2025年9月7日日曜日

『文武二道万石通』に見る江戸時代の富士の人穴のイメージ

以下に3年前のXの投稿を引用したい。 大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に関するものである。


この「今回」とは、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の第25回(6月26日)「 天が望んだ男」放送回のことである。『文武二道万石通』とは、朋誠堂喜三二(平沢常富)作の滑稽本であり、知名度が高い作品である。右の采配を振るう人物が畠山重忠であり、左の洞穴は「人穴」(静岡県富士宮市)である。人穴は極めて知名度が高く、『文武二道万石通』だけでなく様々な作品に登場する。

さて重忠であるが、「梅鉢」の紋の直垂を着用していることが分かる。しかし重忠の紋は本来梅鉢ではない。実はこれは、本当は別の人物を示しているのである。つまり重忠という体にしてはいるが、別の人物であると喜三二は暗に伝えているのである。その人物とは、時の老中「松平定信」である。


朋誠堂 喜三二

この場面は人穴に鎌倉の御家人が入りふるいに掛けられる描写であるが(ぬらくら武士のあぶり出し)、勿論これも別の意図があり、この武士らは田沼意次派の武士を指す。つまり『文武二道万石通』は、定信の「寛政の改革」を風刺した作品なのである。

具体的なストーリーについては『黄表紙 川柳 狂歌』(新編日本古典文学全集79)を御参照頂きたい。



大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の第36回(9月18日)「武士の鑑」放送回で重忠は死する。ここで述べたように、当時の人穴のイメージを考えることは重要であると考える。

この「武士の鑑」というタイトルであるが、重忠は歴史の中でそのような像で実際に語られている。『文武二道万石通』で重忠が題材となったのは、やはり近世において「武士の鑑」というイメージが流布されており、それが「ぬらくら武士」を見極める役として適当と喜三二が考えためではないだろうか。重忠がなぜ武士の鑑とされたのかについては本稿では触れないが、理由としてはまさにここにある。

そして本稿では"何故喜三二は人穴を題材としたのか"という点を考えていきたいが、背景としてまず『吾妻鏡』の存在を挙げなければならない。富士の洞穴「人穴」を探索するという内容の初見が『吾妻鏡』なのである。(五来1991;p.79)は"地獄破りの初見"であるとしている。ではその箇所を以下に引用する。

三日 己亥 晴 将軍家、渡御于駿河国富士狩倉。彼山麓又有大谷〈号之人穴〉。為令究見其所、被入仁田四郎忠常主従六人。忠常賜御剱〈重宝〉入人穴。今日不帰出、幕下畢。

建仁3年(1203)6月3日に源頼家は駿河国の富士の狩倉に出かけた(=簡易版「富士の巻狩」のようなもの)。その山麓には大谷があり、「人穴」と呼ばれていた。


源頼家


頼家は人穴を調べるため仁田忠常と主従6人を向かわせた。忠常は頼家より剣を賜り人穴に向かったが、今日は帰ってこなかった。翌日については、以下のように記される。


四日 庚子 陰 巳尅 新田四郎忠常、出人穴帰参。往還経一日一夜也。此洞狭兮不能廻踵。不意進行、又暗兮令痛心神。主従各取松明。路次始中終、水流浸足、蝙蝠遮飛于顔不知幾千萬。其先途大河也。逆浪漲流、失拠于欲渡、只迷惑之外無他。爰当火光、河向見奇特之間、郎従四人忽死亡。而忠常、依彼霊之訓投入恩賜御剱於件河、全命帰參云云。古老云、是浅間大菩薩御在所、往昔以降敢不得見其所云々。今次第尤可恐乎云々。

意訳:4日になると忠常が人穴より帰ってきた。往復に一夜かかったという。忠常は人穴について述べる。「穴は狭く戻ることも出来なかったため前に進むことにしました。また暗く、精神的にも辛く、松明を持って進みました。水が流れ足を浸し、蝙蝠が飛んできて顔に当たり、それは幾千万とも知れず。その先に大河があり、激しく流れており、渡ることができませんでした。困り果てていたところ、火光が当たり大河の先に奇妙なものが見えた途端、郎党4人が突然死亡しました。忠常はその霊に従うことにし、賜った剣を投げ入れました。こうして命を全うして帰ってきました」と。古老が言うところによると、ここは浅間大菩薩の御在所であり、昔より誰もこの場所をみることができなかったという。今後はまことに恐ろしいことです。(意訳終)

(西野1971;p.40)にあるように、人穴を浅間大菩薩の御在所とする信仰が当時すでに認められるという事実は重要であろう。(会田2008)は以下のように説明する。

「奇特」とはつまり富士浅間に他ならず、3日前に人穴に入った和田平太胤長(註:『吾妻鏡によると』頼家は富士の狩倉の前に「伊豆奥狩倉」に出かけ当地にあった「大洞」を和田胤長に調査させている。人穴とあるわけではない)の前には「大蛇」として化現し、新田に対しては「大河」としてその本体を現したのである。この人穴譚がもとになって、後世『富士の人穴草子』という室町物語が成立する。

伊豆奥狩倉の「大洞」に対する「大蛇」が、富士狩倉の「人穴」に対する「浅間大菩薩」であることは間違いないと思われる。この"穴(洞)に神が示現する"という特異な現象が『吾妻鏡』には立て続けに記されているのである。

しかし古老が言うように"見てはいけない"所を見てしまったという意味で、新田忠常も、それを指示した源頼家もタブーを犯してしまったのである。それ故に「今次第尤可恐乎」と締めくくられているのである。そして実際に頼家は翌年に亡くなっているのである

大前提として、大元の題材はここにあるということは把握しておきたい。


『文武二道万石通』


さて『文武二道万石通』という作品自体に目を通すと、物語の舞台を鎌倉時代で統一できるところに、当時の文化人の知見の深さが現れているといえる。またぬらくら武士選別の舞台を「人穴」に設定するという斬新さも面白い。やはり文化人として抜きん出たものがあると思う。

しかしこのアイディアは喜三二固有のものであったのだろうか。(小山2005;p.43)によると『文武二道万石通』と同年の山東京伝作『仁田四郎 富士之人穴見物』においても、表題にあるように人穴を題材としているし、また今度は仁田四郎が松平定信であるという。小山氏は仁田四郎=松平定信説を支持しているが、論稿内ではこれに意を唱える論の存在も示されているということを付け加えておく。


山東京伝

しかしここで考えていきたいのは、松平定信に対する揶揄のその舞台として、異なる作品であるのにも関わらず人穴が登場することである。であるから、ここには何か特別な背景があると考えられるのである。この点に関してはもう少し調べを進めてみないと分からない。もっとも小山氏もその点を疑問に思ったようである。

そして『文武二道万石通』と『仁田四郎 富士之人穴見物』両作品は、ある御伽草子の影響を受けているとも考えられている。それこそが、引用文で見えた『富士の人穴草子』(以下、『人穴草子』)である。『人穴草子』は小山氏の一連の報告に詳しいが、あまり読めていないので詳細は別で機会を設けたいと思う。

『言継卿記』大永7年(1527)正月廿六日条に「ふしの人あなの物語」とあり、少なくとも16世紀前半には流布されていたとされる。これは『吾妻鏡』の記述を下敷きにした作品である。多くの写本が残るが、物語の構成は以下のようなものである。

源頼家に人穴探検を命じられた和田胤長が人穴の中を進むと、そこには富士浅間大菩薩がおり侵入を拒まれた。結果胤長は引き返したが頼家は諦めることができず、今度は仁田忠常を人穴探検に向かわせた。忠常は主君から拝領した剣を富士浅間大菩薩に献じた。忠常は人穴を進むことを許され、中では六道の一部と極楽浄土を目にする。しかし中の様子の口外は禁じられ、もし口外した場合は命を奪うと告げられる。戻った忠常は頼家に内情を伝えるよう強く迫られ、やむなく口外した忠常はただちに命を奪われてしまうのであった。

概ねこの流れを有するとされるが、人穴から戻った仁田忠常の扱いについては写本によって差異がある。また六道の場面では罪人が苛責を受ける場面があるが、その人物の具体的な国名が記されており、これらの事実から元々は語り物であったという推論もある。

「忠常は人穴を進むことを許され」と記したが、この点を(米井1983;p.37)は「主人公は、人穴の奥の世界を統轄する神に追い返されるのではなく、逆にその神の案内で人穴の奥にひそむ地獄極楽の世界を巡歴するのである。この逃鼠譚から冥界巡歴譚への転位を支えているものが『富士の人穴草子』の独自の手法といえるのだが…」とする。

『吾妻鏡』と『人穴草子』の大きな相違点は、(米井1983;p.38)にあるように『吾妻鏡』においては剣を投げ入れて逃げ帰るのに対し、『人穴草子』では奥へ案内されている点にある。

人穴を取り上げた別の史料を見ていこう。以下は万治3年(1660)『驢鞍橋』(鈴木正三の弟子「恵中」の著)の現代語訳である。

小田原の沖に大蛇が出るということがあった。私はそれを聞く小舟に乗って行き、造作なく角を引きもいでやろうと思ったものである。又、富士の人穴などもわけなく通れると思っていた。若い時からこのように強く用いて来たけれども、何の用にも立たなかった(加藤2015;p.36)。

これは富士の人穴が恐ろしい場所であると一般に認知されていた故の言い回しである。そして小田原の沖の大蛇の話の流れで人穴を引き合いに出していることから、やはり人穴の奥に得体の知れぬものが潜んでいるというイメージが強く存在していたのだろう。

人穴は能作品にもなっている(芳賀・佐佐木1915;p.201-203)。また延宝4年(1676)の芭蕉一座の連句作品には「人穴ふかきはや桶の底」とある(阿部1965;p.173)。

このように人穴は一通り様々な表現の中に組み込まれたと言ってよいだろう。ただ能〈人穴〉に関して言えば、歴史の中でそれほど上演されていたようには思えない。仮に『人穴草子』が語り物であったとした場合、もう少し能〈人穴〉の演能記録が伴っても良いように思えるが、どうだろうか。

また人穴探索を題材とした作品群を単純に"『人穴草子』を典拠として/影響を受け"としていいものだろうかという疑問もある。例えば『富士野往来』も『曽我物語』と一致する部分はごく僅かで、独立した部分の方が圧倒的に多い。だから『富士野往来』の典拠は『曽我物語』ではないのである。

このように人穴探索を題材とする作品の中に、『人穴草子』に全く影響を受けていないものも存在したのではないかという疑念はある。しかし人穴の知名度の高さの背景に『人穴草子』は関係するだろうし、"穴の奥に試練があり"、"武士が試される場"であったというイメージが広く流布されていたものと考えられる。そのイメージが、朋誠堂喜三二や山東京伝の筆を動かしたと言える。

  • まとめ

富士宮市の歴史が江戸文化の中に深く入り込んでいたことは疑いの余地がない。絵画化の題材にもなったため、富士宮市を描いた浮世絵も枚挙に暇がない。芸能も「曽我物」が良い例である。

これらが「富士の巻狩り」「富士の狩倉」から由来することは間違いないが、流布される過程をもう少し細かく考えていく必要性はあると思う。

  • 参考文献
  1. 芳賀矢一・佐佐木信綱(1915)『校註 謡曲叢書 第3巻』、博文堂
  2. 阿部正美(1965)『芭蕉連句抄』、明治書院
  3. 西野登志子(1971)「「富士の人穴草子」の形成」『大谷女子大国文 1』、38-48
  4. 米井力也(1983)「大蛇の変身-「富士の人穴草子」と「小夜姫の草子」の接点-」『国語国文』第52巻第4号(584号)、35-39頁
  5. 五来重(1991)『日本人の地獄と極楽』、人文書院
  6. 棚橋ら(1999)『黄表紙 川柳 狂歌』(新編日本古典文学全集79)、小学館
  7. 小山一成(2005)「彙報 平成17年度特別講演要旨 黄表紙 『仁田四郎 富士之人穴見物』をめぐって」『立正大学人文科学研究所年報 43』、立正大学人文科学研究所、42-44
  8. 會田実(2008)「曽我物語にみる源頼朝の王権確立をめぐる象徴表現について」『公家と武家〈4〉官僚制と封建制の比較文明史的考察』,思文閣出版
  9. 加藤みち子(2015)『鈴木正三著作集Ⅱ』、中央公論新社

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