2019年12月28日土曜日

徳川家康と織田信長の富士宮市での動きについて

今回は『家忠日記』から徳川家康の富士大宮(現在の静岡県富士宮市)での動向を取り上げたいと思う。『家忠日記』は松平家忠の日記であり、家忠は家康の家臣であるため、同日記は徳川家康の動向に詳しい。それ故に三河国や遠江国・駿河国の動向にも明るい史料と言える。

松平家忠

天正10年(1582)4月に武田氏を滅亡させた織田信長は中道往還を用いて富士大宮(富士宮市)へと至っている。そしてこのとき家康も出向いていたため、『信長公記』と『家忠日記』の記録は一致してくるはずである。以下で実際に確認していきたいと思う。

織田信長
家忠日記の天正四年四月小 十一日条には「大宮まで帰陣候」とあり、また十二日条には「上様大宮まで御成候」とある。


上様とは織田信長のことであり、帰陣したのは松平家忠であると考えられる。家忠日記は織田信長が4月12日に大宮に着いたとしている

一方『信長公記』は天正10年4月12日の動向を

四月十二日…(中略)大宮の社人、杜僧罷り出で、道の掃除申しつけ、御礼申し上げらる。(中略)大宮に至りて御座を移され侯ひキ。(中略)大宮は要害然るべきにつきて、社内に御座所、一夜の御陣宿として、金銀を鏤め、それぞれの御普請美々しく仰せつけられ、四方に諸陣の木屋木屋懸けおき、御馳走、斜ならず。爰にて、一、御脇指、作吉光。一、御長刀、作一文字。一、御馬、黒駮。以上。家康卿へ進めらる。何れも御秘蔵の御道具なり。四月十三日、大宮を払暁に立たせられ

と記し、『家忠日記』と『信長公記』の記述は日時が完全に一致している。

中道往還
また徳川家康は度々大宮を訪れており、天正10年7月8日には「家康は大宮金宮迄着候」とあるため大宮の金宮に至っていた。このときの甲斐国は明確に領主が存在せず、これを好機とみた家康が甲斐国に侵攻するため富士大宮を通過したのである。

徳川家康
この大宮の金宮は淀師の「金ノ宮」のことである。家康は中道往還沿い(中道往還より少し西側)で進軍したのである。


この「金宮」であるが、これは淀師の金宮のことである。


永禄12年(1569)12月17日に北条氏政は、本意を遂げた際には富士信忠に富士上方一円を知行すると約束している。その知行地の中に「金宮」があり、これが該当する。この古文書は良く知られ、当時の富士上方の地名が多く確認できる重要なものである。ちなみに「淀師」「金宮」「外神」はそれぞれ隣接しており、富士宮市でも西部の旧富丘村に該当する。

北条氏政
また天正17年(1589)8月28日に「殿様昨日大宮迄御成候」とあるため、8月27日に家康は大宮に居たようである。



このように記録を見ていくと、富士大宮に家康が来るようになるのは武田氏滅亡後に多いということが言える。これは武田氏滅亡で家康が駿河国を領したことに関係する。また富士大宮は交通の要衝であるためである。

富士山木引と沼久保の川下しに見る富士川舟運

『家忠日記』には富士山における木引の記述がある(富士山木引普請)。「木引」は木を伐採し木材を調達する行為のことです。


天正10年(1582)に武田氏は滅亡し、徳川家康は駿河国を領した。それに伴い家康の大宮(現在の静岡県富士宮市)での動向が増えているが、徳川による富士山での木引は武田氏滅亡以後且つ小田原征伐以前辺りから駿河国にて行われているようである。もっともそれより早期である可能性は否めないが、家忠日記の記録としてはそのように言える。

以下も富士山での木引を記す箇所であるが、興味深いのは富士山木引の際に「かしま」(=「加島」)の舟手が来ていることである。この「かしま」についてであるが、鹿島(愛知県蒲郡市鹿島町)に比定する論もある。しかし富士山での木引普請のために家忠は天正17年(1589)8月2日に興津におり、その後加島から舟手が来たというタイミングを考えると、富士郡の加島が順当かと考える。



ご存知のように加島は富士川氾濫原に位置しており、この当時の加島に舟手が居たことは必然と言える。当時の加島は富士川の派川が入り組んだ地であったと推察されており、互いの地を舟で行き交ってもいたと考えられる。富士下方は吉原湊周辺以外も水場で満たされていた地であったと考えた方が妥当である(「富士市の島地名と水害そして浅間神社」)。

『富士川を渡る歴史』より

富士山木引の際は上出(=「上井出」)の地名が複数確認でき、上井出には小屋場があり、また木引で得た木を集める場所であったようである


この8月3日条には井伊直政も木引に参加していることが記されている。この部分について久保田(2009)は以下のように記している。

⑥と⑦ですが、これは京都方広寺の大仏殿建立のために、既に一六年頃から始まっていますが、富士山麓で木引、つまり材木を徴発するということで家忠も直政も動員され出かけていくんです。最初に家忠は、直政の組となっていたのですが、八月四日に、これは間違いであったということで、酒井宮内の組に入ったという記事です。編成の違いもあったようですけれども、直政も家忠も、ともに方広寺の大仏殿の材木の木引に参加している。そうした縁もあり、富士山麓という場所で、両者はお互いに振る舞いをうけたり、揃って他の家康重臣の振る舞いをうけた様子が⑧や⑨の記事から想起されます。

としている。つまりこの富士山木引には「松平家忠」「井伊直政」「酒井家次」らが参加していたのである

井伊直政
また以下にも上井出の小屋場に木引の木を引き出したとある(8月26日)。


またこの後の記述は大変興味深い。この木引の木をどうやって運搬しているのかが記されているためである。

上井出

まずこれら大木は「大き」(=「青木」に比定される)まで引き出されている(8月晦日)。

青木



その後も木引は繰り返され、それらは沼久保へと運ばれているのである。

沼久保
そもそも8月29日の時点で沼久保まで引き出すという話し合いがなされていた。


そして9月4日の時点で沼久保まで運ばれているのである。


つまり上井出→青木→沼久保と木を運搬しているのである。


なぜ沼久保であるかというと川下し(ほぼ舟運と同義である)にて木を運ぶためである。



しかし川下しも難儀であったようで、下しに失敗することもあった。その後何処に運ばれているかというと、その場所は吉原なのである。

つまり

富士山木引→上井出に集約→青木→沼久保→川下し→吉原

という手順なのである。



当時の富士川は現在よりも流域は東であったため、富士川の川下しで加島まで至り、そこからは陸路で吉原まで運搬したと考えるのが妥当である。例えば『駿河志料』の鈴川の頁、「木元権現社」には「此地は、元富士河の辺なれば」とある。依田原の頁には「もと富士河の岩本より東へ流れし頃」とある。


そう考えると、やはり加島の舟手とは「富士郡の加島」を指すと考えて良いと思われる。吉原に届けられた木は吉原湊から更に西へと運搬されるのである。

木材のような重量物を運ぶ場合、中道往還だけで完遂させるのではなく沼久保まで運び舟運を用いている点は興味深い。しかしこれは合理的なのである。上述したように旧来は富士川の流域はより東側であった。つまり現在と比して"より吉原側"であったのである。つまり沼久保から富士川舟運で川下しを行うと、加島でもより吉原に近接した箇所までは舟運で運ぶことができたと考えられるのである。これが中世には既に行われていたという点は重要であると言え、権力者が主導した富士川舟運の先駆的なものと位置づけることができると思う。

  • 参考文献
  1. 中川三平,『現代語訳 家忠日記』,2019
  2. 久保田昌希,「井伊直虎・直政と戦国社会」『駒澤大学禅文化歴史博物館紀要 (3)』,2019
  3. 富士市立博物館,『富士川を渡る歴史』(第47回企画展),2009