奥は「清見ヶ関」のように見受けられる。

構図としては破綻しているが、これらの構成要素は富士曼荼羅図にこそ認められるものであり、「曽我物語図屏風」と「富士参詣曼荼羅図」の双方を参考にして仕立て上げられた素朴絵である可能性を指摘したい。(井澤1999;p.430)は「曽我物語図のおおらかな受容を見せる一例となっている」とする。

  • 射水市指定文化財「奉納絵馬額」

富山県射水市の十社大神蔵の「奉納絵馬額」は富士巻狩図である。(塩1989;p.71)によると、「奉掛諸願成就之所 天和三年十一月吉日」とあるという。つまり1683年に奉納されたものということになる。

図柄に関しては全体を示した刊行物が皆無で不詳であるが、「真ん中に富士山を描き、その裾野の右側に大勢の従者を従え、赤傘を差して見物するのは頼朝であろう(塩1989;p.71)」とある。

ここで、頼朝の図柄が他と共通しているのかを見ていこう。例えば(林2020;p.31)は頼朝の図柄を詳細に説明しているが、"どの版においても挿絵の中の頼朝は、尻鞘の太刀を持つように描かれていることが多い"とし、また各曽我物語図屏風について"挿絵と同様の狩場における頼朝の姿が確認され、描かれる位置も画面の右上となる"とする。

「奉納絵馬額」の頼朝を見てみると、確かに右側に描かれているが、尻鞘の太刀のようには見受けられない。

  • 浮世絵

絵画の一大ジャンルに「浮世絵」があるが、うち富士野の絵画化例の早例に鳥高斎栄昌『和国景夕頼朝公富士野巻狩之図』がある。この作品の成立は寛政(1789~1801)後期とされている。頼朝は右下に描かれ、尻鞘の太刀を所持する格好である。

管見の限り浮世絵としては早例のように思えるが、深く調べたというわけでもない。全く研究が無いので、その深化を待ちたいところである。

  • おわりに

(林2020;p.21)に「頼朝が多くの勢子を連れて狩りを催している様子が描かれる。ここでは、傘を差し、馬に乗った烏帽子姿の頼朝が確認できる。この姿は組合せ絵本から共通する姿であり、後に続く富士の巻狩り図の挿絵とも通ずる」とある。(小井土2020)は底本が正保3年(1646)の『曽我物語』を掲載しているが、(小井土2020;p.172)と(小井土2020;p.301)の挿絵が該当する。

付き添いの者が傘を差す猫写は脈々と受け継がれているわけであるが、これはいつまで遡ることができるだろうか。上述した奈良絵本の『小袖曽我』には富士野の場面は含まれないが、他の奈良絵本はどうだろうか。また富士野を描いた浮世絵の初見は鳥高斎栄昌『和国景夕頼朝公富士野巻狩之図』で良いだろうか。

19世紀になると、歌川派の作例が極めて多く見られるようになるが、その傾向はどのように言語化できるだろうか。また(小林1993;p.124)にあるような江戸時代の細工物や見立などは何から発想を得て形にしていたのか、それは絵図から由来するものだろうか。

研究が少なく様々な疑問が尽きないが、現時点ではこの膨大な作例を積み上げていくことに専念したい。


  • 参考文献
  1. 塩照夫(1989)『富山の絵馬 : その世界と系譜』、北日本新聞社出版部
  2. 小林幸夫(1993)「馬の頭の風流 : 祭礼と見世物と」『紀要』28 号、東海学園大学
  3. 井澤英理子(1999) 「曽我物語図考 -双屏風の成立について-」『日本美術襍稿 佐々木剛三先生古希記念論文集』、明徳出版社
  4. 井澤英理子(2008)「又兵衛風の曽我物語図屏風の量産について」『日本美術史の杜』、竹林舎
  5. 大月千冬(2009)「明星大学所蔵『十番切』絵巻の図様について」『物語絵画における武士』
  6. 日本民藝館(2013)『つきしまかるかや : 素朴表現の絵巻と説話画』
  7. 三井記念美術館・龍谷大学龍谷ミュージアム・NHKプロモーション編(2019)『日本の素朴絵 ゆるい、かわいい、たのしい美術』
  8. 林茉奈(2020)「絵入り版本『曽我物語』考 : 挿絵に描かれる頼朝と曽我兄弟を中心に」、『語文論叢35号』、千葉大学文学部日本文化学会
  9. 小口康仁(2020)「「曾我物語図屏風」の展開-富士巻狩・夜討図から富士巻狩図へ-」『國華』 第1496号、朝日新聞出版
  10. 小井土守敏(2020)『曽我物語 流布本』、武蔵野書院

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