本栖湖 |
- 延暦の大噴火
- 貞観の大噴火
貞観の大噴火により長尾山火口などから噴出した青木ケ原溶岩は富士山麓を覆い(これで青木ケ原樹海辺り)、本栖湖に流入していった。さらに続いて「セの海」に流入していった。セの海の大半は溶岩で埋まり、その末端に分断されて形成された部分が現在の「西湖」と「本栖湖」である。
- 古記録
噴火の解説だけでなく、富士山の歴史の解説においてもほぼ確実に取り上げられるのが『日本三代実録』の記録である。
- 「駿河国言、富士郡正三位浅間大神大山火…」(駿河国側)
- 「甲斐国言、駿河国富士大山、忽有暴火…埋八代郡本栖并剗両水海、水熱如湯、魚鼈皆死、百姓居宅、与海共埋、或有宅無人、其数難記、両海以東、亦有水海、名曰河口海、火焔赴向河口海、本栖剗等海、未焼埋之前、地大震動…」(甲斐国側)
このようにあり、噴火の様子とその被害を伝えている。特に甲斐国で被害が甚大であったようである。その中に五湖の名称が見える。
本栖并剗両水海:本栖湖と剗の海の両方
名曰河口海:河口湖という湖
このように、本栖湖、河口湖、剗の海などが古記録で確認できる。この噴火により、甲斐国側にも浅間神社が建立されたのは有名な話である。その神社については諸説あるが、現在は比較的「河口浅間神社」ということで収まってきている。私も「河口浅間神社説」を支持している。
- 「富士五湖」という名称
昭和2年5月、東京日日新聞と大阪毎日新聞が共催で「日本新八景」選定の投票を企画した。鉄道省は、これにて選ばれた景勝を宣伝する約束であった(つまり国を上げての宣伝が保証されていた)。山梨県の湖は「山中湖」や「河口湖」などが中では有名であった。しかしバラバラであると選ばれない可能性がある。そこで、富士急行の前身である富士山麓鉄道の社長である堀内良平は「富士五湖」という形でとりつけることとした。これ(「富士五湖」という名称で投票を可とすること)を東京日日新聞に行って了解を得、堀内良平はあらゆる知り合いや関係者などに投票を呼びかけ、最終的に選ばれることとなった。
「富士五湖」という名称は誰でも思いつくであろうが、「投票における名称と変える」という工夫は、なかなか考えつかないものである。
富士急行 |
- 富士五湖は富士山の湧水ではない
- 富士八海
現在でいうところの「富士五湖」の「五湖」は、富士講の巡礼地でもありました。こんな記録があります。
右ハ不二山の御手洗なりとて人々巡行するを八海巡りといふ しかれども皆山野の小路をわけ行く事なれハ案内を頼むべし
このように当時は「八海巡り」とよばれ、案内を付け険しい道を歩み行くものであったようです。それらは厳密にいうと「内八海」と「外八海」があります。内八海が富士山麓地域の巡礼地にあたります。
しかし「五湖」だけだと「八海(八湖)」にはなりませんよね。もちろんあと3つの巡礼地はありました。それは時代によって多少変移しています。長らくは、五湖と「明見湖」「四尾連湖」「須戸湖」の三湖を合わせて「八湖」としていました。しかし時代が下ると、「須戸湖」の代わりに「泉水湖」を含めて「八湖」としていたようです。
しかしもちろん当時は「五湖」などという概念はなかったため、例えば「河口湖」と「明見湖」も同じ「巡礼地」としての見方であったと思います。当時は五湖という概念がなく、「八湖」という概念であったということを認識することも、重要でしょう。
- 「海」という表記
『日本三代実録』にて「河口海」という表記がみられ、また「本栖并剗両水海」という表記から本栖湖も「本栖海」としていることがわかります。「海」という表記は時代が下っても同様であり、河口地区で記されたと推定される『妙法寺記』には河口湖を指して「雨シケク当海イヨイヨ満ル」(永正9年)とあります。また天文23年条には同じく河口湖を指して「大原海」とあります(矢田俊文「戦国期富士北麓の法と参詣」を参考)。
- 参考文献
- 『富士山麓の歩み 富士山麓史』(富士急行創立50周年記念出版),571頁
- 『富士の歴史』(再販:名著出版,1973),433頁