『壬申紀行』は江戸時代の儒学者である貝原益軒による紀行文であるが、その中に富士山に関する項目がある。
ここから一部を抜き出す。
- 駿河国中の人は一日ものいみしてのぼる。他国の人は百日潔斎す。近江の人はものいみせずしてのぼる
富士山に登る際は儀式があり、駿河国の人は当日行い、他国の人はもう少し長く行っていたようである。しかし近江国(他国に該当する)からの道者はそれが簡単に済ましてもよかったということ。近江国は富士山に関する伝説もあり、また修験道で接点があったために、このような特別な扱いがあったのではないかと個人的には思います。
- 別当三坊あり。是より上は山なり。村山より中宮へ三里。中宮に八幡宮あり。
村山三坊や中宮八幡宮についてです。
- およそ高嶺にのぼる人、吉原より行には丑の時に宿りを出て其あけの日ひねもすゆけば其日の暮つかたには、すなぶるひまでいたる。そこにて飯などくひ、やすみて、夜に入、たいまつをともしてのぼる。
富士登山を行うパターンとして、午前2時頃に吉原宿を出てたいまつに火を灯し、夜登ったようである。これら同様の記述は多くの書物でみられます。
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『富士山表口絵図』 |
- 八葉のめぐりは駿河に属するゆへ、大宮の社人社僧などは、八葉の上にて修するわざありと云。甲斐相模の方にも此山のふもとはかかれり。されど此山は駿河の富士郡にある故、富士山と名づけ、駿河の富士なれば甲斐相模よりは八葉の上、其国のかたむかへる所にも社人などのつとめなしと云。
八葉、つまり富士山頂は駿河に属しているため、大宮の浅間大社の社人などはここを儀式などに利用していた。富士山のふもとは甲斐国や相模国にもかかっている。しかし富士山は駿河国富士郡に由来があって富士山と名付けられた他、8合目より上にいくには駿河の社人などの許可が必要であった。(その後に富士郡から由来するという部分は駿河国の伝えによるものとと述べられている。)
- されど甲州の方よりみれば、山の形いよいようるはし。絵にかける図あり。甲斐国よりみたる形によくあへりと云。山は駿河に属して、ふもとは駿河、甲斐、相模三州にかかれり。
(上の部分に対し…)しかし甲斐国からみた絵画も多くある。山は駿河国に属しているがふもとは三国に跨っている。この「三国国境説」は、後に取り上げたいと思います。
富士山の登山における道者の時間の使い方、また当時の富士山の土地の認識などが書かれていて、参考になる部分は多いと思う。
板坂耀子,『近世紀行集成』(叢書江戸文庫17) ,P39-42,1991年
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