都良香 |
ここから重要な部分を抜き出す。
- 史籍の記せる所を歷く覧るに、未だ此の山より高きは有らざるなり
書物などを見渡しても、この山より高い山はないと記している。それら共通認識が平安時代には既にあった、ということになる。
- 貞観17年11月5日、吏民舊きに仍りて祭りを致す
- 白衣の美女二人有り、山の巓の上に雙び舞う
- 山を富士と名づくるは、郡の名に取れるなり。山に神有り、浅間大神と名づく
- 頂上に平地あり…
このように詳細な地質的記述から、実際に登って見たその風景などを記していると考えられている。
「中世の富士山-「富士縁起」の古層をさぐる-」では、以下のように分析をしている。
山頂のリアルな描写は、どう見ても観念的な創作とは見られない。作者が神仙の道に多大な興味を寄せていたことを考えれば、当時の富士山にはすでに山岳修行者が存在し、彼らの見聞をもとにして、かかる文章が記述されたものと考えられる。しかし、この作品は他に類例のない、孤立した特異な資料といえる。おそらくその文章の素材は、八世紀後半の、富士山の噴煙が途絶えた一時期に登頂を果たした人物が、山頂の景観について詳細な見聞を伝えたものと考えられる。しかし、貞観6年(864)以降のあいつぐ富士山の噴火活動によって、登山が困難になったため、後につづく登山者があらわれず、これに続く記録が残されなかったのであろう。
- 参考文献
- 西岡芳文,「中世の富士山-「富士縁起」の古層をさぐる-」『日本中世史の再発見』,吉川弘文館,2003
- 小山真人,『富士を知る』,集英社
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