まず浅間大社を題材とした和歌は、潜在的にはかなりの数が認められる。しかし和歌の性質上、断定できないものが多い。以下では確実性が高いものに絞り、内容を検討していきたい。
平兼盛『兼盛集』より。
「ふじの宮」は浅間大社のことであり、市名の由来である。(中川2025;p.28-29)によると、「神世のつき」は九条良経の『新古今和歌集』収録歌に拠ったものと推察されている。またその特徴を述べている(中川2025;p.117)。
以下は『続後撰和歌集』に収録される、隆弁の和歌である。
また「時しらぬ」の成語から当歌を取り上げ背景を論じたものに(石田2011)があり、重要な視点である。このように『勅撰集』に浅間大社を題材としたものが複数首確認されるわけであるが、この事実1つとってしてみても、浅間大社の位置づけの高さが垣間見えると言える。
このように相当に認知度が高く、そして特別に神聖視され、この地にて拝することに重要な意味があったのである。湧玉池・御手洗川は「水垢離」を行う場でもあった。慶長13年(1608)の『寺辺明鏡集』には以下のようにある。
『春の深山路』でも「殿」とあったが、「大宮殿」は浅間大社のことである。この「コリ」は湧玉池での垢離であるが、富士登山開始時において垢離をとる風習が明確に示されている。「先」とあることから、本殿に向かう前に垢離を行うことが慣例であった可能性がある。
天保10年(1839)『東海道中山道道中記』(諸国道中袖鏡)には以下のようにある。
詞書:駿河に富士とふ所の池には、色々なる玉なむ湧くと云。それに臨時の祭しける日、よみて歌はする和歌:仕ふべき 数に劣らん 浅間なる みたらし川の そこに湧く玉
詞書から感じとれるのは、浅間大社の賑やかさである。臨時の祭りが催される程、人々にとって重要な存在であったのだろう。古い時代の富士大宮の様相を示す一史料と言える。
みたらし川は、現在の湧玉池である。歴史的には上池のみが湧玉池で、下池を御手洗川と呼称されたが、(髙橋2025;p.71)にあるように当初から上池を湧玉池と呼んでいたのかは分からない。
『新勅撰和歌集』の北条泰時の歌には以下のようにある。
詞書:
駿河国に神拝し侍けるに、ふじの宮によみてたてまつりける
和歌:
ちはやぶる 神世のつきの さえぬれば みたらしがはも にごらざりけり
「ふじの宮」は浅間大社のことであり、市名の由来である。(中川2025;p.28-29)によると、「神世のつき」は九条良経の『新古今和歌集』収録歌に拠ったものと推察されている。またその特徴を述べている(中川2025;p.117)。
御手洗川については、紀行文にも確認される。飛鳥井雅有『春の深山路』には以下のようにある。
富士河も袖つくばかり浅くて、心を砕く波もなし(中略)宿の端に河あり。潤川、これは浅間大明神宝殿の下より出でたる御手洗の末とかや。
浅間大明神宝殿、つまり浅間大社の御手洗川の末を潤井川としている。これは現代においても相違ないのであるが、この解像度の高さには驚きを隠せない。
詞書:四月廿日あまりのころ、するがのふじの社にこもりて侍りけるに、さくらの花さかりに見えければ、よみ侍りける和歌:ふじのねは さきける花の ならひまで 猶時しらぬ 山ざくらかな
(中川1984;p.22)では同集に収録されるもう一首を含め、以下のように論じている。
前者は典型的釈教歌、後者も詠作機会が寓土浅間神社参籠の折である。これよりして、この時期の隆弁は、歌人としてよりも、法印にして鶴岡若宮社別当の法力豊かな僧侶としての側面から人々に認識されていたのではないかと推測され、より直接的には、先述の後嵯峨天皇中宮御産の加持などが、同集への入集を果す機縁の1つとなっているのではないかとも憶断される。
同六月九日ヨリ、駿河ヲ立テ、フヂ山上スルナリ。(中略)大宮ト言処ニトマルナリ。先ソコニテコリヲトル。コリノ代六文出シテ大宮殿ヘ参也
というのも、同じく近世初期の作とされる御物絵巻『をくり』には以下のようにあるのである。
「富士川で垢離を取る」とあるが、吉原から大宮へ移る/移った場面における内容であることを考えると、これは御手洗川を指しているのではないだろうか(潤井川という可能性もある)。
吉原の、富士の裾野を、まんのぼり、はや富士川で、垢離を取り、大宮浅間、富士浅間、心しずかに、伏し拝み…
であれば「垢離→伏し拝み」という手順が確認され、『寺辺明鏡集』と同様の流れと見ることもできる。この一帯での垢離を示す古い部類の史料と言える。
天保10年(1839)『東海道中山道道中記』(諸国道中袖鏡)には以下のようにある。
高しま出口にうるい川かち渡り、冬は橋あり。此川大宮浅間のみたらしより流る。
潤井川が御手洗川より始まるとする記録はかなり多く見られ、またその流れを指して「凡夫川」とするものもある。であるから、上の「富士川で垢離を取り」は凡夫川である可能性もある。
- 参考文献
- 荒木繁・山本吉左右編注『説経節』、平凡社、1973
- 中川博夫「大僧正隆弁 : その伝と和歌」『藝文研究 46 』、1984、1-32
- 石田 千尋「富士山像の形成と展開ー上代から中世までの文学作品を通してー」『山梨英和大学紀要 10』、2011、1-32頁
- 中川博夫「北条泰時の和歌を読む」「北条泰時の和歌の様相」『鶴見大学紀要 62』、2025、25-81・83-131頁
- 髙橋菜月「特別天然記念物「湧玉池」の歴史」『富士山学 第5号』、2025、71-79
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