今川氏真判物(五社別当東泉院宛) |
浅間大社の末社のうち、富士下方(庄)にある浅間神社五社を総称した呼び名。東泉院はこの下方五社の別当として五社を統括していた。
その五社とは
- 富知六所浅間神社
- 瀧川神社
- 今宮浅間神社
- (入山瀬)浅間神社
- 日吉浅間神社
他に「五社浅間宮」(今川氏真朱印状による)などとあるのも印象的である。
東泉院(富士市今泉)は元は「富士山興法寺」における一寺であったとされる。「富士山興法寺」というのは大日堂や大棟梁権現社などの施設群の総称であり、つまりそれらの建築物の1つと認識されていたということである。これらは村山三坊の支配下にあり、村山三坊もある意味興法寺の1つとも言える(ここは解釈が分かれる)。例えば大日堂は三坊のうちの池西坊が担当し、大棟梁権現社は大鏡坊が管理するなどそれぞれ直轄は分担されていたものの、東泉院はどういう位置づけであったかはよくわかっていない。- 東泉院と富士山興法寺
富士山興法寺というのはこういう位置づけであり、仮に東泉院を含めるとこんな感じになる。(>は分類化)
富士信仰>村山修験>富士山興法寺(村山三坊はここに含めてもよい)>大日堂・大棟梁権現社など(主な施設)他、東泉院など解説すると…まず村山修験は富士信仰の1種であり、その村山修験の中心地が富士山興法寺である。富士山興法寺や登山道を管理したのが村山三坊であり、富士山興法寺を構成する大日堂・大棟梁権現社などの直轄なども三坊により分担されていた。これら施設の1つであったと考えられるのが東泉院である。
大永6年(1526)、「今川氏親書状」 |
それらを考えると、そもそも東泉坊なるものが存在していて、三坊にまとまっていく中で別の方向性を歩んでいったのではないか(あくまで個人的な見解)。富士山興法寺の位置づけから外れ、現在の富士市の各浅間神社を管理する立場に変わったのかもしれない。だから富士信仰との関わりは深くは見いだせないが、村山の流れを汲んでいると考えられる。
- 別当として
別当としての存在などから、東泉院は現在の富士市の地区において重要な位置づけをされていた。慶長9年(1604年)には富士下方の192石が東泉院領となっていたという。しかし神仏分離により東泉院は廃される運命となる。下方五社のうち日吉浅間神社のみを残す形となった。
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