2019年12月28日土曜日

徳川家康と織田信長の富士宮市での動きについて

今回は『家忠日記』から徳川家康の富士大宮(現在の静岡県富士宮市)での動向を取り上げたいと思う。『家忠日記』は松平家忠の日記であり、家忠は家康の家臣であるため、同日記は徳川家康の動向に詳しい。それ故に三河国や遠江国・駿河国の動向にも明るい史料と言える。

松平家忠

天正10年(1582)4月に武田氏を滅亡させた織田信長は中道往還を用いて富士大宮(富士宮市)へと至っている。そしてこのとき家康も出向いていたため、『信長公記』と『家忠日記』の記録は一致してくるはずである。以下で実際に確認していきたいと思う。

織田信長
家忠日記の天正四年四月小 十一日条には「大宮まで帰陣候」とあり、また十二日条には「上様大宮まで御成候」とある。


上様とは織田信長のことであり、帰陣したのは松平家忠であると考えられる。家忠日記は織田信長が4月12日に大宮に着いたとしている

一方『信長公記』は天正10年4月12日の動向を

四月十二日…(中略)大宮の社人、杜僧罷り出で、道の掃除申しつけ、御礼申し上げらる。(中略)大宮に至りて御座を移され侯ひキ。(中略)大宮は要害然るべきにつきて、社内に御座所、一夜の御陣宿として、金銀を鏤め、それぞれの御普請美々しく仰せつけられ、四方に諸陣の木屋木屋懸けおき、御馳走、斜ならず。爰にて、一、御脇指、作吉光。一、御長刀、作一文字。一、御馬、黒駮。以上。家康卿へ進めらる。何れも御秘蔵の御道具なり。四月十三日、大宮を払暁に立たせられ

と記し、『家忠日記』と『信長公記』の記述は日時が完全に一致している。

中道往還
また徳川家康は度々大宮を訪れており、天正10年7月8日には「家康は大宮金宮迄着候」とあるため大宮の金宮に至っていた。このときの甲斐国は明確に領主が存在せず、これを好機とみた家康が甲斐国に侵攻するため富士大宮を通過したのである。

徳川家康
この大宮の金宮は淀師の「金ノ宮」のことである。家康は中道往還沿い(中道往還より少し西側)で進軍したのである。


この「金宮」であるが、これは淀師の金宮のことである。


永禄12年(1569)12月17日に北条氏政は、本意を遂げた際には富士信忠に富士上方一円を知行すると約束している。その知行地の中に「金宮」があり、これが該当する。この古文書は良く知られ、当時の富士上方の地名が多く確認できる重要なものである。ちなみに「淀師」「金宮」「外神」はそれぞれ隣接しており、富士宮市でも西部の旧富丘村に該当する。

北条氏政
また天正17年(1589)8月28日に「殿様昨日大宮迄御成候」とあるため、8月27日に家康は大宮に居たようである。



このように記録を見ていくと、富士大宮に家康が来るようになるのは武田氏滅亡後に多いということが言える。これは武田氏滅亡で家康が駿河国を領したことに関係する。また富士大宮は交通の要衝であるためである。

富士山木引と沼久保の川下しに見る富士川舟運

『家忠日記』には富士山における木引の記述がある(富士山木引普請)。「木引」は木を伐採し木材を調達する行為のことです。


天正10年(1582)に武田氏は滅亡し、徳川家康は駿河国を領した。それに伴い家康の大宮(現在の静岡県富士宮市)での動向が増えているが、徳川による富士山での木引は武田氏滅亡以後且つ小田原征伐以前辺りから駿河国にて行われているようである。もっともそれより早期である可能性は否めないが、家忠日記の記録としてはそのように言える。

以下も富士山での木引を記す箇所であるが、興味深いのは富士山木引の際に「かしま」(=「加島」)の舟手が来ていることである。この「かしま」についてであるが、鹿島(愛知県蒲郡市鹿島町)に比定する論もある。しかし富士山での木引普請のために家忠は天正17年(1589)8月2日に興津におり、その後加島から舟手が来たというタイミングを考えると、富士郡の加島が順当かと考える。



ご存知のように加島は富士川氾濫原に位置しており、この当時の加島に舟手が居たことは必然と言える。当時の加島は富士川の派川が入り組んだ地であったと推察されており、互いの地を舟で行き交ってもいたと考えられる。富士下方は吉原湊周辺以外も水場で満たされていた地であったと考えた方が妥当である(「富士市の島地名と水害そして浅間神社」)。

『富士川を渡る歴史』より

富士山木引の際は上出(=「上井出」)の地名が複数確認でき、上井出には小屋場があり、また木引で得た木を集める場所であったようである


この8月3日条には井伊直政も木引に参加していることが記されている。この部分について久保田(2009)は以下のように記している。

⑥と⑦ですが、これは京都方広寺の大仏殿建立のために、既に一六年頃から始まっていますが、富士山麓で木引、つまり材木を徴発するということで家忠も直政も動員され出かけていくんです。最初に家忠は、直政の組となっていたのですが、八月四日に、これは間違いであったということで、酒井宮内の組に入ったという記事です。編成の違いもあったようですけれども、直政も家忠も、ともに方広寺の大仏殿の材木の木引に参加している。そうした縁もあり、富士山麓という場所で、両者はお互いに振る舞いをうけたり、揃って他の家康重臣の振る舞いをうけた様子が⑧や⑨の記事から想起されます。

としている。つまりこの富士山木引には「松平家忠」「井伊直政」「酒井家次」らが参加していたのである

井伊直政
また以下にも上井出の小屋場に木引の木を引き出したとある(8月26日)。


またこの後の記述は大変興味深い。この木引の木をどうやって運搬しているのかが記されているためである。

上井出

まずこれら大木は「大き」(=「青木」に比定される)まで引き出されている(8月晦日)。

青木



その後も木引は繰り返され、それらは沼久保へと運ばれているのである。

沼久保
そもそも8月29日の時点で沼久保まで引き出すという話し合いがなされていた。


そして9月4日の時点で沼久保まで運ばれているのである。


つまり上井出→青木→沼久保と木を運搬しているのである。


なぜ沼久保であるかというと川下し(ほぼ舟運と同義である)にて木を運ぶためである。



しかし川下しも難儀であったようで、下しに失敗することもあった。その後何処に運ばれているかというと、その場所は吉原なのである。

つまり

富士山木引→上井出に集約→青木→沼久保→川下し→吉原

という手順なのである。



当時の富士川は現在よりも流域は東であったため、富士川の川下しで加島まで至り、そこからは陸路で吉原まで運搬したと考えるのが妥当である。例えば『駿河志料』の鈴川の頁、「木元権現社」には「此地は、元富士河の辺なれば」とある。依田原の頁には「もと富士河の岩本より東へ流れし頃」とある。


そう考えると、やはり加島の舟手とは「富士郡の加島」を指すと考えて良いと思われる。吉原に届けられた木は吉原湊から更に西へと運搬されるのである。

木材のような重量物を運ぶ場合、中道往還だけで完遂させるのではなく沼久保まで運び舟運を用いている点は興味深い。しかしこれは合理的なのである。上述したように旧来は富士川の流域はより東側であった。つまり現在と比して"より吉原側"であったのである。つまり沼久保から富士川舟運で川下しを行うと、加島でもより吉原に近接した箇所までは舟運で運ぶことができたと考えられるのである。これが中世には既に行われていたという点は重要であると言え、権力者が主導した富士川舟運の先駆的なものと位置づけることができると思う。

  • 参考文献
  1. 中川三平,『現代語訳 家忠日記』,2019
  2. 久保田昌希,「井伊直虎・直政と戦国社会」『駒澤大学禅文化歴史博物館紀要 (3)』,2019
  3. 富士市立博物館,『富士川を渡る歴史』(第47回企画展),2009

2019年9月9日月曜日

富士市や富士宮市は竹取物語発祥の地であるのか

まず、「静岡県富士山世界遺産センター」(静岡県富士宮市)の企画展のチラシを以下に掲げたいと思う。


ここに

しかし、ここ富士山周辺では、かぐや姫は月ではなく富士山に帰り、富士山の神様だった、というストーリーが伝承されています。この話は、「富士山縁起」という富士山信仰に関わる寺社の縁起書などに記され、特に富士南麓に位置する静岡県富士市・富士宮市を主な舞台としていることから、当地周辺にはいくつもの伝承地が残されています。

とあるように、富士宮市・富士市は「かぐや姫説話」の舞台の地である。しかしこれが拡大解釈され、「=竹取物語発祥の地」と一般には解釈されている節がある。また「≒(ほぼ等しい)」かと言われれば、とてもそうは言い難い。

同じ富士地区(富士宮市・富士市)でも明確な差異があり、富士市においては「竹取物語発祥の地である」と認識する人々がある一定数存在している。その一方で富士宮市においては「(富士宮市が)竹取物語発祥の地である」とする人は居ないように思われるのである。なので先ず「何故富士市でそのような風潮が生まれたのか」という点から説明していきたいと思います。

  • 富士市のイメージ戦略
例えば富士市の広報等では昔から盛んに「竹取物語発祥の地である」と宣伝され続けてきた事実があります。それは以下のようなものであり、何十年にも渡り宣伝され続けてきました。「行政」は市民からすれば圧倒的に「公式」なのであり、それを富士市の市民等は何十年にも渡り見続けてきたのです。以下はほんの一例です。

1987年10月

1991年10月




1996年10月

また富士市のHPが初めてできた際も「かぐや姫誕生の地」としていました。

広報ふじ No.694

しかし『竹取物語』の原型は平安時代には既に成立しているのであり、またそれは「都」で生まれたものであると言って良いはずです。もし仮に富士市が発祥であるのならば「富士市→都」と言っているということになり、最低限の史料的説得は必要となります。しかしそういうものは提示されないまま、行政が「発祥の地である」と言い続けてきたという長い歴史があります。

富士市は郷土史家があまりにも"郷土顕彰"に寄りすぎてしまい、その上でそれをそのまま行政の方にまるまる取り入れてしまったという歴史があります。昔の広報等を見てみますと、頻繁に郷土史家が登場していますが、述べていることはかなり疑義のあるものが多いです。新出史料によって解明されたとかそういうことではなく、そもそも史料検証的でない。結果として、富士市は文化後進的になってしまっています。

また郷土史家が様々な媒体で民話を紹介していますが、意図的に改変している様子すら見られる。これは要検証であるが、不可解が現象が発生している。

『源氏物語』に「物語の出で来始めの祖(おや)」とある、最古級の物語である『竹取物語』。その発祥の地としているのですから、凄いことです。このような背景かられっきとした差異が生まれているということを、まず理解しておく必要性があると思います。


  • 富士山縁起
富士山世界遺産センターの資料等で述べられているように、富士山麓には「富士山縁起」という史料が各寺社に伝わっており、そこには「かぐや姫説話」が含まれているものがあります(すべてではありません)。存在自体は古くから知られ、例えば『修験道史料集 1 (東日本篇)』(名著出版, 1983)等にも散見されます(福田2016;p.249)。これは富士市に隣接する富士宮市の村山浅間神社に伝わるものを翻刻し発表したものです。これらを含む断続的報告により「富士山南麓にかぐや姫説話を含む富士山縁起が多く伝わっている」という認識は従来より持たれていたと言えます。ちなみにこの富士山縁起は文化9年の村山浅間神社に伝わる富士山縁起と同内容であることが、大高氏の労作により判明している(富士市,2010;p.57)。

富士山縁起のおおまかなあらすじを知りたい方は「富士山縁起の赫夜姫説話」(富士市立博物館)が参考になると思います。またもう少し詳しく知りたい場合は(大高,2013)が良いと思います。

そして20世紀末に富士山縁起の新出史料の発見があり、同縁起が再び注目されるようになった。「富士縁起(全海写)」と「浅間大菩薩縁起」(鎌倉時代、滝本往生寺所伝)の発見である(金沢文庫1996;p.56)(西岡2004)。(西岡2006)には「それと前後して…」とあるため、両者はほぼ同時期に表に出てくる形となったのである。それに伴う金沢文庫の一連の報告、つまり西岡氏による報告は圧巻であり、「白眉」という言葉がふさわしい。その昔、これらを貪るように読み続けたことを記憶している。富士郡のかぐや姫説話に関しても「妙な境」(後述)を設けず、素晴らしき示唆を提示された。富士山縁起研究の1つの転換期が間違いなくここにあったと言える。

そして近年「六所家総合調査」が行われ富士山縁起に関する研究が更に深化し(六所家の史料に富士山縁起が含まれているため)、多数の報告がなされるようになったのである。かぐや姫説話に関する知見が従来に比して飛躍的に深まったことは間違いなく、ここで我々が「一連の研究で得た今現在の見解は概ねどのようなものなのか?」ということを知ることは重要であると思う。

私は「六所家総合調査報告書」および「六所家総合調査だより」をすべて確認してみたが、この調査により

改めて、富士市が竹取物語発祥の地とは現時点で到底言えないということが確認された

と言えるのではないかと思う。というより、そう言わざるを得ない。各史料を詳細に検討され、やはり「富士市→都」の流れは確認できなかったという帰結が確実に示されたのである。同調査では富士市とかぐや姫説話との関係性について、出来うる限り限界まで言及されているように思える。富士市の刊行物もかぐや姫説話に触れているものが多く、それらを汲み取った上で言えることである。これまで歴史学の論文等で「富士市が竹取物語の発祥に関わる」とするものは1つもなく、また当ブログでも現時点でそれを示すものは無いとしてきたが、この六所家総合調査はそれを支持する結果となったと言って良い

研究の深化は大変喜ばしいことであり、それら労作には感心以上のものを誰しもが感じる所であると思う。その過程で80点近くもあるとされる富士山縁起諸本が詳細に調べ上げられ、多角的に検討された。しかし行政としての富士市は上記のような"イメージ戦略としての展開"を何十年としてきたのであり、そこは聖域であって、「富士市が竹取物語発祥の地であることを示す史料は無い」とはどうしても明言できず、報告書内でもそこまでは言及はされてはいない。不文律に近いものがあるのである。

  • 富士山縁起の研究
ここでまず六所家総合調査の成果(富士山縁起に関わる部分)と総合調査以外の富士山縁起研究から導き出された概要を以下に簡易にまとめてみようと思う。まず富士山縁起とは

富士山および富士山信仰に関わる寺社の、その由来や伝説などを記した縁起書の総称

であり、諸本が存在する。(富士市2014;p.21)によると、およそ80点以上は存在している。そしてその中で成立年の古いものは(『富士山記』を除く)


  1. 『浅間大菩薩縁起』(鎌倉時代、滝本往生寺所伝)
  2. 『浅間大菩薩縁起』(建長三年の奥書あり)
  3. 富士縁起(鎌倉時代、全海写)


が挙げられる。そして1の『浅間大菩薩縁起』の続きが2の『浅間大菩薩縁起』(参考文献1における「文献二」)であるとされ(富士市2010;p.15)(西岡2006)、1には「建長三年辛亥六月十四日於冨士滝本往生寺書写了」とあり、滝本往生寺で書写したとある(金沢文庫2003;p.38)(西岡2003)。この滝本往生寺は富士宮市村山に存在した寺社であるため、まずこれら古例の縁起が村山で伝えられてきたということが確認できるし、それは数多くの文献で指摘されている(福田2016;pp.243-256)(西岡2004)

そして現時点で「かぐや姫説話」を含む富士山縁起で最も成立が古いとされるのが3の「富士縁起」(鎌倉時代、全海写)である(西岡2006)。この縁起には村山で伝えられてきた末代上人の伝説等が記されている。特に縁起中の「往生寺の大日如来の御身中に納め奉る者なり 瀧本は悪王子の嶽の麓東南の角に在り」という部分は明らかに村山を指していると言える。ここでも村山の関与が先ず想定される状況である。そしてこの「富士縁起」は極楽寺(鎌倉)の全海という僧により記されたものである。

これら成立年が古いとされる富士山縁起を挙げていく中で、いまのところ富士市が直接的に関与している様子は無い。まずこの時点で富士山縁起を持ち出して「富士市が竹取物語発祥の地である」とするのは難しいのである。竹取物語の原型は平安時代には確認されているのであって、やはりそれを遡ることはできていない。つまり「竹取物語」どころか「富士山縁起の成立」と限局しても、富士市から発祥するとするのは現時点では難しいのである。末代上人の伝説等が説かれている点を見ても、村山から発生したと考える方が自然である。


  • イメージ戦略の行く末
この富士市のイメージ戦略・展開は実際のところ多くの人を翻弄してきたことであろう。私もその1人であるし、例えば以下の大学生もそうだろう。このテーマを考えると、どうしても以下のやりとりを想起してしまう。どうあっても忘れられないのである。以下に以前私が運営していたメインブログにおけるコメントのやりとり示す(※コメントはブログ上で公開されていたものであってメール等ではない)。2013年のことである。

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2013-11-26T23:49:48.573+09:00
こんばんは。大学の卒業研究で富士市の竹取説話について研究している者です。確かに、図書館などで先行研究を探しても(先行研究自体が少ないのですが)、富士市の竹取説話(姫名郷の説話や富士縁起系の説話)をただ紹介している文献ばかりな気がします。なぜこの地に竹取説話が生まれたのか、(富士市を発祥の地とするなら、)それがどのようにして都に伝わったのか、そのあたりを論じたいと思っているのですがなかなか進みません・・・

ネットでこちらのブログを偶然見つけたので書き込ませて頂きました。
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とあります。そこで私は以下のように返信しました。といいますより、当時の私はそのように返信したようです(5年以上前のことです)。

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2013-11-27T00:33:33.450+09:00
この富士市という地が『竹取物語』との接点を求めるようになったのは、実際のところは歴史的経緯とは全く無関係な、観光的な理由が大きいと思います。現実的に考えると、「富士市→都」という流れはまずあり得ないと思います。もし有り得るのならば、もっと多くの研究者が着目しているはずです。そういうものが、全く確認できません。圧倒的に観光・イメージ戦略からきていると思います。(中略)「富士山縁起」はそことは無関係の部分から由来する、しかし当地でかぐや姫との接点が認められる要素の1つです。現在の風潮と私の独断と偏見を入れて説明しますと、おそらく富士山とかぐや姫を結びつける考え方は、富士山信仰の拠点の1つである村山で発生し、後々に拠点から少し離れた現在の富士市に伝わったのだと思います。これらと上の伝説をゴッチャにしてしまい、なんだか「本当に関係性がある」となってしまっている状況が実際のところだと思います。

ですから、このテーマは卒論には不向きだと思います。富士山縁起なら富士山縁起に絞られた方が賢明かもしれません。
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そして以下のような返信を頂きました。

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2013-11-27T01:43:28.533+09:00
貴重なご意見ありがとうございます。
不向きと言われてしまいましたが、今更テーマを変えることもできませんし、何よりかぐや姫関連の地名が昔から残っているということは、観光目的のために作りだされた話、というわけだけではないと思いますので、なんとかこのまま書きすすめたいと思います。富士市→都という流れですが、吉永郷土研究会から出されている『かぐや姫伝説と富士山』という本に興味深い意見が載っていますのでぜひ読んでみて下さい。

もし富士市と竹の関係についてご存知でしたら教えて頂きたいです。(良い文献が見つからないので...)
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つまり富士市による「竹取物語発祥の地」という行政による宣伝を信じ、このコメント主は卒論テーマに選んだのである。無論「大学生なのだから誇張した宣伝であることを疑うべき」であるとか、「卒論の作成には下準備が必要であり準備がなされていれば予めテーマから除外できたはず」といった指摘は出てくるのかもしれない。しかし私には翻弄された人々の中の1人として映ってしまうし、現在もそう思える。私は「富士山縁起に焦点を絞らないと成立しない」と勧めることしかできなかった。行政による被害者と言っても良い。富士市では教育委員会が機能していないのだろうか?これは氷山の一角であろう。

コメントで私は

現在の風潮と私の独断と偏見を入れて説明しますと、おそらく富士山とかぐや姫を結びつける考え方は、富士山信仰の拠点の1つである村山で発生し、後々に拠点から少し離れた現在の富士市に伝わったのだと思います

としているが、この部分については上の説明で十分に補完できていると考えている。ただこのコメント時は2013年であり、あくまでも「私の独断と偏見である」ということは明記しておきたい。以下で詳細を示しているので、興味がある方はご覧になって下さい。


  • 富士市・富士宮市におけるかぐや姫説話舞台の地
仮に富士市が「竹取物語発祥の地」である根拠や相補的材料として「富士山縁起」を担ぎ出す場合、成立年が古いもので富士市と直接的関わりがないと苦しいと言える。また富士山縁起がそもそも「富士市に限局したものではない」ので、どうあっても難しいのである。例えば縁起中に見える「中宮」は村山の中宮を指していると考えられ、かぐや姫説話の舞台の地である。(井上 2013)には以下のようにある。

村山興法寺を発った道者は「ヨコ子」(横根ヵ)、「駒立」と記載された場所を経由し、「中宮」(中宮八幡堂)へと到着する(註:富士山禅定図の説明である)。(中略)また、現在当館において総合調査を実施している六所家旧蔵の『富士山大縁起』という資料に所収されているかぐや姫の説話では、この中宮が富士山の岩窟へと入るかぐや姫と翁の最後の別れの場所であったとされている

「中宮」は富士山縁起諸本でも大抵記されており、物語の鍵となる箇所である。

富士山禅定図に見える「往生寺」「中宮」「冠石」等

また富士縁起(鎌倉時代、全海写)に「王冠ハ石ト成テ今二在リ」とある。帝が姫を追い富士山(般若山)に行き、その際に脱いだ冠が石となったとされるものである(金沢文庫2003;p.37)(福田2016;pp.241-242)。この伝承を基とした石は実在したと考えられる。「富士山禅定図」には現在の富士宮市域の箇所に冠石が描かれており、他の建築物等が当時実在するものであることを考えても、冠石は実在したと考えるべきである。これまで数多くの文献で「富士山禅定図」が持ち出され、そして場所の比定等が行われてきたのはその証左である(井上卓哉,「登山記と登山案内図に見る富士登山の習俗-大宮・村山登山道を中心に-」『環境考古学と富士山 3』)や(井上 2013)が詳しい)。

「駿河国富士山絵図」(村山三坊版)

またかぐや姫は最終的に富士山へ登り穴へ籠もるのであるが、この導線をみると乗馬の里(おおつなの里)から北上し村山を経て富士山頂へと至っているのである。その導線すべてがかぐや姫説話の舞台の地と言えるのである。一方富士郡におけるかぐや姫説話を説明する際に、下の一部分のみ(≒富士市域)を切り取って伝えている例が明らかに多い。ここに「妙な境」があるのである。これには『修験道史料集 1 (東日本篇)』(名著出版, 1983)でかぐや姫説話を紹介した故・遠藤氏も驚かれているのではないだろうか。

また「乗馬の里」については諸本により「富士郡」とあったり「駿州」とあったりするが(福田2016;pp.246-260)、具体的地名は縁起中には示されていない。また「おおつなの里」についても、それを示す地名もない(西岡 2003)。ただ「麓」であることが強調されており、かなり山体に近い箇所であったと考えられる。そういう意味では「今泉」等が候補として挙げられていることには違和感は無い。また「比奈」を比定地とする説は有名である(福田2016;pp.313-321)。(竹谷 2005)では比奈が乗馬の里であることを懐疑的に見てどちらかといえば今泉・原田に比定しているようにも思われるが、里が村山より下であるということは諸家で少なくとも一致している。


  • 富士山縁起と地名
富士山縁起も霊験譚やストーリーの型だけでは構成できない。やはり舞台となる「地名」が必要となる。しかし富士山縁起に見える「地名」「建造物」で、書写当時(古例の縁起)または原本が作成されたと推定される時代に実在したものは、実はかなり限られるのではないか。寺社縁起の性質上そうであるが、特にかぐや姫説話に限局した場合同説話中にて「実在する地名・建造物」が出てくることは稀であり、逆に「そういえるもの」は大変重要になってくるはずである

「富士郡」を筆頭に「中宮」(「瀧本」)「往生寺」「岩屋不動」「憂涙川(潤井川)」「凡夫川」等が浮かぶが、あまり挙げられるものではない(※「岩屋不動」に関しては(井上 2013)が特に示唆に富む)。現在の「潤井川」は当時「宇流井川」等と表記されることが多かったが、それを「憂涙川」としているのはいかにも縁起の演出と言えるだろう。

またここに「比奈」をいれるかどうかは判断が分かれるところだろう。ただ数少ない、実在すると明言できる地名・建造物がかぐや姫説話の中で語られている場合、そこは間違いなく注目されるべきである。それこそが代表的な「かぐや姫説話舞台の地」ではないだろうか。これさえも「妙な境」によって霞められているのである。

  • 「妙な境」を生んだ結果

これまで「妙な境」を持って語られることの多かった富士郡におけるかぐや姫説話であるが、それを如実に示した例が以下のようなものである。以下の質疑応答は、富士宮市役所で新聞記者が富士宮市長に対して行ったものである。


この奇想天外で奇異な質問の意図が分かる人間も少ないことだろう。ここでは質問の意味というよりは「その背景」に着目した方が分かりやすいので以下で説明したいと思う。

まず富士宮市にはコノハナノサクヤヒメから採った「さくやちゃん」というゆるキャラが居る。対して隣接する富士市は上記で示したように「竹取物語発祥の地」として展開しており、また「ミスかぐや姫コンテスト」などを行い「かぐや姫」をマスコットキャラクターのようにしているのである。なので記者は「富士宮市=コノハナノサクヤビメ、富士市=かぐや姫」としているのである。これは「イメージ展開上」での話である

ここからは歴史の話をしたい。大雑把に言えば「中世=かぐや姫」「近世=コノハナノサクヤビメ」という流れが歴史的にはあるとされている(富士市2014;pp.24-25)。例えば中世に成立したとされる富士山縁起には、全くコノハナノサクヤビメは登場しないのである(大高(2013))。

でも「富士山とかぐや姫説話」の舞台は富士郡に広く分布しているのであって、当たり前であるが富士市も富士宮市もかぐや姫説話の舞台の地である。繰り返しますが、これは歴史の話である

かぐや姫説話を含む富士山縁起諸本の一例(南麓における)を以下に示す。


富士山縁起成立年備考
富士山大縁起1560年東泉院資料。1546年に五社別当代「頼秀」と別当「頼恵」が発見し書写したと記す。現存する写本の筆写年は実際はかなり後世であると推察されている。「赫夜妃」と記載。
富士大縁起公文富士氏本。富士山大縁起(六所家旧蔵、1697年)と内容は同一。「赫夜姫」と記載。
富士山大縁起1848年杉田安養寺本、原本には1639年に「書之」されたことを注記(植松 2013)。「赫夜姫」と記載。
富士山略縁起寛政年間村山浅間神社所蔵。「爀夜姫」と記載。
富士山縁起17世紀(書写)村山三坊池西坊本、諄榮筆。「赫夜姫」と記載。


東泉院は現在の富士市であり、杉田安養寺や村山浅間神社は現在の富士宮市である。まず「かぐや姫説話を含む富士山縁起が富士山南麓に広く分布している」という事実は、これだけを見ても理解できる。

永禄3年(1560)「富士山大縁起」

ちなみに、この富士山縁起は中世年号を有するものである。村山出身の「雪山」が編纂したとされる(富士市2016;p.10)(富士市2015;p.17)。しかし「富」の文字に点が指摘され、明治期かそれ以降に筆写された可能性が指摘されている(富士市2014;p.21)。当ブログでは「富」の文字の変移について取り上げたことがあるが、おそらく筆写年はかなり下るものと推察される。

この「富士山大縁起」には「五社記」と題した箇所があり、当該箇所に滝川神社を指して「愛鷹 赫夜妃誕生之処」とある(富士市2015;pp.27-28)(福田2016;pp.293-295)。この記述には富士市域とかぐや姫説話の密接性を強く感じるところである。

また興味深いことに本宮(富士山本宮浅間大社)とかぐや姫の関係も指摘され(富士市2018;pp.27-28・66)(福田2016;pp.267-274)、六所浅間宮の赫夜姫の御神躰を本宮に御幸する神事等があった。その宿は「富士民部」が務めているが、これを富士下方の者とするかどうかは判断が分かれるところであろう(本宮か)。また本宮は富士山噴火の際に幕府より祈祷を命じられ富士大宮司らがそれを務めているが、六所浅間宮をはじめとする富士下方五社の別当である「東泉院」にも同じくその命が下っているのである(富士市2015;p.31)。これはやはり東泉院が富士山との関係において無であるとは捉えられていなかったと言えるのであり、重要な事実である。

この「イメージ展開」と「歴史の話」の区別がこの記者は出来ていないのである。ただ記者の肩を持つわけではないが、このように「違いがわからない」理由として富士地区(富士市・富士宮市)にて「妙な境」を持って語られたことの弊害があると言え、また富士市によるイメージ展開の先行が原因とも考えられる。

私は富士市域の特徴というのは、「中世=かぐや姫」「近世=コノハナノサクヤビメ」という歴史の流れがあった中で、より富士市域でそれ(中世)が残ったということにあるのではないかと考える。間違いなく、これこそが富士市域の特徴なのではないかと。この点を取り上げたのが実は「六所家総合調査」なのである。これが六所家総合調査の素晴らしさなのである。

(大高 2013)には以下のようにある。

浅間大菩薩は、さらに赫夜姫と結びついていくが、それが中世に生まれた富士山縁起である。富士山の祭神である浅間大菩薩は浅間神社の祭神でもあり、赫夜姫は富士山の祭神と考えられるようになった。近世の江戸時代に入ると、赫夜姫にかわって富士山の祭神として木花開耶姫命が定着してくるが、必ずしも一様に変えられたという訳ではない。江戸時代の長い年月の間に、富士山の祭神は赫夜姫へと徐々に塗り替えられていったものと思われる。

まさにこの「塗り替える」の部分が、富士市域の富士山信仰の密度といった背景もあってか(流動性の少なさ)、「残った部分がある」ことに意義があるのである。

  • まとめ

まとめとして、以下の3点に要約することとしたい。

  1. 現時点で竹取物語の原型に関与していない(富士山麓の史料が)
  2. かぐや姫説話を含む富士山縁起は南麓に広く分布している
  3. 上記における成立年の古いものが、富士市と直接的には結びつかない

この3点から考えても富士市は「竹取物語の発祥の地」ではないはずである。逆説的に言えば

富士宮市もかぐや姫説話の舞台の地であるが、富士宮市は竹取物語発祥の地とは言っていない

という言い方もできるだろう。根拠もないのに「発祥の地」として宣伝しているのはお世辞にも「文明的ではない」という声も無論あるだろう。実際多くの人を困惑させているわけである。ただこの富士市・富士宮市には独自のかぐや姫説話が残り、その舞台の地であるという事実は変わらないのである。

  • 参考文献
  1. 富士市立博物館(2010)『富士山縁起の世界 : 赫夜姫・愛鷹・犬飼』
  2. 富士市教育委員会(2014)『六所家総合調査報告書 古文書①』
  3. 富士市教育委員会(2015)『六所家総合調査報告書 聖教』
  4. 富士市教育委員会(2016)『六所家総合調査報告書 古文書②』
  5. 富士市教育委員会(2018)『六所家総合調査報告書 古文書③』
  6. 神奈川県立金沢文庫編(2003)『寺社縁起と神仏霊験譚』
  7. 福田晃(2016)『放鷹文化と社寺縁起-白鳥・鷹・鍛冶-』,三弥井書店
  8. 井上卓哉(2013)「収蔵品紹介 木版手彩色「冨士山禅定圖」にみる富士山南麓の信仰空間 」 『静岡県博物館協会研究紀要』第37号
  9. 西岡芳文(2006)「富士山をめぐる知識と言説-中世情報史の視点から-」『立教大学日本学研究所年報 (5)』
  10. 西岡芳文(2004)「新出『浅間大菩薩縁起』にみる初期富士修験の様相」『史学』73巻1号
  11. 西岡芳文(2003)「中世の富士山 : 「富士縁起」の古層をさぐる」『日本中世史の再発見』, 吉川弘文館
  12. 神奈川県立金沢文庫(1996),『金沢文庫の中世神道資料』
  13. 竹谷靱負(2005)「古伝の「富士山縁起」に見る富士山祭神の諸相--地主神・不動明王と垂迹神・天照大神の幸魂千眼大天女を中心に」『富士山文化研究』第6号
  14. 大高康正(2013)「富士山縁起と「浅間御本地」」『中世の寺社縁起と参詣』,竹林舎
  15. 植松章八(2013)「杉田安養寺本『冨土山大縁紀』翻刻・解題」『富士山文化研究』

2019年7月12日金曜日

富士氏はいつ今川氏に従属するようになったのか

まず、甲斐側の記録である『勝山記』に

此年六月十一日、甲州乱ニ成リ始テ候也

と記す箇所がある。これは明応元年(1492)の武田氏の内訌を示しており、また同年9月9日には今川軍の甲斐侵攻すら許している状況であった(『年代記』)。つまりこの時代の武田家というのは甲斐統一すら成し遂げておらず、また他国からの介入を多く許す甲斐の一勢力でしかなかったのである。

この今川軍の侵攻は時の今川家当主「今川氏親」によるものであり、この際用いられた甲斐侵攻の経路については諸家で意見が示されている。小笠原春香『戦国大名武田氏の外交と戦争』には以下のようにある。

この点について秋山敬氏は、郡内(山梨県東部、富士五湖方面)のことを主として記録する『勝山記』に駿河勢の出張記事が見られないことから、今川軍は穴山氏の領域である河内路を利用したのではないかとしている 。黒田基樹氏は、信縄による河内攻めの報復として、信懸が今川氏に支援を要請し、今川氏もこれに応えたのではないかとしている。そして、信昌・信恵方が今川氏と結ぶことによって信縄に対抗したのではないかと述べている(中略)いずれにせよ、『年代記』に見られる今川氏による軍事介入は実際に行われたようで、その結果からか、明応二年(一四九三)になると信縄は敗戦を繰り返し、厳しい状況に追い込まれた。

「武田信縄」と「武田信懸・武田信昌(信縄父)・信恵父子」勢の対立により甲斐乱国を招き、また今川氏親は武田信懸側に付き甲斐へと侵攻しているのである。また黒田氏は「今川氏親の新研究」の中で以下のように述べている。

氏親はこの「甲州乱国」に、武田信昌・信恵父子、穴山武田信懸を支援したのであり、そこでの出兵が国外への最初の軍事行動であった。また、ここで甲斐に侵攻しているから、その経路にあった河東のうち富士郡北部も、すでに領国化していたとみなされ、それは同地域の国衆富士家を服属したものととらえられる。富士家も、もとは国人であったが、義忠の時には家臣化していた存在であり、範満討滅後に、従属を遂げたものとみなされる。ちなみに富士家については、明応5年に富士中務大輔が、葛山氏とともに幕府奉行衆として存在していたことが確認されるが(「室町家御内書案」戦今103)、その一方で氏親に従属していたとみられるであろう。そしてこれが奉行衆としての終見になっている。

この記述から考えると、黒田氏は今川氏親による甲斐侵攻の際は「中道往還」を経由したと考えていると見る他ない。富士宮市域には他に甲斐に繋がる街道として「駿州往還」(河内路)が位置するが、該当する箇所は旧庵原郡の「内房」であり、また河東(富士川の東)ですらない。なので黒田氏は中道往還を用いたと考えていると言えるのである。

また黒田氏は「同地域の国衆富士家を服属したものととらえられる」としている。当記事では「この時代の富士氏が今川氏に恭順していたか否か」という点について考えていきたい。実は「この時代の富士氏が今川氏に恭順していた」とするには、史料的説得が大分足りないのである。富士郡(富士上方)の領主が富士氏であったことは言うまでもないが、そう時期を違えていないこの頃、富士氏と室町幕府との関係に溝が生じていたことも考慮しなければならない。

黒田氏が言う「明応5年に富士中務大輔が、葛山氏とともに幕府奉行衆として存在していたことが確認される」としている文書は、以下のものである。



この「室町幕府奉行人奉書」の内容は、室町幕府の新将軍の就任における「御代始御礼」がなされていないと富士氏を非難する内容であり、場合によっては所領を没収するという強い姿勢を打ち出したものである。この新将軍とは「足利義澄」であり、就任は明応3年(1494)である。

もちろん富士氏は、今川氏が室町幕府と懇意であることは承知であったはずである。室町幕府に恭順しているとは言い難いこの史料を見ると「この時期氏親に従属していたのだろうか?」という疑念は出てくる。新将軍就任が明応3年(1494)であり、「御代始御礼」の無沙汰を非難するのが明応5年(1496)である。そして甲州乱国における氏親の甲斐侵入が明応元年(1492)であって、そう時期は違えていない。なので甲斐乱国時に氏親に恭順していたかどうかは疑わしいのである。

また富士氏のそれ以前の状況を見ても、今川氏に従属している様子は実は無いのである。今川氏が富士氏に発給した文書の初見は、「今川範氏判物」とされている。


この文書に対し大久保氏は『戦国期今川氏の領域と支配』の中で以下のように解説している。

大宮浅間神社と今川氏の関係が文書上で確認しえるのは、範氏の代、14世紀中期に遡る。以後、今川氏から多くの文書が発給されているが、氏親以前の文書は、社領や別当職の安堵などに関するものであり、それらは駿河守護としての権限を超えるものではなく、室町幕府の意向に沿ったものといえる。

としている。つまり「室町幕府の意向を今川氏を介して富士氏に伝えたのであって、今川氏との従属関係で富士氏に文書を発給しているわけではない」と言っているのである。氏親期に関しても同様のことが言える。また杉山一弥氏は『室町幕府の東国政策』の中で

事の本質は、将軍足利義澄が堀越公方足利政知の子息であるため、葛山氏が堀越公方府の地域的政治秩序に包摂されていただろうこととの関係を考慮しなければならないといえよう。明応年間の政治的動向をみると、明応2年(1493)、京都における明応の政変に加担して足利義澄の異母弟堀越公方足利茶々丸をねらい伊豆国に襲撃した伊勢宗瑞(北条早雲)は、なおも生き延びた足利茶々丸との抗争を明応7年まで繰り広げていたことが知られる。(中略)つまり室町幕府奉行人奉書が葛山氏へ発給されたこの明応5年という年は、伊勢宗瑞らにとって軍事的緊張がもっとも高まった時期だったのである。そして伊勢宗瑞らの一連の行動は、異母弟足利茶々丸によって自身の実母円満院と同母弟潤童子を殺害された将軍足利義澄の支持を得ていた可能性が高い。それゆえ明応5年の将軍足利義澄による葛山氏への室町幕府奉書の発給は、伊勢宗瑞らとは若干の距離をおく葛山氏に対して将軍みずから政治的圧力を加えるとともに、言外に伊勢・今川両氏への協力を葛山氏に要請するものであった可能性が考えられるのである。

としている。ここで「室町幕府奉行人奉書が葛山氏へ発給された」とある文書が「富士中務大輔」に向けても発給されている。ここで葛山氏を例として示されているように、葛山氏と同様に富士氏も「堀越公方府の地域的政治秩序に包摂されていた」存在であったのだろう。そしてそれが「御代始御礼に対する無沙汰」という形で現れたのではないだろうか?この文書が葛山氏と富士氏にそれぞれ発給されていることを考えると、葛山氏と富士氏は行動を同じくしていたのであろう。でなければこの現象は説明できない。ここでまず

富士氏は堀越公方に加担しようとしていたきらいがあり、堀越公方と対峙する伊勢宗瑞と懇意である今川氏親に恭順していたと言える状況には無い。また、それまでも恭順していたことを示す史料は無い

ということは確認しておきたい。

またその後の今川氏による甲斐侵攻の動向はどうであっただろうか。この甲州乱国の翌年の明応2年(1493)から伊勢宗瑞は伊豆侵攻を開始しており、今川氏親は甲斐乱国時における甲斐侵攻以後、武田家との抗争は生涯を通して行っている。一方甲斐国内では、武田信縄の子である信虎が武田氏当主となると、ようやく甲斐統一がなされることとなった。

武田信虎

この甲斐統一は永正7年(1510)に小山田氏を従属化し、永正17年(1520)に大井家を従属化し、大永元年(1521)に穴山氏を従属化できたことが大きい。特に穴山氏のそれは大きいものであった。穴山氏の従属化を知った氏親は、穴山氏の本拠である「河内」を攻撃した。ここで注目すべき記録が確認されるのである。同年の『勝山記』の記録に

河内へ八月廿八日惣勢立テヤリツキ其ノ日有之富士勢負玉フ也

とあり、大永元年8月に富士氏は今川方として戦に参戦しているのである。『勝山記』では福島正成らを「福島勢」と表記するなどしており、同記における「〇〇勢」という表記は人物を指すと考えられる。したがって「富士勢負玉フ」は「富士氏の勢力」と理解すべきである。この富士氏の出兵はどう理解するべきだろうか。

まず堀越公方の足利茶々丸は、伊勢宗瑞による伊豆侵攻後の明応7年(1498年)、追い詰められた末に自害している。この動向が今川氏従属に大きく動いた可能性が大きい。他に付く勢力がないのだから当然とも言える。しかし今川氏は武田氏と対峙しており、おそらく今川氏側から参戦を促される立場になっていたのだと思われる。

その後も今川氏と武田氏は諸戦を繰り返し、大永元年11月には上条河原にて信虎軍は大勝している。これらの背景があって、穴山氏の従属化は完全になされたのである。その後は今川勢を駿河まで追い出すことに成功している。

また大永2年(1522)に信虎は身延山久遠寺および富士山に参詣している。富士登山は『勝山記』に

武田殿富士参詣有之、八要メサルル也

とあるのがそれである。八要(=八葉)ということから、お鉢巡りを行ったのであろう。これは自らの甲斐統一を周辺に知らしめる意図があったとされ、大永2年(1522)およびその前年に甲斐統一をなしたと解釈されることが多い

とりあえず、富士氏の今川氏への従属化は堀越公方滅亡後の段階で初めてなされ、少なくとも大永元年時点で今川氏傘下として定着していたと考えたい。

  • 参考文献
  1. 小笠原春香,『戦国大名武田氏の外交と戦争』,岩田書院 ,2019
  2. 黒田基樹,「今川氏親の新研究」『今川氏親(シリーズ・中世関東武士の研究 第26巻 )』,戎光祥出版,2019
  3. 杉山一弥,『室町幕府の東国政策』,思文閣出版,2014
  4. 大久保俊昭,『戦国期今川氏の領域と支配』,岩田書院、2008年
  5. 小林雄次郎,「武田信虎の富士登山 -大永二年の登頂をめぐって-」,『武田氏研究」第56号,2017

2019年6月10日月曜日

北条早雲と富士市

まず現在の富士市域というのは中世以降「富士下方」と呼ばれていた地域であり、古文書でも多く目にする。しかしこの富士下方の地というのは、統治者が明確でないことでも知られている。特に伊勢宗瑞(北条早雲)との関わりについての部分が不明瞭で、関係があるのか否かがはっきりしていない。このページでは「富士市域(富士下方)と伊勢宗瑞」というテーマで取り上げたいと思う。

北条早雲
まず伊勢宗瑞は今川氏と関係が蜜であったことが知られている。しかし史料的説得という意味では意外にも薄い。例えば黒田基樹氏は「今川氏親の新研究」の中で

家中は、後継をめぐって氏親を推す派と、義忠従兄弟の小鹿今川範満を推す派とに分裂し、内乱が展開されることになる。ただしその状況は軍記物によるにすぎない。(中略)氏親と範満の抗争の具体的状況は明確ではなく、わずかに「今川家譜」が、伊勢盛時が今川家臣を率いて、駿府館を攻撃し、範満とその甥小鹿孫五郎を討ち取ったことが記されているにすぎないといえる。

としている。しかしこの「今川家譜」に富士市域と伊勢盛時(後の伊勢宗瑞、北条早雲)との関係を記す記述が見える。以下も黒田氏文献による。

「今川家譜」などによれば、宗瑞は、範満討滅の功績によって、河東富士郡下方地域に所領を与えられたことがみえているが、これについても、同地域はいまだ今川家の領国に編成されておらず、その征服を示すものであったという想定も可能である。(中略)また盛時は、範満討滅の功績によって、河東下方地域で三〇〇貫文の所領を与えられたとされる。ここから氏親は、少なくとも下方地域までの領国化を果たしたことがうかがえる。

伊勢宗瑞の軍事行動により河東地域を制圧でき、宗瑞と関係の深い今川氏は晴れて河東地域を手にすることができたという旨の内容である。また今川氏親は長享元年(1487)に今川小鹿範満を討ち、今川家当主となった。その背景に宗瑞の活躍があったため、三〇〇貫文の所領を与えられたという内容である。この三〇〇貫の所領についての部分は「今川記」で記され、また類似する内容が他史料でも見出されている(「伊勢盛時と足利政知」)。

「今川記」(玉川図書館所蔵本、加越能文庫本とも):氏親大いに感し、高国寺に富士郡依田橋せこひんなと云所を三百貫新九郎に給わる
「今川記」:「下方庄」(具体的所領の記載なし)
「異本小田原本」:「下方庄依田橋柏原吉原

せこは「勢子・瀬古」であり、ひんなは「比奈」である。依田橋は共通しているが、他は記録により差異が大きい。しかし共通して「富士下方」であり、やはり実際に伊勢宗瑞は富士下方に何らかの所領を得ていたと考えてもよいと思える。しかもこの一帯は富士下方でも比較的東部であることが共通している。富士下方から見て東側から赴いている宗瑞が東側に所領を得ていることは、何らおかしなことではない。

黒田氏はこの所領の偏移について、以下のような見解を示している。

河東富士下方地域に、依田橋・せこ・比奈(「加越能文庫本「今川記」)、あるいは依田郷・原・柏原・吉原郷などを所領としていたと伝えられる(「異本小田原本」)。しかし伊豆侵攻後において、それらの領有を示す史料はみられない。可能性としては、伊豆侵攻にともなって氏親に返上されたか、宗瑞の死去まで所領として存続したか、いずれも考えられる。(注:黒田氏の各文献で各々表記が異なることに注意)

としている。どちらかといえば、伊豆侵攻後は所領ではなかったという可能性を暗に示す形となっている。宗瑞は明応2年(1493)に堀越公方足利茶々丸に敵対する形で伊豆に侵攻し、明応7年(1498)には足利茶々丸を自害に追い込んでいる。その辺りでは富士下方は所領でなかったという可能性を提示している。


  • 参考文献

  1. 黒田基樹,「今川氏親の新研究」,『今川氏親 (中世関東武士の研究26)』,2019
  2. 黒田基樹,「伊勢盛時と足利政知」,『戦国史研究』第71号,2016