2011年12月8日木曜日

富士山推薦書原案を読み解く


  • 推薦書原案とは
世界遺産登録の過程における文化庁への提出資料で、これに手を加えられたものが「推薦書正式版」としてユネスコに提出されます。そしてこれが診査されて世界遺産の登録の是非が決められます。



実は推薦書原案は1年提出が遅れているのですが、完成はされていたんですね。それがまた再度見直され提出されたわけですが、すごく簡略化されています。「とにかく分かりやすく」ということを念頭においているためにそうなったと思われますが、以前のものと比べるとスリム化されどんな人でも読めるような感じになっています。外国人が読んで理解できるように求められているわけですからね。

「推薦書原案」

今回はその推薦書原案の内容を紐解いていこうと思います。「信仰」に関わる部分を抽出し、解説することとします。

  • 構成資産の基準
今回は文化遺産での登録を目指す形であり、信仰がメインであることから、「富士信仰と関係するものが構成資産となっている」と言うことができます。そして「富士信仰と関係するものとはどういうものが当てはまるのか」ということですが、それは「富士山の登拝道が存在する地域にみられる文化や建造物」と表すことができます。そして「富士山の登拝道が存在する地域」というのは「大宮」・「村山」・「須走」・「須山」・「河口」・「吉田」であり、この中でも「大宮」「村山」「須走」「吉田」は中心的存在であったので、これらの地域でみられる文化財が構成資産の中心となっております。富士信仰は登拝道の存在する地域に特徴的にみられたもので、登拝道周辺に独自の文化が発展していました。

  • 解説
【富士信仰の成り立ち】
上記のような自然環境を持つ富士山は、古来自然物、特に山岳に対する信仰の伝統を持っていた。日本人に畏敬の念を抱かせ、日本における様々な宗教・宗派の枠を超えて信仰の対象とされてきた。山麓から信仰心を持って富士山を仰ぎ見る遙拝や、山域・山麓での修行、神仏の在所と考えられていた山頂への登山(以下、「登拝」という。)という宗教行為が一般化すると、多くの信仰登山者(以下、「道者」という。)が山頂を目指した。そのため、山体及び山麓周辺に神社や仏教施設などが建立されるとともに、登山のための道や神社、山小屋等の諸施設及びそれを支援するシステムが整備されてきた。(推薦書原案よりP6)
富士信仰とは何か」で解説してあります。

配石遺溝・集石遺溝
【霊山として】

さらに富士山域の範囲は、山体の神聖性の境界の一つである「馬返」以上に該当する標高約1,500m以上の区域でもあり、その中でも、他界(死後世界)と考えられた森林限界より上方の区域、富士山本宮浅間大社の境内地とされた八合目(登山道を10区間に分割した目安の一つ。登山道ごとに異なり標高約3,200~3,375m)以上の区域と、山頂に近い区域ほどより強い神聖性を持つようになると認識されてきた。(推薦書原案よりP8)

これも説明済みですが、山頂は浅間大神の御在所ともいわれ、最も神聖な場所であった。まず富士山が霊山なのですが、その中でも山頂は特別な場所であったわけです。八合目以上が富士山本宮浅間大社の境内地になるに至る説明もあります。→「富士山の大宮・須走・吉田の争いと元禄と安永の争論」。

【富士信仰の発展】
富士山には、麓の浅間神社を起点として山頂に至る登山道が複数存在する。12世紀前半から中頃にかけての修行僧である末代上人(1103-?)の活動がきっかけになったと考えられる大宮・村山口登山道や、六合目から1384年の銘のある掛仏が出土した須走口登山道などがある。吉田口登山道は、富士講信者の登山本道とされ、18世紀後半以降、最も多くの道者(他の登山口の合計と同程度)によって利用された。登山道沿いには要所要所に祠や石碑が設置され、随所に小屋や石室が設けられており、富士独特の登拝システムを語る上で、登山道は欠かすことのできない枢要の要素である。(推薦書原案よりP9)

登山道あっての富士信仰なんです。ですから富士信仰を考えるとき、登拝道ベースで考えるとわかりやすいんですよね。ここポイントです。

【浅間神社】
溶岩流の末端や登山道の起点、山麓には浅間神社が建立されている。古くから富士山は遥拝の対象であり、浅間神社のうちいくつかは神話の時代に建立されたと、各神社の社伝には記述されている。特に山宮浅間神社などは古代からの祭祀の形をとどめているとされる。その後、富士山では8世紀末からの噴火活動の活発化を受け、律令国家によって9世紀前半に富士山を神体とする浅間神社(後の富士山本宮浅間大社)が、9世紀後半には北麓にも噴火を鎮めるための神社が祭祀された。11世紀後半の噴火を最後に火山活動が休止期に入ると、日本古来の山岳信仰と密教・道教(神仙思想)が習合した修験道の道者による活動が活発化し始め、修験者の拠点が後に村山浅間神社や冨士御室浅間神社へと発展していった。登拝の大衆化に伴って、須山浅間神社や富士浅間神社(須走浅間神社)など、登山口の起点にも浅間神社が建立されたと考えられる。(推薦書原案よりP10)

これも「富士信仰とは何か」にて説明してあります。

【富士講】
18世紀後半から爆発的に流行した富士講の信者は、山頂を目指して富士山に登るだけでなく、周辺の風穴・溶岩樹型や湧水地などを巡り、巡礼や修行を行っていた。特に先達になる人は必ずそうした。 富士講の開祖とされる長谷川角行(1541-1646)は、16~17世紀にかけて人穴(人穴富士講遺跡内)で修行をし、富士五湖を始めとした8つの湖沼や白糸ノ滝で水行を行ったとされている。(推薦書原案よりP11)

富士講は富士信仰の歴史において大きな存在ですね。規模という意味では最大であると思います。角行が修行した地と伝わる人穴は、富士講信者により浄土とされていました。角行を崇拝する一派・団体らを指し「角行系富士信仰」といった言葉で表現する文献もありますが、この捉え方は分かりやすいでしょう。富士講もその中の1つです。ですから人穴の浄土的位置づけは、実は富士講にとってだけではなかったりします。あとあまり知られていませんが、白糸ノ滝も富士講の巡礼地の1つだったりします。江戸期に吉田口の利用者が特に多い理由も、富士講によるものと言ってよいでしょう。他にも巡礼地として駿河国のものが含まれていたりしていたので、富士講というのは広範的な団体だったんですね。(→富士講

【道者の文化・習慣】
このうち八合目以上(標高約3,200~3,375m以上)は、1779年以降、富士山本宮浅間大社の境内地とされている。これは、山頂にある噴火口(内院)の底部には浅間大神が鎮座するという考え方から、その底部とほぼ同じ標高である八合目から山頂までが神聖な地と捉えられたからだという。ほぼこの境域に沿って富士山体を一周する巡礼道は、富士講の開祖とされる長谷川角行によって16~17世紀頃に開かれたとされ、その後、「大沢崩れ」という危険箇所を通るため富士講信者により修行の道として大いに人気を博し、「御中道」と呼ばれた。 富士山への信仰登山が開始されると、修験道の影響を受け山頂部において寺院の造営や仏像等の奉納がおこなわれるとともに、山頂部での宗教行為が体系化されていった。1482年の銘のあるものが最古)・仏像等(1303年の銘があるものが最古)の山頂部への埋納・奉納や火口部に当たる内院への散銭が行われた。(推薦書原案よりP.12)

富士山体だけでみても、内院散銭や御中道や奉納など多くの慣例、信仰形態がみられます。

【大宮・村山口登山道】
富士山南西麓の富士山本宮浅間大社(その所在である富士宮市はかつて大宮と呼ばれた。)を起点とし、村山浅間神社(興法寺)を経て山頂南側に至る登山道である。17世紀以降19世紀後半まで、「村山三坊」と呼ばれた3つの有力な坊が村山浅間神社(興法寺)と登山道の管理を行うとともに所属の修験者が登山道等を利用して修行を行った。また1860年、外国人として初の登山を行った英国公使オールコックがこの登山道を利用した。 また、一般人の登拝も開始され、その様子は16世紀の作である《絹本著色富士曼荼羅図》などに描かれている。(推薦書原案よりP13)

大宮・村山口登山道(現富士宮口登山道)という表現にいささか疑問は感じるが、古来より存在する登山道である。村山三坊は分類的には「御師住宅・大宮道者坊」と同じ所に入ります。「村山浅間神社(興法寺)」という意味は、元々は富士山興法寺と総称される建造物群の1つであったものが、後に村山浅間神社と呼ばれるようになったためです。「絹本著色富士曼荼羅図」は「THE・静岡県」という感じの見事な絵図です。

【須走口登山道】
 登山道は遅くとも17世紀までに、冨士浅間神社及びその所在地の須走村が登山道の山頂部までを支配し、山頂部における散銭取得権の一部などを得ていた。山頂部の権利については富士山本宮浅間大社と争いになり、須走村は18世紀(1703年と1772年)、幕府に裁定を求め、幕府によって須走村の権利として認められた。(推薦書原案よりP13、14)

この「須走と浅間大社の争い」はかなり詳しく書いたと思います。ここは重要です。

【吉田口登山道】
 このため、富士講の信者が次第に増加した18世紀後半以降は、最も多くの道者(他の登山口の合計と同程度)が吉田口登山道を登って山頂を目指している。北口本宮冨士浅間神社は、富士講や吉田御師と密接な関係を持ちながら発展した神社である。江戸時代(19世紀後半まで)の北口本宮冨士浅間神社はその運営を吉田の御師が掌握しており、宮司や禰宜等の神官は御師から選ばれた者が務めた。(推薦書原案よりP15,16)

吉田口の道者が多いのは大きな特徴ですね。多くの古資料がそれを示しています。あと御師が権力を掌握していたことでも知られています。神社も富士講によって様変わりしました。御師による影響によりもたらされたと言ってよいでしょう。

富士山道しるべ
しかし社号や神社としての経緯などから、北口本宮冨士浅間神社は元は諏訪神社としての側面が大きかったことも忘れてはいけません。(→吉田諏訪大明神から北口本宮冨士浅間神社への変移と富士講



【富士山本宮浅間大社】
本神社は、富士山を遙拝し噴火を鎮めるために創建されたものであり、朝廷は853 年に従三位の神階を与え、これを順次高めていくことで浅間大神を慰撫し、噴火を鎮めようとした。その後、15世紀頃登拝が盛んになるにつれて、富士山本宮浅間大社(以下「浅間大社」という。)は村山浅間18神社(興法寺)とともに大宮・村山口登山道の起点となり、宿坊が周辺に建設された。登拝の拡大に伴い、富士山中での諸権利が構築されていく中で、浅間大社は徳川家康(約150年間の戦乱期をおさめ統一政権である江戸幕府を開いた人物)の庇護の下、1604年「浅間造り」と呼ばれる二層構造の独特な構造を持った現在の本殿等が造営されるとともに、1609年には山頂部の散銭取得における優先権(山頂の噴火口へ投げ入れられた賽銭を回収する権利)を得た。これを基に浅間大社は山頂部の管理・支配を行うようになり、1779年、幕府による裁許によりこの八合目以上の支配権が認められた。八合目以上は明治政府により国有地とされたが、1974年の最高裁判決に基づき、2004年浅間大社に譲渡(返還)された。(推薦書原案よりP17、18)

富士山においては、山中の仏像類が破壊された廃仏毀釈など様々な大きな出来事が過去ありました。しかし富士信仰などを含め富士山に焦点を当てた場合に挙げられる最大の出来事は、「1779年の幕府の裁許」であると私は思いますね。ですから、ここはかなり重要な部分です。

【山宮浅間神社】
富士山本宮浅間大社の社伝によれば、浅間大社の前身とされる。本来社殿が位置すべき場所には建物がなく、石列でいくつかに区分された遥拝所が設置されるのみという特異な形態は、古代からの富士山祭祀の形を止めていると推定されている。この遥拝所の主軸は富士山方向を向いている。また、1577年の『冨士大宮御神事帳』に記述があることから、この頃までには浅間大社との間で「山宮御神幸」といわれる儀式が始められていたとされる。この行事は1874年まで行われていた。なお、「山宮御神幸」に使用される経路を御神幸道という。(推薦書原案よりP18、19)

山宮と大宮のつながりも重要な部分ですね。

【村山浅間神社】
12世紀前半から中頃の修行僧である末代上人によって創建されたとされ、1868年の神仏分離令までは神仏習合の宗教施設として興法寺(富士山興法寺または村山興法寺)と呼ばれていた(資産範囲には浅間神社と寺院である大日堂が含まれる)。なお、周辺には興法寺の維持・運営にあたっていた宿坊の村山三坊(池西坊・大鏡坊・辻之坊の三箇所)の跡がある。14世紀初頭には、僧の頼尊による組織化によって、富士山における修験道の中心地になったと考えられている。興法寺は修験道の中心的寺院である京都の聖護院と関係を持ち、主に富士山より西側の地域の道者をまとめていた。1868年、神仏分離令により興法寺は浅間神社と大日堂に分離され、1872年の修験道の禁止により大日堂は衰微したとされる。ただし、修験者の活動は1940年代まで継続されていた。(推薦書原案よりP19)

富士山興法寺も富士信仰において重要ですね。京都の聖護院と関係を深くしたことも大きな転機でありました。今年に「聖護院の峰入り修行」のニュースがありましたが、それもこの関係があったためです。

【須山浅間神社】
須山口登山道の起点として遅くとも1524年には存在していた神社である(棟札による。なお、社伝では神話の時代に創建されたとする。)。現在の本殿は1823年に再建されたものである。1486年の須山口登山道に関する記述や16世紀前半の地元支配者(武田氏)の寄進状からこの時期には富士山南東麓の信仰登山活動に大きな意味を持っていたと考えられている。1780年登山道が宝永噴火の被害から本格的復興を果たすと富士山よりも東側(西側もあり)を中心とした道者が立ち寄っている。(推薦書原案よりP19)

須山は噴火により直接的な被害を被り、登山道が破壊されてしまったため、道者の確保が難しく信仰形態も衰退した地域です。やはり登拝道がないと難しいんですよね。これは登拝道の重要性を良く表しています。

【須走浅間神社】
20社伝では807年に社殿を造営したとされ、須走口登山道の起点となった神社である。16世紀には地元支配者(武田氏)の保護を受け、山頂部の散銭取得権の一部を得ている。神社には特に18世紀後半から富士山よりも東側の道者が多く訪れ、須走口を下山道として利用することが多かった富士講信者も多く立ち寄り、20世紀前半を中心に登拝回数の達成(33回がひとつの区切り)等の記念碑を約80基造営した。(推薦書原案よりP19、20)

16世紀には地元支配者(武田氏)の保護を受け、山頂部の散銭取得権の一部を得ている。→(富士山と内院散銭)。富士講との関係性も伺えます。ここの部分はあまり詳しくないので、少し探ってみたいと思います。

【河口浅間神社】
河口浅間神社は、864~866年に富士北麓で起こった噴火を契機に、北麓側に初めて建立された浅間神社であると伝えられている
浅間神社を中心とした河口の地は、甲府盆地から続く官道の宿駅という役割に加え、富士登拝が大衆化した16世紀頃から御師集落として発展を遂げた。しかし、江戸における富士講の大流行と、それに伴う吉田御師の隆盛により、河口の御師集落としての機能は、19世紀以降衰退してしまった。(推薦書原案よりP20)

これも解説があります→(富士山の河口御師)。御師って富士講ができる以前に存在しています。というより、富士講の歴史は結構浅いので富士講以前の形態を把握することは重要なんですね。しかし、そこが結構難しいんですね。

【冨士御室浅間神社】
富士山における修験道の拠点は南西の村山浅間神社(興法寺)であるが、北面の二合目、御室浅間神社が鎮座する御室の地にも山内の信仰拠点として役行者堂が整備された。修験や登拝といった様々な富士信仰の拠点として位置づけられる二合目の本宮と、土地の産土神としての里宮が一体となって機能してきた神社である。(推薦書原案よりP20、21)

冨士御室浅間神社は分かっていない部分が多くはっきりしない部分が多いです。私はどちらかというとより初期の富士信仰に興味があるので、これも探っていきたいと思っています。

【御師住宅】
信仰の布教活動と祈祷を行うことを業とした。富士山御師を代表する吉田の御師は、吉田口登山道の起点となる北口本宮冨士浅間神社へ続く南北に伸びる道路の左右に大規模な御師集落を形成していた。(推薦書原案よりP21)

旧外川家住宅と小佐野家住宅が知られています。

【富士講の巡礼地・霊場】

富士五湖も富士講信者による水行の地であり、富士八海を構成していた。また洞穴なども修行なり霊場なりの位置づけであったといわれ、船津胎内樹型や吉田胎内樹型がそれである。人穴を意識したものであろうか。白糸の滝も水行の地であったといわれる。人穴富士講遺跡は代表的な存在である。忍野八海は角行の八海修行になぞらえ「富士山根元八湖」と唱えられた。

  • まとめ
当ブログは一応「推薦書原案」にあるようなことが理解できるようなものを目指し、作成していました。まだ須走・河口の方はあまり取り上げていないのですが、将来的に充実していければいいなと思います。

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