2011年7月28日木曜日

隔掻録にみる富士山

『隔掻録』は「甲斐国志にみる富士山」でも述べているように『甲斐国志』がベースである。そのため記述は非常に類似しているが、甲斐国志にみられない部分もあるため、富士山の歴史を考える上で同じく参考となると言える。
隔掻録
隔掻録は以下から構成されている。
  • 富士山上略記
  • 山中ノ話
  • 富士八海
  • 富士山産物
  • 御身貫並偽字
  • 淺間ヲ仙元ト書事
  • 賓永四年山焼ノ事
  • 庚申ヲ縁年トスル事参詣人数ノ事
  • 農鳥ノ事
  • 富士行者小傳
ここから重要な部分を抜き出す。

<富士山上略記>
  • 駿州ノ大宮司モ例祭ニハ北口ヲ登ルヲ例トス
富士大宮司(浅間大社)が村山を避け北口から登ったという慣例を指している。

  • 行者ハ南ニ登リテ北ニ降リ北ニ登リテ南ニ降ルヲ御山ヲ裂クト称シ
表口から登り北口から降りる、またはその逆などは「山を裂く」といい、良しとされなかったようである。

  • 渾テ此ヨリ上ハ一切駿河ノ持分ニテ吉田ハ関スルコトナシ。
(8合目)より上は駿河国のものであるため、吉田は関わることはできない。

  • 村上ノ拝所アリ、駒ヶ嶽ヲ向へ下レバ大日堂アリ(是より表大日ト云ヒ、薬師ケ嶽ノ薬師ヲ裏薬師ト云フナリ、村山口・大宮口ヨリ登ル者此所二出ヅ)別当村山ノ山伏三人ナリ「大鏡坊・辻坊・地西坊コレヲ三坊ト云フ」
大日堂(表口)を表大日、薬師堂(北口)を裏薬師と呼ばれていたということが分かる。その後、村山三坊のことを記述している。

<庚申ヲ縁年トスル事参詣人数ノ事>
  • 今モ年々ノ詣人平均スルニ吉田ロヨリ登ル者八千人ソノ他ハ駿州ノ三ロヲ合シテ是ニ相伯仲スト云ヘリ
吉田口より登る人は8000人で、これは駿河側の3登山道の登山者を合計した程の規模であったということ。吉田口の利用者が多かったことが伺える重要な記述である。

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