- 葛山氏尭の政策
ちなみに二岡浅間(と思われる、要確認)に繰り返し土地を寄進した氏族として大森氏がおり、応永21年(1421年)には大森憲頼が御殿場の二岡権現と小山町の二岡神社に土地を寄進しているという。15世紀中盤は、この土地は大森氏が支配していたと考えられている。また後述の「佐野郷」も大森氏が支配に関与していた(池上裕子,「公演 今川・武田・北条氏と駿東」『小山町の歴史 第8号』,1994)。大森氏がいつまで影響力を保持していたかは不明であるが、時代が下る例では『小田原衆所領役帳』にもみられる(「小田原衆所領役帳に見える富士を考える」)。
- 葛山氏元の政策
またこの大宮城が位置する大宮で1つ確認しなければならないことがあり、以下の「今川氏真判物」により葛山一族の「葛山頼秀」が富士大宮司領の代官職を改易させられている事実がある(画像1)。改易されてはいるが、それまで代官職を受け持っていたという裏付けでもある。葛山氏はそれ以前にも、富士上方の 「山本 ・久日 ・小泉」を吉野氏に安堵するなどしている。つまり葛山氏の手は富士郡まで伸びていたということになる。
画像1 |
この改易の事実は、武田氏への帰属と関係していると考えるべきであろう。
文書1 |
葛山氏元は天文20年(1551)12月に、浅間神社(須山浅間神社か)の神主に禰宜分の懸銭を安堵する判物を出している。また天文21年(1552)正月に佐野郷(現・裾野市)の浅間神社修繕を目的とする勧進の許可を出している。
この「佐野郷の浅間社」についてであるが、『裾野市史第8巻通史編1』では裾野市域に2例の浅間社があったとし、その一方であるとしている。
所在地 | 神社名 | 初見典拠・参考事項、()の数字は『市史』の資料番号 |
---|---|---|
大畑 | 「あしたかの御まつり」 | 社あるいはその前身か |
茶畑か | 佐野郷浅間社 | (506)(551)神主柏宮内丞、禰宜助三郎 |
須山 | 浅間社 | (411) |
『裾野市史第8巻通史編1』P289より引用
文書2、後半掲載せず |
天文21年12月には佐野郷の浅間神社の神領を安堵している。弘治3年(1557)8月には岡宮浅間神社の法度を定める判物を出している(同旨の判物が永禄4年にもあり)。永禄元年(1558)8月には佐野郷の浅間神社に修造のための勧進の許可を与えている。
文書3 |
永禄6年(1563)3月には須走口の過所に関する朱印状を出し(文書1)、永禄7年(1564)5月には須走の道者関にて毎度のように滞りなく処理するよう命じている(文書2)。永禄8年(1565)4月にも須走の道者関にて納めさせるよう命じている(文書3)。同年5月には、富士山を警固するために遣わした者の兵糧について命じている(文書4)。
文書4 |
須走口を多角的に管理している点で、特筆すべき動向であろう。
- まとめ
これら判物などをみていくと、葛山氏が浅間神社を厚く保護していたことに間違いはない。特に須走口・道者関関連の施策の部分には注目である。葛山氏は道者関を管理し、道者の取締りを行い、須走口の管理を行なっていた。これは富士山麓の須走口の登拝関連のほとんどを全体として取り締まっていたと考えて良い。ここに葛山氏の統治性を感じ取ることができる。村山口は単独の氏族なりが取り仕切る形態はなかったため今川氏管理の下であったと考えられるが、須走口は葛山氏管理の下で継続されてきたと言える。後に武田氏により須走浅間神社に内院散銭の寄進が行われたのは(1577年)、ここが葛山氏管理の地であったために、葛山氏帰属後速やかに保護的政策が施すことができたためでであろう。
- 参考文献
- 笹本正治,「武田信玄と富士信仰」『戦国大名武田氏』,名著出版,1991年
- 『裾野市史第8巻通史編1』P289-290
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