2013年3月5日火曜日

幕末のオールコックによる富士登山

オールコックは初代英国公使である。当時の日本はまだ外国人を排他的に扱う風潮が強く、初代駐日総領事であるオールコックも例外ではなかった。その中で1860年にオールコックは徳川家茂に謁見し、日本において様々な処務を行った。そのひとつが「富士登山」である。

しかしこのオールコックの富士登山について、史料的に示す材料は意外にも限られている。例えばオールコックは富士登山の過程で村山の大鏡坊に宿泊しているが(後述)、当地村山においても資料は限られている。「村山浅間神社調査報告書」(富士宮市教育委員会、2005)では以下のように説明されている。

こうした傾向が根強くある中で突如発生したのが、万延元年(1860)7月英国大使オールコックが富士登山をしたことであった。(中略)このようなオールコックの富士登山についてこの地に存在する文書あるいは伝承等々について何か書こうとしても、この事にかかわる資料といえば、万延2年酉正月「富士村山別当等願書」が『静岡県史料第二輯駿州古文書』に所収されているだけで、他には見ることができない。即ち前者は村山の社領である神成・木切山・粟倉、三村の村方三役から、村山月番地西坊御役人中に提出されたもので、人馬継立等にかかった費用の不足分の拠出についての願いである。後者は富士山村山浅間別当である地西坊・辻之坊及び大鏡坊から寺社奉行に提出された願書で、外国人の富士登山にかかわる人馬継立について助郷制度のような対策を願うものであった。

このように村山の資料も限られている。『嘉永明治年間録』に、オールコックの登山を記録した寺社奉行への届書が記録されており、オールコックの富士登山については比較的詳しい部類となる。またこの記録は『古事類苑』などにも掲載されている。外国人による公的な富士登山は、歴史的な転換であったのである。

萬延元年8月廿二日、英人富士山ヲ測量スルニ就キ、大宮司ヨリ届書
比日(延元年八月二十二日)寺社奉行松平伯耆守へ富士大宮司届書写
英国人不士山登山 去る七月十八日出立 廿一日大宮泊の先触に候処 廿二日大雨にて廿四曰昼立 大宮小休 村山泊に相成り 廿五日快晴し 不士山六合目へ泊り 廿六日快晴頂上いたし 其日不二山の木戸迄下り 廿七日同処昼休に相成り 滞無登山相済申侯間比段取敢不一御届申上侯 以上
                不二山大宮不士本宮浅間大宮司不二亦八郎


富士山体に関することであり、なおかつ寺社奉行への届書ということである程度予測できるかもしれないが、この届書を出したのは富士氏の「富士重本」(富士亦八郎重本)である。富士重本の大宮司としての面が垣間見える。また、これも監視の一環と見て良い。富士氏によるものなので、「大宮」の記録とも言える。

1860年と言えば完全に幕末であり、江戸時代における富士大宮司による正式な文書としては、かなり末期の例だと思う。「英人富士山ヲ測量スルニ就キ」とあるが、測量以外にも政治的思惑があった(政治的思惑についてはここでは記さない)。またオールコックは『大君の都』という自伝を記しており、富士登山の記録も記している。それによると、以下ような日程であった。

1860年7月23日、オールコックは吉原(現・富士市)に到着していた。このとき大宮より神職の者が来て浅間大社に泊まるよう促され、オールコックは24日には大宮へ移動し、浅間大社に宿泊した。25日には村山まで移動し、村山の村山三坊(大鏡坊)に宿泊した

つまりオールコックは他の道者と同様、大宮と村山へ泊まるというパターンを踏襲している。つまり「大宮・村山口登山道」を用いて登山を行ったのである。そして26日には富士山頂に到着したようである。また下山以降は以下のような日程であった。

26日に山頂へ着いた一行はおよそ3時間で下山し、再び大宮に戻った。大宮に泊まった後、7月28日の朝出発した。その後吉原-沼津-三島-韮山と移動した。

富士宮口新五合目には何故か「オールコック登山記念碑」があるが、この登山口から登山を行ったわけではないので注意が必要である(こういうことはやめたほうが良いと思う)。

以上、オールコックの富士登山の日程について簡単に記し、また大宮・村山口登山道が所在する大宮・村山双方による史料を簡単に提示してみた。

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