2026年6月29日月曜日

富士市がえんとつ町となるまでの軌跡、加島五千石からの大転換

本稿では富士市、正確に言えば「富士町」が「えんとつ町」になるまでの一側面を見ていきたいと思う。

旧富士町が"製紙のまち"となる過程について論じた論稿は様々存在しているが、農業の視点から見たものについては(関1958)に詳しい。以下、主に同文献を引用する形で話を進めていきたいと思う。まず、冒頭には以下のようにある(関1958;p.17-18)。


調査部落Mは国鉄富士駅より徒歩20分の北方に位置する。富士市には本州製紙・大昭和製紙・大興製紙の各工場はじめ大きな工場があって、(中略)駿河湾にそそぐ富士川、潤井川による沖積土からなる富士市一帯は古くは加島五千石の中心をなしていたところである。 
明治42年東海道線富士駅の開通、これに先だつ富士製紙工場(現本州製紙富士工場)の誘致成功などが商工都市へのスタートになるまでは平凡な農村であった。(中略) 
調査部落Mは幕藩時代から明治初期にかけてはこの辺の中心であったものが、富士駅を中心にした部分が市街地として発展してしまったので、いまでは町のはずれのような具合となっている


この調査部落Mとは、明らかに「本市場(もといちば)」のことである。そして論稿にあるように、時代が下るにつれ純然たる「農家」ではなく「兼業農家」へと移行する例が増えている。そしてそれを更に促進させる存在として「製紙工場」があった。

製紙会社と農家がどう関係するのかということであるが、"製紙会社による農地の買収→その持ち主の製紙工場への就職"ということが頻繁に行われていた事実がある。これについては、以下のようにある(関1958;p.10-19)。


そこでまず戦後はこの本州製紙工場にはかぎらないが本州製紙に容易に就職できないという事実である。この辺の農家で男の子を本州製紙に入れられるのは、本州製紙が拡張のため農地を買収するさいの交換条件として受け入れられることぐらいしか機会がないのである。そして事実この6・8・10番農家はそれぞれ四反七畝、四反、三反五畝とこの4・5年の間に耕地を買収されているのである。

ちなみに「4反」は1,200坪というから、かなりの面積である。当時、製紙会社への就職は「間違いのないルート」であった。つまり製紙工場の存在は、農業地帯からの転換を一気に推し進めた存在であった。そもそも工場の敷地の多くは旧農地であると思われるし(工場は誘致した)、その周辺もそうであると考えられる。

"この4・5年の間に耕地を買収されている"とあるが、この論稿は1958年ものなので、丁度富士市および旭化成による「1戸1人制度」の頃と重なる(「富士市が企業の食い物にされてきた歴史、ウシジマくん案件について」)。

人々の交流を有し、商店などを中心として成り立ってきた大宮町(富士宮市)や吉原町(旧吉原市)とは異なり、富士町(=旧加島村)は農地からのよりダイレクトな用地転換があったと考えられる。

※ちなみに「本州製紙富士工場」は「大王製紙」→「王子板紙」→「王子マテリア富士第一工場」→「現・王子マテリア富士工場」のことである。

それと共に、農業を取り巻く状況は大きく変わっていった。(笠井1964;p.60-61)には以下のようにある。


かつての富士市は「加島五千石」と言う名からもうかがわれるように往時から広大な沖積層と、豊富かつ良質な水を利用した農業と、田子浦海岸一帯の沿岸漁業を産業の主体としていた。とくに「富士梨」(明治25年頃から)の本場として有名なところで、かつては三百五十町歩に達する栽培がおこなわれたこともある。また最近まで近郊蔬菜としての富士早生カンランも相当の生産量をあげてきた地帯である。だが、明治39年を契機として、新しい発展、製紙工業の中心の時代を迎えた。(中略)この数年来の富士市は、全耕地千三百八十町歩(一戸当たり約六反歩)のうち、年々五十~六十町歩の農地が、工業用地や、宅地に転用されている

当論稿は1964年のものであるが、当時かなりの農地が転用されたことが分かる。また富士早生カンランは「キャベツ」のことである。(関1958;p.17)には以下のようにある。

旧富士町(昭和29年市制施行)が加島村と呼ばれていた当時(昭和4年町制施行)から、この地は富士梨の産地として全国にきこえていた。大正7~8年頃がもっとも盛んな時で、当時調査部落Mでも、耕地の3割くらいが梨畑で占められる盛況であった。

ところが、昭和7年頃に大虫害が発生して、当時の技術水準をもってしては、将来の見通しが立たないほどの大打撃を受けてしまった。そこで、目先の利いた連中は、蔬菜同志会というのを結成して、梨にかわるべき適当な商品作物を物色することをはじめた。

そしていろいろ試みて結局甘らんの導入に成功し、梨にかわって甘らんの生産に重点が移っていって今日にいたった

大虫害に晒された富士梨に代わる農作物を模索し、キャベツの生産に辿り着いたとある。加島五千石があったからこそ、ブランド化できたのである。一方で、以下のような論稿も存在する(清水2026)。

一方、静岡県富士郡富士町(現・富士市)では、産業組合が主体となって1924(大正13)年に東京府南葛飾郡奥戸村(現・葛飾区)の民間育種家・中野庫太郎から「中野(中野早生)」の種子を譲り受けて育採種に着手し、1933(昭和8)年までに同じく水田裏作に適した「富士早生」を育成した。同地では,春先の端境期に出荷される「富士早生甘藍(キャベツ)」の産地形成と並行してキャベツ採種業も急速に成長し,西南暖地への秋播きキャベツ種子の一大供給地となった。

1924年はまだ富士町は存在していなかったため訂正した上で記すと、大正13年(1924)に加島村の産業組合が種子を入手、町制施行後の昭和8年(1933)頃には富士早生の育成に漕ぎ着けたとある。

互いの論稿を読むに齟齬があるように思えるが、富士早生の育成はこの辺りの年代であろう。

  • おわりに

富士市が「えんとつ町」となる軌跡としては、「富士市の公共交通の歴史考、近代的製紙業の礎と吉原の衰退を考える」にあるように製紙会社の進出もあるが、農地の積極的買収も挙げられる。それらの土地は工場用地として利用された。ここに、その広大な農地を称して呼称された「加島五千石」は終焉を迎えたと言える。

9:「富士市がえんとつ町となるまでの軌跡、加島五千石からの大転換」

  • 参考文献
  1. 関英二(1958)「兼業と農家の機械化」『農林統計調査』1958年4月号、農林統計協会、10-19
  2. 笠井文保(1964)「新産業都市の建設と近郊農村の変貌 -東駿河湾地区・富士市の事例-」『農村研究 第19号』、東京農業大学農業経済学会、57-70
  3. 清水克志(2026)「大正期から昭和戦前期における秋播きキャベツ品種の普及」『地理要旨集 2026s0』

2026年6月26日金曜日

富士市からの富士宮市に対する合併要請の歴史を振り返る

 まず、以下の画像を見て頂きたい。




画像にあるように、「平成の大合併」にて富士市は富士川町を編入し、富士宮市は芝川町を編入した。静岡県における平成の大合併の締めくくりが、富士宮市の例であった。本稿ではこの合併劇自体ではなく、その過程およびそれ以降に富士市が富士宮市に対して行ったアプローチの方に着目したいと思う。

まず富士市はこれまで、富士宮市に合併話を持ちかけてきた歴史があるということは、周知の事実である。これに対し、富士宮市は除けて来た形となっている。とはいっても、富士宮市としても、荒唐無稽な話として受け取っているというわけでもない。以下に、その経緯を示してみたいと思う。



  • 小室富士宮市長の代
 
まず2009年の富士市長選挙において、現職の富士市長が富士宮市との合併を公約に掲げていたことが知られる。

富士市長、富士宮市と合併をめざす(2009/11/5 17:40 静岡第一テレビ) 
次の富士市長選挙への出馬を表明している現職の鈴木尚市長が5日公約発表会見を開き、富士宮市との合併を目指すことを明らかにした。会見で鈴木市長は3期目は「富士山を中心に風格ある都市」を目指すことを発表しました。具体的な取り組みとして、富士宮市と合併し、一定の財政規模を持つ自立した自治体作りを考えているという。合併の時期や方式はまだ決まっていないが、鈴木市長は「富士宮市と芝川町の合併後できるだけ早く準備を進めたい」と話している。(以下略)


富士市長は公約に"富士宮市との合併"を掲げ、その上でそれを急ぐ考えも示した。

(静岡新聞WEB版 09/11/05)
富士市の鈴木尚市長は5日、3選を目指し出馬を予定する今年12月(同月13日告示、20日投開票)の市長選の公約発表の中で、来年3月の富士宮市と芝川町の合併が成立した後、なるべく早い段階で新富士宮市に合併を呼び掛けていく考えを表した

合併を目指す理由については、地方分権・主権の流れをにらみ、「市民に良好なサービスを提供するためにも、基礎自治体が自立できる強い自治体になることがますます求められてくる」と説明。将来的には山梨県側の市町村を含めた富士山ナンバーエリアの「環富士山」都市の合併も展望として掲げた上で、昨年の旧富士川町との合併に続く広域都市実現の取り組みとして、新富士宮市との合併を目指す考えを示した

富士宮市をまず、合併相手とする理由については、「経済圏、生活圏が一致し、行政面でも連携や、人事交流もある」と指摘。次の段階の連携として、「東部地域が将来どんな都市を目指すのかまだ分からないが、将来、政令都市ができればありがたい」との言葉を織り込みながら、これまで連携が少なかった沼津市との連携強化も進める考えを表した。同市長選に出馬を表明しているのは現在、鈴木氏だけ。

富士市長の、合併に対する強い意欲が見て取れる。それに対し、富士宮市の反応はどのようなものだったのであろうか?

鈴木市長の合併発言 小室市長も前向き姿勢示す(富士ニュースWEB版 2009-11-12)

富士市の鈴木尚市長が12月の市長選に向けた公約の1つに、芝川町との合併後の新富士宮市との合併を盛り込む考えを明らかにしたのに対し、富士宮市の小室直義市長は12日の定例会見で「行政の広域化事業を進める上で、従前から富士市との合併の必要性は認めている」と前向きな姿勢を示した。 ただ、来年3月に芝川町との合併が予定されているため、「まずは芝川町との合併をしっかり進める。事務的な手続き、市町の融和策に意を砕いている最中。富士市との合併は、芝川町との合併が一段落した次の段階だと考えている」とした。 鈴木市長とのこれまでの話し合いでは、「県の合併推進構想で富士市、富士宮市、旧富士川町、芝川町の2市2町の組み合わせが示されたのを起点に、日常会話の中で将来的な合併についての話をしてきた」としながら、「鈴木市長がいつ、どのような形で合併を考えているのか分からないので、こちらは判断しかねる」と語った。

これは簡単に言えば"富士宮市としては、富士市との合併は今は真面目には考えていません"ということになる。もし真面目に考えていたら、このような枕詞は無く、もう少し違うコメントが出てくるだろう。さて、無事に鈴木尚氏は再選したわけであるが、その後の合併に関するコメントを見てみよう。

富士宮市との合併「自然」 「機運の高まり重要」 富士市長(静岡新聞WEB版 2010/03/05)
富士市の鈴木尚市長は4日、市議会2月定例会の施政方針に対する質問に答え、富士宮市との広域合併の検討方針に ついて「経済圏や生活圏などで一致する市との合併は自然な流れ」と述べ、「市民の機運の高まりが大変重要」として市民が地域の将来を考えるために必要な資料を提供していく考えを示した。平成の大合併を進める基礎になった市町村合併特例法は本年度で区切りを迎える。しかし、鈴木市長は少子高齢社会の進行や、地方分権改革の流れを踏まえた上で「市が持続的に発展するには、より高い自治能力と多くの権限を有する都市への移行が次に目指すべき方向」と指摘。「合併は行財政基盤強化の手段の一つとして今後もなお有効」と述べた。 施政方針で市政運営の基本理念に挙げた「富士山を中心とした風格ある 都市(まち)」については、「広域合併そのものを意味したものでなく、富士山を取り囲む自治体が結び付きやネットワークの強化を図ることで、揺るぎない存 在感と求心力を持った都市ができるとの考えに基づいたもの」と説明した。

当選後、公約である富士宮市との合併を進めようとしていることが分かる。またコメント内容から考えるに、富士宮市間と合併に関する具体的な共通認識はその時点では有していないものと考えられる。

つまり、この時点で富士宮市と合併話は進んでおらず、富士宮市に対して必要性を訴えるという状況に留まっていることが分かる。

  • 新富士宮市長誕生

先の記事で登場した小室市長は引退を表明し、2011年4月の富士宮市長選挙にて須藤氏が当選した。富士市長が合併を公約に掲げていたこともあり、須藤新市長に対してそれらに関する質問が相次いだ。須藤市長の回答は以下の通りであった。

須藤・富士宮市長 富士と合併「4年はない」(読売新聞WEB版 2011年5月10日)
4月の富士宮市長選で初当選した須藤秀忠市長が10日、初の定例会見に臨み、「任期の4年間で富士市との合併はないと言っても過言ではない」と述べ、任期中の合併を見送る姿勢を示した。理由については「市民の機運がそこまでいっていない」と説明した。

富士市の鈴木尚市長は合併に前向きで、同日午前の定例会見では「須藤市長に直接会って合併を視野に入れた連携強化を申し入れる」と述べていた。

須藤市長は「鈴木市長の申し入れは真摯(しんし)に受け止める。合併の話になった時にばたばたしないためにも、電算システムの共通化などは進めていきたい」と述べ、合併に向けた環境整備は進める考えを示した。

「自分の任期中に合併しない」ということは、数年単位のレベルで合併を協議しないという意思を示したことになる。つまり富士宮市は、合併に意欲的ではないことが分かる。

記事に見える富士市長の"同日午前の定例会見"とは、以下のものである。

富士宮市との合併 視野に入れた連携を(富士ニュースWEB版 2011-05-10)
鈴木市長は富士宮市の須藤秀忠新市長に対し「富士山ネットワークの連携から一歩踏み出し、合併を視野に入れた連携強化を提案する」と見解を示した。(抜粋)


富士市長が新富士宮市長誕生に際して動かないはずもなく、改めて合併を協議したい意向を示している。富士市長は一貫して合併に意欲的で、この時は富士宮市も市民レベルで会話が発生していた。そして、マスコミの注目度もかなり高まっていた。


  • 富士市と富士宮市の連携強化

やがて富士市が先頭に立って、富士宮市との連携強化を図る取り組みが進められるようになった。その一例が、以下のようなものである。

富士と富士宮が連携強化で市長合意 合併視野に消防の広域化など(2011年6月3日)
富士市の鈴木尚市長と富士宮市の須藤秀忠市長は2日、富士市役所で会談し合併問題で意見を交わした。鈴木市長は本紙などの取材に「合併を視野に入れて行政面などでの連携を強化していくことで合意した」と述べた。 鈴木市長によると、須藤市長に対し「将来の合併をにらんで連携の強化を進めたい」と申し入れた。「当面は消防の広域化など、行政面で富士・富士宮の一体化を進めよう」と提案したという。須藤市長は「自分の任期中には合併しない」と答えたものの、「(富士地域に)強い自治体をつくらなければならない」と応じたという。(抜粋)

富士市長は相当意欲的であるが、富士宮市はそこまでには至らないことが分かる。富士市長も、富士宮市は合併に前向きではないということを、この時点で察していたことは言うまでもない。

富士市・富士宮市 指令業務を共同運用へ(2012-07-26 富士ニュースWEB版)
富士市と富士宮市は25日、消防救急の広域化に向けた任意の協議会を立ち上げた。平成28年5月末までに消防救急無線のデジタル化が迫られるため、基本方針として両市で消防救急無線のデジタル化と消防指令施設(指令センター)を共同で整備し、指令業務を共同運用する体制を構築することを確認した。指令センターは富士市消防防災庁舎3階に設置する方針で、28年3月末までの運用開始を目指す。協議会では、指令センターの共同運用のメリットとして▽災害対応の強化▽財政上の効果▽指令業務職員の効率的配置―の3点を挙げる。(抜粋)

上の記事にあった消防の広域化が具体化している様子が見える。富士市としては、これらを足がかりに、合併に繋げたいということなのであろう。

  • 現職富士市市長が任期満了で退任、新富士市長誕生

2013年12月の任期満了に伴う富士市長選挙において、現職の鈴木氏は出馬しないことを明らかにした。おそらく合併に前向きでない富士宮市を見て、踏ん切りがついたものと思われる

この選挙においては、小長井氏が初当選を果たした。以下は2014年3月の富士市議会定例会の発言である。

【3月5日定例会】

Q(石橋議員):将来の中核市の移行を視野に新たな自治体連携の仕組みである地方中枢拠点都市制度などを研究して参りますとしておりますが、今後予想される富士市と富士宮市との話し合いは、合併も重要な検討材料としていく考えはあるのかお伺い致します。
A(小長井市長):人口減少や少子高齢化の進行、都市間競争の激化、都市インフラの老朽化など地方自治体を取り巻く環境は依然として厳しい状況にあります。本市が市民の皆様に将来に渡って充実した行政サービスを提供していくためには、どのような社会状況にあっても、持続可能な基礎自治体であることが必要であると考えております。  
一方生活圏や経済圏を共有する富士宮市との関係におきましては、住民票の相互交付や職員の人事交流、合同研修などを実施しており、近年では広域災害への対応強化を図るため、共同消防指令センターの整備や、行政コスト縮減を目的とした電算処理システムの共同化など、これまで以上に行政連携の強化を図っております。

今後も新富士駅へのひかり号停車や、身延線延伸など両市に共通する課題の解決に向け、新たな取り組みを展開することで、広域連携を強化し、絆をより深め、岳南都市圏としての一体化を要請して参ります。本市の将来的な方向に関しましては、多様な市民ニーズに柔軟且つ持続的に対応するため、人口要件の緩和が見込まれる中核市への移行を視野に入れ、自治能力の拡大を図りたいと考えております。また富士宮市との合併につきましては、重要な検討課題と認識しておりますが、それには両市民の機運の高まりが欠かせず、多くの皆様の賛同と、慎重な議論が必要なことから、広域連携により絆が深まったその先にあるものと考えております。 
このことからまずは、広域連携の強化へ向け、財政処置が厚く、連携施策の自由度が高い国による新たな支援策、地方中枢拠点都市制度などを研究・活用し、富士地域の魅力向上と発展に結びつけて参ります。

富士宮市のこれまでの姿勢は十分に承知しているので、合併に関して強く推進する様子は見られない。

【3月6日定例会】

Q(小池議員):電算や消防指令の面で富士宮市との共同化が進んでいるが、生活圏や流域が重なる富士宮市との連携や合併について、市長はどのような考えか
A(小長井市長):人口減少や少子高齢化の進行、都市間競争の激化、都市インフラの老朽化など地方自治体を取り巻く環境は依然として厳しい状況にあります。本市が市民の皆様に将来に渡って充実した行政サービスを提供していくためには、どのような社会状況にあっても、持続可能な基礎自治体であることが必要であると考えております。 
 一方生活圏や経済圏を共有する富士宮市との関係におきましては、住民票の相互交付や職員の人事交流、合同研修などを実施しており、近年では広域災害への対応強化を図るため、共同消防指令センターの整備や、行政コスト縮減を目的とした電算処理システムの共同化など、これまで以上に行政連携の強化を図っております。  
合併につきましては両市民の機運の高まりが欠かせず、多くの皆様の賛同と、慎重な議論が必要なことから、広域連携により絆が深まったその先にあるものと考えております。今後も新富士駅へのひかり号停車や、身延線延伸など両市に共通する課題の解決に向け、新たな取り組みを展開することで、広域連携を強化し、絆をより深め、岳南都市圏としての一体化を要請して参ります。

少なくとも、前鈴木市長のようなトーンではないことは明らかである。また小長井氏は(須藤・小長井2020;p.7-8)で以下のように述べている。

富士市では平成26年度から現在に至るまで、隣の富士宮市とともに住民基本台帳や税など14の基幹系業務、40を超えるパッケージシステムの共同化を行っています。(中略)我々も広域的な連携・協力については、これまでも議論をしてきたところです。富士市と富士宮市は、「岳南地域」という枠の中では生活圏も経済圏もほぼ同じで、これまでスムーズに連携してきました。その枠組みや連携をさらにどう発展していくか、今後考えていきたいと思います。

確かに、生活圏と経済圏はかなり一致していることは間違いない。

  • 2017年の富士市長選挙 

平成29年(2017)12月24日に、任期満了に伴う富士市長選挙が行われた。このタイミングで富士宮市長は記者に「合併の意思があるか」を問われ、以下のように答えている。


市長定例記者会見(平成29年12月)


須藤市長は「合併は全く考えていない」と明言している。そもそも富士宮市は、合併に対して前向きになったことが無い。小室市長の代も須藤市長の代も、戦略的沙汰止みをしていたものと思われる。平たく言えば、端から合併する気など無かったわけである。


  • おわりに

富士市が合併に極めて前向きで、富士宮市が消極的という歴史を見てきた。また小長井市長は「新富士駅へのひかり号停車」「身延線延伸」を"両市に共通する課題"としているが、これはひとえに富士市内の課題である。これを独力で成した場合は、より強固な生活圏の一致が認められると言え、将来的に合併議論が再燃する可能性はあるだろう(ひかり号停車は特段求めないが)。

個人的には合併には何よりも"生活圏の一致が見られること"が重要であり、それが公共交通機関においてもある一定レベルで認められている場合、はじめて議論がなされるべきであると考える。

8:「富士市からの富士宮市に対する合併要請の歴史を振り返る」

  • 参考文献
  1. 須藤・小長井(2020)「須藤修×静岡県富士市長小長井 義正“生涯青春都市 富士市”の実現に向けて」『月刊J-LIS 令和2年2月号』、地方公共団体情報システム機構、4-8

2026年6月24日水曜日

富士市では何故サルの群れの目撃例が多いのか、サル生息の歴史考

富士市においては、度々「ニホンザル」のニュースが話題となることがある。私も富士市にはサルのイメージがある。


例えば、以下のようなものが該当する。


「サルの群団」中学校に侵入 親子含む16匹 静岡・富士市 
毎日新聞WEB版 2019/9/9 16:31(最終更新 9/9 18:19)

 9日午前6時半ごろ、静岡県富士市の市立吉原北中学校にサルの群れが侵入し、校舎の壁などを伝って屋上の避雷針によじ登るなどした。同校によると、赤ちゃんザルを背負ったサルもおり、群れは計16匹だったとみられる。教員や近隣住民が見守る中、警察官らの誘導で約45分後に山の方に逃げていった。(以下略)


これらの題材を以って、富士市と「サル」の関係について考えていきたい。

  • 各調査から見るサルの分布

富士市におけるニホンザルの分布を示す資料として、大正12年(1923)の東北帝国大学による調査「全国ニホンザル生息状況アンケート調査」がある。この調査では、富士山周辺では山梨県南都留郡・静岡県駿東郡・静岡県富士郡から回答があったという。

では富士郡の調査結果はどのようなものであったのだろうか。まずこの調査では、山梨県南都留郡等では生息情報はなかったという。逆に富士山周辺で唯一生息情報が寄せられたのが富士市域である。(吉田2012;p.102)には以下のようにある。

静岡県側では富士郡須津村(現在の富士市中里付近)に少数の個体の目撃情報があったのみである。さらに富士郡上井出村(現在の富士宮市上井出付近)では、「十数年前までは多数棲息していたが現今はその姿はない」と記載されている。

周辺地域では生息しなくなったのに富士市域では認められるということは、それだけ生息のための条件が整っているということなのだろう。地図をみれば分かるように、富士市は富士宮市と比較すると北方の標高が高い。それが好環境となっているのだろう(「富士市の地理考、富士山と富士川水害と農業の関係や積雪地点や浮島ヶ原低地」)。

しかし上の記事にもあるように、現在富士市域では少数の個体どころか頻繁にサルが目撃されている。また周辺地域も無というわけではない。(吉田2012;p.102-103)には以下のようにある。

環境省自然環境局生物多様性センター(2004)によると、昭和53年(1978)の調査時には富士山にサルは分布していなかったが、平成15年(2003)の調査時には富士山南斜面にサルの分布が確認されている。これは、昭和53年(1978)に生息が確認されていた愛宕山の個体群が、北方に分布域を拡大し、富士山南斜面に移入したためと考える。

この論稿の筆者は、サルの分布の拡大により人間生活や生態系に深刻な影響をもたらす可能性があるとし、こまめなモニタリングと被害対策が必要であると述べている。それが、富士山におけるサルの保護管理にとって重要であるとしている。

  • おわりに
7:「富士市では何故サルの群れの目撃例が多いのか、サル生息の歴史考」

  • 参考文献
  1. 吉田洋(2012)「富士山の野生ニホンザルー分布の変遷」『富士山を知る辞典』、富士学会

2026年6月22日月曜日

富士市の方言・花一匁・旧暦風習・鬼決め歌について考える

本稿では富士市の「方言」「花一匁」「鬼決め歌」「旧暦風習」の4つを取り上げ、富士市の特徴を考えていきたいと思う。つまり"民俗回"である。



  • 方言


富士市の方言について史資料の側面から考えた時、先ず想起されるのは山中共古 『吉居雑話』であろう。これは民俗学者である山中が明治40年(1907)から同45年(1912)に吉原町に住んでいた際、同地で見聞きしたものを記したものである。ここに「吉原辺方言」(山中1984;p.101)と「大宮方言」(山中1984;p.28-29)が記されている。

「吉原辺方言」は「大宮方言」と比較すると記される例はかなり少ないが、『吉居雑話』には吉原の地で確認された童謡や歌などが多く記されており、あくまでも方言に限局した場合は少ないという話である。吉原辺の方言として、以下の3つが記される。

  • アカシヤ(ダボハゼ魚)
  • ヒルンベ(蛭)
  • ハンナ(花)

現在、これらは用いられているのであろうか?

また『吉居雑話』の与えた影響は大きく、柳田國男は1918年の論稿「農に関する土俗」で引用し、中山太郎は1925年の論稿「人身御供の資料としての「おなり女」伝説」で引用するなどしている。

また中山の名著『日本巫女史(にほんふじょし)』(1930年)でも複数箇所引用され、玉渡神社の虎御前伝承に関わるもの(中山2012;p.430)や、臭気の払いに関する考察の引き合いとして(中山2012;p.500)にて引用するなどしている。後者は、方言ではないものの、それに類するものと言える。

  • 花一匁(はないちもんめ)

花一匁については、Wikipediaには「江戸、明治、大正時代には同じ遊びが確認できない」とある。しかし、そうだろうか。例えば(山中1984;p.14)に、吉原の子どもたちの遊びの文言が記されているが、これは明らかに「花一匁」である(但し、「はないちもんめ」という言葉自体はない)。以下にその文言を掲載する。

吉原ノ子供遊ヒノ子買ヲ子カヲ、女ノ子供往来ノ左右ニ別レテイフ、

右 ヨーカ、コカ、
左 ドノコガホシイ
右 ヲ〇〇サンヲホシイ
左 ナニクレテソダツ
右 砂糖ノ饅頭
左 ソリヤ虫ノ毒ヨ
右 天カラヲチタカマボコ三キレ
左 ソリヤマタホ子ポイ
右 ホシテクレリ
左 チヨチヨムシタカル
右 アカイマントゝソエテクレル (イナイテコイ)カアカトトンデコイ

呼レシ子供向側ヘカケテ行キ、又クリカヘシイフテ遊ブ、

「子買ヲ子カヲ」は山中の言葉で、「子買わ 子買わ」と言った方が分かりやすいだろうか。よく意味が分からない部分もあるが、おそらく「右」が鬼の立ち位置で、「左」が鬼の要求に対抗するという問答の遊びと思われる。

以下に、私なりの解釈を示してみた。

右 ヨーカ、コカ :「子買い」の意味か?
左 ドノコガホシイ :「鬼」に対し要求したい人物を聞く
右 ヲ〇〇サンヲホシイ :「鬼」はそれを答える
左 ナニクレテソダツ :ただではあげられないと、要求する
右 砂糖ノ饅頭 :「鬼」は対価を示す
左 ソリヤ虫ノ毒ヨ :「虫ノ毒ヨ」の意味は分からないが、拒否していると解せる
右 天カラヲチタカマボコ三キレ 代替案としての「蒲鉾三切れ」か
左 ソリヤマタホ子ポイ :意味はよくわからないが、おそらく拒否だろう
右 ホシテクレリ  :意味はよくわからないが、おそらく要求する内容だろう
左 チヨチヨムシタカル :はやり拒否する
右 アカイマントゝソエテクレル (イナイテコイ)カアカトトンデコイ :「アカイマント」がとっておきで、もう流石に折れるだろうという流れ。「トンデコイ」はすぐこっちに来いという意味か?

この遊びの場合、双方が欲しい人を呼ぶものではない。一方がもう一方に要求する形である。しかも「鬼」が始める権利を有している。そして鬼でない陣は、自陣のうちの誰かを鬼が要求していると分かった上で話を進めている。

しかし、おいそれとは渡さない。ここのワードセンスやギリギリの要求が求められる遊びなのだろうが、「呼レシ子供向側ヘカケテ行キ」とあり、最終的には鬼に取られるのである。この運命は避けられない。やがて全員が鬼陣地となるのだろう。

この意味を考えていきたいが、これは男女の関係を示しているものではないだろうか。つまり男が女に欲しいと要求し、納得できる内容であったら了承するという構造なのではないだろうか。しかし声を掛けられた時点で、その後の運命は避けられないという意味も併せ持つ。

また、ネットで確認されるようなよりダークな解釈をすれば、身売りや人身売買のような意味もあるかもしれない。だからこそ、この遊びは全員女の子であったのかもしれない。「コカ」も「子買い」から由来すると考えた方が良いだろう。

つまり身売り・人身売買の摂理を遊びの中に落とし込んだもの、という見方も出来なくはない。花一匁は多くの例で双方が欲しい人を要求するが、この場合一方通行であるから、より不平等性を感じるものとなっている。むしろこれが花一匁の原型なのかもしれない。

上述したように明治期の伝聞等を記したものが『吉居雑話』であるため、明治期には花一匁ないしそれに類するものは確認されると考えたほうが良いのではないだろうか。

  • 旧暦

この辺りは現在も「ひなまつり」等は旧暦で執り行われるが、(山中1984;p.29)に「富士郡全体ハ旧暦ヲナス土地ニテ、旧ノ大晦日ハ吉原和田橋ノ辺ニ市立ツ」とある。

当時の世相から見ても、旧暦が残る地という印象がもたれていたようである。それが現在にも引き継がれていることが分かる。


  • 鬼決め歌


富士市の鬼決め歌は「ぎったんばっこん」が主流であったと考えられる。それは(美濃部2006;p.521)においても言及されているし、実際に私も富士地区において昔聞いたことがあるからである。末尾の「(資料)鬼決めアンケート結果」の「56」「78」「173」「203」「237」が、富士市に関するものである。

しかし(美濃部2006;p.525)にあるように、「柿の種」という言葉も富士市で認められる。この調査は手法があまり優れたものではないため何とも言い難いが、やはり主流は「ぎったんばっこん」であったと目される。

もっとも、現在は聞くことすらないように思われるが、どうだろうか。


  • おわりに

『吉居雑話』は現在の富士市域の風習等が多く記されるので、多くの富士市民に読んで頂きたい資料の1つである。それらから、現代に通ずるものを見出す作業も面白いと思われる。

6:「富士市の方言・花一匁・旧暦風習・鬼決め歌について考える」

  • 参考文献
  1. 山中共古 (1984)「吉居雑話」『諸国叢書』(No.1)、成城大学民俗学研究所
  2. 美濃部京子(2006)、「わらべうたの変容-鬼決め歌の変容から静岡県の位置を考える-」『中日本民俗論』、静岡県民俗学会
  3. 中山太郎(2012)『日本巫女史』(初版:1930)、国書刊行会

2026年6月16日火曜日

富士市が企業の食い物にされてきた歴史、ウシジマくん案件について

昭和30年代の富士市において、まるで『闇金ウシジマくん』の世界のような出来事があったことを御存知だろうか?

これは富士市が結んだ奴隷契約を発端とし、企業の食い物にされ、地元民が不当な扱いを受けてきた歴史である。山崎豊子(故人)も、これを知っていたら作品を著していたかもしれない。そんな風にも思える凄まじさがある。

解説の前に、当時の物価状況を見ていきたい。日本銀行HPに示される消費者物価指数(CPI)で、本稿で取り扱う年代のものは昭和32年(1957)の17.1。これを数式に当てはめてみる。

消費者物価指数(持家の帰属家賃を除く総合)
115.3(2026年4月値)÷17.1(昭和32年)=6.7倍

 



従って、昭和32年当時に1万円で取引されていたものが、現在では約6.7万円となる計算になる(消費者物価指数)。では本題に入っていきたいと思う。

  • 富士市の奴隷契約
富士市という土地に、ある企業が目をつけた。その会社こそ、「旭化成」である。旭化成と富士市は、昭和32年(1957)には正式に契約を締結した。その契約こそが奴隷契約である。(笠井1964;p.63-64)より引用する。

会社は、誘致契約の最大の条件として、富士市に対し、二十万坪(工事敷地二十万坪、住宅地二万坪)の用地提供、これに関連する排水路、水道、市道などの付け替え工事、とくに田子の浦人造港を建設し、富士市地域内の同港の埠頭の9割を旭化成の専用とし、旭化成は、一切その負担を負わないという契約がなされた。この結果、市は、極めて企業優先による工場誘致を余儀なくされ、会社の要求する条件整備のため、市の行財政を圧迫してまでも、特定企業の要求にこたえる先行投資をおこなわなければならなかった。

まずこの契約は、奴隷契約以外の何者でもない。田子の浦港の埠頭は、恒常的な税収となり得るはずである。この契約通りであった場合、その手段は完全に絶たれてしまう。端的に言えば、長期的に考えた場合、富士市にとっては大損である。

ここに「旭化成の専用」とあるが、本当に旭化成専用の岸壁が存在する。以下は上の契約かた約30年後に刊行された(富士市1986;p.265)の資料である。


見えづらくてすみません…


富士市の資料によると、合計250mもの岸壁が旭化成専用である(少なとも1986年の刊行時)。また専用岸壁を有しているのは、旭化成のみである。しかしご覧の通り、「公共岸壁」の方が多い格好となっている。あまりにも馬鹿げた要求から、さすがに当初の要求通りにはならなかったようである(それか、後に拡張し比率が変わったものか)。

そして用地買収にかかる費用は、以下のようにして賄われた。(笠井1964;p.64)より引用する。


この結果、二十二万坪の用地買収額は、総額4億1556円で、そのうち旭化成が、3億782万円、市が1億782万円余を負担した。しかし市が負担する分については、市が財政余力がないため、旭化成から8233万円を年8分の利息で借金して支払っているのである。ここで注目すべきことは、会社の負担部分については無利息で市が立て替え、市の負担部分については、会社が8分で貸し付けるという契約条件となっていることである。


これがどれくらいおかしなことかというと、A社が金融機関から有利子負債という形でお金を借りている一方、なんとその金融機関がA社から有利子負債分を遥かに凌駕するお金を無利子で借りているということと同じである。こんなバカバカしい話はあまり聞かない。ウシジマくん顔負けの悪魔契約である。

こんなことであるならば、普通に市債を発行すればいいだけの話のように思える。これでは旭化成側の「利益剰余金」が増加するだけである。また、以下のように続く(笠井1964;p.64-65)。


このような形で工場誘致がなされてよいものであろうか。単純にわりきってしまうわけにはいかない。このシワ寄せは、住民の負担としてもどってくるからである。(中略)つぎは、旭化成の誘致の最大の条件になった田子浦人造港の建設である。(中略)ところが、こうした膨大な地元負担にもかかわらず、一切その負担は旭化成は負っていないばかりか、契約にもとづいて、完成後の同港の埠頭は、旭化成が9割まで専有することになっている。


上述したように、最終的には9割専有することは無かったのであるが、専用埠頭の契約は田子の浦港の活用の振り幅を制限することになる。また後発の他企業からすれば、不公平感を感じずには居られないだろう。

そもそも富士市は旭化成から正当な対価を得ていたのだろうか。奴隷契約が有効であり続け、過小なものになってはいないだろうか。また、以下のように続く(笠井1964;p.65)。


さらに富士市は、こうした旭化成にたいする特別優遇措置のほかに、誘致条件の免税措置(富士市は工場誘致条例がない)として、35年より、固定資産税を3年間は10割。その後2年間7割相当額を免除することにし、(中略)またこのほかに旭化成にたいして土地代金、関連事業費、奨学金など、工業化による先行投資は、7年間に約8億円に達している。こうした市の先行投資は、38年度の市の総財政規模8億円余からみて膨大な額にあたっていることがわかる。


平たく言えば、以下のようにまとめられる。


富士市が「地上げ屋」として奔走し、自身に帰属しないのにも関わらずその土地代まで払わせられ、その上でその土地代の有利子負債分まで献上する


一方は全く汗を流さないが、もう一方は静観しているだけでなぜかお金が入ってくるという摩訶不思議な構造なのである。ここまで馬鹿馬鹿しい契約は本当に聞いたことがない。


  • 労働・賃金問題

また、以下のように続く(笠井1964;p.65)。


ところで市は、旭化成の工場用地買収にさいして、土地提供者世帯ごとに1名を優先的に会社に採用することが、買収の条件とされていたが、土地提供者242世帯のうち約4割に当る101名が採用されているにすぎない。


この制度は住民の間で「1戸1人」という言葉で知られていた。ちなみに採用されたとしても実際は工務系の低賃金労働だったようで、操業開始年の35年末現在の退職者は72名にまで上ったという(101名のうち)。あまりにも酷い話である。

(福士2004;p.4)には以下のようにある。


富士市がこれほどまでに工場誘致に熱心になった理由は、雇用機会の増大と地域振興への期待にあったと考えられる。しかし、旭化成工業全体の従業員数を見てみると、1955年から1965年までの10年間は約 16,000人の前後で推移している。この時期は、化学繊維業界の過当競争による経営不振や、新規事業参入による富士、川崎などへの新工場設立などがあったが、「合理化による余剰人員は新部門で吸収する」という社の方針があり、結果として旧・富士市側が期待したような地元の雇用促進に大きな成果はなかった

特に労働問題は有名で、多くの論稿で目にするところである。(太田1966;p.17)には以下のようにある。

土地買収に際し企業側が農民に対して優先雇用を約束することがこの場合にもおこなわれた。しかし土地を提供した農民に与えられた職種について、農民の不満はかなり強く、旭化成に採用された61人のうち12人が1年くらいで退職した。就業・退職などについては、前掲42)に詳細な資料が示されている。

この前掲42)は『工業化の影響』(静岡県民会館・静岡県経済部共同調査)という刊行物なのであるが、そこに記される内容はもう酷いもので、当時の生々しさがそのまま記録されている(静岡県民会館1961;p.73-98)。この辺りもウシジマくんの世界のようである。以下に住民の声を一部掲載する。

  • 23才の若い人は13,000円位で、喜んでいる
  • (土地提供で入社しても)風呂番で2年という契約もあった
  • 1戸1人といっても、大面積と小面積の人は同じ
  • 学校を出ていないというだけで、給料に3,000円から4,000円の差がある
  • 土地を対価として入社した人はすぐクビという噂がある
  • 寮は大学出と中学出で区別されている
  • 月7,000円の安月給だから、農業をしようか考えている
  • 35才の女性の人が、仕事は便所の掃除や雑用で、日給は200円だと聞いて辞めた
  • 学校出と4,000円も給料が違う
  • 劇薬を使う危ないところは部下にやらせてくる
  • 子供4人をかかえて9,000円の給料ではやっていけない
  • 1戸1人採用という条件だったのに、色盲ということで駄目だった。大昭和ではそういう人も雇ってくれる

根性のある昔の人も心が折れてしまう程の何かがあった…それ以上言えることはない。勿論どの時代も不平不満はあると思うが、旭化成の場合は独特の用語が頻発し(「土地提供」「1戸1人」等)、会社との間で齟齬があったのは明白である。少なくとも、この異常な退職率は、特殊事情が絡んでいるだろう。

単純計算すると、大学出とそうでない人とでは3割くらい給料が違うということになる。土地を提供してまでして入社したのに、対価がこれと知った時は、さぞ無念であったことだろう。

諸論考をみる限り、初めから雇用に関する規定を反故にするつもりでおり、また住民からの土地提供が済んだら用無し扱いとしていたように見える。田舎モンだからと、良いように考えていたようにしか映らない。

提供されたその土地は農家の農地であり、当時の世相から考えるに中学出(ないし高校出)だっただろう。実際は土地だけ得て、給料の少なさを見て辟易して辞めていくのを待っていたという感じだろうか。しかしその土地は戻って来ない。何故なら、入社条件であるからだ。徹底的に食いつぶすことを計算されている。

  • イオンタウン富士南の土地の帰属は?

この契約自体やその後の地元民の扱い方も問題であるが、私が現在の事象でおかしいと感じるのは、旭化成が不要になった土地を他に貸し付けている状態にあることである。その土地は「イオンタウン富士南」の土地であるが、これは元を辿れば


富士市が多額の資金と心血を注いで旭化成のために取得した土地(社宅跡なので、当時からその用途であっただろう)


である(すべてではないかもしれないが)。この土地は旭化成の社宅跡に該当するが、不要となった場合、経緯を考えれば富士市に帰属させるのが筋ではないだろうか。富士市は必要な土地であるので取得に走ったわけで、前提が崩れれば再考するのは当たり前の話ではないか。つまりイオンタウン富士南の土地は旭化成から無償譲渡されるべきであると考える(少なくとも富士市が交渉した経緯の土地分は)。

例えば富士常葉大学の用地は、富士市から常葉大学側に土地自体が無償譲渡されていた。しかし廃校にあたり、常葉大学側は富士市に土地を返還している。イオンタウン富士南の土地も、同様にあって然るべきであろう。そして富士市がこの土地を再開発し、富士市自身の手で発展に繋げていくべきではないだろうか。

もっと言えば、専用岸壁の対価が妥当であるか、少し調査をした方が良いのではないだろうか。さすがに何の対価も得ていないということは無いと思うが…。

  • おわりに
港湾というものは、とんでもない背景があったりするものである。横浜が有名で、「〇〇のドン」なんて云われる人も有名である(そちらは本社が当地に所在するし、法人税も入ってくるので、まだ良いかもしれないが)。簡単に言えば、富士市の地でこれをやろうと企んでいたわけである。

5:「富士市が企業の食い物にされてきた歴史、ウシジマくん案件について」

  • 参考文献
  1. 静岡県民会館公聴課(1961)『工業化の影響 富士市田子浦地区 実態調査報告書』、静岡県民会館
  2. 笠井文保(1964)「新産業都市の建設と近郊農村の変貌 -東駿河湾地区・富士市の事例-」『農村研究 第19号』、東京農業大学農業経済学会、57-70
  3. 太田勇(1666)「岳南地方の工業化(続報)」『地理学評論 39巻1号』、日本地理学会、1-19
  4. 富士市 (1986)『富士市二十年史』
  5. 福士哲生(2004)「昭和期の市町村合併と地域経済・地方財政-静岡県富士市を例に-」『資本と地域1』、地域経済研究会

2026年6月12日金曜日

富士市とオウム真理教、富士市におけるサリン散布実験について

"富士山麓オーム(オウム)鳴く…"この言葉を引き合いに出して、良く「オウム真理教」と「富士山」は関係を持って語られてきた。


実際に富士山麓にはオウム真理教の関連施設が多かったし、様々な事象もあった。富士市はその主たる地域の1つである。まず(渡邉2009;p.24)には以下のようにある。


1994.4 
村井が土谷に爆薬サンプルの製造を指示。富士川川口付近でサリンの噴霧実験を行い、中川がサリン中毒にかかる

この富士川川口(河口)付近とは、勿論富士市のことである。このことは、『富士市史』にも記されている。以下は、平成7年(1995)の富士市議会定例会における意見書の文面の一部である(富士市2018;p.29)。

当市内においても、市民の憩いの場である富士川河口において、サリンの散布実験を行ったといわれており、また、同教団関連会社が大量の化学薬品を違法に保管し、さらに田子の浦港においてサリン製造の実験器具などを投棄するなど、市民の不安が高まっている。

つまり富士市は、サリンが散布された地なのである。おそらく地下鉄サリン事件の予行演習の一環だろう。また(朝日新聞出版企画室1995;p47)には、以下のようにある。

富士市の貸倉庫から約4万2千リットルのグリセリンが押収された事件では、警視庁と静岡県警が、教団関連の化学薬品卸会社「ベル・エポック」社長の長谷川茂之容疑者(26)を消防法違反(危険物の無許可貯蔵)などの疑いで指名手配。

富士市においてオウム真理教が多く活動していたことは、明白である。地下鉄サリン事件の前に何らかの形で薬品工場だけでも摘発できていれば…と悔やまれる。

平成7年(1995)4月8日『毎日新聞』夕刊一面には以下のようにある。

捜索は富士市水戸島の信者が経営する化学工業薬品会社「ベック」の倉庫▽同市比奈にある麻原彰晃代表が創設したとされる精密機械製造会社「光精密工業」(以下略)

このように、富士市にはオウム真理教の関連企業が位置していた。また9面には以下のようにある。

「大量の化学薬品 富士市の倉庫で中継か」
静岡県警が8日捜索した静岡県富士市水戸島の「ベック」の倉庫には今年に入って東京ナンバーのトラックが荷物を降ろし、山梨ナンバートラックが盛んに運び出したり、…

また同年4月9日付の『岳南朝日新聞』には以下のようにある。

富士市内の二ヵ所の捜索も午前7時すぎから開始され、このうち同市水戸島地先にある同教団関連会社の倉庫からは、苛性カリ(水酸化カリウム)および苛性ソーダ(水酸化ナトリウム)の二種類の化学薬品類などが大量に押収された

また、同市比奈の会社倉庫では、旋盤工作機械があることも確認された。

旋盤工作機械は拳銃の制作に用いられたのではないかと、調査当時に疑われていたようである。このように、富士市とオウム真理教は関係が深かったのである。

富士市では、サリンが散布された事実そのものも忘れ去られているように見える。公安調査庁の特設ページTOPには「記憶の風化を防ぎ、次世代に記憶を継承する」とあるが、少なくとも富士市においては全く継承されていないように見えるが如何だろうか。

  • おわりに

現在、富士市の市制施行60周年を記念し、シリーズとして記事の投稿を進めている。20記事くらいを予定しているため、是非ご覧いただきたく思う。

1:「富士市の生贄伝承一大群とTRICK感を考える、シティープロモーション化の可能性
2:「富士地区の「富士」を巡る会話はなぜカオスなのかを考える
4:「富士市とオウム真理教、富士市におけるサリン散布実験について」

  • 参考文献

  1. 朝日新聞出版企画室(1995)『日本を揺るがしたサリンとオウム』、朝日新聞社
  2. 渡邉学(2009)「南山宗教文化研究所所蔵オウム真理教関係未公開資料の意義について」『研究所報 巻 19』、南山宗教文化研究所、12-29
  3. 富士市(2018)『富士市史 通史編(行政)昭和61~平成28年』

2026年6月8日月曜日

富士市の公共交通の歴史考、近代的製紙業の礎と吉原の衰退を考える

当ブログでは現在、富士市市制施行60周年を記念し、シリーズとして富士市の歴史を取り上げている。本稿のテーマは「富士市の公共交通の歴史」である。

  • 交通体系の大変化

明治・大正時代は、富士地区の交通に大きな変化が生じた時代である。まず以下に、主な事象を表で掲載する。

年代出来事
明治22年(1889)富士馬車鉄道発足
大宮新道建設
明治23年(1890)富士馬車鉄道鈴川-大宮間の営業開始
(鈴川-吉原-伝法-入山瀬-大宮町)
明治43年(1910)馬車鉄道、富士 - 長沢間の開業
明治45年(1912)4月富士身延鉄道発足
大正2年(1913)富士身延鉄道富士-大宮間の開業

以下、富士市立博物館HPより抜粋する。

明治22年2月、鈴川停車場(現JR吉原駅)が開設され、7月に東海道鉄道(今の東海道本線)新橋-神戸間が全通しました。 当地では入山瀬への富士製紙会社の建設に伴い、鈴川停車場から吉原を経て、入山瀬、大宮へ至る新しい交通ルート(大宮新道)と、それを軌道とする富士馬車鉄道が、明治23年開通しました。馬車鉄道とは物資の輸送はいうまでもなく、人々の交通手段としても大いに活用されました。

つまり明治期の富士郡の状況としては、大宮-吉原間が交通の要衝であった。人・モノの行き来というのは、この二地域間が担っていた。以下は明治26年(1893)の富士郡役所の資料(「静岡県富士郡々治一覧表」)である。


静岡県富士郡々治一覧表


今でいう「行政施設・公共施設」一覧であるが、そのような類は殆ど「吉原」と「大宮」にしか存在していなかった。また鈴川-大宮間の経由地点が「伝法」「入山瀬(鷹岡)」であったことも注目に値する。この両者は、近代的製紙業の礎の地と言えるからである。以下は(一般財団法人日本立地センター2016)等を参考として、表にまとめたものである。

出来事
明治12年(1879)伝法村の鈎玄社が製紙を開始
明治20年(1887)芦川万次郎が今泉村に和紙工場を設立
明治23年(1890)富士製紙第一工場が鷹岡村で操業を開始 
明治28年(1895)原田村の原田製紙が和紙機械漉きを実用化
明治41年(1908)加島村で富士製紙第八工場が操業開始

富士製紙第一工場の操業に合わせる形で、「富士馬車鉄道」は営業を開始したとされている。これらは近代的製紙業の礎と言えるものであり、富士市の輝かしい歴史の一幕と言えると思う。

そして公共交通の状況は、大正時代に突入するという段階で一変していくことになる。以下の記事は、富士身延鉄道「富士-大宮町間」で運行されていた蒸気機関車について言及している。

明治村50周年で「SL9号」復活へ 修理へ搬出(中日新聞 2014年2月24日)
名古屋鉄道は博物館明治村(愛知県犬山市)で保管している蒸気機関車「SL9号」を復活させるため、24日、大阪市の修理工場に搬出した。明治村開村50周年の記念事業で、修理を経て来年3月に村内を走らせる。SL9号は1912(明治45)年に米ボールドウィン社が製造し、13年から富士身延鉄道(現JR身延線)の富士~大宮町(現富士宮)の間で運行された

つまり、富士身延鉄道の登場で、公共交通の中心が加島村(富士駅の所在地)-大宮町へと移ったのである。また(藤井2024;p.19)には、以下のようにある。

蒸気機関車 9 号は、アメリカのペンシルベニア州にあった鉄道車両メーカーのボールドウィン (Baldwin Locomotive Works)社が 1912(明治 45)年に製造したものである。1913 年7月に開業 した富士身延鉄道(現在のJR 東海身延線)の富士駅と大宮町駅(現・富士宮駅)間で蒸気機関車 9号は使用された。

以下、『富士市景観形成基本計画』より引用。

電動機の利用が普及すると、大型製紙工場は交通条件が良い東海道線沿いの平地に立地するようになりました。富士川扇状地の旧加島村に製紙工場(富士製紙第八工場)が立地し、それに合せて東海道線富士駅が開業、やがて駅前に市街地が整備され、この地域の中心地を築いてきました。

富士製紙第八工場(現在の王子マテリア富士工場)の操業は明治41年(1908)のことであるから、"それに合せて東海道線富士駅が開業"という指摘は肯定できる。

このように公共交通の中心は吉原中心部から逸れたわけであるが、これにより今後の吉原の方向性は決定してしまったように思う。つまり、以下のように言える。

この富士身延鉄道のルート決定は「今後吉原の中心地(吉原本町辺り)にJR(国鉄)の主要駅は望めないことが決定された瞬間」とも言える

これは非常に大きな事実である。江戸時代より大宮と吉原は交通の要衝であったが、明治期も同様であった。それが後世では継続されなかったのである。

何故吉原は「大宮との関係性」という重要な指向を失ってしまったのだろうか。歴史を見ると、そういう疑問が良く浮かぶものである。もっと言えば、そういう疑問が浮かぶ人材が吉原に必要なのだろう。

  • 公共交通分担率
公共交通の指標の1つに「公共交通分担率」がある。富士市の資料に富士市の分担率(%)と特例市(現在は「施行時特例市」と言う)の平均値(%)を比較したものがあったので、引用する(2013年データ)。


富士市特例市平均最大値
9.56%30.13%64.55%(宝塚市)


この%は大きい方が良いものであるが、富士市は他の特例市と比較しても壊滅的であることが分かる。現在はもっと乖離が激しいのではないだろうか。

端的に言えば、富士市民は公共交通機関を全然利用していないということになる。

  • 富士駅の機能
富士駅の機能を考えた時、現在の乗員人員だけを見ると確かに物足りない数値ではある。しかしながら「貨物」という視点で見れば、それ相応の需要を有しているのではないかと考えている。

(中垣・土井2024;p.42)に全国通運連盟の拠点一覧が掲載されている。それによると富士駅を拠点とする企業は「静岡通運」「清水通運」「清水臨港通運」「センコー」「日本通運」「富士運送」「富士宮通運」がある。これは十分に多いと言えるのであり、富士駅の存在意義を示す一事例と言える。これらは富士市および富士宮市といった事業所向けのものであると思われる。

  • 新富士駅
(竹林ら,2024)に、新幹線駅の開業が地域に与えた影響について言及されている。その報告によると、新富士駅の場合は効果が低かったことが指摘されている。これは地域住民の感覚に近い結果と言えるものであろう。

現在、富士市の市制施行60周年を記念し、シリーズとして記事の投稿を進めている。20記事くらいを予定しているため、是非ご覧いただきたく思う。

1:「富士市の生贄伝承一大群とTRICK感を考える、シティープロモーション化の可能性
2:「富士地区の「富士」を巡る会話はなぜカオスなのかを考える
3:「富士市の公共交通の歴史考、近代的製紙業の礎と吉原の衰退を考える」

  • 参考文献
  1. 富士郡役所(1893)「静岡県富士郡々治一覧表」
  2. 一般財団法人日本立地センター(2016)「平成27年度 広域関東圏における主要産業集積地域の構造変化と 将来の発展方向に関する調査研究報告書」 
  3. 藤井秀登(2024)「博物館明治村の設立趣意と保存鉄道の意義-テーマパークの視点から-」『明大商学論叢』第106巻第1号
  4. 中垣勝臣・土井義夫(2024)「JR貨物における通運事業の史的考察 : 1991年〜2011年での変遷を中心に」『 朝日大学経営論集』38巻、朝日大学経営学会
  5. 竹林ら(2024)「新幹線駅の新設が市区町村の人口に与えた影響―Synthetic Control Methodを用いて―」、『応用地域学研究(27)』、応用地域学会、1-16

2026年6月4日木曜日

富士地区の「富士」を巡る会話はなぜカオスなのかを考える

最近静岡県「富士市」や「裾野市」でクマが出没しており、記事化されている。この記事を例に、「富士」の用例について考えていきたい。


静岡・裾野でクマ警戒続く 下校支援を延長、富士ではキャンプ場閉鎖(朝日新聞WEB版 2026年6月3日 11時00分)
クマの出没が相次いでいる静岡県裾野市が警戒を続けている。巡回パトロールを継続し、小中学校への下校支援も5日まで延長した。一方、富士市でも先月30日にクマと思われる動物が目撃され、今月いっぱい市営キャンプ場を閉鎖する。
 一方、隣接する富士市で目撃情報があったのは30日早朝だった。同市須津の林道で、体長70センチくらいのクマと思われる動物が目撃され、市は6月1日から近くの須津山休養林キャンプ場を閉鎖した。2日にはセンサーカメラも設置した。
 市内や周辺の行楽施設も警戒を緩めていない。富士サファリパークは5月22日以降、「ウォーキングサファリ」の利用を一時中止。裾野市にほぼ隣接する「富士山こどもの国」(富士市)も、夜間の安全を考え、アウトドア宿泊施設の営業を当面の間、休止している。
 裾野市でクマの目撃が相次いだのは5月から。県自然保護課によると、5~7月ごろは親と生活していた若い個体が親離れをして、ほかの生息場所を求めて移動する「分散期」と呼ばれる時期で、警戒心が薄く、人の前に出てきやすいという。
 県によるクマの生息実態調査(2024年度)によると、富士川以西の南アルプス地域に441頭、富士地域には102頭、県内全域では計543頭が生息していると推計されている。富士地域のクマはほかの地域から道路などで分断されて、生息区域が狭くなり、県のレッドデータブックでは、「絶滅のおそれのある地域個体群」に分類されている。(抜粋)

この1つの記事から、「富士」を冠する用語を抜き出してみる。

  • 富士
  • 富士市
  • 富士サファリパーク
  • 富士山こどもの国
  • 富士川以西
  • 富士地域

このように沢山の「富士」が確認されるわけであるが、この差異は地元民にしか判別は不可能であろう。また地元民でも判断が難しいものがある。私が見る限り、「富士」は概ね以下の7つに分類されると思われる。

  1. 富士(富士山を指す)
  2. 富士(「朝日」と同じような用例で用いる)
  3. 富士地区(富士宮市・富士市)
  4. 富士地域(富士山麓一帯を指す)
  5. 富士市(富士市全域を指す)
  6. 富士(富士市のうち旧富士市エリアを指す)
  7. 富士〇〇(固有名詞)

「1」は富士市の「富士と港の見える公園」などが該当するだろう。当たり前であるが、旧富士市が見えるという意味ではない。"富士山が見える"という意味となる。

「2」は記事でも見えた「富士サファリパーク」などが該当する。ただ「1」との完全な棲み分けは難しい。

「3」は富士宮市・富士市を総称して用いることが多い。「岳南地域」と言うこともある。

「4」は記事でも確認された言葉であるが、統計や地域分類でも多く用いられている言葉である。

「5」は口語的に"出身は富士です"といった形で用いられる。これは富士市自体を指す場合である。

「6」は会話で"富士?それとも吉原の方?"というような用いられ方をする場合が多い。「吉原」という言葉が登場したことで、初めて狭義の話をしているのだと分かるケースが多い。またイオンタウン富士南には「→富士」「←吉原」といった看板もあるようだ。これもこのケースが該当する。

「7」は富士を冠する固有名詞である。例えば富士氏を指して口語的に「今川が…富士が…」と用いるようなものが該当する。

つまり以下の文章中における「富士」の意味は、全て異なるということになる。

A:静岡県出身なんですね。静岡県の何処ですか?
B:富士です。
A:え?同じですね。吉原の方ですか?それとも富士の方ですか?
B:吉原の方です。
A:私もそうです。またお会いできたら嬉しいですね。
B:そうですね。最近は富士と港の見える公園」に行くことが多いです。
A:私は行ったことが無いですね。景色は良いんですか?
B:「ドラゴンタワー」というものがあって、富士地区が一望できますね。
A:広いんですか?
Bはい、阿字神社という神社もあります。浅間大社(富士宮市)の神職である富士大宮司らの参詣地でもあったみたいですよ。
A:富士大宮司というと、あの富士の一族の?
B:そうですね。

こんな具合であるが、実際は会話の中で探りながら分類しているのが実情である。勿論、齟齬が生まれることは珍しくない。ちなみに「富士川以西」というのは、富士川より西を指す言葉である。"富士地区のうち富士川以西"という表現をすることもあるが、その場合は「旧富士川町域」と「旧芝川町域」を指す。外から来た人にとっては頭が爆発しそうかもしれないが、当地の人間からすると通りが良い表現である。

最後の「富士の一族」は、以下のようなものである。

武将の家紋 何が出る? 富士宮市公認ガチャ「100パターン」 /静岡(毎日新聞 2023/6/15 地方版)
 富士山の世界文化遺産登録10周年と今夏の開山を記念して、富士宮市は、地元ゆかりの戦国武将の家紋をあしらったマグネット入りのカプセル玩具の販売を始めた。イオンモール富士宮に期間限定で自動販売機を設置した。
 市の名前にちなみ、「宮ガチャ」と名づけた。1個200円で、自販機にお金を入れてレバーを回すと全7種のうちどれかが出てくる。マグネットには、徳川家康や織田信長の他、今川、武田、北条、富士各氏いずれかの家紋か富士山がデザインされている。(抜粋)

また富士宮市の人が市内の大字である「大中里」を「中里」と略す場合も多く、富士市に「中里」という大字があるため、互いに会話がすれ違っているなんてこともある。

そもそも記事のタイトルにもある「裾野」も、判断が難しい言葉の1つである。単に富士山の麓を指して「裾野の方」といった形で用いることも決して珍しくはないからである。この場合"裾野市という意味で言っている?"と聞き返すことも珍しくはない。記事は「静岡・裾野」とあったので、裾野市を指すのだろうと見当が付くという感じである。

会話の中で、その人が言う"富士"が最後まで分からないということも珍しくはない。端的に言おう。

その「富士」が"富士市"を指すのなら、はっきり"富士市"と言ってもらいたいものである

そうすれば、こちらは大分察しが付くのである。つまりこのカオスさは、気が利かないことから由来するのではないかと思われるのである。

  • おわりに
最近は「吉原」という言葉すら用いられなくなってきており、(旧)富士・吉原の区別もつかなくなってきているように思う。吉原においては、吉原宿の歴史も理解している人は殆ど居ないように思われる。個人的には、往古「吉原湊」と呼ばれた場所が「吉原港」として開港されなかったことが大きいと感じている。

田子の浦港の開港年は昭和36年(1961)のこと。旧富士市・旧吉原市・旧鷹岡町の合併は昭和41年(1966)のこと。つまり合併前に既に吉原という名は無くなりつつあったように思える。

現在、富士市の市制施行60周年を記念し、シリーズとして記事の投稿を進めている。20記事くらいを予定しているため、是非ご覧いただきたく思う。

1:「富士市の生贄伝承一大群とTRICK感を考える、シティープロモーション化の可能性
2:「富士地区の「富士」を巡る会話はなぜカオスなのかを考える」