2011年12月14日水曜日

富士山興法寺

富士山興法寺は村山修験の中心地であり、村山の施設群の総称である。

富士山興法寺(『絹本著色富士曼荼羅図』より)
施設群も様々なものがあるが、例えば村山浅間神社も元は興法寺である。以下、推薦書原案の文章である。

1868年の神仏分離令までは神仏習合の宗教施設として興法寺(富士山興法寺または村山興法寺)と呼ばれていた(資産範囲には浅間神社と寺院である大日堂が含まれる)。なお、周辺には興法寺の維持・運営にあたっていた宿坊の村山三坊(池西坊・大鏡坊・辻之坊の三箇所)の跡がある。

このように、村山修験の中心地である富士山興法寺は、村山三坊により管理されていたのである。「国指定文化財等データベース」にはこのようにある。

慶応4(明治元)年(1868)の神仏分離令により村山浅間神社と大日堂に分離された興(こう)法(ぼう)寺(じ)は、末代の創建によるとされ、村山修験の中心であった

末代などの名が出てくることからも分かるように、富士信仰の起源の部分により近い、非常に重要な施設といえる。村山は今川氏に庇護されていたため、今川氏との文書でのやり取りが多くみられる。文書上では「富士山興法寺」や「富士興法寺」、「村山興法寺」、または単に「興法寺」などと見える。

天文四年(1535)の「今川氏輝判物」

  • 施設
村山浅間神社
 管理は三坊のうち「辻之坊(つじのぼう)」が行なっていた。村山浅間神社の創建は、三坊それぞれで伝承が異なり、複雑である。しかしながら共通していることに「大寛元年から始まる」と伝わることや、「役行者との接点」を見いだせることが挙げられる。明治7年ころになると「根本宮浅間神社」と改称し、大正13年には県社となった。
大日堂 
管理は三坊のうち「池西坊(ちせいぼう)」が行なっていた。大日堂は富士山頂上に存在し、村山三坊が管理していた。後の富士山本宮浅間大社奥宮である。
大棟梁権現社 
管理は三坊のうち「大鏡坊(だいきょうぼう)」が行なっていた。村山浅間神社の摂社としての位置づけであったといわれる(たぶん)。後に「高嶺総鎮守」と改称している。
村山浅間神社の創建の伝承で「役行者との接点」を見出しているが、「中興の祖」としての位置づけとして末代上人が仰がれていた。このことから、富士山興法寺を開いたのは末代上人であると言って良いように思える。村山三坊や村山浅間神社の詳細な解説は、別機会にて設けたいと思います。

  • 参考文献
  1. 久保田 昌希 ・ 大石 泰史編,『戰國遺文 今川氏編〈第1巻〉』P225,東京堂出版,2010年
  2. 『浅間神社の歴史』 
  3. 「推薦書原案」

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