今は「河口」(現在の山梨県富士河口湖町)と表記されますが、
昔は「川口」でした。
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北口本宮御師宿坊図(川口からの登山道を示す) |
御師とは「道者に対して宿や食事を始め、一切の世話をする人であり職」である。川口からの登山ルートは
「船津(ふなつ)-小御嶽(こみたけ)」である。これら道者を相手としたのが「川口御師」である。
御坂峠より北からの道者が多かったようである。『甲斐国志』に「北麓ノ村落吉田・川口二村二師職ノ者数百戸アリテ…」とあり、川口御師の存在が確認できる。1つしっかり確認しておかなければならないのは、「富士山周辺における御師は富士講の影響によりできた形態ではない」ということです。
富士講以前に御師は存在しています。
1570年代までは本栖御師が存在したが、かなり早期に川口に譲っているようである。川口御師は16世紀ではまだ吉田御師より優勢であり(140坊存在したともいう)、繁栄していた。しかし
富士講の隆盛により吉田御師が繁栄しはじめ、川口は大きく衰退していく。「
大宮・村山口登山道 村山古道とは」にて「大宮と村山は特に率先して協調しあう関係ではなかった」と述べていますが、川口と吉田もそのような関係であったと推測されます。例えば1810年には
川口と吉田とで登山ルートを巡る争いをおこしている。登山ルートは「山役銭」に直接影響するからである。
先に結論をいうと「河口湖口」なるものは本当は存在しない。非常に混同しやすいので、近年「吉田口」で統一されることとなった。書物でも「河口湖口」なる表記はみられない。「富士山麓の近代-宿泊施設を中心に-」には以下のようにある。
旧来の船津口登山道が整備され、バス路線が開設された一九五四年頃には、御中道と合流する小御岳火山の山頂(小御嶽神社が鎮座)は、「船津口五合目」(のち河口湖口五合目)と呼称されるようになった(『富士山麓史』)
これは観光のためにガイドブックなどの紹介などで用いられた観光用語である。古来は「吉田」や「北口」、または「裏」などと呼ばれてきた。
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富士山頂上御拝所御霊鏡図(川口からの登山道を示す) |
- 富士吉田市民俗歴史博物館,『博物館だよりMARUBI №30』,2008年
- 堀内眞,「富士山麓の近代-宿泊施設を中心に-」『甲斐No.113』,2007年
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