平成11年度の『館報』で富士山信仰について若干の報告をする機会を得たことから、同様の信仰行事を探していたところ、小笠郡菊川町の下内田、段平尾地区という場所で「富士松明」とか「富士垢離」という行事があるという情報がはいりました。このように、周辺の環境は富士宮市村山興法寺に由来する富士山信仰に結びついている。
このように富士信仰の広がりが認められますが、「周辺の環境は富士宮市村山興法寺に由来する富士山信仰に結びついている」というのは富士市も全く同様なのである。「大宮系」と「村山系」で言ったら、どちらかというと「村山系」の影響が強いように思える。もっとも、大宮と村山同士も関係を持っていたため明確には棲み分けできないものの、村山由来と思われるものが色濃く残る。
「富士山南口案内絵図―村山修験者と南麓富士登山―」より
富士山の南麓から登山する場合、東海道あるいは甲州駿州往還などの主要街道から分岐し、富士山本宮浅間大社が鎮座する大宮(現富士宮市中央部)を経由して(あるいは経由せずに直接に)標高約500mの村山口を目指して富士山へ向かうことになる。
これはつまり「大宮・村山口登山道」のことを述べているのだが、ここに大きくヒントがある。そして続きます。以下も引用です。
この「駿河国富士山絵図」の意図したところは、変わらずに村山へ直接道者を誘致することであり、西からの道者を対象に製作されたと考えることができる。(中略)村山修験者が板行した大宮を経由しない道筋の絵図は、富士本宮浅間社と道者の確保を争っていたことが背景にあり、江戸時代以降衰微した村山修験者の生き残りがかかっていたといえよう。
このように、村山修験者が現在の富士市域まで頻繁に来ていたため、「直に富士信仰の文化の影響を受けている」ということが推測できるのである。しかし、その影響範囲はよく分かっていない。大宮と村山で守備範囲は異なっていた可能性もある。そして、村山の守備範囲として考えられる1つに、岩本などがあるのだろう。しかし、ここらへんの話はかなり時代が下ってからの話である。また時代が下ると、性質が異なっているようにもみれらる。「中世の富士山-「富士縁起」の古層をさぐる-」には以下のようにある。
戦国時代までは修験寺院であったが、江戸時代には寺領190石を与えられ、醍醐寺派の密教寺院として重きをなしてきた、しかし明治維新に際して廃寺となり、寺の什物や古文書類も散逸した。村山三坊と東泉院は、族縁関係にあったとも言われるが、少なくとも江戸時代には村山三坊が天台系の聖護院に属していたのに対し、東泉院は真言宗の醍醐寺末であり、組織的な交流を持っていたとは考えにくい。(中略)東泉院は東海道吉原宿に近接し、富士南麓の平地を支配していたが、富士山の登山口に直接関与していた形跡はない。
このように元々は村山修験由来、またはそれに関係する施設として存在していたが、おそらく江戸時代以降形態が変化していったのであろう。ただ東泉院が登山口に直接関与していた形跡は確かに無いのである。また修験的側面もあまり見られない。須山口への関与がもしかしてあるかもしれないが、東泉院に富士山信仰という意味での拠点性は無かったと思われる。
しかし富士山信仰の影響はあったと思うので、起源的な部分から触れていきたいと思う。
最近は「富士山東泉院は村山(修験)由来である」と言えるようになってきている。資料などでの裏付け作業も進んできている。「六所家総合調査だより第7号」にはこのようにある。
東泉院は、江戸時代を通じて真言宗の密教寺院として富士市今泉の六所家が位置する場所に存在していた。以降しかし中世後期、今川氏が駿河国を勢力下におさめていた時代には、富士山表口を直轄する富士山興法寺(村山修験)の勢力に連なって活動する修験者であったと考えられる。
「今川氏が駿河国を勢力下におさめていた時代」とは、東泉院にとって起源にあたる時期です。それより遡ることは無いでしょう。そして、そもそも東泉院の初代住持(住職)も村山の人物であり、村山修験の衆徒ととれる(修験道本山派)。ですからもはや、「村山修験」と「富士市に土着している信仰の形態」とは外して考えることはできない。以下は資料として「六所家総合調査だより10」を参考としました。
六所家総合調査だより第10号 |
面白かったです。まず先ほどの初代住持「雪山」についてです。
富士山東泉院の歴代
第一代(修験道本山派東泉院)
【出身】駿河国村山(富士宮市)
【僧名】雪山
【事跡】今川義元より下方五社別当識を補任される。息子の大納言に東泉院跡職を譲る
永禄三年(1560年)に「富士山大縁起」 を編纂した人物でもある。また以下のようにもあります。
今川氏親の子息、義元の時代の東泉院住持は第一代の大納言(雪山)であるが、彼は富士山村山興法寺(現在の富士宮市村山浅間神社)の修験者である大鏡坊頼秀と系譜関係をもっている。
葛山は富士郡にも勢力を伸ばしていました。実は大宮と村山それぞれに葛山勢力は関与しています。
同時代史料で東泉院が確認できる初見は四月十日付今川氏親書状(富知六所浅間神社文書)で、東泉坊が日吉宮の造営を請け負ったとあるもので、この東泉坊が東泉院を指すと思われる。
やはり、東泉坊=東泉院と考えていいと思います(しかし、形態の大きな変化の可能性も大きい)。
そしてなぜ「六所家文書」かというと、第二十一代住持が明治維新後に服飾し「六所良邑」と改名し、六所家初代となったためです。「六所宮」とから取ったと思われます。しかしこれは明治維新後の話であって、それまで六所家の血脈が継がれてきたわけではありません。ですから、六所家というものを意識する必要性は特にないでしょう。
江戸時代、支配を認められた村々から東泉院は「御地頭様」などと呼ばれている。そこには領主としての一面を垣間見ることはできるが、宗教者としての立場を窺うことはできない。しかし、こうした宗教的権威が地域社会を支配するという体制自体は、中世以来脈々と続いてきた伝統の残存である。
おそらく「村山修験に関わりもつ、富士山信仰としての側面」があまり残らなくなってしまったのだろう。確かに凋落していく村山の状況をみて、それに従うということは考えられにくい。それについては、このように分析がなされています(「東泉院と下方五社 - 富士市立博物館」)。
東泉院の五社別当職とは、大納言雪山による今川氏時代からの活動が由緒となって、以後江戸時代を通じて、明治時代初期の神仏分離によって廃寺となるまで継承されていきます。今川氏時代には、東泉院は河東における勧進活動を独占する権限を与えられていましたが、豊臣政権以降の近世の時代には、こうした権限は認められていません。その背景には、東泉院自体が、村山修験との関係を離れて、久能寺(静岡市)の管理のもとで真言宗の密教寺院として確立していくことや、近世統一権力(豊臣政権・徳川幕府)による勧進活動の制限などが影響していたと思われます。
しかし、東泉院と村山の接点を追うことは非常に重要です。起源がそこにあるのですから。
- 参考文献
- 西岡芳文,「中世の富士山-「富士縁起」の古層をさぐる-」『日本中世史の再発見』,吉川弘文館,2003
- 富士市立博物館「六所家総合調査だより第7号」
- 富士市立博物館「六所家総合調査だより第10号」
- 富士市立博物館「東泉院と下方五社」