2011年7月26日火曜日

都良香の富士山記

『富士山記』(ふじさんのき)は平安時代の官人である「都良香」(みやこのよしか)により著された作品である。富士山の歴史を語るときによく出される作品である。

都良香
なぜよく登場するかというと、実際に富士山に登らないと分からないような記述がみられ、平安時代という比較的早い時代における富士山頂の当時の様子を示した例として希少と考えられるからである。また文人であるため、その立場からも重要視されている。


ここから重要な部分を抜き出す。

  • 史籍の記せる所を歷く覧るに、未だ此の山より高きは有らざるなり

書物などを見渡しても、この山より高い山はないと記している。それら共通認識が平安時代には既にあった、ということになる。
  • 貞観17年11月5日、吏民舊きに仍りて祭りを致す
これは大宮での祭事を指していると考えられている(しかし明確ではない)。「吏民」は「吏」と「民」をまとめたものであり、役人(吏)と民(民衆)が混ざって祭事が執り行われていたという事が分かる。

  • 白衣の美女二人有り、山の巓の上に雙び舞う
古来より「富士山と女人」を結びつける考え方が存在したことが伺える。

  • 山を富士と名づくるは、郡の名に取れるなり。山に神有り、浅間大神と名づく
富士山の名前は富士郡から由来すると記している。また富士山の神としての「浅間大神」を示している。

  • 頂上に平地あり…
これは実際に登らないと書けないものである。「宛も蹲虎の如し」→現在の虎岩のことである。

このように詳細な地質的記述から、実際に登って見たその風景などを記していると考えられている。

「中世の富士山-「富士縁起」の古層をさぐる-」では、以下のように分析をしている。

山頂のリアルな描写は、どう見ても観念的な創作とは見られない。作者が神仙の道に多大な興味を寄せていたことを考えれば、当時の富士山にはすでに山岳修行者が存在し、彼らの見聞をもとにして、かかる文章が記述されたものと考えられる。しかし、この作品は他に類例のない、孤立した特異な資料といえる。おそらくその文章の素材は、八世紀後半の、富士山の噴煙が途絶えた一時期に登頂を果たした人物が、山頂の景観について詳細な見聞を伝えたものと考えられる。しかし、貞観6年(864)以降のあいつぐ富士山の噴火活動によって、登山が困難になったため、後につづく登山者があらわれず、これに続く記録が残されなかったのであろう。

とても興味深い作品である。

  • 参考文献
  1. 西岡芳文,「中世の富士山-「富士縁起」の古層をさぐる-」『日本中世史の再発見』,吉川弘文館,2003
  2. 小山真人,『富士を知る』,集英社

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