建久4年(1193年)5月に時の征夷大将軍「源頼朝」によって行われた壮大な巻き狩りを指す。富士山麓で行われた大規模な巻狩りであり、このときに「曽我兄弟の仇討ち」が行われたことでも有名である。その規模から征夷大将軍としての権威を示すための目的や、予行演習的な要素があったと考えられている。
巻狩りの行動範囲自体は広範囲に及ぶものの、御旅館の所在地の他、仇討ちなどがあった時期での巻狩りの場所は上井出辺りと推測され、メインは富士宮市周辺であると考えられる。
非常に有名な出来事であり、『吾妻鏡』を筆頭として以後の歴史書などで多くで言及されている。
『吾妻鏡』より。
- 5月8日癸酉将軍家富士野藍澤の夏狩りを覧玉わんが為、駿河の国に赴かしめ給う。
- その外射手たる輩群参し、勝計うべからずと。
- 藍澤の御狩り、事終わって富士野の御旅館に入御す。
また。『壬申日記』では
上野より富士のすそ野を北ゆけば上井出まで一里あり。是、頼朝卿の富士の狩し給ひし時、かりの屋形ありし所、今もそのあとあり。と、御旅館と思われる記述が見られれ、江戸時代の時点でも御旅館跡が確認できたと推測できる。
- 十六日辛巳。富士野御狩之間。将軍家督若君始令射鹿給。
この富士の巻狩りに関する逸話はかなり多い。特に北部はそれに関する地名なども多い他、例えば浅間大社の社伝では、流鏑馬の起源は富士の巻狩りの際に頼朝が奉納したと伝わる。
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