2025年4月27日日曜日

天子ヶ岳の瓔珞つつじ、炭焼長者伝承と田貫次郎の娘延菊の伝承について

TVにて富士宮市の民話が放送されるようなので、今回取り上げていきたいと思う。 



この天子ヶ岳の瓔珞ツツジの民話は、典型的な「炭焼長者」系統の民話である。全国に残る炭焼長者の民話は、概ね以下のような筋書きを有する。


炭焼を生活の糧とする男が居て、その男に関する風説または夢の中での登場などによって遠く離れた女性に男の存在が認識される。その女性は高貴な立場である。女性は実際男に会いに来る。女性は小判を男に授けるが、男はお金に関心がなく、池に投げ入れてしまう(鳥に放つ)。その無心さに女性は驚く。二人は無事結ばれる。炭焼きの炭が黄金と化し、男は長者と呼ばれるようになる。


炭焼長者の民話には「池/淵」と「小判」が登場することが殆どである。これがこの民話の原型である。池は小判を投げ入れる存在であったり、女性が自身の姿を映す鏡として登場することもある。炭の黄金化は、民話を読む限りでは女性と出会う前から既に発生していた現象であったと読み取れる。男はそれが価値のあるものと分かっていなかった、というように読み取れる。

同民話は様々な解釈が可能である。男性側で言えば無欲・無心さの推奨であったり、文明を知ることの重要性を示唆しているようにも思える。女性側で見れば、身分に拘らないことなどを示唆しているようにも思える。どう解釈するかは、人によっても分かれるだろう。

天子ヶ岳の民話は炭の黄金化の要素が薄まり(黄金が出る等に変化)、ここに女性の最期を含めているという点で、棲み分けができるように思う。天子ヶ岳は静岡県と山梨県に跨るとは言っても、山頂一帯は静岡県富士宮市に所在している。天子ヶ岳の民話はそれぞれ異動があるが、富士郡(つまり静岡県)が軸となっていることが多い

また山中共古『吉居雑話』によると、富士郡大宮(富士宮市)の俗謡として天子ガ嶽の瓔珞つつじが歌われていたとある(『諸国叢書』No.1、1984年)。山中は明治40年(1907)から明治45年(1912)まで吉原(現在の静岡県富士市)におり、その折に『吉居雑話』は著された(広瀬1987)。

この一帯に伝わる民話は、以下のような筋書きである(中山1933;p.939)。


ヤウラクツツジ〔瓔珞躑躅〕

富士山の裾野に炭焼の松五郎が住んでみたが、或時王女が訪れ来て夫婦となり、松五郎は有名な炭焼長者となった。其後王女は病を得て永眠されたが、遺言により王女の瓔珞の冠を都見える天子ヶ嶽に埋めた。其翌年の春埋めた冠から芽が出て美しい隣躅が咲いた。此躑躅の枝を折ると、必ず大嵐があるとて里人は恐れてゐる(裾野の伝説)。炭焼長者伝説の一變型である。


そして文政3年(1820)の『駿河記』には以下のようにある。


天子ヶ嶽 或きりう山といふ 
富士山より西にあたる高山なり。此嶽は駿河甲斐二図に跨る。西南は嶺まで上稻子村に隷す。同村入山より登凡三拾餘町許、丑寅は猪頭・内野・佐折・原・半野五ヶ村に隷す。西北は甲斐國上佐野郷に隷せり

この山の頂に古塚あり。俗傳云むかし天子の皇女を葬し奉る所。故に天子獄と唱ふ。丑寅の麓に長者ヶ原と稱する廣き邱あり。中に池沼あり。むかし炭焼をのこ此處に住す。某の皇女あやしき所謂ありてこの國に下り、彼賤男の妻となり、また富士の麓に黄金出で、これを得てをのこ俄に富貴の身となり彈南長者と呼ぶ。

皇女薨御の後、高貴人なればとて此山上に登せて葬し奉る。今御塚の傍に瑤珞躑躅とて生じたる木、次第に大木となり實を結びて今は其種落ち、苗木多く生ずといふ。其外長者のことに賴朝卿富士御狩を率合附會して種々の俗談あれどもここに漏す。

但しこの野説を按に、竹取物語等によつて俗の混じ傳へたることにやあらん。然れども弾南長者の事跡、總て芝川通の諸村の俗頻に語傳へ、猪頭遠照寺七面堂に彈南が位牌を置ことなど縁あるべし。(以下略)

以下に地図を掲載する。



地図を見ると分かるように、天子ヶ岳から向かって西は南部町・身延町(山梨県南巨摩郡)、北は長者ヶ岳・毛無山等を経て本栖湖(身延町および富士河口湖町)が位置する。その関係からか、天子ヶ岳の民話は富士宮市だけでなく南部町や富士河口湖町にも伝わっている

以下に富士宮市以外の地で伝わっていたものを一覧化する。また芝川町に伝わっていたものもここに記す。

伝承地(芝川町以外は現在の自治体名)女性の設定男性の設定(居住地)出典
山梨県南都留郡富士河口湖町京の長者の娘藤次郎(静岡県富士宮市猪之頭)(小澤・稲田1981;p.148)
富士河口湖町京の公卿の娘藤次郎(猪之頭)(小澤・稲田1981;p.148-149)
富士河口湖町都の姫藤二郎(小澤・稲田1981;p.149)
富士河口湖町京の天子の姫藤二郎(猪之頭)(小澤・稲田1981;p.149)
富士河口湖町天皇家の操の姫 藤次郎(猪之頭)(小澤・稲田1981;p.149-150)
山梨県南巨摩郡南部町皇女松五郎(富士の麓)(小澤・稲田1981;p.150)
南部町醜い都の姫君長次郎(富士の麓)(小澤・稲田1981;p.150)
旧富士郡芝川町皇女様松五郎(柚野、生まれは甲斐の明日見)(渡辺昭五1982;p.232-233)
旧芝川町お姫様駿河国の富士の麓の長次郎(渡辺昭五1982;p.233-234)
旧芝川町富士姫富士のふもとの藤次郎(渡辺昭五1982;p.234)

つまり富士宮市の民話が隣接する地にも伝搬していたのである。男の名前が変化するのは、口承故だろう。富士河口湖町の伝承が男の居住地を猪之頭とするのは、同町の人も頻繁に利用したと推測される中道往還がこの周辺を通過するため、同地が仮託されたためではないだろうか。

一方で南部町の伝承では「富士の麓」等とあって、猪之頭ではない。これは南部町から富士宮市に行く場合、中道往還を経ることはないためである。また南部町の方が富士宮市と文化圏が近く、天子ヶ岳も近い。であるから、南部町のそれは富士宮市固有の伝承により近いものになっていたはずである。芝川町・南部町のものは、炭の黄金化が組み入れられていないという傾向がある

南部町には上佐野という地域がある。南部町も富士宮市同様に佐野姓が多くおり、富士宮市の稲子地区を根拠地とした佐野氏との関係性は従来より良く指摘されている。(服部1980;p.290-291)には以下のようにある。


上佐野の歴史は佐野備後守綱好から始まる。「佐野備後守綱好ハ文明3(1471)年関東大乱ノ砌リ当地ニ引籠り天子ヶ嶽ノ麓ヲ開基トシ、ソノ名字ヲ以テ所ノ名ヲ佐野村ト号ス」という銘が、崩れた塔にあったということが寛延元辰(1748)年10月の文書にあり、村人の悉くがそれを信じている。名字を以って佐野の村名ができたということは疑わしいが、備後守の存在は歴史的事実であろう。

このように、天子ヶ岳との文化圏の近さを感じさせるものがある。そして全国に多く残る炭焼長者系統の民話の1つに過ぎないのにも関わらず、この天子ヶ岳の民話は特別な魅力を放っている。それは天子ヶ岳頂上に伝承を所以とする史跡が残るためである。(小檜山俊1970:p.67-71)には以下のようにある。

天子岳の頂上は、ちょっとした林間広場である。そのはずれに、小さな、古びた石の祠。その両側にサルスベリのようなツツジの大樹が二本。祠の前から、かすかにくだる道がある。(中略)その夜、ノブさんからこんな話をきいた(註:山梨県南巨摩郡南部町上佐野小草里に住む女性)。

天子岳にちっちゃなお宮さんがござったげな…。あれはなあ...むかし、富士のすそ野に松五郎という炭焼きがおじゃってな、毎日毎日炭を焼いていなさっただ。その炭を焼く煙をみて、天子様のお姫様が都からはるばるたずねてござしゃった。なんでも、煙の立つほうにお姫様の良縁があると神様のお告げがあってなあ…。

そして松五郎とめでたく夫婦になられただ...じゃが、間もなくお姫様は病気でなくなってしもうた...。松五郎はきっと都の天子様が悲しんでおられるだろうと、姫の形見の瓔珞の冠を、都からみえるあの高い山へ埋めた…そして冠を埋めたあとに、あの石のお宮さんをたてたんじゃ。天子様がお姫様のことを思い出されたら、いつでもこの山を見てくだされ…。そしたらここには姫の形見があります...と天子様に申し上げたい気持ちで松五郎はあのお宮さんをおったてたんじゃろ。そいであの山を天子岳と呼ぶようになったんじゃて。

お宮のそばに大きなツツジの木があったじゃろ...村ではみんな瓔珞ツツジといってなあ、あのツツジの枝を折ると必ず雨が降ったもんじゃて…、お姫様がが泣きなさる涙雨じゃ…いうてなあ、わしらちっせえころ、長雨が続いたりすると、だれじゃ、天子様のツツジを取ったのは…よう叱られたもんじゃて…。小草里という名にふさわしい、草深い山村のロマン伝説である。


やはり昔の人は話し方が上手い。おそらく民話を口で伝えるということに慣れているのだろう。それはいいとして、この石祠と瓔珞ツツジは現存している。しかし2本あったという瓔珞ツツジのうち1本は枯れてしまったという。

皇女の死後まで含めた物語の美しさと民話に仮託された史跡が現存するという要素が、この天子ヶ岳の民話をより魅力的なものに変化させている。

またこれの派生形として田貫湖周辺に伝わる尹良親王伝説と一体化した民話も存在する(渡辺昭五1982;p.234-235)。こちらは炭焼の男という設定ではない。しかしこれは明らかに従来の伝承にさらに附加する形で形成された民話である。これは『浪合記』『信濃宮伝』に見られる伝記(史実ではない)に影響を受けた形だろう(近藤1906)。『浪合記』は近世に多く書写されたというから、それが地方に伝搬し、形成されたのであろう。筋書きは以下のようなものである。

田貫湖辺りの内野の地に田貫次郎という者が住んでおり、そこに東国から遠征してきた尹良親王一行が訪れてきた。田貫次郎の娘である延菊は親王の世話を行った。やがて親王は上野国に向かうが、道中で戦死してしまう。富士郡の人々はこれを悲しみ、天子ヶ岳の頂上に祠を設け弔った。

戦死の知らせが延菊の耳に届くと、これを深く悲しみ、食べることも寝ることもしなかった。ある日の夜、延菊はひっそりと家を抜け出し、天子ヶ岳の頂で頭に冠を載せ手に瓔珞を捧げて殉死してしまう。郷人はこれを哀れみ、天子ヶ岳に合葬した。翌年、その地から1株のツツジが生えてきて美しい花を咲かせた。

郷人はその花の形が瓔珞に似ていることから延菊が霊化したものと考え、その木を瓔珞ツツジと名付けた。その枝を折ると晴天であってもたちまち黒雲を生じ、大雨を降らすという。人によっては雨乞神として敬ったともいう。


実は田貫湖周辺というのは、このような雨乞いの要素を含む民話が多く残っている。それは何故だろうか?

その答えとして「水不足が問題となることが多かった」ということが考えられる。以下は富士宮市・富士市の河川分布図である。



これを見ると分かるように、富士宮市は全域に河川が分布している。古代から考えてみよう。縄文時代草創期の集落跡を示す国指定史跡「大鹿窪遺跡」がそうであるように、富士宮市域は古から発展していた地域であった。大規模集落跡は河川の付近に所在する例も多く、大鹿窪遺跡もその例に漏れない。つまり文明の条件として河川は極めて重要な存在なのである。

同遺跡からは伊豆神津島産や信州産の黒曜石が出土しており、他地域との交流があったことが分かっている。しかしこれら大規模な遺跡は多くあったわけでは決してないのだから、それがある地域はオアシスであり、ある意味では大・大・大都会であったわけである。

しかし天子山地付近というのは、河川の空白地点となっていた。それは古代を経て中世・近世も不変であった。富士山の麓と異なり相対的に標高が低いこの一帯は、人も居住していたことであろう。しかし河川がなければ、水の入手は降雨に頼るしかない。そのような環境下で「雨乞い」の民話が成立したのは、想像に難くないだろう。


  • 参考文献
  1. 近藤瓶城(1906)『史籍集覧 第3冊』,近藤出版部
  2. 中山太郎(1933)『日本民俗學辭典』,昭和書房
  3. 小檜山俊(1970)『東海自然歩道』,養神書院
  4. 服部治則(1980)『農村社会の研究―山梨県下における親分子分慣行 』,御茶の水書房
  5. 小澤俊夫・稲田浩二(1981)『日本昔話通観 第12巻 山梨・長野』,同朋社
  6. 渡辺昭五(1982)『日本伝説大系 第7巻』,みずうみ書房
  7. 『諸国叢書』(1984),成城大学民俗学研究
  8. 広瀬千香(1987)『諸国叢書 第四輯』、成城大学民俗学研究所、242-244