富士氏は浅間神社の神職であるが、その枠を超えて領主でもあった。むしろそちらの面の方が古典的であったのかもしれない。富士氏は富士郡大領を務めていた氏族とされているためである。領主というのは普通、ほぼ例外なく諸役(税)を徴収している事実がある。それを感じ取れる史料が以下のものである。
「富士九郎次郎」が小泉久遠寺の諸役を免除するという内容(三百文は以前のように徴収するとしている)であり、領主としての側面が垣間見れる。駿河国の富士上方の社寺に宛てられたものであり、富士氏とみて間違いない。その後は今川義元が判物にてそれらを改めて確認している(天文15年9月29日)。富士氏と駿河国守護である今川氏双方の認識からなるものである。
さてこれら文書が発給された背景には、久遠寺の日我上人が再興の働きかけをしたことに始まる。文書には「及十ケ年大破候」とあり、小泉久遠寺は10年もの間大破した状態であったのである。そして日我から駿河国国人である朝比奈氏を通して、今川義元が再興の意に同意したものである。その同意が「諸役免除」という形であった。それを在地勢力の富士氏が了承し、上の文書を発給するに至ったのである。
さて「富士氏が諸役を免除する」とし、また「三百文は従来の通り収めるように」としていることから、領主として富士氏が存在していたのは間違いない。富士氏は多様性があり、例えば根原(現・富士宮市)の関所は富士氏の「富士長永」が管理・支配していた。つまり富士上方の諸権利に広く関係していたのである。
一方「富士九郎次郎」という人物については分かっていない。この時期の富士家当主は富士信忠と推測されるが、「=富士九郎次郎」ではないということははっきりとしている。天文6年3月6日の今川義元が戦功を評した富士氏宛ての文書は、宛て名が「富士宮若」である。またこの頃「富士又八郎」なる人物の文書も見つかっており(天文22年3月24日・永禄6年12月20日)、この頃活躍していた富士氏の人物が複数人居たと推察される。
しかし「富士九郎次郎」はこれ以外には見あたらず、逆に「富士宮若」は複数以上が確認されている。時代が下ると「富士兵部少輔」(富士信忠のこと)として多くの文書がみられる。「富士宮若」は富士信忠の幼名と解釈され、当主に成りうる人物故に「宮若」としての複数文書類が存在するのだと筋が通るのだが、そうすると「富士又八郎」や「富士九郎次郎」の立場はいっそ不明となるのである。
文書が追加で発見されない限り、この双方の人物は不明のままであろう。