2026年5月1日金曜日

源頼家の富士狩倉の絵画化例と仁田抜穴を考える

今回は源頼家の「富士狩倉」の絵画化例を考えていきたい。本稿では頼家が敢行した巻狩りそれ自体を指して「富士狩倉」と記すこととする。

源頼家

『吾妻鏡』建仁3年(1203)6月3日条に以下のようにある。

三日 己亥 晴 将軍家、渡御于駿河国富士狩倉。彼山麓又有大谷〈号之人穴〉。為令究見其所、被入仁田四郎忠常主従六人。忠常賜御剱〈重宝〉入人穴。今日不帰出、幕下畢。


建仁3年(1203)6月3日に源頼家は駿河国の富士の狩倉に出かけた(=簡易版「富士の巻狩」のようなもの)。その山麓には大谷があり、「人穴」と呼ばれていた。頼家は人穴を調べるため仁田忠常と主従6人を向かわせた。忠常は頼家より剣を賜り人穴に向かったが、今日は帰ってこなかった。翌日については、以下のように記される。

四日 庚子 陰 巳尅 新田四郎忠常、出人穴帰参。往還経一日一夜也。此洞狭兮不能廻踵。不意進行、又暗兮令痛心神。主従各取松明。路次始中終、水流浸足、蝙蝠遮飛于顔不知幾千萬。其先途大河也。逆浪漲流、失拠于欲渡、只迷惑之外無他。爰当火光、河向見奇特之間、郎従四人忽死亡。而忠常、依彼霊之訓投入恩賜御剱於件河、全命帰參云云。古老云、是浅間大菩薩御在所、往昔以降敢不得見其所云々。今次第尤可恐乎云々。

意訳:4日になると忠常が人穴より帰ってきた。往復に一夜かかったという。忠常は人穴について述べる。「穴は狭く戻ることも出来なかったため前に進むことにしました。また暗く、精神的にも辛く、松明を持って進みました。水が流れ足を浸し、蝙蝠が飛んできて顔に当たり、それは幾千万とも知れず。その先に大河があり、激しく流れており、渡ることができませんでした。困り果てていたところ、火光が当たり大河の先に奇妙なものが見えた途端、郎党4人が突然死亡しました。忠常はその霊に従うことにし、賜った剣を投げ入れました。こうして命を全うして帰ってきました」と。古老が言うところによると、ここは浅間大菩薩の御在所であり、昔より誰もこの場所をみることができなかったという。今後はまことに恐ろしいことです。(意訳終)

また文保2年(1318)の自序を持つ『渓嵐拾葉集』には、以下の一節がある。


新田四郎ノ人穴ト云所ヘトメ行ク


『渓嵐拾葉集』の成立を文保2年(1318)とした時、『吾妻鏡』との関係性は気になる所である。というのも『吾妻鏡』の成立も遠からずの頃とされるので(担当者が分かれていた)、やや年代が近すぎるように感じられるためである。従って、『渓嵐拾葉集』が必ずしも『吾妻鏡』から採ったとは限らない。この辺りは興味深い。

そして富士狩倉の絵画化例は、主に以下の2つが挙げられるのではないかと思う。

  1. 奈良絵本/草双紙の挿絵(『富士の人穴草子』等)
  2. 浮世絵/武者絵

まずこれらを体系的に検討した研究は無い。富士野の絵画化例(源頼朝敢行)の研究は限られつつも見られるが、こちらは更に少ない。

ただ明確な差異は注目されるべきところであり、富士狩倉に関しては屏風図化はなされていない。また源頼家が狩場に居る猫写などは管見の限り無いと思われる

これは「富士野の絵画化例考、18世紀までの富士巻狩図と夜討図」で記したような、武家政権の象徴的な意味合いが富士狩倉では薄まっていることが挙げられる。後世の武将らは、富士狩倉に象徴性は見いだせなかったのである。同じ巻狩でも、頼朝と頼家のそれはその後の扱い方を見るにあまりにも対照的である。以下では絵画化例を具体的に見ていきたい。

  • 奈良絵本/草双紙の挿絵(『富士の人穴草子』)

奈良絵本は絵入り彩色写本が該当し、草双紙は絵入り小説本といえるものであるが、こと仁田忠常の人穴探索を題材にした群は『富士の人穴草子』として包括して扱われている節がある。その是非はともかくとして、とりあえず本稿では包括して扱う。

(中野1988;p.7)に「写本・版本ともに極めて多い」とあるように、多く現存する。しかし奈良絵本としては作例が限られるという(本井2003;p.471)。物語の構成は以下のようなものである。

源頼家に人穴探検を命じられた和田胤長が人穴の中を進むと、そこには富士浅間大菩薩がおり侵入を拒まれた。結果胤長は引き返したが頼家は諦めることができず、今度は仁田忠常を人穴探検に向かわせた。忠常は主君から拝領した剣を富士浅間大菩薩に献じた。忠常は人穴を進むことを許され、中では六道の一部と極楽浄土を目にする。しかし中の様子の口外は禁じられ、もし口外した場合は命を奪うと告げられる。戻った忠常は頼家に内情を伝えるよう強く迫られ、やむなく口外した忠常はただちに命を奪われてしまうのであった。

概ねこの流れを有するとされるが、人穴から戻った仁田忠常の扱いについては諸本で差異がある。また六道の場面では罪人が苛責を受ける場面があるが、その人物の具体的な国名が記されており、これらの事実から元々は語り物であったという推論もある。

『言継卿記』大永7年(1527)正月廿六日条に「ふしの人あなの物語」とあり、少なくとも16世紀前半には流布されていた。奈良絵本としては、最古のものに室町時代後期写本(慶應義塾図書館蔵)が伝わっている。挿絵入本としては、今のところ中世に遡るものは無いとされる(本井2003;p.473-474)。

(本井2003;p.478-480)に古活字版の挿絵を表化し説明したものがあったため、引用する。

場面
頼家の命を受ける平太
和田義盛の宿所
平太の出立
人穴で多くの蛇に遭遇する平太たち
頼家に報告する平太
人穴探検に名乗りを上げる仁田四郎
仁田の出立
人穴の中で堂や御所を見る仁田
大蛇の出現
賽の河原を案内する大菩薩
三途の川の姥御前
罪人を釜で煮る獄卒
女房を来迎する天人、迦陵頻伽、阿弥陀三尊
火の車と業の秤
獄卒と罪人・十王の裁き
頼家に報告する仁田

やはり源頼家が狩場に居る猫写などはなく、武家政権の長としての権威を示す姿勢は感じられない。

物語の大筋の説明として「忠常は人穴を進むことを許され」と記したが、この点を(米井1983;p.37)は「主人公は、人穴の奥の世界を統轄する神に追い返されるのではなく、逆にその神の案内で人穴の奥にひそむ地獄極楽の世界を巡歴するのである。この逃鼠譚から冥界巡歴譚への転位を支えているものが『富士の人穴草子』の独自の手法といえるのだが…」とする。

このように『吾妻鏡』と『人穴草子』の大きな相違点は、(米井1983;p.38)にあるように『吾妻鏡』においては剣を投げ入れて逃げ帰るのに対し、『人穴草子』では奥へ案内されている点にある。


  • 『文武二道万石通』(天明8年(1788)刊)



『文武二道万石通』に見る江戸時代の富士の人穴のイメージ」で詳細を記したのでここでは省く。仁田忠常の人穴探索をオマージュした作品である。人穴の奥に進んでいるという点から言えば、『富士の人穴草子』の影響を受けていると見ても良い。

  • 各浮世絵/武者絵

以下に、確認できたもののみ挙げてみることとする。他にも作例は存在すると思われる(月岡芳年以降のものは取り上げない)。


歌川国芳「仁田四郎 冨士の人穴に入る」

作者年代作品名
歌川国芳天保12年(1841)頃「武勇見立十二支 仁田四郎」(『武勇見立十二支』)
歌川国芳江戸時代後期「仁田四郎 冨士の人穴に入る」
葛飾北斎嘉永3年(1850)「仁田の四郎忠常 富士の巌窟に入る」(『絵本和漢誉』)
歌川芳員嘉永6年(1853)「建仁三年源頼朝卿富士之御狩の時仁田ノ四郎忠常を依て人穴入ル図」
月岡芳年 「仁田四郎忠常」(『芳年武者无類』)
月岡芳年明治22(1889)から同25年にかけて制作「仁田忠常洞中に奇異を見る図」(『新形三十六怪撰』)

代表として葛飾北斎のものを解説していく。『絵本和漢誉』は序文に「嘉永ミとセ卯月日」とあり、嘉永3年(1850)刊行の武者絵集である。

うち「仁田の四郎忠常 富士の巌窟に入る」であるが、右側に人穴内で松明に火を灯した仁田忠常が描かれ、左側には大河があり、そちらから光が射し込む構図となっている。『吾妻鏡』の世界観を反映した図となっている。

これら浮世絵も"『富士の人穴草子』に影響を受け"といった文面で紹介されることがあるが、純粋に『吾妻鏡』の世界観を表現したに過ぎないという可能性は否定できない。


【人穴と江島/芝生浅間神社】

人穴は別の洞窟に繋がっていると流布されていた。これは『吾妻鏡』には見られない内容である。『照高院興意様関東御下向略記』(誠仁親王の第五子である興意法親王の動向を記したもの)の慶長14年(1609)4月23日条には以下のようにある(首藤2006;p.28-29)。

卯の廿三日  天晴 御門主、御看経遊ばさる。(中略)次に江島に御参詣あるべきなれば。本海道より脇道へかかる。(中略)まず一段高き所に弁才天御立ちある。(中略)山の上に昔頼家の時、仁田四郎、富士の人穴をくぐりて、この江島へ出でしあなあり。それより岩のがけ道をはうはうくだれば、昆深在より生え出でたる山あり。

既に近世初期には認められるため、中世には既に流布されていたと考えられる。どこまで遡れるのかは分からないが、一応これが初見と見ている。また貞享2年(1685)『新編鎌倉志』などにも確認される。

この伝承を絵画化したものが認められ、それらは人穴を直接描いたとは言い難いが、以下で取り上げていく。またそれらを見てみると、繋がる先の洞窟がそれぞれ異なる場所を指しているものが存在していることが判明する。その差異についても言及する。


  • 『江島大艸紙』(宝暦9年(1759))

宝暦9年(1759)の沙門因静『江島大艸紙』には以下のようにある。

仁田抜穴 山二ツヨリ南ノ石壁二昔ハ穴ノ形チ有シトナリ、今ハナシ伝フ、仁田忠常富士ノ人穴ヨリ入テ此山ノ半腹ヘ抜ケ出タリト云。東鑑ニ建仁三年仁田忠常富士ノ人穴ヘ入シ事ヲ載タリ。然レモ此趣ト異ナリ。

そしてこの「仁田抜穴」は『江島大艸紙』中の「相州江島画図」内にて図示されている。これらについて(藤澤1932;p.165)は「仁田抜穴は人口に喧しいが、全くは、例の甲賀三郎怪異傳の生み出した徳川時代の捏造である」とする。しかし甲賀三郎譚には「抜穴」に該当するような猫写が無いため、甲賀三郎譚から由来するとは言えないように思う。また徳川時代とも言えないだろう。むしろ甲賀三郎譚側が『吾妻鏡』に影響を受けたものであると思えるが、どうだろうか。

寛政9年(1797)刊行『東海道名所図会』には、仁田抜穴について以下のようにある(粕2001;p.173)。

仁田抜穴
竜窟の東という。今さだかならず。俗諺にいわく、仁田四郎忠常、富士の人穴より入って、この山の半腹へ抜け出でたりという。富士の人穴のこと前巻に見えたり。然れども江の島へぬけ出でたりということ、旧記に見えず。

『江島大艸紙』でいう「山二つより南の石壁」と『東海道名所図会』でいう「竜窟の東」が完全に一致するのかは分からない。


  • 落合芳幾『東海道中栗毛彌次馬    神奈川』(万延元年(1860))

みゆネットふじさわ」に説明がある。同HPによると"神奈川宿と保土ヶ谷宿の中間に位置する浅間神社にある「富士の人穴」と呼ばれる横穴は、富士山に繋がっていると考えられており、東海道中の名所となっていました。画中では人穴をのぞこうとした喜多さんが、地面に転がり落ちてしまいました。"とある。

この浅間神社とは何処を指すのだろうか。(神奈川県立歴史博物館2013;p.33)には以下のようにある。

富士の人穴
 宿場を超えた芝生の浅間神社(横浜市西区浅間町)にあった横穴のこと。『江戸名所図会』(1-11)中の「浅間社」や「東海道五十三次之内 神奈川宿」(2-11)「見立役者五十三対ノ内 神奈川」(2-12)では、人々が浅間神社の鳥居をくぐり、しめ縄を張った穴に向かって登っていく様子が描かれている
 また、道中記には、「民家のかたわらに穴二つ有。冨士のふもとの人穴に通じたると云。是を仁田の四郎が入りたる人穴なりと云ハあやまり也。」(『諸国道中袖鏡』1-20)とあり、これが『吾妻鏡』建仁3年(1203)6月の項に見える、源頼家の富士の巻狩りの時に仁田四郎主従六人が入った人穴が芝生の横穴であるとして、一時認識されていたことがわかる。
 昭和56(1981)には、浅間神社下の崖面から古墳時代の横穴墓九基が発掘された。道中記や浮世絵では「穴は二つ」とされており、数は合わないものの、仮名垣魯文作、落合芳幾画の「東海道中栗毛彌次馬    神奈川」(2-13)では、北(喜多)八が穴の中を覗いているうちに「赤土」で滑って転ぶ情景が描かれ、人穴が横穴墓であったことを想起させる。

つまり『照高院興意様関東御下向略記』・『江島大艸紙』は同場所を指していると考えられ、一方『東海道中栗毛彌次馬    神奈川』『江戸名所図会』『東海道五十三次之内 神奈川宿』『見立役者五十三対ノ内 神奈川』は芝生の浅間神社(横浜市西区浅間町1-19-10)を描いているものと考えられる。また同地が「浅間町」である点にも注意が払われる必要性がある。

また『諸国道中袖鏡』に「是を仁田の四郎が入りたる人穴なりと云ハあやまり也」とあるが、これは江島の方を"正"とする意図と取ってよいかもしれない。

  • おわりに

以下に万治3年(1660)『驢鞍橋』(鈴木正三の弟子「恵中」の著)の現代語訳を記す。

小田原の沖に大蛇が出るということがあった。私はそれを聞く小舟に乗って行き、造作なく角を引きもいでやろうと思ったものである。又、富士の人穴などもわけなく通れると思っていた。若い時からこのように強く用いて来たけれども、何の用にも立たなかった(加藤2015;p.36)。

これは富士の人穴が恐ろしい場所であると一般に認知されていた故の言い回しである。そして「わけなく通れると思っていた」という表現からするに、やはり人穴の奥に得体の知れぬものが潜んでいるというイメージが強く存在していた。

江戸時代も『吾妻鏡』は多く読まれていたようであるから、必ずしもすべてが六道を表現したものではなく、純粋に『吾妻鏡』の世界観の域を出ないものもあると考える。しかしこの絵画化例の多さは人穴の知名度の高さを裏付けるものである。

源頼朝の巻狩りと頼家の富士狩倉を合わせただけでも、絵画化例は相当数になる。この事実は、富士宮市の歴史的立ち位置を自ずから示すものと言える。各画集などを見た時、「倶利伽羅峠の戦い」や「那須与一と扇の的」といったものは多く目にする。しかしながら同じ地で複数の題材で多数絵画化されてきた地域は、他にそれほど多くはないだろう。

  • 参考文献
  1. 藤沢衛彦(1932)『日本伝説研究 第6巻』、六文館
  2. 米井力也(1983)「大蛇の変身-「富士の人穴草子」と「小夜姫の草子」の接点-」『国語国文』第52巻第4号(584号)、35-39頁
  3. 中野幸一(1998)『奈良絵本絵巻集4 伊勢物語・富士の人穴』、早稲田大学出版部
  4. 粕谷宏紀監修(2001)『新訂 東海道名所図会 下』、ぺりかん社 
  5. 本井牧子(2003)「『富士草紙』解題」『京都大学蔵 むろまちものがたり1 しづか(三種)・緑弥生・富士草紙』、 臨川書店
  6. 首藤善樹(2006)「『照高院興意様関東御下向略記』(中)」 『本山修験』第171号
  7. 奈川県立歴史博物館編(2013)『江戸時代かながわの旅 「道中記」の世界 : 特別展
  8. 加藤みち子(2015)『鈴木正三著作集Ⅱ』、中央公論新社

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