- 形成
- 八湖信仰
忍野八海は「富士御手洗元八湖」といわれ、富士信仰の霊場でもありました。角行の修行になぞらえたもので、角行を拝めることから形成された習慣であると推測されます。それぞれの池を巡礼する八湖信仰(江戸時代以降)というものが存在していました。内八海・外八海とはまた違うものであり(これになぞらえた)、これらに比べ範囲が狭まれていることから個別のものとして存在したのではないでしょうか。江戸末期には消失したものでしたが、再興に動いた友右衛門なる人物により浅間神社などが修復されたりしたようです。
- 富士八海とは
混同しやすいのですが、いわゆる八湖信仰(忍野)と富士八海(内八海・外八海)は異なります。八海巡りは富士講信者による巡回のようなもので、時代によりその場所が多少異なります。当初は現在の沼津市と富士市との間に存在したという「須戸(すと)海」を含めて富士八海と言っていました(厳密にいうと富士八海のうち内八海)。しかし後に須戸海の替わりに「泉津湖」を加えて富士八海というようになりました。『甲斐国志』には「富士八海-山中海、明見海、川ロ海、西海、精進海、本栖海、志比礼海、須戸海」とあり、 須戸海が含まれています。このことから、比較的後に「泉津湖」が加えられたのだと考えられます。
このように、富士八海というものは特に甲斐国に準じていたわけではありません。また富士講信者が人穴などを訪れていたことを考えても、富士講の一連の現象は甲斐国固有の現象とは言えなさそうです。
- 参考文献
- 『富士吉田市歴史民俗博物館だより№8』
- 『富士吉田市歴史民俗博物館だより№19』
- 『富士吉田市歴史民俗博物館だより№20』
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