今川氏真から信通宛の感状が良く知られている。
富士蔵人=富士信通である |
さて、この感状の中身は「駿河大宮城」にて取り上げている。3度目の戦いは信玄の本隊の攻撃ということもあって開城したが、それでもかなり善戦したという評価が一般的である。
この判物は「背景が分かる」という意味で非常に重要であるが、例えばこの文書中に出てくる人物の名称を挙げるとこうなる。
- 今川氏真
- 穴山氏・葛山氏
- 武田信玄
- 北条氏政
- 富士信忠
- 富士信通
これらの人物が関わってくる立場が、このときの富士氏なのである。以下は元亀4年(1573)の信通宛の「武田勝頼判物」である。
竜泉寺の内地の知行を許すという内容である。
以下は天正5年(1577)の「武田勝頼判物」である。「信通を浅間神社(現・浅間大社)の大宮司に任命する」旨の内容である。
つまり、富士氏が慣例通り「大宮司」を務めることが可能となったわけである。富士氏はその後は大宮司として、つまり「社家」としての姿に重きをなすこととなる。武家としての富士氏はここで終えたと言って良い。しかしこれから5年後に武田氏は滅亡することとなる。ちなみに「戦国期武田信虎の領国支配機構」では
新たに「晴信」の偏諱の「信」を拝領した者もあり、とりわけ晴信の代になって制圧された地域領土で、武田氏に帰属後に「信」字に改名した者たちは、例えば(中略)富士信通(中略)などが上げられ、外様国衆を構成していく
としているが、信通の「信」は「晴信」からの偏諱ではなく、父「信忠」の名からも分かるように「通字」であるためと考えられる。
- 参考文献
- 小川隆司,「武田氏の駿河・遠江支配について」,『武田氏研究』第22号,2000
- 柴辻俊六,「戦国期武田信虎の領国支配機構」, 『戦国織豊期の社会と儀礼』,吉川弘文館,2006
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