2022年6月1日水曜日

静岡県富士宮市の市制施行80周年記念、富士郡大宮町時代から振り返る

静岡県富士宮市は、令和4年6月1日に市制施行80周年を迎えました。1942年(昭和17年)の市制施行から数えて80周年にあたります。



それを記念し、富士宮市の概観について記していきたいと思います。直感的で分かりやすい内容となっておりますので、是非御覧下さい。先ずは「80年前」に遡って考えてみましょう。

  • 市制施行当時の状況

富士宮市は、富士郡「大宮町(おおみやまち)」と富士郡「富丘村」が合併し市制を施行したことで誕生した市です。以下はその際の官報です。

『官報』


時代が古すぎて、未だ旧字体ですね。ここで重要なことは、富士郡で初の市制施行であったということです。つまり富士郡下では富士宮市は一抜けだったのです。例えば富士宮市誕生時、今泉はまだ「今泉村」でした。まだこの時代、村だらけだったわけです。富士宮市はその後市を編入しておりませんから、"市との合併を経験していない市"とも言えると思います。この辺りが、隣接する富士市と大きく異るところです。

大宮町は大きな街であり、当初より町政を施行している町は富士郡下では他に「吉原町」のみでした(「当初から町制を施行している町」(Wikipedia))。通常であれば、このような大きな規模の町がゆくゆくは市名となりそうなところですが、「吉原」は現在市名としては残らず、大宮町も結果「富士宮市」となりました(後述します)。こう考えてみると、当初より町であった名称は市名としては継続されなかった珍しい地域なんです、富士地区は。

(追記)富士宮市誕生時は未だ戦時中であり、3年後の1945年6月には「建物疎開」が行われているような時代です(同年8月14日が終戦日)。(齋藤2023;p.2049)によると、富士宮市は198戸が建物疎開の対象となったようです。(追記終わり)


地図にあるように大宮町は「おおみやまち」と言った

富士郡で明治時代以前より「富士」の名を冠していた自治体は「富士根村」のみで、近隣には他に庵原郡の「富士川町」、駿東郡に「富士岡村」がありました。ですから富士根村は、富士を冠した自治体としては"先輩"にあたります。時代の変化により比較的自由に地名をつける風潮が増え、大正を経て昭和に入ると、「富士」を冠する自治体が富士郡下で1つ増えます。

それは「加島村」が町制施行したことで成立した「富士町」です。つまり富士町というのは、「当初より町政を施行している町」ではないのです。旧富士市は「富士町」の系譜であるので、現在の「富士市」という名のルーツは、昭和4年(1929)の加島村の町制施行にあるんですね(加島村→富士町→富士市)

現在の富士市は基本的に「旧吉原市」と「旧富士市」が合併したことによります。実は合併当時、吉原市の方が富士市より人口は遥かに多かったです。合併の前年にちょうど国勢調査がありましたので、合併直前の人口はデータとして残っています。

自治体合併直前(1965年)の人口(『国勢調査』より)
吉原市90,224
富士市53,247人
鷹岡町16,101人

それでも、10万人を超える都市はまだ存在していませんでした。




1942年6月当時の静岡県の様子(黄色は「市」)


富士郡から一抜けした富士宮市ですが、次は吉原市でした。このとき吉原(市)も富士(町)も、まだ海と接していません。後の編入により面するようになったというわけです。ですから当時の吉原や富士の人に、「この地域の特徴は?」と聞いて「海」と答える人は居ないというわけですね。

  • 富士宮市旗・町章



皆さんもこの「富士宮市旗」を見たことがあると思います。この真ん中のマークは富士宮市のシンボルである市章です。市旗として使用する場合は"紺色の地に白色の市紋章を配する"(平成11年12月28日「富士宮市旗について」)と定められています。ここで市章のみ抜き出してみます。


そしてこの市章はよく見れば分かりますが、「富士山」(周り)と「宮」(真ん中)を模ったものになります。形は富士山を桜形にかたどっています。

この「宮」についてですが、「富士宮」の「宮」だと考えがちです。しかし実はそうではないのです。これは「大宮」の「宮」なのです

「市勢要覧2012」より

以下のように説明がなされています。

市紋章は、大宮町が昭和9年4月1日町章に制定したものを、昭和17年12月23日に市紋章として富士宮市が制定しました。中央は「宮」の字、周囲は富士山を桜形にかたどったものです。

つまり、大宮町章からの引き継ぎです。「宮」という文字が、この地では昔から大切にされてきたわけです。「宮」は神社を意味する言葉です。これが富士宮市のアイデンティティというわけですね。



これは、往古の大宮町の大社前の写真です。左手の建物に町章が確認できるのが分かると思います。同じく左手に橋が見えますが、その手前が、現在富士山本宮浅間大社前に位置する交番にあたります。

  • 周辺地域





合併当時の富士宮市を取り囲む自治体は、このような感じでした(富士郡以外の場合は郡名を附けています)。

  • 富士根村
  • 北山村
  • 上野村
  • 柚野村
  • 芝富村
  • 庵原郡松野村
  • 庵原郡富士川町
  • 岩松村
  • 鷹岡町

名称を聞けば、位置もなんとなく分かりますよね。上の黄色の自治体は「市」を指します。平たくいえば、この当時の「大きな街」です。「富士宮」の他には「静岡」「浜松」「沼津」「清水」「三島」「熱海」が該当します。終戦前に既に「市」であったのは、これら7市のみです。サッカーで言うところの「オリジナル10」みたいなものです。

公的資料や各種場面を見ると、富士宮市と富士市とでは富士宮市の名が先に記されることが圧倒的に多いと思います。例えばインターネットの手続き等で市町村を選択する場面でも、富士宮市が上であることが殆どです。それは「市になった順番」に拠るためです。もっと正確に言うと、市になった順番が早い方で、割り当てられている「全国地方公共団体コード」の数字がより若いです。その順番で記されるのです。なので、以下のようになります。


ちなみに「県」のコードは北(北海道)から若い番号が割り当てられているため、山梨県が先に記されます。

では「静岡県」「富士宮市」「富士市」ではどうでしょう。例えば合同防災訓練の際の正式名称は「静岡県・富士宮市・富士市総合防災訓練」でした。


ただ官公的な性質を持たない場合は、その限りではありません。また官公的な場合であっても、中の人がよく分かっていない例が散見されます。以下は、国土交通省の資料です。

国土交通省資料(富士山ナンバー交付対象予定地域

これは、正しい表記かとおもいます。以下は富士市のHPです。



普通は、こういう表記の仕方はしません。

以下は、富士宮市市制施行当時の吉原町を取り囲む自治体です。

  • 富士町
  • 田子浦村
  • 元吉原村
  • 今泉村
  • 大淵村
  • 鷹岡町
  • 岩松村

視野を広げていって「どの辺りから分からなくなるのか」というのも、人によって全く異なると思います。



富士宮市と富士市の両者を1つの方角で表した場合、富士宮市が「西」で富士市が「東」という関係です。たまに「富士市の北に位置するのが富士宮市」と言う方もいらっしゃいますが、どう考えても違うと思います。もし仮にそうであるとしたら、富士市は富士山と全く接していないということになってしまいます。両者の中心地の位置関係を見てもおかしいです。

また積雪しやすいのは明らかに富士市です。西の富士宮市と東の富士市で、「富士山」と「愛鷹山塊」の両者の影響を受ける富士市が、より下で積雪しやすい条件を満たしています(「富士市の地理考、富士山と富士川水害と農業の関係や積雪地点や浮島ヶ原低地」を御参照下さい)。

富士市の市街地近郊の平均傾斜が高いことが分かる。(土2010)より

地図を見ると、簡単な話ですよね。



またこの画像は、大合併前の「旧吉原市」「旧富士市」「旧鷹岡町」が独立して存在した時代の地図です。地図を見れば分かるように、「富士山側にあるのが吉原市で富士山が無いのが富士市」です。ですから、富士地区(富士宮市・富士市一帯)の変移を最も簡単に説明すると、以下のような説明となります。

富士地区では最も早く市制施行した西の富士宮市と対する東の富士市があり、富士市は平たく言えば2つの大きな市が合併してできた街で、富士山側にあって人口が多かった「吉原市」と富士山側でない「富士市」とで成り立ちました。

様々な資料をこれまで見てきましたが、これが最も簡便な説明であると自負しています。

  • 市名の由来

富士宮市の市制施行当時は古い時代であったため、なんとあの「内務省」が存在していた時代だったのです。市制施行は「内務省告示」を経てなされました。以下は、内務省に提出された資料の内容です。



「富士宮市」という名称が、富士山本宮浅間大社の旧称から由来することは知られていると思います。それが明確に示された文書と言えます。


また富士宮市は、環富士山(富士山の周り)に位置する各"「富士」を冠する自治体"の中で、唯一既存の名称(固有名詞)からなる例です


〈各自治体の名称の背景〉
富士+河口湖=富士河口湖
富士+吉田=富士吉田市(旧南都留郡福知村→富士上吉田町→富士吉田市)
富士+[なし]=富士市
富士宮=富士宮市

富士宮市以外は、古来よりの地名に「富士」を附けたものが多いです。富士宮市は固有名詞を市名に充てています。平たくいえば、「フジノミヤ」という言葉自体はそれ以前より存在しており、その固有名詞を市名に充てたということです。新しく固有名詞を作ったと誤解している方も多いですが、そうではありません。古史料にも見られるコトバです。

市制施行当時はリアルタイムであったため、市名の由来などは知られていたことでしょう。しかしこういうものは、時代が進むと共に忘れられがちです。この市制施行80周年の機会に、是非振り返りたいものですね。

何故「大宮市」にできなかったのかといいますと、これには明確な理由があり、国の法律で「市名は既存の名称を指定することができない」という決まりがあります。富士宮市より一足早く、埼玉県の「大宮町」が市制施行していました。そのためこの条件に引っ掛かり、大宮市にはできなかったのです。しかし自治体名でも「町名」は別であり、そのような定めはありません。例えば「南部町」ですが、現在南部町は全国に4つ存在しています。山梨県・青森県・和歌山県・鳥取県それぞれにあります。山梨県の南部町は富士宮市に接していますよね。

そもそも「大宮」というのは「大きな神社がある」ということから由来しています。ですから、日本全国の、特に神社が位置する地域に同様のケースが多々確認できます。そうなんです、大字・小字を含め全国に「大宮町」は沢山あるのです(「都道府県市区町村」の「「○宮」コレクション」より「大宮町」)。その中でもいち早く市制施行を果たした埼玉の「大宮町」が「大宮市」になっていたため、2番手の静岡の「大宮町」は「大宮市」にできなかったんですね。

  • 富士宮市の位置づけと人口

富士宮市は、富士郡下では間違いなく「影響を及ぼしてきた側」であると思います。一例を挙げれば、「富士宮やきそば」がそうでしょう。

「カンブリア宮殿」放送回より

富士宮やきそばは「富士郡大宮町」で成立したとされています。この独自の食文化が土着し、ひいては周辺の村々へも伝播し、結果として現在「富士宮市域」のみならず「富士市域」にもこの食文化が定着しているわけです。

市制施行当時の様子を伺うに、『懐かしの富士宮』(羽衣出版)という本は参考になると思うのでオススメです。市制施行当時は、まだ吉原市も富士市も存在しておりません(多くで勘違いされているところです)。そういう時代にしか残っていなかったものもあるでしょう。それが何かを振り返る、いいきっかけかもしれません。

今現在でも行われている大規模な調査に「国勢調査」があります。そしてその初回は大正9年(1929)10月に行われています。国勢調査はあらゆる資料において根本的な出典として用いられる、大変重要な調査です。

その第1回国勢調査の記録が"日本国勢調査記念出版協会『日本国勢調査記念録 静岡県』"に残されています。今回はそれらを基に、当時の富士郡の人口について追求していきたいと思います。




見にくいため、以下で表にしてみました(※はその後の変移を大まかに記したもの)。
 

自治体世帯人口
大宮町3,54917,713
加島村1,3977,884
富士根村1,3217,002
鷹岡村1,3666,898
今泉村1,1866,542
田子浦村1,0996,478
北山村9545,005
富丘村9154,816
吉永村8404,745
岩松村7914,554
須津村7354,289
大淵村8004,225
芝富村9034,215
伝法村7784,135
元吉原村6853,987
柚野村7523,908
上野村7723,895
吉原町7333,784
上井出村6252,915
原田村8902,652
白糸村4301,947
島田村2641,419
※大宮町・富丘村→市制施行で富士宮市に
※芝富村→富士郡として最後まで残った芝川町の元来の中心地
※加島村→町制施行で富士町→市制施行で富士市に
※吉原町→市制施行で吉原市に

元は大宮町で人口が最大であったことは、案外知られていないように思います。そしてその後も人口は堅調に増加していたことが、内務省への提出文書からも読み取れます。

昭和16年(1941年)の調査(内務省への提出文書)では、大宮町の人口が「26,286人」、富丘村の人口が「5,497人」とあります。合計「31,783人」ですが、市制施行時(1942年)の人口は34,010人です。もうこの短期間でも増えているんですよね。

「市制要覧2012」より


このように市制施行を迎える頃の大宮町の人口密度を計算してみますと、1000人/km²を超えていることが分かります。では、その後の富士宮市の人口と他自治体はどのような関係だったのでしょうか。

富士市の推移(市HPより)

上で述べましたように、富士宮市誕生時(1942年)の人口は34,010人です。そして吉原市誕生時(1948年)の人口を見てみますと31,153人です。富士市の怒涛の合併劇と人口爆発でやがてこの関係は逆転していきます。そのタイミングは少し測るのが難しいです。合併で住所表記が頻繁に変わった人も居ると思います。例えば大淵村に居住している人は、1955年4月には「吉原市」と名乗り、1966年11月には「富士市」と名乗っているわけです。


富士宮市は大宮町という「町」と富丘村という「村」で成立した自治体です。それ以後「芝川町」を除けば「村」のみしか吸収合併していないので、それにしては人口が多いように感じます

上の国勢調査に記される自治体の人口密度で言えば、「吉原町」が抜きん出ていると思います。富士郡役所が置かれるのも納得です。富士郡役所が編纂・発行した「静岡県富士郡々治一覧表」(1893年)と「静岡県富士郡会沿革誌」(1923年)は、当時の富士郡を知る好例です。

富士郡役所

でもこの事実を踏まえて「交通」を考えてみますと、ちょっとおかしな現象が生じていることが分かるんですよね。以下で「富士宮市と交通」に入っていきましょう。

  • 富士宮市と交通

以下の表は"現在の富士市の主要駅を旧自治体と対応させたもの"になります。

施設旧自治体(町村制施行時)との対応
新富士駅田子の浦村
富士駅加島村
吉原駅元吉原村

あれれ…当初より町政を施行している町である「吉原町」の名が見えません。例えば富士宮市ですと「富士宮駅→大宮町」となりますよね。なので「〇〇駅→吉原町」となっていなければおかしいのです。他の市町もそのような関係に必然的になってくると思いますが、そうではない富士市は実は相当に特殊です。実はこの現象により、富士宮市にも大きな変化が出てきているのです。



遡って富士郡の交通について考えてみましょう。

出来事
明治22年(1889)富士馬車鉄道発足
大宮新道建設
明治23年(1890)富士馬車鉄道、鈴川-大宮間の営業開始
明治43年(1910)馬車鉄道、富士 - 長沢間の開業
明治45年(1912)富士身延鉄道発足
大正2年(1913)富士身延鉄道、富士-大宮間の開業

古い時代に目を向けてみますと、大宮町というところは吉原町との結びつきが強いことが分かります。もちろん吉原からみれば、大宮との結びつきが強かったということになります。その象徴が「中道往還」でしょう。

吉原町は「吉原宿」が位置した地です。しかし東海道の宿はかなり多く存在するので、それだけでは確実に埋もれてしまいます。しかし吉原宿は"中道往還の起点"でもあるはずです。東海道の宿は数多くあっても、(それ相応の)街道の起点としても位置づけられる宿となると限られてくると思います。吉原宿の凄さは「街道の起点である」ことにあると言えるわけですが、昔の人であれば当たり前に認識されていたであろうこの事実も、今では全く認識されていないように思います。少し寂しい話です。

明治時代に目を向けましても、富士郡において「大宮-吉原ルート」が中心であったことは疑いようのない事実だと思います。以下、「調査研究ノート№16(博物館だより№41より)20世紀写真のなかの富士Ⅲ─近代産業と交通─展」(富士山かぐや姫ミュージアムHP)より抜粋します。

明治22年2月、鈴川停車場(現JR吉原駅)が開設され、7月に東海道鉄道(今の東海道本線)新橋-神戸間が全通しました。 当地では入山瀬への富士製紙会社の建設に伴い、鈴川停車場から吉原を経て、入山瀬、大宮へ至る新しい交通ルート(大宮新道)と、それを軌道とする富士馬車鉄道が、明治23年開通しました。馬車鉄道とは物資の輸送はいうまでもなく、人々の交通手段としても大いに活用されました。

つまり明治期の富士郡の状況としては、大宮と吉原間は交通の要衝であり、普通この二地域間が主要流通網であったということが言えるのです。以下は、明治26年(1893)の富士郡役所の資料です。


富士郡役所「静岡県富士郡々治一覧表」より

「官衛」は現代でいう「行政施設・公共施設」ですが、そのような類は殆ど吉原と大宮にしかありませんでした。また富士地区における近代的製紙業発祥の地は間違くなく鷹岡の地だと思いますが、やはりこれも大宮-吉原ラインに該当します。

時代が下り、昭和初頭に目を向けてみます。内務省告示第516号(昭和11年)の「府縣道及地方費道ヲ指定スル件」の静岡県をみてみましょう。

八號 山梨縣南郡留郡瑞穂村ヨリ鈴川停車場二達スル道路
經過地
富士郡上井出村山梨縣界、北山村、大宮町、鷹岡町、吉原町、國道一號線  

県道の整備に関する内務省告示です。昭和11年(1936)のことですから、この当時町だったのは富士郡では「大宮」「鷹岡」「吉原」「富士」のみです。しかし「府縣道及地方費道ヲ指定スル件」に「富士町」は出てこないです。まだまだ大宮-吉原ラインが中心です。

この6年後に大宮町と富丘村が合併し、富士宮市が誕生します。この時代も「大宮-吉原」は移動の中心であったと言えると思います。

…しかしどうでしょう。実は明治時代の終わり頃から、既に変化の予兆が見えてきていたと言えませんでしょうか?



実は明治時代の終わり頃、大きな変化がありました。後の富士駅である「加島停車場」(以後富士駅とす)の開業です。明治42年(1909)に開業しています。明治43年(1910)には馬車鉄道が乗り入れ、大正時代には富士身延鉄道(後の身延線)が大宮町駅まで接続されました。

明治村50周年で「SL9号」復活へ 修理へ搬出(中日新聞Web版 2014年2月24日)
名古屋鉄道は博物館明治村(愛知県犬山市)で保管している蒸気機関車「SL9号」を復活させるため、24日、大阪市の修理工場に搬出した。明治村開村50周年の記念事業で、修理を経て来年3月に村内を走らせる。SL9号は1912(明治45)年に米ボールドウィン社が製造し、13年から富士身延鉄道(現JR身延線)の富士~大宮町(現富士宮)の間で運行された

記事にあるように、SLが走っていたのです。

大正時代の時刻表

これにより既存の形態が大きく変わってきています。『富士市景観形成基本計画』より引用します。

電動機の利用が普及すると、大型製紙工場は交通条件が良い東海道線沿いの平地に立地するようになりました。富士川扇状地の旧加島村に製紙工場(富士製紙第八工場)が立地し、それに合せて東海道線富士駅が開業、やがて駅前に市街地が整備され、この地域の中心地を築いてきました。

つまりこれは「旧加島村域」の大発展を述べているのですが、結果「大宮」と「加島」の地が鉄道にて結ばれることになりました。「吉原」ではなかったのです。つまりこの動向で、富士宮市の交通にも大きな変化が生じたと言えるわけです。

中世ないし近世より大宮と吉原は交通の要衝でありましたが(中道往還)、近代の過程でそれが崩れたわけです。有り体に言えば、大宮-吉原間に鉄道が敷かれなかったのは、歴史的背景から考えると意外であったと言えると思います。

長くなりましたが、富士郡大宮町時代から「宮・富士地区」の概観を見てみました。この記事が、皆様が宮・富士地区の経緯を知る一助になれば幸いと思います。

  • 参考文献
  1. 富士宮市史編纂委員会,『富士宮市史』下巻(1986年)
  2. 富士郡役所,「静岡県富士郡々治一覧表」(1893年)
  3. 富士郡役所,「静岡県富士郡会沿革誌」(1923年)
  4. 荒木磯吉編,『静岡県下市町村一覧』(1913年)
  5. 『官報』第4606号(1942年)
  6. 『官報』第6535号(1905年04月17日)
  7. 日本国勢調査記念出版協会,『日本国勢調査記念録 静岡県』(1922年)
  8. 「静岡県市町村便覧(昭和7年7月現在)」,静岡新報社(1932年)
  9. 小杉潔,『静岡県大正風土記』,国民新聞社静岡支局(1913年)
  10. 田中吉助,「駿東郡富士郡全圖」,田中文洋堂(1915年)
  11. 西田繁造, 『日本名勝旧蹟産業写真集. 奥羽・中部地方之部』(1918年)
  12. 富士宮市,『市勢要覧2012』(2013年)
  13. 富士市,『富士市景観形成基本計画』
  14. 土隆一,『静岡県 地学のガイド』,コロナ社(2010年)
  15. 齋藤駿介,「戦時期日本における建物疎開の展開に関する制度史的研究(その1):事業対象都市の変遷と事業施行の実態」『日本建築学会計画系論文集』88 巻808号(2023年)

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