これ(富士の宮と呼ばれていたこと)については、「富士浅間信仰」にて解説がなされています。この記述から、今回は「歌集」と「説話集」から引用しようと思います。
説話集は『今昔物語集』からです。みなさんも一度は「今昔物語」という言葉を聞いたことがあると思います。まさにそれのことで、正確に呼称すると『今昔物語集』となります。今回は『今昔物語集』の「駿河国富士神主帰依地蔵語第十一」を解説したいと思います。例えば『今昔物語集』に「羅城門登上層見死人盗人語第十八」というものもありますが、これを基に構成されたのが、芥川龍之介の『羅生門』です。
- 今昔物語集(平安時代)
『今昔物語集』(「鈴鹿本」国宝)より |
ですから、この話の主人公である「和気光時」(神主)は富士氏の当主であるか否か…についてを述べる本などもあります。ここに「富士〇〇」という人物があった
としたら、「富士氏系図」の信ぴょう性がぐっと上がるんですけどね。
しかし、この話だけでも神仏習合を強く感じ取ることができ、そういう意味でも重要であるように思えます。「駿河国富士神主帰依地蔵語第十一」の解説は長いため省きますが、訳などの解説を見ることをお勧めします。
和歌からは『新勅撰和歌集』です。『新勅撰和歌集』における「富士の宮」は「北条泰時」の詠で確認できます。あの御成敗式目の人です。
- 『新勅撰和歌集』(鎌倉時代)
『新勅撰和歌集』(伝二条為右筆本)室町時代前期写 |
ちはやぶる:「神世」を導く枕詞。
神世のつき:神世の時代そのままの月。
さえぬれば:「さえ」は「冴ゆ」の連用形。「ぬれ」は完了の助動詞「ぬ」の已然形。「ば」は接続助詞。
みたらしがは:御手洗川。今もありますよね。
神世のつき:神世の時代そのままの月。
さえぬれば:「さえ」は「冴ゆ」の連用形。「ぬれ」は完了の助動詞「ぬ」の已然形。「ば」は接続助詞。
みたらしがは:御手洗川。今もありますよね。
それを踏まえると、このようになる。
詞書:
詞書:
「駿河の国に神社を参拝して回りましたときに、富士の宮に詠んで奉納した」
和歌:
「神世の月が冴え冴えと澄んだので、御手洗川も濁らないのであったよ」
御手洗川が清らかに澄んでいるということを言って、富士の宮の神威神徳を讃えている歌である、という解釈がなされています。
初詣の際などに、富士の宮で和歌を詠んでみるのも良いかもしれない。
- 参考文献
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