「武田氏の領国形成と小山田氏」では、上記の記録などから「富士参詣の道者のもたらす銭貨は、直接間接に、生産力に乏しい郡内を領した小山田氏にとって、主要な財源となった」とし、また「小山田氏が設置した関所から、間接には御師に賦課される諸役として徴収された」としている。関所と道者の関係は重要である。
武田晴信は弘治3年(1557)に富士御室浅間神社に願文を掲げ、同時に船津の関を撤廃することを約束した。
そうすると困るのは小山田氏である。なぜなら、上述のように小山田氏は道者が関所を通過する際に徴収する関銭を財源としていたため、これを撤廃されるということは、財源を失うことになるからである。そこで小山田氏は武田氏に抵抗するも、信玄は書状にて激しく叫弾したという。
永禄11年(1568)以来の武田氏の駿河侵攻に伴う甲相関係の悪化により、道者が激減していた。そのため小山田氏は元亀3年(1672年)に、関銭半減という手段で道者を勧誘することとした。それほど、道者の関銭というものは小山田氏にとって重要であったのである。また、過所や伝場手形を御師を中心として発給するなどしている。
そのような中小山田氏の自領経営は停滞し、「戦国期河口御師の実態」にあるように武田氏が御師に対して結びつきを強めるようになっている。情勢が悪化する中で、小山田氏は御師の諸役を免除するという保護政策を打ち出している。その文書の中で「対信茂」などとあるが、このように御師との結びつきを強める意図があった。しかしこれ以後、小山田氏による浅間社に対する保護や統制に関する資料はないという。つまり、小山田氏が道者関や郡内の御師を支配する時代はここで終えたのである。武田氏が浅間社への崇敬を掲げる中で交通路を掌握していき、道者関までをも管理し、御師を取り込んでいく中で、小山田氏の影響力は消えていったと言える。
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