以下に3年前のXの投稿を引用したい。 大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に関するものである。
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この「今回」とは、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の第25回(6月26日)「 天が望んだ男」放送回のことである。『文武二道万石通』とは、朋誠堂喜三二(平沢常富)作の滑稽本であり、知名度が高い作品である。右の采配を振るう人物が畠山重忠であり、左の洞穴は「人穴」(静岡県富士宮市)である。人穴は極めて知名度が高く、『文武二道万石通』だけでなく様々な作品に登場する。
さて重忠であるが、「梅鉢」の紋の直垂を着用していることが分かる。しかし重忠の紋は本来梅鉢ではない。実はこれは、本当は別の人物を示しているのである。つまり重忠という体にしてはいるが、別の人物であると喜三二は暗に伝えているのである。その人物とは、時の老中「松平定信」である。
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朋誠堂 喜三二 |
この場面は人穴に鎌倉の御家人が入り、ふるいに掛けられる場面である。結果「文」「武」「ぬらくら」の3つに選別される。「文雅洞」から出てきた武士が「文」、「妖怪窟」から出てきた武士が「武」、「長生不老門」から出てきた武士は「ぬらくら」である。
勿論喜三二の意図は別にあり、実際は鎌倉の御家人ではない。「長生不老門」から出てきた武士らは田沼意次ないし意次派の武士を暗に示す形となっている。つまり『文武二道万石通』は、定信の「寛政の改革」を風刺した作品なのである。具体的なストーリーについては『黄表紙 川柳 狂歌』(新編日本古典文学全集79)を御参照頂きたい。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の第36回(9月18日)「武士の鑑」放送回で重忠は死する。ここで述べたように、当時の人穴のイメージを考えることは重要であると考える。
三日 己亥 晴 将軍家、渡御于駿河国富士狩倉。彼山麓又有大谷〈号之人穴〉。為令究見其所、被入仁田四郎忠常主従六人。忠常賜御剱〈重宝〉入人穴。今日不帰出、幕下畢。
建仁3年(1203)6月3日に源頼家は駿河国の富士の狩倉に出かけた(=簡易版「富士の巻狩」のようなもの)。その山麓には大谷があり、「人穴」と呼ばれていた。
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源頼家 |
頼家は人穴を調べるため仁田忠常と主従6人を向かわせた。忠常は頼家より剣を賜り人穴に向かったが、今日は帰ってこなかった。翌日については、以下のように記される。
四日 庚子 陰 巳尅 新田四郎忠常、出人穴帰参。往還経一日一夜也。此洞狭兮不能廻踵。不意進行、又暗兮令痛心神。主従各取松明。路次始中終、水流浸足、蝙蝠遮飛于顔不知幾千萬。其先途大河也。逆浪漲流、失拠于欲渡、只迷惑之外無他。爰当火光、河向見奇特之間、郎従四人忽死亡。而忠常、依彼霊之訓投入恩賜御剱於件河、全命帰參云云。古老云、是浅間大菩薩御在所、往昔以降敢不得見其所云々。今次第尤可恐乎云々。
意訳:4日になると忠常が人穴より帰ってきた。往復に一夜かかったという。忠常は人穴について述べる。「穴は狭く戻ることも出来なかったため前に進むことにしました。また暗く、精神的にも辛く、松明を持って進みました。水が流れ足を浸し、蝙蝠が飛んできて顔に当たり、それは幾千万とも知れず。その先に大河があり、激しく流れており、渡ることができませんでした。困り果てていたところ、火光が当たり大河の先に奇妙なものが見えた途端、郎党4人が突然死亡しました。忠常はその霊に従うことにし、賜った剣を投げ入れました。こうして命を全うして帰ってきました」と。古老が言うところによると、ここは浅間大菩薩の御在所であり、昔より誰もこの場所をみることができなかったという。今後はまことに恐ろしいことです。(意訳終)
「奇特」とはつまり富士浅間に他ならず、3日前に人穴に入った和田平太胤長(註:『吾妻鏡によると』頼家は富士の狩倉の前に「伊豆奥狩倉」に出かけ当地にあった「大洞」を和田胤長に調査させている。人穴とあるわけではない)の前には「大蛇」として化現し、新田に対しては「大河」としてその本体を現したのである。この人穴譚がもとになって、後世『富士の人穴草子』という室町物語が成立する。
大前提として、大元の題材はここにあるということは把握しておきたい。
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『文武二道万石通』 |
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山東京伝 |
源頼家に人穴探検を命じられた和田胤長が人穴の中を進むと、そこには富士浅間大菩薩がおり侵入を拒まれた。結果胤長は引き返したが頼家は諦めることができず、今度は仁田忠常を人穴探検に向かわせた。忠常は主君から拝領した剣を富士浅間大菩薩に献じた。忠常は人穴を進むことを許され、中では六道の一部と極楽浄土を目にする。しかし中の様子の口外は禁じられ、もし口外した場合は命を奪うと告げられる。戻った忠常は頼家に内情を伝えるよう強く迫られ、やむなく口外した忠常はただちに命を奪われてしまうのであった。
概ねこの流れを有するとされるが、人穴から戻った仁田忠常の扱いについては写本によって差異がある。また六道の場面では罪人が苛責を受ける場面があるが、その人物の具体的な国名が記されており、これらの事実から元々は語り物であったという推論もある。
小田原の沖に大蛇が出るということがあった。私はそれを聞く小舟に乗って行き、造作なく角を引きもいでやろうと思ったものである。又、富士の人穴などもわけなく通れると思っていた。若い時からこのように強く用いて来たけれども、何の用にも立たなかった(加藤2015;p.36)。
また人穴探索を題材とした作品群を単純に"『人穴草子』を典拠として/影響を受け"としていいものだろうかという疑問もある。例えば『富士野往来』も『曽我物語』と一致する部分はごく僅かで、独立した部分の方が圧倒的に多い。だから『富士野往来』の典拠は『曽我物語』ではないのである。
このように人穴探索を題材とする作品の中に、『人穴草子』に全く影響を受けていないものも存在したのではないかという疑念はある。しかし人穴の知名度の高さの背景に『人穴草子』は関係するだろうし、『驢鞍橋』にあるように"穴の奥に試練があり"、"武士が試される場"であったというイメージが広く流布されていたものと考えられる。そのイメージが、朋誠堂喜三二や山東京伝の筆を動かしたと言える。
- まとめ
富士宮市の歴史が江戸文化の中に深く入り込んでいたことは疑いの余地がない。絵画化の題材にもなったため、富士宮市を描いた浮世絵も枚挙に暇がない。芸能も「曽我物」が良い例である。
- 参考文献
- 芳賀矢一・佐佐木信綱(1915)『校註 謡曲叢書 第3巻』、博文堂
- 阿部正美(1965)『芭蕉連句抄』、明治書院
- 西野登志子(1971)「「富士の人穴草子」の形成」『大谷女子大国文 1』、38-48
- 米井力也(1983)「大蛇の変身-「富士の人穴草子」と「小夜姫の草子」の接点-」『国語国文』第52巻第4号(584号)、35-39頁
- 五来重(1991)『日本人の地獄と極楽』、人文書院
- 棚橋ら(1999)『黄表紙 川柳 狂歌』(新編日本古典文学全集79)、小学館
- 小山一成(2005)「彙報 平成17年度特別講演要旨 黄表紙 『仁田四郎 富士之人穴見物』をめぐって」『立正大学人文科学研究所年報 43』、立正大学人文科学研究所、42-44
- 會田実(2008)「曽我物語にみる源頼朝の王権確立をめぐる象徴表現について」『公家と武家〈4〉官僚制と封建制の比較文明史的考察』,思文閣出版
- 加藤みち子(2015)『鈴木正三著作集Ⅱ』、中央公論新社