2011年8月11日木曜日

武田信玄と富士山


  • 信玄による浅間神社の庇護
甲斐国といえば諏訪信仰が良く知られており、武の神である諏訪明神は武田氏により厚く庇護されていた。一方浅間神社に目を向けてみると、武田氏の繁栄に伴い浅間神社に対してもしだいに庇護の姿勢が見られるようになっている。これは、小山田氏領において武田氏が優位に立つための施策でもあった。つまり浅間神社を庇護することで、武田氏が台頭することを目論んだのである。



  • 信玄は富士登山を行なったか 


例えば『妙法寺記』を読んでみると父信虎の登山の記録はありますが、信玄自身の登山の記録はありません。父信虎の登山であるが、このときは大永2年(1522年)という時期である。

この2年前は永正18年(1520年)であるが、この時の小山田信有の岩殿山円通寺の修復に対する棟礼に「当郡守護」とあり、小山田氏は郡内における支配者と称している。つまりこの時代、武田氏は郡内への影響力は限りなく低かったと思われる。そういう中での武田氏当主の登山なので、当然緊張感はあったはずである。

ちなみに、武田信玄の鈎釜に「富士釜」なるものがあるそうです。

  • 参考文献
  1. 勝山村史編さん委員会,『勝山記』,1992年

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