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2023年7月5日水曜日

織田信長の富士遊覧、中道往還の富士の巻狩の地を巡った信長と接待役の徳川家康

今回は織田信長の富士遊覧について解説していきたいと思います。この「富士遊覧」を調べてみると、『どうする家康』と『鎌倉殿の13人』をミックスさせたような感覚となる。それがどういうことかを含め、見て頂きたいと思います。 

【はじめに】

織田信長

"織田信長による富士遊覧"は、『信長公記』という史料に詳細に記されている。また詳細は記されないまでも『家忠日記』にも動向が確認される。織田信長は甲州征伐で武田氏を滅ぼした後、その帰路で中道往還を縦断する。中道往還を下(駿河国方面)に降る場合、富士山の全景が見える格好となる。以下は、『信長公記』の該当箇所の冒頭部分である。


富士の根方 神野ヶ原 井出野にて御小姓衆 何れもみだりに御馬をせめさせられ 御くるいなされ 富士山御覧じ御ところ 高山に雪積りて白雲の如くなり。誠に希有の名山なり


信長は甲斐国の「本栖」を過ぎ駿河国の「神野ヶ原」「井出野」に入ると、富士遊覧を行っている。ここは現在の静岡県富士宮市である。安全圏の駿河国に入ったことで信長一行は完全に休憩モードとなっており、小姓らに至っては馬に乗りはしゃいでいる。※この「神野」と「井出」という地名を覚えておいて下さい。非常に重要な部分となります


静岡県富士宮市一帯(図1)※この時代「村山道」はありません

その一連の記述(『信長公記』天正10年4月12日)を以下に掲載する。


四月十二日、本栖を未明に出でさせられ、寒じたる事、冬の最中の如くなり。富士のねかた かみのが原 井出野にて御小姓衆 何れもみだりに御馬をせめさせられ 御くるいなされ 富士山御覧じ御ところ、高山に雪積りて白雲の如くなり。誠に希有の名山なり

同、根かたの人穴御見物。爰に御茶屋立ておき、一献進上申さる。大宮の社人、杜僧罷り出で、道の掃除申しつけ、御礼申し上げらる。昔、頼朝かりくらの屋形立てられし、かみ井出の丸山あり、西の山に白糸の滝名所あり。

此の表くはしく御尋ねなされ、うき島ヶ原にて御馬暫くめさられ、大宮に至りて御座を移され侯ひキ。

今度、北条氏政御手合わせとして、出勢候て、高国寺かちやうめんに、北条馬を立て、後走の人数を出だし、中道を通り、駿河路を相働き、身方地、大宮の諸伽藍を初めとして、もとすまで悉く放火候。

大宮は要害然るべきにつきて、社内に御座所、一夜の御陣宿として、金銀を鏤め、それぞれの御普請美々しく仰せつけられ、四方に諸陣の木屋木屋懸けおき、御馳走、斜ならず。爰にて、一、御脇指、作吉光。一、御長刀、作一文字。一、御馬、黒駮。以上。家康卿へ進めらる。何れも御秘蔵の御道具なり。

四月十三日、大宮を払暁に立たせられ、浮島ヶ原より足高山左に御覧じ、富士川乗りこさせられ、神原に、御茶屋構へ、一献進上候なり。


分かりやすくするために、ルートを書き出してみる。


本栖→(ここから駿河国)→神野・井出→人穴→浮島ヶ原(※)→大宮→浮島ヶ原→富士川渡河→蒲原


『家忠日記』の天正10年4月12日条を見ると「十二日庚子 上様大宮まで御成候」とある(上様:織田信長)。従って、『信長公記』と『家忠日記』の内容は一致していることになる。

以下では、これらについて詳細に解説をしていきたいと思う(※は誤記と思しき箇所)。

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  • 織田信長の富士遊覧の地は「曽我兄弟の仇討ち」の地でもある


あまり知られていないようですが、実は

「織田信長の富士遊覧の地」=「曽我兄弟の仇討ちの地」


です。少し懐かしいですが、「鎌倉殿の13人」のHP資料を一部見ていきましょう。




NHKが「駿河」とすべきところを誤って「駿府」と書いてしまっていますが、曽我兄弟の仇討ちは「駿河国富士野」で起こったことです。


こちらは「駿河富士野」と正確に書いていますね。そしてこの「富士野」ですが『吾妻鏡』に

曽我十郎祐成・同五郎時致、富士野の神野の御旅館に推參致し工藤左衛門尉祐経を殺戮す(建久4年(1193)5月28日条)

とあります。…気づかれた方もいることでしょう。織田信長が富士遊覧を行った地として記される「神野ヶ原」の「神野」が出てきています。また『曽我物語』には

駿河の国富士野の裾、伊出の屋形(真名本『曽我物語』)

と「伊出」(井出)が登場します。もうお気づきのことでしょう、『信長公記』に出てくる「井出野」のことです

真名本『曽我物語』巻第七(妙本寺本)にみえる「伊出の屋形」


つまり織田信長の富士遊覧の地は、曽我兄弟の仇討ちの地と同じなのです。この地は『吾妻鏡』『信長公記』の他、『曽我物語』『富士野往来』といった多くの史料に登場します。


仮名本『曽我物語』(太山寺本巻第五)より

つまり大河ドラマ2作連続で同じ地域が、しかも大河ドラマ1話分に相当する規模で登場していることになります(「どうする家康」の方はどこまで出てくるかは分かりませんが)。もう上井出・神野は大河ドラマの常連地域のような勢いですが、これは偶然のようで偶然ではないように思います。富士の巻狩について(木村2018;p.19)は

では、なぜ、頼朝はわざわざ富士山麓の2箇所で巻狩りを行ったのだろうか。これは、近年、海老沼真治がそのルートを含めて詳細に検討しているように、藍沢と神野が甲斐国から駿河国・東海道へ出る2本の主要な交通路の出口であったからである。(中略)まさに甲斐源氏の甲斐国への封じ込めである。


としている。そして戦国時代も主要な交通路であることは変わりなく、だからこそ信長はこの街道を用いたのであり、そして駿河国を領することになった家康が対応しているわけです。なので2作連続で上井出・神野が登場したのは、偶然のようで偶然ではない。歴史の逸話がそもそも多い地域というわけです。徳川家臣団による「富士山木引」も、上井出の地ですね。


源頼朝(『月次風俗図屏風』第7扇「富士巻狩」より)

そして『信長公記』に「昔、頼朝かりくらの屋形立てられし、かみ井出の丸山あり」とあるように、富士の巻狩の際に源頼朝が狩倉の屋形を立てた「上井出の丸山」があったとしています。

  • 信長一行が休んだ「人穴」とは


「人穴」は世界文化遺産富士山の構成資産である「人穴富士講遺跡」にある洞穴のこと(図1の23)。中道往還沿いに所在し、ここに御茶屋が立てられ、信長一行は休憩した。


仁田忠常を描いた武者絵、左は富士浅間大菩薩が示現した様子


人穴も『吾妻鏡』に登場しており、良く知られている。その箇所を記す。

三日 己亥 晴 将軍家、渡御于駿河国富士狩倉彼山麓又有大谷〈号之人穴〉。為令究見其所、被入仁田四郎忠常主従六人。忠常賜御剱〈重宝〉入人穴。今日不帰出、幕下畢。


建仁3年(1203)6月3日に源頼家は駿河国の富士の狩倉に出かけた(=簡易版「富士の巻狩」のようなもの)。その山麓には大谷があり、「人穴」と呼ばれていた。頼家は人穴を調べるため仁田忠常と主従6人を向かわせた。忠常は頼家より剣を賜り人穴に向かったが、今日は帰ってこなかった。翌日については、以下のように記される。

四日 庚子 陰 巳尅 新田四郎忠常、出人穴帰参。往還経一日一夜也。此洞狭兮不能廻踵。不意進行、又暗兮令痛心神。主従各取松明。路次始中終、水流浸足、蝙蝠遮飛于顔不知幾千萬。其先途大河也。逆浪漲流、失拠于欲渡、只迷惑之外無他。爰当火光、河向見奇特之間、郎従四人忽死亡。而忠常、依彼霊之訓投入恩賜御剱於件河、全命帰參云云。古老云、是浅間大菩薩御在所、往昔以降敢不得見其所云々。今次第尤可恐乎云々。

意訳:4日になると忠常が人穴より帰ってきた。往復に一夜かかったという。忠常は人穴について述べる。「穴は狭く戻ることも出来なかったため前に進むことにしました。また暗く、精神的にも辛く、松明を持って進みました。水が流れ足を浸し、蝙蝠が飛んできて顔に当たり、それは幾千万とも知れず。その先に大河があり、激しく流れており、渡ることができませんでした。困り果てていたところ、火光が当たり大河の先に奇妙なものが見えた途端、郎党4人が突然死亡しました。忠常はその霊に従うことにし、賜った剣を投げ入れました。こうして命を全うして帰ってきました」と。古老が言うところによると、ここは浅間大菩薩の御在所であり、昔より誰もこの場所をみることができなかったという。今後はまことに恐ろしいことです。(意訳終)


「是浅間大菩薩御在所」の箇所は特によく知られているが、つまりは源頼家の富士の狩倉で登場する地である。

人穴(『文武二道万石通』より)


こう考えると織田信長は、意図的に「富士の巻狩り/狩倉」の史跡巡りをしているようにも思える。つまり織田信長の富士遊覧というのは、「富士の巻狩」(建久4年(1193)・源頼朝)「富士の狩倉」(建仁3年(1203)・源頼家)の史跡巡りが主軸であった可能性がある。

  • 富士山本宮浅間大社の社人の登場

信長が富士遊覧を行っているこの「富士上方」の地で最も有力な存在というのは、駿河国一宮の富士浅間宮(富士山本宮浅間大社)であり(図1の2)、その上位神職を務める富士氏である。

この時点での富士氏当主は富士信通であるが、先代の富士信忠は大宮城(富士城)の城主であった。

富士山本宮浅間大社(『絹本著色富士曼荼羅図』)


「大宮の社人、杜僧罷り出で、道の掃除申しつけ、御礼申し上げらる」の部分は、富士浅間宮の社人が道を掃除するなどして受け入れの準備をし、そして信長一行を出迎えたことを示す。甲斐の武田氏も滅び、織田信長の台頭が確実視されたことで、富士浅間宮の社人らは迎合する姿勢を見せているわけである。

  • 名所「白糸の滝」



名瀑である「白糸の滝」。世界文化遺産富士山の構成資産でもある(図1の24)。この時代から名所として知られていたことが伺えます。ただ書き方からすると、実際は訪問していないように思う。

  • 頻出する「大宮」について

『信長公記』によると12日の日程として「うき島ヶ原にて御馬暫くめさられ、大宮に至りて御座を移され侯ひキ」とあり、浮島ヶ原から大宮へ移ったとしているが、これは疑わしい。

何故なら「四月十三日、大宮を払暁に立たせられ、浮島ヶ原より足高山左に御覧じ」とあり、翌13日に大宮を発ち浮島ヶ原へ向かっているためである。これでは

神野ヶ原・井出野→人穴→浮島ヶ原→大宮→浮島ヶ原→蒲原

という、行ったり来たりの相当な無駄足になってしまう。足高山(愛鷹山)は浮島ヶ原から見える山であるから、13日に浮島ヶ原へ向かったのは肯定できる。従って、人穴の後は浮島ヶ原には移動していないであろう。この箇所は誤記であると考えられる。

もう少しこの誤記の背景について考えてみたいが、ここは浮島ヶ原ではなく「万野原」ではないだろうか。というのも羽倉簡堂『東游日歴』に

萬乃原、天正中、織田公甲南下令親兵試馬處

とあり、織田信長が富士遊覧の際に自身の兵に訓練を命じた場所として記されているためである(井上2017;p.69)。羽倉簡堂は書物等からこの知見を得ていたのではないだろうか。であるとすると、以下の道順となる。

神野ヶ原・井出野→人穴→万野原→大宮→浮島ヶ原→蒲原

この場合、何の違和感もない。

そしてここで、別のややこしい問題がある。「大宮」が何を指しているのか定かでない部分がある。大宮は、以下の2つの意味がある。

  1. 地名としての大宮(富士大宮)
  2. 富士浅間宮(富士山本宮浅間大社)

大宮が頻出するので、以下で一覧化した。

「大宮」の箇所
大宮の社人、杜僧罷り出で(①)
大宮に至りて御座を移され侯ひキ(②)
身方地、大宮の諸伽藍を初めとして(③)
大宮は要害然るべきにつきて(④)
四月十三日、大宮を払暁に立たせられ(⑤)

私は、これらすべてが「富士浅間宮」を指すとは思えない。『信長公記』は「本栖を未明に出でさせられ」「田中を未明に出でさせられ」といった書き方をしているが、⑤の「大宮を払暁に立たせられ」の場合も地名としての「大宮」を指しているように思われる。

④の「大宮は要害然るべきにつきて」も、「富士大宮の地は要害であるので」という意味で解釈したほうが自然であると考える。

  • 北条氏の動向

北条氏政

織田信長による甲州征伐に呼応した北条氏の動向も『信長公記』は記している。

今度、北条氏政御手合わせとして、出勢候て、高国寺かちやうめんに、北条馬を立て、後走の人数を出だし、中道を通り、駿河路を相働き、身方地、大宮の諸伽藍を初めとして、もとすまで悉く放火候。

興国寺城・鐘突免(共に静岡県沼津市)に陣を張った後出陣し、中道往還や駿州往還を進んで味方地の富士大宮の伽藍等をはじめとして本栖まで火を放ったとある。

「中道」とあるのが、今回信長一行が通ってきた中道往還のことである。「駿河路」とあるのは、武田信玄の駿河侵攻時に武田軍が用いた「駿州往還」のことである。富士上方はこの2つの街道が通る。

  • 接待に奔走する徳川家康

家康が並々ならぬ姿勢で接待をしていたことが分かる箇所が、以下の部分である。

大宮は要害然るべきにつきて、社内に御座所、一夜の御陣宿として、金銀を鏤め、それぞれの御普請美々しく仰せつけられ、四方に諸陣の木屋木屋懸けおき、御馳走、斜ならず

家康は富士山本宮浅間大社の社内に「御座所」を設けたわけであるが、わずか一夜の滞在にも関わらず、装飾すらも怠らない念の入れようであった。

徳川家康


御座所には金銀をちりばめ、御陣宿も抜かりなく建て、その四方に小屋を懸けおき、食事も豪華なものを用意したわけである。家康渾身の接待であっただろう。信長による安土での饗応の「対」をなすものと言って良いかもしれない。

  • 信長による礼

家康による渾身の饗しに対し、信長は返礼品を与えた。

品物詳細
脇指作吉光
長刀作一文字
黒駮


「何れも御秘蔵の御道具なり」とあり、相当な名品であることは間違いないだろう。この品々が現存するかどうかは私の方ではよくわからないが、家康の饗応はとりあえず成功と言えそうである。

翌日の13日には信長一行は富士大宮を出立している。その後は浮島ヶ原に向かい愛鷹山を見た後(これが東端となった)、富士川を渡河して蒲原へと移動している。

  • 参考文献
  1. 『改訂 信長公記』(1965),新人物往来社
  2. 木村茂光(2018)「頼朝政権と甲斐源氏」,『武田氏研究』58号
  3. 海老沼真治(2015)「甲斐源氏の軍事行動と交通路」,『甲斐源氏 武士団のネットワークと由緒』,戎光祥出版
  4. 井上卓哉(2017)「登山記に見る近世の富士山大宮・村山口登山道」『富士山かぐや姫ミュージアム館報』32号,

2023年1月1日日曜日

徳川家康および徳川家臣団と富士宮市・富士市

今年のNHK大河ドラマ「どうする家康」の主人公は、徳川家康である。




徳川家康は、現在の富士宮市域に何度も足を運んでいることが史料から知られる。そして、当地に関わる徳川家康文書も多く確認されている。

しかし今回は各徳川家康文書を見ていくのではなくて、大局的に①「武田征伐後」②「本能寺の変後」③「徳川家康の関東移封後」と大きく捉えていきたいと思う。これらはすべて天正期にあたる。その中で現在の富士宮市で起こった徳川家康およびその家臣団が関わる出来事について考えていきたい。

  • 武田征伐後

天正10年(1582)4月、甲斐の武田氏を滅亡させた織田信長はその帰路で中道往還を用いて富士大宮(富士宮市)へと到る。そして同盟者である家康もこのとき出向いている。その様子が『信長公記』に記されている。

織田信長

『信長公記』は天正10年4月12日の動向を

富士のねかた かみのが原 井出野にて御小姓衆 何れもみだりに御馬をせめさせられ 御くるいなされ 富士山御覧じ御ところ、高山に雪積りて白雲の如くなり。誠に希有の名山なり、同、根かたの人穴御見物。爰に御茶屋立ておき、一献進上申さるる。大宮の社人、杜僧罷り出で、道の掃除申しつけ、御礼申し上げらる。昔、頼朝かりくらの屋形立てられし、かみ井出の丸山あり、西の山に白糸の滝名所あり。此の表くはしく御尋ねなされ、うき島ヶ原にて御馬暫くめさられ、大宮に至りて御座を移され侯ひキ。今度、北条氏政御手合わせとして、出勢候て、高国寺かちやうめんに、北条馬を立て、後走の人数を出だし、中道を通り、駿河路を相働き、身方地、大宮の諸伽藍を初めとして、もとすまで悉く放火候。大宮は要害然るべきにつきて、社内に御座所、一夜の御陣宿として、金銀を鏤め、それぞれの御普請美々しく仰せつけられ、四方に諸陣の木屋木屋懸けおき、御馳走、斜ならず。爰にて、一、御脇指、作吉光。一、御長刀、作一文字。一、御馬、黒駮。以上。家康卿へ進めらる。何れも御秘蔵の御道具なり。四月十三日、大宮を払暁に立たせられ、浮島ヶ原より足高山左に御覧じ…

と記す。ここに見える行程を記すと

本栖→(ここから駿河国)→神野・井出→人穴→浮島ヶ原→大宮→浮島ヶ原→蒲原

となる。ここで人穴の後に「浮島ヶ原」が出てくるのはおかしいので、地名を誤ったのであろう(※原本要確認)。少なくとも、中道往還を上から降ってきていることは明らかである。また三条西実枝『甲信紀行の歌』の記録と併せて考えると、神野は井出より北部に位置すると思われる。なので「本栖→神野→井出」としても良いように思われる。

大宮を発った後に浮島ヶ原に向かい、その後富士川を超え庵原郡の蒲原に入ったとすれば行程に違和感はないため、実際の行程は

本栖→(ここから駿河国)→神野・井出→人穴→大宮→浮島ヶ原→富士川渡河→蒲原

というものであったのだろう。以下では『信長公記』の内容をもう少し見ていきたい。

滅亡へと追いやられた武田氏の領国である甲斐国を超え、信長一行は駿河国に入る。気の緩みからか、神野ヶ原・井出野での小姓たちの自由な行動が記される(ちなみにこの「神野」は『吾妻鏡』にて曽我兄弟の仇討ちが行われた地として記される。『曽我物語』の方は「井出」としている。両方の地名が確認できる点からも重要な記録と言える)。

一行は人穴を見物し、ここに休憩所を設ける。その後浅間大社の社人たちが信長の元を訪れている。また源頼朝が狩倉の屋形を立てた「かみ井出の丸山」があったとする。「白糸の滝名所あり」と記し、白糸の滝がこの時代も名所として知られていたことが読み取れる。(この後浮島ヶ原に行ったとある)

また後北条軍の当地でのこれまでの動向を記し、中道往還や駿州往還を進んで大宮の伽藍等を焼き払い、更に本栖方面まで放火したとある。後北条氏が織田方の甲州征伐に呼応して武田領へ進軍したことを示している。「身方地、大宮の諸伽藍を初めとして」とあるが、ここでの「大宮」は「富士大宮」全体を指していると考えられる。

その後の「大宮は要害然るべきにつきて」であるが、"富士大宮は要害の地であるため、その富士大宮に位置する浅間大社に御座所・御陣宿を設けた"という解釈ではないかと思う。浅間大社を要害といっているのではなく、富士大宮という地を要害と述べ、御座所・御陣宿を設けるにふさわしい地であるという解釈が自然であろう。

また、浅間大社にて信長は家康に秘蔵の道具類を授けたことが記されている。その後は浮島ヶ原→蒲原へと向かっている。

『家忠日記』によると

天正10年4月11日条: 大宮まで帰陣候
翌12日条: 上様大宮まで御成候

とある。「帰陣」したのは松平家忠一行で、「上様」とは織田信長を指す。つまり『信長公記』と『家忠日記』の内容は一致していると言える。従って、この一連の記述はかなり信憑性が高いと言えるだろう。

  • 本能寺の変後

『家忠日記』天正10年(1582)7月8日条に「家康は大宮金宮迄着候」とある。家康は「本能寺の変」後に不安定となっていた織田領の信濃国へ向かう過程で大宮の「金宮」を通っている。

「金宮」は富士宮市淀師金之宮のことで、永禄12年(1569)12月17日「北条氏政判物」に

一所 よとし  金宮  とかみ

とあることでも知られる。「淀師」「金宮」「外神」が「一所」として記されていることから考えても、現在の富士宮市淀師金之宮を指すと考えてよいだろう。

またここで気になることがある。「上様大宮まで御成候」とあるように、家忠は織田信長のことは敬称で記しているが、一方で主君の家康のことは「家康は大宮金宮まで着候」と呼び捨てにしていることである。松平一族(出身)から見たとき、家康の存在はまだ敬称をつけるに相応しいとは考えられていなかったのだろう。しかしその後は敬称が認められるというので、立場の変化で周辺の受け止め方も変わっていったとみられる。

この年の家康の動きは大変なもので、本能寺の変後の天正10年(1582)6月から7月にかけて大坂→伊賀越→三河→遠江→駿河→甲斐→信濃を移動している。遠江・駿河・甲斐は浜松-掛川-江尻-大宮-精進-甲府と移動しているので、家康は東海道から中道往還に入っていることが分かる。

また『家忠日記』天正17年(1589)8月28日条に「殿様昨日大宮迄御成候」とある。以下で説明する「富士山木引」の最中に家康が富士大宮を通り、甲府へと向かっている。これも、中道往還が該当する。中道往還が重要な街道であったことが分かり、このイメージが重要ではないと思う。

  • 富士山木引

徳川家康家臣団の動きとして特筆すべきものに「富士山木引」がある。以下にその過程を記す。期間が極めて長いため、"木引き→川下し→吉原"の流れが把握できる箇所までを抜粋という形で記す。すべて『家忠日記』に見える内容である。


日時内容
天正17年(1589)7月9日家忠、富士山麓へ木引へ向かうよう指示を受ける
同19日家忠、普請の人夫を大宮まで向かわせる
同年8月3日賀島(現在の静岡県富士市)の舟手が来る家忠は上井出の小屋に到着(賀島の舟手は、おそらく富士川の渡河を意味すると思われる)
同4日家忠は酒井家次の普請組に入る(※前日の情報では井伊直政の普請組に入るとの情報であった)
同5日木引をしたが成果は乏しい
同6日雨のため道作りに留まる
同7日木引きで少し木を出す
同8日木引きを130人規模で行う
同9日木引きを進める
同10日木引きを進める。家忠、松平伊昌と朝比奈十左衛門をもてなす
同11日雨天中止
同12日木引きを進めるも雨降る
同13日雨天中止
同14日雨天中止
同15日木引きを進めるも雨降る
同16日木引きを進めるも雨で中止
同17日大木の調達が必要となったため、平岩親吉と酒井家次の組を動員することとなる。大木の木引きのための道作りを行う
同19日木引きを行う
同20日大木を引く。雨天
同21日木引きを行う。雨天
同22日材木調達。雨天
同23日木引きを進めるも雨で中止
同24日木引きを行う
同25日富士山に雪積もる。105人体制で木引き。
同26日富士山に雪積もる。木を上井出の小屋場に引き出す
同27日材木調達
同28日材木調達。家康が昨日大宮に到着、家忠は甲府へ向かう道筋まで出向いた
同29平岩親吉普請組の大木を平岩親吉と酒井家次の二組で沼久保まで引き出す手筈となり、その道まで引いた
同30日木引きを行う。大木を大き(註:青木に比定)まで引き出す
同年9月1日木引きを行う
同2日木引きを行う
同3日木引きを行う
同4日木引きを行う。沼久保の川へ木を運び入れる
同5日二十町分の材木を川下しした
同6日二十町分の材木を川下しした。夜より雨。
同7日洲に引っ掛かり川下しできず
同8日昼まで雨。雨による増水で木が流れる
同9日水深が浅く川下しできず。陸地を引いて運ぶ。野田衆と信州松尾衆間で喧嘩あり。
同10日木引きを行う
同11日木引きを行う
同12日木を吉原まで引き届けた。そこから舟に届ける。
同13日夜より雨。家忠、大宮へ帰る。
同19日木引きを行う。家忠は保科正直の小屋に陣替。


これらを見ると、駿河国富士郡の各地名が確認される。富士上方が「大宮」「上井出」「沼久保」「大き(青木)」であり、富士下方が「賀島」「吉原」である

松平家忠は9月2日時点では興津に居た。同3日に「賀島の舟手」とあるのは、富士川を渡河したことを示すと思われる。渡河後に北上し、富士上方の上井出に到着したわけである。

松平家忠

8月3日条に上井出の「小屋場」とあるが、同26日条でこの小屋場に木を引き出していることが分かるので、小屋場は木を集めておく場所であることが分かる。

そしてこの木引き事業には有力家臣が参加しており、松平家忠をはじめ酒井家次・井伊直政・本多忠勝・松平伊昌・平岩親吉・保科正直・奥平信昌・菅沼定盈・西郷家員・設楽貞通といった名だたる武将の名が見える。これらは全員富士上方一帯に居たと見てよいだろう。


井伊直政

また天正18年(1590)3月23日にも別件で「天神山」の材木を引いた記録が残るが、この天神山は上井出の山のことである。


天神山

天正18年の2月から3月にかけて富士郡・駿河郡は特筆すべき動向が認められるので、『家忠日記』より内容を引用する。


日時内容
天正18年(1590)2月10日徳川家康、賀島(静岡県富士市)まで到る
同13日松平家忠、吉原(静岡県富士市)の御茶屋の材料担当となる。材木の調達を進める
同14日家忠、吉原への陣替を命じられる
同15日家忠、吉原に陣替する
同16日家忠、御茶屋の材木調達を行う    
同年3月14日家忠の元に豊臣秀吉が吉原まで御成になるとの情報が入ったため、吉原に御陣屋の設営に向かう
同16日家忠、吉原の御陣屋の設営を行う
同18日家忠、材木調達を行う
同19日家忠、吉原の御陣屋を更に拡大させる
同20日家忠、吉原の普請に人員を向かわせる
同23日天神山(富士宮市上井出)にて材木を引く
同24日引き続き材木を引く
同26日豊臣秀吉、吉原に到る
同27日秀吉、沼津に到る
同29日山中城(三島市)を豊臣秀次が攻め落とす

 

ここで何故吉原に陣が敷かれたり御茶屋が設けられたりしたのかという点について、少し考えてみたい。

この天正18年2月というのはまさに「小田原征伐」が開始された時であり、そのために秀吉は東海道を用いて東国に遠征しているのである。そして吉原に御陣屋や御茶屋が設けられたということは、ここを「滞在場所」として想定していることになる。これは吉原周辺が安全地帯の東端に近いためであると思われる。

吉原や沼津が徳川方の領地であり、それより東に至ると後北条氏の手が及んでいるわけである。そのため吉原はその「境目」に位置すると言える。

そもそも吉原は、今川氏と後北条氏との争いの時点で既に「境目」としての位置づけがあったように思われる。例えば「駿甲相三国同盟」の際、武田信玄の長女である「黄梅院」が後北条氏側に引き渡されたのは「上野原」であり、これは武田領国と北条領国の境目である。また北条氏康長女である「早川殿」は、やはり今川領国と北条領国の境目である「三島」で引き渡されたのである。

沼津・三島が境目に該当し、そこに近接する吉原も同様の性質があったと思われるのである。吉原は今川領国と北条領国の境目の地に近接する緩衝地に近い役割があったと考えられる。

また「河東の乱」時の富士下方の動向が『快元僧都記』に見出だせる。北条氏綱は今川義元との対立にあたり吉原に着陣した。天文六年四月廿日条の記録によると、富士下方には「吉原之衆」がおり、これらは北条氏側に加担し今川氏と対立していたと見られる。このように着陣地になる所以は今川領国と北条領国の境目に近接するためと考えられる。「第二次河東の乱」時も北条氏は吉原に着陣しており、同様の現象が確認できる。(池上1991)に以下のようにある。

天文14年正月、宗牧が駿府から熱海に向かうに当たり、「吉原城主狩野の介・松田弥次郎方へ」飛脚を出していること、蒲原から吉原に向う舟の上から「吉原の城もま近く見え」ていたことなど(『東国紀行』)から、北条方は吉原城に拠って河東を軍事的に支配していたと考えられる。吉原城は、北条の「駿州半国」支配の最前線に位置したのである 

しかし天文14年(1545)8月に今川義元が河東に入り、その後援軍要請を受けた武田信玄も駿河に入り大石寺(静岡県富士宮市)に着陣。今川軍と武田軍の合流を察した後北条軍は吉原城を放棄し三島へと後退した。その後、後北条氏は和睦を提案し、武田氏が両者を仲介した。『勝山記』は天文14年の様子を以下のように記す。

此年八月ヨリ駿河ノ義元吉原ヘ取懸被食候、去程二相模屋形吉原二守リ被食候、武田晴信様御馬ヲ吉原ヘ出シ被食候、去程二相模屋形モ大義思食候、三島へツホミ被食候、諏訪ノ森ヲ全二御モチ候、武田殿アツカイニテ和談被成候…


とあり、吉原が最前線であったことが分かる。ここに、吉原固有の重要な性質を感じ取ることができる。この小田原征伐の場合、沼津や吉原が「境目」に該当すると言って良い

富士山木引の話に戻るが、この富士山木引で注目されるのは材木の運搬を富士川を用いて行っている点である。洲に引っかかったり水深が浅く運搬できない日もあったようであるが、富士川水運の早例と言えるであろう。記録から、以下のような手順であったことが分かる。

まず富士山で伐採された材木は上井出の小屋に集められる。


上井出


そして大き(青木)まで引き出す。


青木

そこから富士川流域の沼久保まで引き出し、川下しする。


沼久保


そして吉原まで届けられる。川下しでどこまで材木を運搬できたのかは必ずしも明瞭ではないものの、富士川を用いて運搬を行った事実は読み取れる。と同時に、まだ技術と経験不足を示す内容となっているとも言える。


本多忠勝


このような富士川を用いた水運、すなわち「富士川水運」ないし「富士川舟運」と呼ばれるものは、近世が初例とされることも多い。しかしその解釈は誤りであると言ってよいだろう。公権力が組織的に富士川水運を行っている事例が『家忠日記』から確認できる。


  • 徳川家康関東移封後の富士宮市
天正18年(1590)8月に豊臣秀吉は徳川家康を関東へ移封する。従って、駿河国は豊臣領となった。そこで確認される特徴的な動向に「豊臣秀吉朱印状による寺社領の安堵」が挙げられる。しかも多くが同年12月28日に一斉に行われているという点でかなり特徴的である


豊臣秀吉


それを一覧化する(富士宮市内の寺社に限る、天正18年(1590)のもの)。

石高
富士大宮司・社人領412
富士浅間宮(富士山本宮浅間大社)380
別当宝幢院122
富士氏公文領77
辻之坊75
北山本門寺50
富士段所与八郎45
富士氏案主領34
先照寺16
大悟庵9
安養寺7


ちなみに富士山本宮浅間大社に関しては、天正19年(1591)に駿府城主「中村一氏」による直判で1077石が安堵されている。一社でこの石高は相当なものである。

中村一氏

これは豊臣秀吉朱印状の380石を大きく逸脱しており、また富士大宮司・社人領の412石で考えても逸脱していると言えるのであるが(松本2020;p.6)、翌年にあえて中村一氏による直判文書が発給されていることから考えると、1077石が正しいのだろう(これらを合わせたものとも考えられる)。どちらにせよ、同社の権威の大きさを感じるものである。

また富士浅間宮の「富士大宮司」「公文」「案主」「社人」「宝幢院」といった神職は分かるが、「(富士)段所」の立場はよく分からないものがある。

これら一連の寺領安堵から、徳川家康の影響力が排除され、豊臣権力が確実に流入していることが分かる。天正期の目まぐるしい変移が感じられるものである。

  • 参考文献
  1. 久保田昌希(2019),「井伊直虎・直政と戦国社会」『駒澤大学禅文化歴史博物館紀要 (3)』
  2. 松本和明(2020),「駿河国における朱印寺社領成立について」『人文論集』 71(1)
  3. 池上裕子(1991)「戦国期における相駿関係の推移と西側国境問題―相甲同盟成立まで―」 『小田原市郷土文化館研究報告』27号

2022年1月9日日曜日

大河ドラマ主人公で富士宮市に来た歴史的人物について

静岡県富士宮市は交通の要衝ということもあり、多くの武将がこの地を訪れている。富士宮市に来ることをしばしば「来宮」と言ったりしますが(※歴史用語では決してないです)、以下来宮歴のある歴史的人物を取り上げていきたいと思います。

しかし対象に制限がないと膨大な人数となってしまいますので、今回は「大河ドラマ主人公」に絞って考えていきたいと思います(一部伝承的な部分も含みます)。


  • 北条義時
北条義時

作品:2022年「鎌倉殿の13人」

北条氏に関しては来宮歴がある人物がかなり多いです。義時の父「北条時政」も来ていますし、義時の長男「北条泰時」も富士宮市に来ています。時政と義時は「富士の巻狩」の際に、泰時は「駿河守」在任時に富士山本宮浅間大社を参拝している記録からも確実視されます。

出典:『吾妻鏡』

建久4年(1193年)5月8日条 
 将軍家、富士野藍澤の夏狩を覧んがために駿河国に赴かしめたまふ 江間殿(北条義時)・上総介…
同16日条
 江間殿(義時)餅をぜしめたまふ。この餅三色なり。(中略)上総介・江間殿・三浦介以下、多くもって參候す

以下、現代語訳。

建久4年(1193年)5月8日条 
 源頼朝が富士野・藍澤の夏狩をご覧になるために駿河国に赴かれた。北条義時・足利義兼(以下御家人が羅列される)…
同16日条
 北条義時は餅を献上された。この餅は三色であった。(中略)足利義兼・北条義時・三浦義澄以下多くの人物が参じた

参考ですが、以下は義時の嫡子である「北条泰時」の和歌です。


詞書:
駿河国に神拝し侍けるに、ふじの宮によみてたてまつりける

和歌:
ちはやぶる神世のつきのさえぬればみたらしがはもにごらざりけり

「みたらしがは」は「御手洗川」で、現在の「湧玉池」のことです。以下のような意味になります。

詞書(訳):

「駿河の国に神社を参拝して回りましたときに、富士の宮に詠んで奉納した」

和歌(訳):

「神世の月が冴え冴えと澄んだので、御手洗川も濁らないのであったよ」

詞書に「富士の宮」とありますが、これは富士山本宮浅間大社のことであり、富士宮市の市名の由来となっています。『今昔物語集』にも「富士宮」は出てきます。

『吾妻鏡』建保7年(1219)3月26日条に

辛酉 駿州かの国に下著したまふ。これ富士浅間宮以下の神拝のためなり。

とあります。この記録は、北条泰時が富士山本宮浅間大社に参拝したことを示しています。上の和歌はこのとき詠んだものと推測されます。そしてそれが勅撰和歌集のうち『新勅撰和歌集』に収録されるに至っています。

勅撰和歌集ともなると知名度が高いようであり、小山田与清『松屋棟梁集』でも言及されています。ちなみに与清は同作の中で広義の意味での「富士」に対する考察を行っていますが、大変参考になるものとなっています。

ふじの宮

「ふじの…」の部分は分からないかもしれませんが、「」は一見してもわかりやすいと思います。詳細は「歌集や説話集にみられる富士宮」にて。

また参考として挙げますが、飛鳥井雅有の『春の深山路』に

潤川、これは浅間大明神宝殿の下より出でたる御手洗の末とや

とあります。まさに湧玉池のことでありますが、かなり正確な記述となっています。浅間大社境内の湧玉池から水が出て潤井川へ繋がっているということが記されており、実際に則したものとなっています。

  • 足利尊氏
足利尊氏

作品:1991年「太平記」 

足利尊氏に関しては、少なくとも"かなり近接していた"と確実に言えるという意味でここに含めた。「観応の擾乱」の過程の「桜野・内房の戦い」にて足利直義軍は内房(富士宮市内房)に布陣しており、尊氏は南側の桜野に布陣していた。


また、尊氏直筆とされる正平6年(1351)12月15日「軍勢催促状」(小笠原政長宛)のなぐり書きの文書が印象的である。

正平6年(1351)12月15日、足利尊氏「軍勢催促状」



その文書にも「うつぶさ」と見える。詳細は「観応の擾乱における薩埵山の戦い再考と桜野・内房の地理」にて。

北条義時の頁で「足利義兼」が出てきましたが、義兼は足利氏2代目で尊氏は8代目にあたります。足利家、本当に大出世しましたね。

  • 徳川家康
徳川家康

作品:1983年「徳川家康 」/2000年 「葵 徳川三代」/2023年「どうする家康」(予定)

出典:『信長公記』『家忠日記』『武徳編年集成』等

家康の来宮の記録は数多くあります。

天正10年(1582年)8月7日条「家康は大宮金宮迄着候」(『家忠日記』)
天正17年(1589)8月28日条「殿様昨日大宮迄御成候」(『家忠日記』)

他。


上の画像は『家忠日記』より。『信長公記』の記録は「織田信長」の項にて。

  • 武田信玄
武田信玄

作品:1988年「武田信玄」 


  • 織田信長

織田信長

作品:1992年 「信長 KING OF ZIPANGU」

出典:『信長公記』巻第十五

少し長くなりますが、以下で引用します。

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富士のねかた かみのが原 井出野にて御小姓衆 何れもみだりに御馬をせめさせられ 御くるいなされ 富士山御覧じ御ところ、高山に雪積りて白雲の如くなり。誠に希有の名山なり、同、根かたの人穴御見物。爰に御茶屋立ておき、一献進上申さるる。大宮の社人、杜僧罷り出で、道の掃除申しつけ、御礼申し上げらる。昔、頼朝かりくらの屋形立てられし、かみ井出の丸山あり、西の山に白糸の滝名所あり。此の表くはしく御尋ねなされ、うき島ヶ原にて御馬暫くめさられ、大宮に至りて御座を移され侯ひキ。今度、北条氏政御手合わせとして、出勢候て、高国寺かちやうめんに、北条馬を立て、後走の人数を出だし、中道を通り、駿河路を相働き、身方地、大宮の諸伽藍を初めとして、もとすまで悉く放火候。大宮は要害然るべきにつきて、社内に御座所、一夜の御陣宿として、金銀を鏤め、それぞれの御普請美々しく仰せつけられ、四方に諸陣の木屋木屋懸けおき、御馳走、斜ならず。爰にて、一、御脇指、作吉光。一、御長刀、作一文字。一、御馬、黒駮。以上。家康卿へ進めらる。何れも御秘蔵の御道具なり。四月十三日、大宮を払暁に立たせられ…

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極めて興味深い内容である。おそらく駿河国に入って気が緩んだのであろう、小姓たちの自由な行動が記される。織田信長は人穴を見物し、ここに休憩所を設け休んでいる。その後浅間大社の社人たちが信長の元を訪れている。また源頼朝が狩倉の屋形を立てた「かみ井出の丸山」があるとも述べている。「白糸の滝名所あり」とも記し、白糸の滝がこの時代も名所として知られていたことが分かる。

また北条氏政の動向を記しているが、「中道」とあるのは中道往還のことであり、「駿河路」は「駿州往還」が該当する。そして「身方地、大宮の諸伽藍を初めとして」とあるが、ここでの「大宮」は「富士大宮」全体を指していると考えられ、後北条軍が富士大宮の各寺院に放火したことを記していると考えられる。

また「大宮の社人」の「大宮」は「富士山本宮浅間大社」を指す。「大宮は要害然るべきにつきて」は人によって解釈が分かれそうなところではあるが、"要害の地に浅間大社があるので防衛上問題がない"ということを示していると思われる。

また浅間大社の社内に豪華絢爛な宿を設けたことが記され、徳川家康に秘蔵の道具類を授けたことが記されている。これは家康にとっても忘れられぬことであっただろう。織田信長から徳川家康に与えられたものであるので相当の名品であると思われるが、これらの品が現存するのかどうかまでは分からなかった。

曽我兄弟の仇討と富士宮市・富士市、鎌倉殿の意図考」でも一部引用して検討しています。

  • 徳川慶喜
作品:1998年 「徳川慶喜」 

調査中。「狩宿の下馬桜」で和歌を詠んだ伝承あり。詳細不明。

  • 山本勘助
山本勘助


作品:2007年「 風林火山」 

出典:『甲斐国志』。「来宮」というよりは、出生地として記されている。

  • その他
以下に、大河ドラマ主人公ではないものの著名な人物であり、且つ来宮歴(富士宮市に目的を持つ)のある人物を記します(ほんの一部です)。

井伊直政

  • 源頼朝以下「富士の巻狩」の面々
  • 平兼盛
  • 三条西実枝
  • 松平家忠
  • 井伊直政 

井伊直政については「富士山木引と沼久保の川下しに見る富士川舟運」にて説明しています。「富士川舟運は近世に入ってから」というあまりにも意味が分からない前提の下で注目されてはいないが、紛れもなく富士川舟運の早例であり注目される。

意外と思われるかも知れませんが、今川義元・今川氏真・北条氏康・北条氏政は来宮歴が無いと思われる。

  • おわりに
富士上方(≒静岡県富士宮市)は多くの名の知れた武将が来ています。例えば「三英傑」で来宮歴が無いのは「豊臣秀吉」のみです。秀吉は当地との関与が無いわけではありません。例えば秀吉は天正18年(1590)12月28日に、富士上方の各社寺の所領安堵を一気にまとめて行っていることが知られています。しかし「来宮」かというと、そうではないです。

しかしながら多くの人物が当地に来ています。この背景として富士大宮が「交通の要衝であった」ことが先ず挙げられます。例えば足利直義軍は何故内房付近に布陣したのでしょうか?内房は駿州往還の通過地であり進軍しやすく、敗した際は逆に退路としても早期に退却できるからなのです。大軍は街道を経てでないと撤退できません。

織田信長は何故富士宮市を通ったのか?それは中道往還という大道が通っているからです。信長一行は大軍ですし、大道でなければ通過などできません。大河ドラマの登場人物で「この人物は自分の住んでいる地域に来たことがあるのか」という視点で考えるのも面白いです。

2019年12月28日土曜日

徳川家康と織田信長の富士宮市での動きについて

今回は『家忠日記』から徳川家康の富士大宮(現在の静岡県富士宮市)での動向を取り上げたいと思う。『家忠日記』は松平家忠の日記であり、家忠は家康の家臣であるため、同日記は徳川家康の動向に詳しい。それ故に三河国や遠江国・駿河国の動向にも明るい史料と言える。

松平家忠

天正10年(1582)4月に武田氏を滅亡させた織田信長は中道往還を用いて富士大宮(富士宮市)へと至っている。そしてこのとき家康も出向いていたため、『信長公記』と『家忠日記』の記録は一致してくるはずである。以下で実際に確認していきたいと思う。

織田信長
家忠日記の天正四年四月小 十一日条には「大宮まで帰陣候」とあり、また十二日条には「上様大宮まで御成候」とある。


上様とは織田信長のことであり、帰陣したのは松平家忠であると考えられる。家忠日記は織田信長が4月12日に大宮に着いたとしている

一方『信長公記』は天正10年4月12日の動向を

四月十二日…(中略)大宮の社人、杜僧罷り出で、道の掃除申しつけ、御礼申し上げらる。(中略)大宮に至りて御座を移され侯ひキ。(中略)大宮は要害然るべきにつきて、社内に御座所、一夜の御陣宿として、金銀を鏤め、それぞれの御普請美々しく仰せつけられ、四方に諸陣の木屋木屋懸けおき、御馳走、斜ならず。爰にて、一、御脇指、作吉光。一、御長刀、作一文字。一、御馬、黒駮。以上。家康卿へ進めらる。何れも御秘蔵の御道具なり。四月十三日、大宮を払暁に立たせられ

と記し、『家忠日記』と『信長公記』の記述は日時が完全に一致している。

中道往還
また徳川家康は度々大宮を訪れており、天正10年7月8日には「家康は大宮金宮迄着候」とあるため大宮の金宮に至っていた。このときの甲斐国は明確に領主が存在せず、これを好機とみた家康が甲斐国に侵攻するため富士大宮を通過したのである。

徳川家康
この大宮の金宮は淀師の「金ノ宮」のことである。家康は中道往還沿い(中道往還より少し西側)で進軍したのである。


この「金宮」であるが、これは淀師の金宮のことである。


永禄12年(1569)12月17日に北条氏政は、本意を遂げた際には富士信忠に富士上方一円を知行すると約束している。その知行地の中に「金宮」があり、これが該当する。この古文書は良く知られ、当時の富士上方の地名が多く確認できる重要なものである。ちなみに「淀師」「金宮」「外神」はそれぞれ隣接しており、富士宮市でも西部の旧富丘村に該当する。

北条氏政
また天正17年(1589)8月28日に「殿様昨日大宮迄御成候」とあるため、8月27日に家康は大宮に居たようである。



このように記録を見ていくと、富士大宮に家康が来るようになるのは武田氏滅亡後に多いということが言える。これは武田氏滅亡で家康が駿河国を領したことに関係する。また富士大宮は交通の要衝であるためである。

富士山木引と沼久保の川下しに見る富士川舟運

『家忠日記』には富士山における木引の記述がある(富士山木引普請)。「木引」は木を伐採し木材を調達する行為のことです。


天正10年(1582)に武田氏は滅亡し、徳川家康は駿河国を領した。それに伴い家康の大宮(現在の静岡県富士宮市)での動向が増えているが、徳川による富士山での木引は武田氏滅亡以後且つ小田原征伐以前辺りから駿河国にて行われているようである。もっともそれより早期である可能性は否めないが、家忠日記の記録としてはそのように言える。

以下も富士山での木引を記す箇所であるが、興味深いのは富士山木引の際に「かしま」(=「加島」)の舟手が来ていることである。この「かしま」についてであるが、鹿島(愛知県蒲郡市鹿島町)に比定する論もある。しかし富士山での木引普請のために家忠は天正17年(1589)8月2日に興津におり、その後加島から舟手が来たというタイミングを考えると、富士郡の加島が順当かと考える。



ご存知のように加島は富士川氾濫原に位置しており、この当時の加島に舟手が居たことは必然と言える。当時の加島は富士川の派川が入り組んだ地であったと推察されており、互いの地を舟で行き交ってもいたと考えられる。富士下方は吉原湊周辺以外も水場で満たされていた地であったと考えた方が妥当である(「富士市の島地名と水害そして浅間神社」)。

『富士川を渡る歴史』より

富士山木引の際は上出(=「上井出」)の地名が複数確認でき、上井出には小屋場があり、また木引で得た木を集める場所であったようである


この8月3日条には井伊直政も木引に参加していることが記されている。この部分について久保田(2009)は以下のように記している。

⑥と⑦ですが、これは京都方広寺の大仏殿建立のために、既に一六年頃から始まっていますが、富士山麓で木引、つまり材木を徴発するということで家忠も直政も動員され出かけていくんです。最初に家忠は、直政の組となっていたのですが、八月四日に、これは間違いであったということで、酒井宮内の組に入ったという記事です。編成の違いもあったようですけれども、直政も家忠も、ともに方広寺の大仏殿の材木の木引に参加している。そうした縁もあり、富士山麓という場所で、両者はお互いに振る舞いをうけたり、揃って他の家康重臣の振る舞いをうけた様子が⑧や⑨の記事から想起されます。

としている。つまりこの富士山木引には「松平家忠」「井伊直政」「酒井家次」らが参加していたのである

井伊直政
また以下にも上井出の小屋場に木引の木を引き出したとある(8月26日)。


またこの後の記述は大変興味深い。この木引の木をどうやって運搬しているのかが記されているためである。

上井出

まずこれら大木は「大き」(=「青木」に比定される)まで引き出されている(8月晦日)。

青木



その後も木引は繰り返され、それらは沼久保へと運ばれているのである。

沼久保
そもそも8月29日の時点で沼久保まで引き出すという話し合いがなされていた。


そして9月4日の時点で沼久保まで運ばれているのである。


つまり上井出→青木→沼久保と木を運搬しているのである。


なぜ沼久保であるかというと川下し(ほぼ舟運と同義である)にて木を運ぶためである。



しかし川下しも難儀であったようで、下しに失敗することもあった。その後何処に運ばれているかというと、その場所は吉原なのである。

つまり

富士山木引→上井出に集約→青木→沼久保→川下し→吉原

という手順なのである。



当時の富士川は現在よりも流域は東であったため、富士川の川下しで加島まで至り、そこからは陸路で吉原まで運搬したと考えるのが妥当である。例えば『駿河志料』の鈴川の頁、「木元権現社」には「此地は、元富士河の辺なれば」とある。依田原の頁には「もと富士河の岩本より東へ流れし頃」とある。


そう考えると、やはり加島の舟手とは「富士郡の加島」を指すと考えて良いと思われる。吉原に届けられた木は吉原湊から更に西へと運搬されるのである。

木材のような重量物を運ぶ場合、中道往還だけで完遂させるのではなく沼久保まで運び舟運を用いている点は興味深い。しかしこれは合理的なのである。上述したように旧来は富士川の流域はより東側であった。つまり現在と比して"より吉原側"であったのである。つまり沼久保から富士川舟運で川下しを行うと、加島でもより吉原に近接した箇所までは舟運で運ぶことができたと考えられるのである。これが中世には既に行われていたという点は重要であると言え、権力者が主導した富士川舟運の先駆的なものと位置づけることができると思う。

  • 参考文献
  1. 中川三平,『現代語訳 家忠日記』,2019
  2. 久保田昌希,「井伊直虎・直政と戦国社会」『駒澤大学禅文化歴史博物館紀要 (3)』,2019
  3. 富士市立博物館,『富士川を渡る歴史』(第47回企画展),2009