その甲斐国志の巻之三五は「都留郡」の部分であり、富士山に関する記述で埋められている。したがって、富士山の歴史を知る上で参考になる部分は非常に多いと言える。
ここで1回『隔掻録』(かくそうろく)という別の地誌についても考えてみたい。隔掻録は文化13年(1816年)に書かれたとされる。「月所錄」とあり「月所」なる人物により書かれたとされるが、この人物についてはあまりよく分かっていない。また序に「森嶋弥十郎(子与)の友人」という旨のことが記されている。子与という人物は実は「松平定能の命により甲斐国志の都留郡の部分を担当した人物」である。そしてこの甲斐国志の記述に、自分が地元の住民や登山者などに尋ねた内容を追加し書き入れて完成したものが『隔掻録』である。だから甲斐国志と隔掻録の内容は、特に後半の多くで一致する部分が見られる。ですから甲斐国志の巻三五を読めば隔掻録の概ねは網羅したことになる。
甲斐国志巻之三五から、重要な部分を抜き出す。
- 郡の西南二当リ南面は駿河二属シ、北面は本州に属ス
- 八合目ヨリ頂上二至テハ両国の堺ナシ
- 登山路ハ北ハ吉田口、南ハ須走口、村山口大宮口ノ四道也(中略)南面を表トシ北面ヲ裏トスレドモ古より諸国登山ノ旅人ハ北面ヨリ登ル者多シ
- 径弐尺御釜ト称ス此辺ヨ上女人参詣ヲ禁ス永録7(甲子)年6月小山田信有ガ文書に女姓禅定之追立トアル
- 堂アリ表大日ト云
- 四五月ノ山上ノ雪消ル時遠望スレバ牛ノ形二消ノコリ或ハ鳥ノ形二残ル是ヲ農牛、農鳥ト云
- 富士八海-山中海、明見(あすみ)海、川ロ海、西(せの)海、精進海、本栖海、志比礼(しびれ)海、須戸(すと)海
- 左の如文字尋常ノ者二通ゼズ皆異字ヲ用フ相伝人穴ノ行中仙元明神教へ給フ文字ナリト云
角行が唱えた御神語があり、特殊なものである。またこれら特殊な文字郡は富士講みもみられるという。
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