2011年7月19日火曜日

北口本宮冨士浅間神社の諏訪森と諏訪明神と浅間明神

吉田諏訪大明神から北口本宮冨士浅間神社への変移と富士講」の続編みたいなものです。北口本宮冨士浅間神社ですが、中世以前の当神社について述べたものは、意外に少ない。そこで創建からおおまかに振り返りたいと思います。

  • 創建
『甲斐国社記・寺記』に

延暦7年甲斐守紀豊庭朝臣造営、延暦8年甲斐守紀豊庭朝臣大塚丘浅間明神現地へ移す、仁和元年甲斐守藤原当興朝臣造営、貞応2年北条右京大夫平義時建立

とある。延暦7年(788年)に紀豊庭が造営し、延暦8年(789年)には大塚丘に祀られていた浅間明神をその場所に移したとある。そして仁和元年(855年)には藤原当興が造営し、貞応2年に平義時が建立したとある。甲斐守や右京大夫は「職」みたいなものです。「大塚丘」にはヤマトタケルが遥拝したという伝承がある。

つまり浅間神社はその場所に移されたわけであり、起源の時点であったわけではないことが伺える。また『甲斐国志』にはこのようにあります。

往古ヨリ此社中ヲ諏方ノ森ト稱スルハ浅間明神勧請セザル以前ヨリ諏方明神鎮座アル故ナリト云古文書二諏方ノ森浅間明神トアル是ナリ

「浅間明神は諏訪森に勧請されたのだが、それ以前にその地には諏訪明神が鎮座していた」ということを示している。つまり平たく言うと、諏訪神社の境内に浅間神社が勧請という形で祀られることとなったと考えていい。そしてこの勧請という形で祀られることとなった浅間神社が富士講により立場が大きくなり、今現在「浅間神社」という扱いとなっているという感じだと思われる。

戦国期甲斐国側の浅間神社と領主武田氏と小山田氏」にて小山田信有の諏訪禰宜に対する判物の内容を掲載したが(天文17年)、これらの記録について「武田信玄と富士信仰」では以下のように述べている。

このことからして、当時はまだ吉田の北口浅間神社はできておらず、この場所には諏訪社のみが鎮座していたものといえよう

まずこれは現在の北口本宮冨士浅間神社に対する判物であるが、それが諏訪禰宜に宛てられている事実がある。また「新宮を立てる場合」という記述からも、諏訪社のみが鎮座していたことを伺わせる内容である。

また上記の「大塚丘」について、「富士山内の信仰世界-吉田口登山道を中心として-」では以下のように説明している。

この塚は、浅間神社の勧請によってそれまでの遥拝所がつぶされたので、永禄以後に新たに設けられた遥拝所と考えられる。

このように、諏訪神社という信仰空間に勧請という形で浅間神社が祭祀されるようになったと考えられている。

諏訪大明神富士浅間宮火防御祭礼之図
  • 吉田諏訪大明神
『妙法寺記』には明応3年(1494年)と明応4年にそれぞれ「吉田村諏方大明神 鐘武州より鋳テ上ル」「吉田鐘楼堂此年卯月棟上ス」とある。このときは吉田諏訪大明神という認識の上での建立であったようである。当時、まだ富士講は存在していませんでしたからね。

  • 八葉九尊図

a:浅間神社 b:仁王門 c:すわ大明神(諏訪神社) d:よし田ノ町
下の木が多くある部分は諏訪森と考えていいと思う。これは『八葉九尊図』(1680年)で、八葉(仏教的用語)を中心とする曼荼羅図のようなものである。当時の様子がよく伺える重要な図である。

  • 参考文献
  1. 山梨県立図書館,『甲斐国社記・寺記 第1巻』P871-874・940-947,1967年
  2. 『甲斐国志』神社部第十七
  3. 『妙法寺記』・『勝山記』
  4. 富士吉田市歴史民俗博物館,『博物館だよりMARUBI №29』
  5. 笹本正治,「武田信玄と富士信仰」『戦国大名武田氏』,名著出版,1991年
  6. 堀内真,「富士山内の信仰世界-吉田口登山道を中心として-」『甲斐の成立と地方的展開』,角川書店,1989年

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