2011年7月29日金曜日

富士上方と富士下方

富士郡の地域は大きく分けると「富士上方(ふじかみかた)」と「富士下方(しもかた)」に分けることができる。

富士上方とは
大宮町・白糸・芝富・上野・上井出・北山・富丘」一帯を指す。

富士下方とは
今泉・原田・吉原・伝法・鷹岡」など一帯を指す。

富士上(下)方という用語は、富士氏(富士大宮司)への朱印状などで多くみられる。特に今川・北条・武田氏が領土争いを繰り広げた時代の書状には多く見られる。

足利義持から富士大宮司宛

室町幕府(足利将軍)からの浅間大社への書状に「富士浅間宮領駿河国富士上方」とあったり(上)、今川義元による富士氏への書状「富士上方富知行百姓内徳之事」にあるように、「富士上方」という言葉が頻繁に用いられていたことがわかる。

永正9年(1512)「義忠寄進状」、※全文は掲載せず
また北条氏政から富士信忠への書状では富士上方と富士下方をまとめて「富士上下方」という言葉を用いています(下)。

北条氏政から富士信忠宛
現在の富士宮市と富士市を見ても、概ね富士宮市は「富士上方」、富士市は「富士下方」に一致している。

富士信忠が富士上方の支配権を約束されていたことを考えると、やはり富士氏は大きな影響力を保持していたと言えるであろう。

  • 参考文献
宮地直一,『浅間神社の歴史』(名著出版 1973年)P376-396

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