2011年12月13日火曜日

梁塵秘抄における富士山

『梁塵秘抄』(りょうじんひしょう)は平安時代末期の歌謡集である。『梁塵秘抄』の巻第二には富士山に関するものがみえる。『梁塵秘抄』における富士山は、まさしく修験道としての面であり、これが非常に大きな特徴である。

訳:
全国各地の霊験あらたかな所は伊豆の走湯、信濃の戸隠、駿河の富士の山、伯耆の大山、丹後の成相とか聞く。さらには土佐の室戸、讃岐の志度の道場と聞いている

『日本古典文学全集〈25〉神楽歌・催馬楽・梁塵秘抄・閑吟集』の解説によると
全国の主な修験道場を列挙し、山岳宗教の広がりがよくわかるが、山だけでなく四国の海辺の道場もあげられている。そこには未知の世界へのあこがれも秘められていよう。
とある。

この作品は平安時代のものであるため、平安時代には富士山において既に修験道が開かれていたことが明確に分かる。また「四方の霊験所」、つまり全国におけるその中でも代表的な存在として挙げられていることから、良く知られていた存在であると考えることができる。

解説には「三:富士山本宮浅間大社」とある。たしかに「一:伊豆の走湯」は伊豆山神社、「二:信濃の戸隠」は戸隠神社とあるように、これらは神社を指しているかもしれない。しかし、富士山の場合は修験道としての面が強くみられるのはやはり村山と考えるのが妥当である。だから、村山の修験道としての面が世間に流布されていたそれが、歌謡となって取り上げられた可能性もあるように思える。

この頃といえば、末代上人が山頂に大日堂を建立したと伝わる1149年から何十年しか経っていないような時代である。つまり比較的古い時代に記された富士山に関する記録なのである。しかもただ「富士」と出ているのではなく、その性格が見える記述は非常に重要であるように思える。この時代、世間に流布されるまでに至る影響力を持ったものは、多分大宮と村山だけだろう。大宮は律令国家の先導による浅間神社の創建から由来する浅間信仰の中心地としての面、また村山は末代上人らに代表される修験道としての面である。

この『梁塵秘抄』の記録は、富士山を解説する際よく取り上げられる。「古くより信仰の対象となっていたこと」や「修験道が確立されていた」ことが説明できるからである。これが平安時代における記述であるということは非常に重要である。富士山において修験道はやはり早くから確立されていたと言えると思う。

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