2022年6月3日金曜日

曽我物語のかぐや姫説話と富士浅間大菩薩、曽我五郎時致の解釈について

『曽我物語』は「かぐや姫説話」が取り入れられていることでも知られる(富士山のかぐや姫説話については「富士市や富士宮市は竹取物語発祥の地であるのか」をご参照下さい)。

『曽我物語』は「曽我兄弟の仇討と富士宮市・富士市、鎌倉殿の意図考」にて記したように「本地物」としての性格もあるが、そのうちの「富士」はかぐや姫説話を引くことで説かれているのである。以下で、やや長くなるが真名本の該当箇所を引用してみる。


曽我五郎時致

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五郎、申しけるは、「心細く思し召すも理なり。あれも恋路の煙なれば、御心に類ひてこそ見え候らめ。あの富士の嶽の煙を恋路の煙と申し候ふ由緒は、昔富士の郡に老人の夫婦ありけるが、一人の孝子もなくして老い行く末を歎きける程に、後苑の竹の中に七つ八つばかりと打見えたる女子一人出で来れり。老人は二人ながら立ち出でて、これを見て、『汝はいづくの里より来たれる少き者ぞ。父母はあるか、兄弟はあるか、姉妹・親類はいづくにあるか』と尋ね問ひければ、かの少き者、打泣きて、『我には父母もなし、親類もなし。ただ忽然として富士山より下りたるなり。先世の時各々のために宿縁を残せし故に、その余報未だ尽きず。一人の孝子なき事を歎き給ふ間、その報恩のために来れり。各々我に恐るる事なか
れ』とぞ語りける。

その時二人の老人たちこの少き者を賞きく程に、その形斜めならず、芙蓉の眸気高くて、宿殖徳本の形、衆人愛敬の躰は天下に双びなき程の美人なり。かの少き者 、名をば赫屋姫とぞ申しける。家主の翁をば管竹の翁と号して、その嫗をばかさうの嫗と申す。 これら三人の者共は夜も昼も額を合せて営み養ひて過ぎ行く程に、この赫屋姫成人して十五歳と申しける秋のころ、駿河の国の国司、見国のために下られたりける折節、この赫屋姫の事を聞て、翁婦夫共に呼び寄せて、『自今以後は父母と憑み奉るべし』とて、この国の官吏となされけり。 これに依て娘の赫屋姫と国司と夫婦の契有て、国務政道を管竹の翁が心に任せてけり

かくて年月を送る程に、翁夫婦は一期の程は不足の念ひなくして、最後めでたく隠れ候ひぬ。 その後、中五年有りて、赫屋姫国司に会ひて語りけるは、『今は暇申して、自らは富士の山の仙宮に帰らむ。我はこれもとより仙女なり。かの菅竹の翁夫婦に過去の宿縁あるが故に、その恩を報ぜむがために且く仙宮より来れり。また御辺のためにも先世の夫婦の情を残せし故に、今また来りて夫婦となるなり。翁夫婦も自が宿縁尽きて、早や空しく死して別れぬ。童と君と余業の契も今は早や過ぎぬれば、本の仙宮へ返るなり。自ら恋しく思し食されん時は、この筥を取りつつ常に聞て見給ふべし』とて、その夜の暁方には舁消すやうに失せにけり。夜明くれば、国司は空しき床にただ独り留り居て、泣き悲しむ事限りもなし。かの仙女約束の如く、件の筥の蓋を開て見ければ、移る形も、来る事は遅くして、返る形は早ければ、なかなか肝を迷はす怨となれり。

かくて月日空しく過ぎ行けども、悲歎の闇路は晴れ遣らず。その時かの国司泣く泣く、独り留り居て、起きて思ふも口惜しく、臥して悲しむも堪へ難し。かの返魂香の筥をば腋に挍みつつ、富士の禅定に至りて四方を見亘せば、山の頂きに大なる池あり。その池の中に太多の嶋あり。嶋の中に宮殿楼閣に似たる巌石ども太多あり。中より件の赫屋姫は顕れ出でたり。その形人間の類にはあらず。玉の冠、錦の袂、天人の影向に異ならず。これを見てかの国司は悲しみに堪へずして、終にかの返魂香の筥を腋の下に懐きながら、その池に身を投げて失せにけり。その筥の内なる返魂香の煙こそ絶えずして今の世までも候ふなれ。

されば、この山は仙人所住の明山なれば、その麓において命を捨つるものならば、などか我らも仙人の眷属と成て、修羅闘諍の苦患をば免れざらむ。多く余業この世に残りたりとも、仙人値遇の結縁に依て富士の郡の御霊神とならざらむ。また我らが本意なれば、もとより報恩の合戦、謝徳の闘諍なれば、山神もなどか納受なかるべき。中にも富士浅間の大菩薩は本地千手観音にて在せば、六観音の中には地獄の道を官り給ふ仏なれば、我らまでも結縁の衆生なれば、などか一百三十六の地獄の苦患をば救ひ給はざらん。これらを思ふに、昔の赫屋姫も国司も富士浅間の大菩薩の応跡示現の初めなり。 今の世までも男躰女躰の社にて御在すは則ちこれなりされば注万葉の歌には、
 唐衣過ぎにし春を顕して光さやけき身こそなりけれ

これは赫屋姫の、仙宮より来て翁夫婦の過去の厚恩を報ぜし事なり。

 紅の一本故を種として末摘花はあらはれにけり

これは国司の、仙女の契に依て神と顕れし事なり。かかるめでたき明山の麓において屍を曝しつつ、命をば富士浅間の大菩薩に奉り、名をば後代に留めて、和漢の両朝までも伝へん事こそ喜しけれ」と申しも了てざりければ涙の雑と浮べば、十郎これを見て、武き物封の心どもなれども、理を知れる折節は心細く覚えて、互ひに袖をぞ捶りける。十郎、

 我が身には悲しきことの絶えせねば今日を限りの袖ぞ露けき

五郎流るる涙を押へて、

 道すがら乾く間もなき袂かな今日を限りと思ふ涙に

と。

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曽我十郎祐成(伏木曽我の場面)


(福田2016;pp.239-241)は以下のように説明する。

本書は右の『神道集』と深くかかわって成立したものであり、それは近似の文化圏に属した作品と推される。その先後を判ずることは容易ではないが、随処に『神道集』と通じる唱導的詞章が見られる。(中略)その詞章は、ほぼ同文に近く饒舌な傍線部分(註:上では引いていない)をはずすと、およそ『神道集』のそれになる。ただし国司が翁夫妻を召し寄せて「此の国の官吏」に任じ、「国務政道を管竹の翁が心に任せてけり」との叙述は、『神道集』には見えない。次の「富士山縁起」が問題となろう。最後の赫屋姫・国司の富士浅間大菩薩の応述示現の叙述は、『神道集』とほぼ一致しており、「男体・女体」を説くことも同じである。が、これもその祭祀の地を明らかにすることはない

『神道集』と対応する箇所が多いことは、従来から指摘される。福田は『神道集』に見えない箇所の存在も指摘する。それは

翁婦夫共に呼び寄せて、『自今以後は父母と憑み奉るべし』とて、この国の官吏となされけり。(中略)国務政道を管竹の翁が心に任せてけり

の箇所である。つまり国司は、翁を要職に就かせているのである。かぐや姫の云う「その報恩のために来れり」の「報恩」にあたると解釈できる。かぐや姫が来たことで翁の人生に変化が訪れたわけである。

このかぐや姫説話に対する五郎の解釈は独特である。五郎の論理では「仙人(天人、かぐや姫)がおわすような山の山麓で命を捨てればその後の苦難から逃れることができる」としているのである。これは兄弟が富士山麓の地で仇討ちをすることに対する理由の説明となっている。そして富士山麓で死することで「富士郡の御霊神となる」と高らかに述べているのである。

「報恩の合戦、謝徳の闘諍」であることを山神は受け入れてくれるとし、そしてその本地仏を「千手観音」としている。かぐや姫説話は「報恩譚」としての側面もあるため、報恩を説く『曽我物語』との相性は良かったのであろう。また唱導僧や浄土宗の僧侶の関与も指摘されるという(坂井2014;p.88)。

しかし富士の神、ここでは富士浅間大菩薩の本地仏を「千手観音」とする例は珍しい。やはり垂迹神は富士浅間大菩薩(または赫夜姫ないし木花開耶姫命)で本地仏は大日如来とするものが多いだろう。この点について(大川1998;p.44)は以下のように説明する。

『妙本寺本 曽我物語』の「真字本曽我物語・神道集同文一覧」によると「部分的には同文的な箇所も発見されるが、直接の伝承関係を思はせるものではない」とある。両者を比較して特に異なるのは、B(註:「されば、この山は仙人所住の明山なれば…」以後の部分)後半の富士浅間大菩薩の本地のくだりである。『神道集』では本地仏をいわない。本地仏を千手観音とする『曽我物語』の富士山に関する記述は、独自な面があるということになろう

『神道集』では国司が反魂箱を懐へ入れ、富士山頂の煙の立つ池に身を投げる。その両方の煙が絶えぬ様子から「不死の煙」と呼ばれ、それが「富士山」「富士郡」の「富士」にかけられ、転じて「富士の煙」となったとする。そして赫屋姫と国司は富士浅間大菩薩として示現し、これは「男体・女体御す」としている。富士浅間大菩薩は「男体」でもあり「女体」でもあるとしているわけである。

この示現および「男体・女体」の箇所は『曽我物語』でも引用されているが、一方でその直前の説明で本地仏についても言及しており、これは『神道集』では確認されないものである。

しかし『曽我物語』の場合、この箇所は「されば…」と由緒に対する五郎の解釈として語られる部分であるため、由緒の説明・引用は既に終えているという解釈も出来る。どちらにせよ、『曽我物語』の独自性を示すことには変わりはない。おそらく真名本『曽我物語』ないしその原典となった史料の成立当時の価値観が反映されたことによる結果と見てよいだろう。また(大川1998;p.46)は

真名本『曽我物語』の中で富士浅間大菩薩の用例を調べていくと不思議なことに気付く。登場人物の神仏祈願等にしばしば名があがるものに、二所(箱根権現・伊豆山権現)・三島大明神・富士浅間の大菩薩・足柄明神が上げられる。『曽我物語』の基盤ともいうべき土地の範囲が自ずと浮かんでくる神仏の列挙である。本稿で注目していきたいのは、富士浅間の大菩薩である。東洋文庫では、次のような注を付けている。

富士山の周囲にある多くの浅間社。木花咲耶姫命と男神(小異あり)を祀っている。ここでは特定の浅間社をさしていうのではなく、所々に顕現した浅間社をさし、それを本地垂迹の考え方から「菩薩」とよんだもの。

特定の神社を指すのではないという見方は、富士浅間の大菩薩についてのみ見える見解である。他の権現・明神ではそのようなことはない。(中略)ところが、富士浅間の大菩薩については、巻七の富士野へ向かう途次に十郎と五郎によって語られている。つまり、どこの浅間社においてということではないのである。したがって東洋文庫の注でもどこの浅間社であるのかが特定できないということであろう。

としている。これは(福田2016;p.241)の「これもその祭祀の地を明らかにすることはない」にも繋がって来るのであるが、富士浅間大菩薩はだいぶ拡大解釈が可能な神という印象を持たざるを得ない。

仁田四郎忠常が人穴を探索する様子。「曽我物語図屏風」等を筆頭とし、富士宮市域を題材とした大和絵等の作例は極めて多い


『吾妻鏡』建仁3年(1203)6月4日条には以下のようにある。

四日。庚子。陰。巳尅。仁田四郎忠常出人穴帰参。往還経一日一夜也。此洞狭兮。不能廻踵。不意進行。又暗兮。令痛心神。主従各取松明。路次始中終。水流浸足。蝙蝠遮飛于顔。不知幾千萬。其先途大河也。逆浪漲流。失拠于欲渡。只迷惑之外無他。爰当火光河向見奇特之間。郎従四人忽死亡。而忠常依彼霊之訓。投入恩賜御剱於件河。全命帰參云云。古老云。是浅間大菩薩御在所。往昔以降。敢不得見其所云云。今次第尤可恐乎云云。

意訳を以下に記す。


4日になると仁田忠常が人穴より帰ってきた。往復に一夜かかったという。忠常は人穴について述べる。「穴は狭く戻ることも出来なかったため前に進むことにしました。また暗く、精神的にも辛く、松明を持って進みました。水が流れ足を浸し、蝙蝠が飛んできて顔に当たり、それは幾千万とも知れず。その先に大河があり、激しく流れており、渡ることができませんでした。困り果てていたところ、火光が当たり大河の先に奇妙なものが見えた途端、郎党4人が突然死亡しました。忠常はその霊に従うことにし、(頼家様より)賜った剣を投げ入れました。こうして命を全うして帰ってきました」と。古老が言うところによると、ここは浅間大菩薩の御在所であり、昔より誰もこの場所をみることができなかったという。今後はまことに恐ろしいことです。


源頼家は「富士の狩倉」に出かけた際、同地に存在する「人穴」(静岡県富士宮市)を仁田忠常に探索させた。上の4日条は、その人穴の探索より帰ってきた忠常の報告である。

まず「是浅間大菩薩御在所」とあり、人穴は浅間大菩薩の御在所であるとしている。単に"富士山信仰の一端を示す"と解釈してもよいが、そもそも仮に富士浅間大菩薩の御在所を想定する場合、本来なら浅間社ないし富士山体でなければおかしいと思うのである。しかし『吾妻鏡』は「穴の中」としている。富士山信仰の受容の広さと片付けて良いかもしれないが、やや不思議な印象を持たざるをえない。

そこで『曽我物語』に再び目を向けた時、そもそも同物語で想定されているのは「浅間社」ですらない可能性があるのではないだろうか。富士浅間大菩薩の示現の幅の広さが『吾妻鏡』で示されている以上、全くおかしなことではない。

「かぐや姫説話」の引用は『神道集』から行い、五郎の解釈の部分は「これらを思ふに、昔の赫屋姫も国司も富士浅間の大菩薩の応跡示現の初めなり。 今の世までも男躰女躰の社にて御在すは則ちこれなり」以外の部分は別の材料から付加されたものと考えたい。『曽我物語』成立の中で次第に付加されていったものであると思われる。そして『曽我物語』がいう「富士浅間大菩薩」は、浅間社に示現したものとは想定していない可能性も考えたい。

  • 参考文献
  1. 福田晃(2016)『放鷹文化と社寺縁起-白鳥・鷹・鍛冶-』,三弥井書店
  2. 大川信子(1998)「真名本『曽我物語』における久能と富士浅間大菩薩-梶原氏との関わりを通して」(『平成8年国文学年次別論文集 中世2』所収 平成10年 朋文出版)
  3. 『真名本曾我物語』(1),平凡社,1987
  4. 『真名本曾我物語』(2),平凡社,1988
  5. 坂井孝一(2014)『曽我物語の史的研究』,吉川弘文館

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