2012年2月24日金曜日

富士信通

富士信通(ふじのぶみち)は戦国武将である。父「富士信忠」と共に大宮城に籠城し、武田氏と戦を繰り返した。

今川氏真から信通宛の感状が良く知られている。


富士蔵人=富士信通である

さて、この感状の中身は「駿河大宮城」にて取り上げている。3度目の戦いは信玄の本隊の攻撃ということもあって開城したが、それでもかなり善戦したという評価が一般的である。


この判物は「背景が分かる」という意味で非常に重要であるが、例えばこの文書中に出てくる人物の名称を挙げるとこうなる。

  • 今川氏真
  • 穴山氏・葛山氏
  • 武田信玄
  • 北条氏政
  • 富士信忠
  • 富士信通

これらの人物が関わってくる立場が、このときの富士氏なのである。以下は元亀4年(1573)の信通宛の「武田勝頼判物」である。



竜泉寺の内地の知行を許すという内容である。

以下は天正5年(1577)の「武田勝頼判物」である。「信通を浅間神社(現・浅間大社)の大宮司に任命する」旨の内容である。



つまり、富士氏が慣例通り「大宮司」を務めることが可能となったわけである。富士氏はその後は大宮司として、つまり「社家」としての姿に重きをなすこととなる。武家としての富士氏はここで終えたと言って良い。しかしこれから5年後に武田氏は滅亡することとなる。ちなみに「戦国期武田信虎の領国支配機構」では

新たに「晴信」の偏諱の「信」を拝領した者もあり、とりわけ晴信の代になって制圧された地域領土で、武田氏に帰属後に「信」字に改名した者たちは、例えば(中略)富士信通(中略)などが上げられ、外様国衆を構成していく

としているが、信通の「信」は「晴信」からの偏諱ではなく、父「信忠」の名からも分かるように「通字」であるためと考えられる。


  • 参考文献

  1. 小川隆司,「武田氏の駿河・遠江支配について」,『武田氏研究』第22号,2000
  2. 柴辻俊六,「戦国期武田信虎の領国支配機構」, 『戦国織豊期の社会と儀礼』,吉川弘文館,2006

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