2011年12月31日土曜日

浅間大社と徳川氏の内院散銭寄進

推薦書原案より抜粋します。
浅間大社は徳川家康の庇護の下、1604年「浅間造り」と呼ばれる二層構造の独特な構造を持った現在の本殿等が造営されるとともに、1609年には山頂部の散銭取得における優先権(山頂の噴火口へ投げ入れられた賽銭を回収する権利)を得た。これを基に浅間大社は山頂部の管理・支配を行うようになり
今回はこの部分にクローズアップしたいと思います。

推薦書原案にある通り、浅間大社は1609年より富士山頂の支配なり管理なりを行っていました。この大きな権限は、徳川氏のもとで庇護されたことによるものである。しかし、個人的には1609年の時点では「(完全な)支配」というまでのところまでの権利は保持していなかったように思える。

「1609年には山頂部の散銭取得における優先権を得た」という部分は1779年の幕府の裁許状から分かる。


ここには関ヶ原の戦いの際に戦勝祈願し、見事それが成就したことから、本殿や末社などを残らず再建したことが記されている。また、内院散銭を修理代として寄進したことも記されている。

つまり
  • 1604年の徳川家康による本殿などの造営
  • 1609年の徳川家康による内院散銭の寄進
これら徳川氏による庇護を元に、浅間大社は富士山頂を支配するようになったということである。

確かに浅間大社は、徳川氏に庇護されてからというもの権限を強め、富士山頂において支配する立場にありました。富士山領が徳川忠長領である時代、忠長の家老からの書状に、富士山頂を指してはっきりと「大宮司支配の所」とある。家老というのは重鎮的立場であり、正式な書状である。ここにある「大宮司」とは、富士氏の富士大宮司のことである。つまり、富士山頂は富士大宮司支配の土地という認識であったのである。

富士山頂において他の土地の者(須走や吉田)が何かをする場合、大宮司らの許可が必要であった。なぜ須走と吉田かというと、登山道は大宮口の他に須走口や吉田口などがあり、それらを管理していたのはこれらの土地の者であったからである。そして、それらの者も山頂において道者相手の経営などを行う為、「許可を得る者」と「許可を出す者」という関係が生まれるのである。それらの書状も確認でき、例えば山頂において何か販売するなどの諸事も、許可を得てから販売していた。つまり浅間大社、厳密に言うと大宮司らというのは、許可を出す側であったのである。

しかし須走などでは抵抗する動きもみられ、それらが「元禄の争論」である。こういう争論が起きるということは、やはり完全なる支配では無かったためではないかと思う。しかしこれらの記録から、管理以上の支配に近い権限を保持していたと言える。

  • 参考文献
  1. 『裾野市史』第三巻資料編近世,P650-654
  2. 青柳周一,『富岳旅百景―観光地域史の試み』, 角川書店,2002年

富士山本宮浅間大社の社号の変移


現在は「富士山本宮浅間大社」という名称ですが、神社の名前(社号)は時代によって変移するものです。ですから、現在の富士山本宮浅間大社の名称も元々は違う名称です。つまり、社号を考えるときは通史で考える必要性がある。今回は、それを探っていきます。

  • 「神名と神号」と「社名・社号」
例えば「浅間大明神」という言葉があるが、浅間が「神名」で大明神が「神号」にあたる。他に神仏習合の影響で「浅間大菩薩」や「浅間大権現」などの名称があるが、大菩薩は「菩薩号」、大権現は「権現号」などともいう。「神宮」「神社」「大社」「宮」などが社号にあたる。ですから「浅間神社」は社号です。

  • 「本宮」とは
資料によると「富士山本宮浅間大社」の「本宮」という呼称は、浅間大社より勧請された静岡浅間神社(厳密にいうとその中の浅間神社)の「新宮」(しんぐう)という語に対する名称と言われる。例えば『吾妻鏡』の貞応3年(1224)2月22日条・23日条には「富士新宮」とある。富士新宮の焼失を伝えている。

廿二日 巳丑 駿河国より使者を進じて申して云はく、一昨日丑の剋、当国惣社ならびに富士新宮等焼失す。神火と云々。
廿三日 戌寅 晴る。平三郎兵衛尉盛綱・尾藤左近将監景綱等、前奥州の御使として、駿河国に下向す。富士新宮等の回禄の事によつてなり。

静岡浅間神社は俗称であり、実際は「神部神社」「浅間神社」「大歳御祖神社」の三社をまとめた形である。正式名称は「神部神社浅間神社大歳御祖神社」という。『延喜式』によると、安倍郡七座として「神部神社」と「大歳御祖神社」が記されている。浅間神社は延喜年間(901〜923)に浅間大社より勧請されたという。「静岡浅間神社の稚児舞と廿日会祭」には以下のようにある。

ここに惣社宮司とある村主氏は延長4年(926)に「駿河国浅間新宮」の鐘を作ったとされるので、その時点ですでに富士宮からここに浅間神社が勧請されていたと見られる。

これは大変に重要な事実である。『静岡県史資料編4 古代』831号に鐘の銘が載るが、「駿河国浅間新宮」の銘文が見られるのである。銘文には他に「延長四年丙戌九月十七日」とあり、このとき既に「新宮」が存在していることが分かり、また既に浅間大社が存在していたことも分かるのである。

以下は文書上などでみられる社号などを挙げたものである。


  • 社号について


【富士大神、浅間大神、浅間明神】
古くは『文徳実録』や『日本三代実録』にみられる。本によって神社を指すのか、はたまた富士山に宿る神としての浅間大神のみを指すのかが分かれる。

【富士ノ宮】
通称と考えても良い。『今昔物語集』や『勅撰和歌集』に代表として見られ、富士宮市の市名の由来ともなっている。また「勅撰集」にあることを考えると、当時広く用いられてたと考えても良い。

「ふじの宮」(『新勅撰和歌集』より)

【富士浅間宮】
主に戦国時代以降にみられる。最も良く確認できるように思える。戦乱の世となり、これまで以上に文書でのやりとりが多くなり、多く残っているのだと思う。また富士氏の活躍などから、当時の社号を用いた文書を多く目にする。

【富士浅間本宮社】
「本宮」とあるものである。「脇差浅間丸」の銘や、豊臣秀吉の朱印状などでも確認できる。「脇差浅間丸」の銘によると「奉富士本宮 源式部丞信国「一期一腰 応永卅二年二月日」とあり、応永32年(1425)の時点で「本宮」なる呼称があったと考えられる。

【富士山本宮浅間社】
富士山本宮浅間大社に改称される前の名称。が、江戸期には既にこのような名称であった(例えば『浅間神社の歴史』古今書院版のP234-244辺りの史料などにもみられる)。

【富士山本宮浅間大社】
富士山本宮浅間神社からの改名である。元々「大社」を名乗る神社は「出雲大社」のみであった。明治時代になり政府は全国の神社の調査を行い、社格を整理した。全国の神社を官社と諸社に分け、うち官社を官幣大社と国幣大社に分けた。そしてそれぞれ「大社」・「中社」・「小社」の三等に区別した。戦後になり、その社格にて「大社」とされた神社が社号を大社とした例がみられた。それがこの名称変更である。例えば伏見稲荷大社などもそうである。

富士山:富士山を御神体とする、富士大神などから
本宮:新宮に対する名称
浅間:浅間大神を祀る
大社:官幣大社より

このようにまとめられる。律令国家により建立された浅間神社は、当初は現在の富士山本宮浅間大社のみであったと考えられる。古い時代であったので単に「浅間大神」などと呼称された。しかし浅間神社が多く建立されていく中で社号も変移を重ねていく。しかしその過程でも「富士ノ宮」・「富士本宮」・「富士浅間宮」などとあるように、古来より「富士」は継承されてきたように思える。それが現在の「富士山本宮浅間大社」の「富士山」の部分にあたる。


  • 参考文献

中村羊一郎編,『静岡浅間神社の稚児舞と廿日会祭』,2017

2011年12月14日水曜日

富士山興法寺

富士山興法寺は村山修験の中心地であり、村山の施設群の総称である。

富士山興法寺(『絹本著色富士曼荼羅図』より)
施設群も様々なものがあるが、例えば村山浅間神社も元は興法寺である。以下、推薦書原案の文章である。

1868年の神仏分離令までは神仏習合の宗教施設として興法寺(富士山興法寺または村山興法寺)と呼ばれていた(資産範囲には浅間神社と寺院である大日堂が含まれる)。なお、周辺には興法寺の維持・運営にあたっていた宿坊の村山三坊(池西坊・大鏡坊・辻之坊の三箇所)の跡がある。

このように、村山修験の中心地である富士山興法寺は、村山三坊により管理されていたのである。「国指定文化財等データベース」にはこのようにある。

慶応4(明治元)年(1868)の神仏分離令により村山浅間神社と大日堂に分離された興(こう)法(ぼう)寺(じ)は、末代の創建によるとされ、村山修験の中心であった

末代などの名が出てくることからも分かるように、富士信仰の起源の部分により近い、非常に重要な施設といえる。村山は今川氏に庇護されていたため、今川氏との文書でのやり取りが多くみられる。文書上では「富士山興法寺」や「富士興法寺」、「村山興法寺」、または単に「興法寺」などと見える。

天文四年(1535)の「今川氏輝判物」

  • 施設
村山浅間神社
 管理は三坊のうち「辻之坊(つじのぼう)」が行なっていた。村山浅間神社の創建は、三坊それぞれで伝承が異なり、複雑である。しかしながら共通していることに「大寛元年から始まる」と伝わることや、「役行者との接点」を見いだせることが挙げられる。明治7年ころになると「根本宮浅間神社」と改称し、大正13年には県社となった。
大日堂 
管理は三坊のうち「池西坊(ちせいぼう)」が行なっていた。大日堂は富士山頂上に存在し、村山三坊が管理していた。後の富士山本宮浅間大社奥宮である。
大棟梁権現社 
管理は三坊のうち「大鏡坊(だいきょうぼう)」が行なっていた。村山浅間神社の摂社としての位置づけであったといわれる(たぶん)。後に「高嶺総鎮守」と改称している。
村山浅間神社の創建の伝承で「役行者との接点」を見出しているが、「中興の祖」としての位置づけとして末代上人が仰がれていた。このことから、富士山興法寺を開いたのは末代上人であると言って良いように思える。村山三坊や村山浅間神社の詳細な解説は、別機会にて設けたいと思います。

  • 参考文献
  1. 久保田 昌希 ・ 大石 泰史編,『戰國遺文 今川氏編〈第1巻〉』P225,東京堂出版,2010年
  2. 『浅間神社の歴史』 
  3. 「推薦書原案」

2011年12月13日火曜日

梁塵秘抄における富士山

『梁塵秘抄』(りょうじんひしょう)は平安時代末期の歌謡集である。『梁塵秘抄』の巻第二には富士山に関するものがみえる。『梁塵秘抄』における富士山は、まさしく修験道としての面であり、これが非常に大きな特徴である。

訳:
全国各地の霊験あらたかな所は伊豆の走湯、信濃の戸隠、駿河の富士の山、伯耆の大山、丹後の成相とか聞く。さらには土佐の室戸、讃岐の志度の道場と聞いている

『日本古典文学全集〈25〉神楽歌・催馬楽・梁塵秘抄・閑吟集』の解説によると
全国の主な修験道場を列挙し、山岳宗教の広がりがよくわかるが、山だけでなく四国の海辺の道場もあげられている。そこには未知の世界へのあこがれも秘められていよう。
とある。

この作品は平安時代のものであるため、平安時代には富士山において既に修験道が開かれていたことが明確に分かる。また「四方の霊験所」、つまり全国におけるその中でも代表的な存在として挙げられていることから、良く知られていた存在であると考えることができる。

解説には「三:富士山本宮浅間大社」とある。たしかに「一:伊豆の走湯」は伊豆山神社、「二:信濃の戸隠」は戸隠神社とあるように、これらは神社を指しているかもしれない。しかし、富士山の場合は修験道としての面が強くみられるのはやはり村山と考えるのが妥当である。だから、村山の修験道としての面が世間に流布されていたそれが、歌謡となって取り上げられた可能性もあるように思える。

この頃といえば、末代上人が山頂に大日堂を建立したと伝わる1149年から何十年しか経っていないような時代である。つまり比較的古い時代に記された富士山に関する記録なのである。しかもただ「富士」と出ているのではなく、その性格が見える記述は非常に重要であるように思える。この時代、世間に流布されるまでに至る影響力を持ったものは、多分大宮と村山だけだろう。大宮は律令国家の先導による浅間神社の創建から由来する浅間信仰の中心地としての面、また村山は末代上人らに代表される修験道としての面である。

この『梁塵秘抄』の記録は、富士山を解説する際よく取り上げられる。「古くより信仰の対象となっていたこと」や「修験道が確立されていた」ことが説明できるからである。これが平安時代における記述であるということは非常に重要である。富士山において修験道はやはり早くから確立されていたと言えると思う。

2011年12月8日木曜日

富士山推薦書原案を読み解く


  • 推薦書原案とは
世界遺産登録の過程における文化庁への提出資料で、これに手を加えられたものが「推薦書正式版」としてユネスコに提出されます。そしてこれが診査されて世界遺産の登録の是非が決められます。



実は推薦書原案は1年提出が遅れているのですが、完成はされていたんですね。それがまた再度見直され提出されたわけですが、すごく簡略化されています。「とにかく分かりやすく」ということを念頭においているためにそうなったと思われますが、以前のものと比べるとスリム化されどんな人でも読めるような感じになっています。外国人が読んで理解できるように求められているわけですからね。

「推薦書原案」

今回はその推薦書原案の内容を紐解いていこうと思います。「信仰」に関わる部分を抽出し、解説することとします。

  • 構成資産の基準
今回は文化遺産での登録を目指す形であり、信仰がメインであることから、「富士信仰と関係するものが構成資産となっている」と言うことができます。そして「富士信仰と関係するものとはどういうものが当てはまるのか」ということですが、それは「富士山の登拝道が存在する地域にみられる文化や建造物」と表すことができます。そして「富士山の登拝道が存在する地域」というのは「大宮」・「村山」・「須走」・「須山」・「河口」・「吉田」であり、この中でも「大宮」「村山」「須走」「吉田」は中心的存在であったので、これらの地域でみられる文化財が構成資産の中心となっております。富士信仰は登拝道の存在する地域に特徴的にみられたもので、登拝道周辺に独自の文化が発展していました。

  • 解説
【富士信仰の成り立ち】
上記のような自然環境を持つ富士山は、古来自然物、特に山岳に対する信仰の伝統を持っていた。日本人に畏敬の念を抱かせ、日本における様々な宗教・宗派の枠を超えて信仰の対象とされてきた。山麓から信仰心を持って富士山を仰ぎ見る遙拝や、山域・山麓での修行、神仏の在所と考えられていた山頂への登山(以下、「登拝」という。)という宗教行為が一般化すると、多くの信仰登山者(以下、「道者」という。)が山頂を目指した。そのため、山体及び山麓周辺に神社や仏教施設などが建立されるとともに、登山のための道や神社、山小屋等の諸施設及びそれを支援するシステムが整備されてきた。(推薦書原案よりP6)
富士信仰とは何か」で解説してあります。

配石遺溝・集石遺溝
【霊山として】

さらに富士山域の範囲は、山体の神聖性の境界の一つである「馬返」以上に該当する標高約1,500m以上の区域でもあり、その中でも、他界(死後世界)と考えられた森林限界より上方の区域、富士山本宮浅間大社の境内地とされた八合目(登山道を10区間に分割した目安の一つ。登山道ごとに異なり標高約3,200~3,375m)以上の区域と、山頂に近い区域ほどより強い神聖性を持つようになると認識されてきた。(推薦書原案よりP8)

これも説明済みですが、山頂は浅間大神の御在所ともいわれ、最も神聖な場所であった。まず富士山が霊山なのですが、その中でも山頂は特別な場所であったわけです。八合目以上が富士山本宮浅間大社の境内地になるに至る説明もあります。→「富士山の大宮・須走・吉田の争いと元禄と安永の争論」。

【富士信仰の発展】
富士山には、麓の浅間神社を起点として山頂に至る登山道が複数存在する。12世紀前半から中頃にかけての修行僧である末代上人(1103-?)の活動がきっかけになったと考えられる大宮・村山口登山道や、六合目から1384年の銘のある掛仏が出土した須走口登山道などがある。吉田口登山道は、富士講信者の登山本道とされ、18世紀後半以降、最も多くの道者(他の登山口の合計と同程度)によって利用された。登山道沿いには要所要所に祠や石碑が設置され、随所に小屋や石室が設けられており、富士独特の登拝システムを語る上で、登山道は欠かすことのできない枢要の要素である。(推薦書原案よりP9)

登山道あっての富士信仰なんです。ですから富士信仰を考えるとき、登拝道ベースで考えるとわかりやすいんですよね。ここポイントです。

【浅間神社】
溶岩流の末端や登山道の起点、山麓には浅間神社が建立されている。古くから富士山は遥拝の対象であり、浅間神社のうちいくつかは神話の時代に建立されたと、各神社の社伝には記述されている。特に山宮浅間神社などは古代からの祭祀の形をとどめているとされる。その後、富士山では8世紀末からの噴火活動の活発化を受け、律令国家によって9世紀前半に富士山を神体とする浅間神社(後の富士山本宮浅間大社)が、9世紀後半には北麓にも噴火を鎮めるための神社が祭祀された。11世紀後半の噴火を最後に火山活動が休止期に入ると、日本古来の山岳信仰と密教・道教(神仙思想)が習合した修験道の道者による活動が活発化し始め、修験者の拠点が後に村山浅間神社や冨士御室浅間神社へと発展していった。登拝の大衆化に伴って、須山浅間神社や富士浅間神社(須走浅間神社)など、登山口の起点にも浅間神社が建立されたと考えられる。(推薦書原案よりP10)

これも「富士信仰とは何か」にて説明してあります。

【富士講】
18世紀後半から爆発的に流行した富士講の信者は、山頂を目指して富士山に登るだけでなく、周辺の風穴・溶岩樹型や湧水地などを巡り、巡礼や修行を行っていた。特に先達になる人は必ずそうした。 富士講の開祖とされる長谷川角行(1541-1646)は、16~17世紀にかけて人穴(人穴富士講遺跡内)で修行をし、富士五湖を始めとした8つの湖沼や白糸ノ滝で水行を行ったとされている。(推薦書原案よりP11)

富士講は富士信仰の歴史において大きな存在ですね。規模という意味では最大であると思います。角行が修行した地と伝わる人穴は、富士講信者により浄土とされていました。角行を崇拝する一派・団体らを指し「角行系富士信仰」といった言葉で表現する文献もありますが、この捉え方は分かりやすいでしょう。富士講もその中の1つです。ですから人穴の浄土的位置づけは、実は富士講にとってだけではなかったりします。あとあまり知られていませんが、白糸ノ滝も富士講の巡礼地の1つだったりします。江戸期に吉田口の利用者が特に多い理由も、富士講によるものと言ってよいでしょう。他にも巡礼地として駿河国のものが含まれていたりしていたので、富士講というのは広範的な団体だったんですね。(→富士講

【道者の文化・習慣】
このうち八合目以上(標高約3,200~3,375m以上)は、1779年以降、富士山本宮浅間大社の境内地とされている。これは、山頂にある噴火口(内院)の底部には浅間大神が鎮座するという考え方から、その底部とほぼ同じ標高である八合目から山頂までが神聖な地と捉えられたからだという。ほぼこの境域に沿って富士山体を一周する巡礼道は、富士講の開祖とされる長谷川角行によって16~17世紀頃に開かれたとされ、その後、「大沢崩れ」という危険箇所を通るため富士講信者により修行の道として大いに人気を博し、「御中道」と呼ばれた。 富士山への信仰登山が開始されると、修験道の影響を受け山頂部において寺院の造営や仏像等の奉納がおこなわれるとともに、山頂部での宗教行為が体系化されていった。1482年の銘のあるものが最古)・仏像等(1303年の銘があるものが最古)の山頂部への埋納・奉納や火口部に当たる内院への散銭が行われた。(推薦書原案よりP.12)

富士山体だけでみても、内院散銭や御中道や奉納など多くの慣例、信仰形態がみられます。

【大宮・村山口登山道】
富士山南西麓の富士山本宮浅間大社(その所在である富士宮市はかつて大宮と呼ばれた。)を起点とし、村山浅間神社(興法寺)を経て山頂南側に至る登山道である。17世紀以降19世紀後半まで、「村山三坊」と呼ばれた3つの有力な坊が村山浅間神社(興法寺)と登山道の管理を行うとともに所属の修験者が登山道等を利用して修行を行った。また1860年、外国人として初の登山を行った英国公使オールコックがこの登山道を利用した。 また、一般人の登拝も開始され、その様子は16世紀の作である《絹本著色富士曼荼羅図》などに描かれている。(推薦書原案よりP13)

大宮・村山口登山道(現富士宮口登山道)という表現にいささか疑問は感じるが、古来より存在する登山道である。村山三坊は分類的には「御師住宅・大宮道者坊」と同じ所に入ります。「村山浅間神社(興法寺)」という意味は、元々は富士山興法寺と総称される建造物群の1つであったものが、後に村山浅間神社と呼ばれるようになったためです。「絹本著色富士曼荼羅図」は「THE・静岡県」という感じの見事な絵図です。

【須走口登山道】
 登山道は遅くとも17世紀までに、冨士浅間神社及びその所在地の須走村が登山道の山頂部までを支配し、山頂部における散銭取得権の一部などを得ていた。山頂部の権利については富士山本宮浅間大社と争いになり、須走村は18世紀(1703年と1772年)、幕府に裁定を求め、幕府によって須走村の権利として認められた。(推薦書原案よりP13、14)

この「須走と浅間大社の争い」はかなり詳しく書いたと思います。ここは重要です。

【吉田口登山道】
 このため、富士講の信者が次第に増加した18世紀後半以降は、最も多くの道者(他の登山口の合計と同程度)が吉田口登山道を登って山頂を目指している。北口本宮冨士浅間神社は、富士講や吉田御師と密接な関係を持ちながら発展した神社である。江戸時代(19世紀後半まで)の北口本宮冨士浅間神社はその運営を吉田の御師が掌握しており、宮司や禰宜等の神官は御師から選ばれた者が務めた。(推薦書原案よりP15,16)

吉田口の道者が多いのは大きな特徴ですね。多くの古資料がそれを示しています。あと御師が権力を掌握していたことでも知られています。神社も富士講によって様変わりしました。御師による影響によりもたらされたと言ってよいでしょう。

富士山道しるべ
しかし社号や神社としての経緯などから、北口本宮冨士浅間神社は元は諏訪神社としての側面が大きかったことも忘れてはいけません。(→吉田諏訪大明神から北口本宮冨士浅間神社への変移と富士講



【富士山本宮浅間大社】
本神社は、富士山を遙拝し噴火を鎮めるために創建されたものであり、朝廷は853 年に従三位の神階を与え、これを順次高めていくことで浅間大神を慰撫し、噴火を鎮めようとした。その後、15世紀頃登拝が盛んになるにつれて、富士山本宮浅間大社(以下「浅間大社」という。)は村山浅間18神社(興法寺)とともに大宮・村山口登山道の起点となり、宿坊が周辺に建設された。登拝の拡大に伴い、富士山中での諸権利が構築されていく中で、浅間大社は徳川家康(約150年間の戦乱期をおさめ統一政権である江戸幕府を開いた人物)の庇護の下、1604年「浅間造り」と呼ばれる二層構造の独特な構造を持った現在の本殿等が造営されるとともに、1609年には山頂部の散銭取得における優先権(山頂の噴火口へ投げ入れられた賽銭を回収する権利)を得た。これを基に浅間大社は山頂部の管理・支配を行うようになり、1779年、幕府による裁許によりこの八合目以上の支配権が認められた。八合目以上は明治政府により国有地とされたが、1974年の最高裁判決に基づき、2004年浅間大社に譲渡(返還)された。(推薦書原案よりP17、18)

富士山においては、山中の仏像類が破壊された廃仏毀釈など様々な大きな出来事が過去ありました。しかし富士信仰などを含め富士山に焦点を当てた場合に挙げられる最大の出来事は、「1779年の幕府の裁許」であると私は思いますね。ですから、ここはかなり重要な部分です。

【山宮浅間神社】
富士山本宮浅間大社の社伝によれば、浅間大社の前身とされる。本来社殿が位置すべき場所には建物がなく、石列でいくつかに区分された遥拝所が設置されるのみという特異な形態は、古代からの富士山祭祀の形を止めていると推定されている。この遥拝所の主軸は富士山方向を向いている。また、1577年の『冨士大宮御神事帳』に記述があることから、この頃までには浅間大社との間で「山宮御神幸」といわれる儀式が始められていたとされる。この行事は1874年まで行われていた。なお、「山宮御神幸」に使用される経路を御神幸道という。(推薦書原案よりP18、19)

山宮と大宮のつながりも重要な部分ですね。

【村山浅間神社】
12世紀前半から中頃の修行僧である末代上人によって創建されたとされ、1868年の神仏分離令までは神仏習合の宗教施設として興法寺(富士山興法寺または村山興法寺)と呼ばれていた(資産範囲には浅間神社と寺院である大日堂が含まれる)。なお、周辺には興法寺の維持・運営にあたっていた宿坊の村山三坊(池西坊・大鏡坊・辻之坊の三箇所)の跡がある。14世紀初頭には、僧の頼尊による組織化によって、富士山における修験道の中心地になったと考えられている。興法寺は修験道の中心的寺院である京都の聖護院と関係を持ち、主に富士山より西側の地域の道者をまとめていた。1868年、神仏分離令により興法寺は浅間神社と大日堂に分離され、1872年の修験道の禁止により大日堂は衰微したとされる。ただし、修験者の活動は1940年代まで継続されていた。(推薦書原案よりP19)

富士山興法寺も富士信仰において重要ですね。京都の聖護院と関係を深くしたことも大きな転機でありました。今年に「聖護院の峰入り修行」のニュースがありましたが、それもこの関係があったためです。

【須山浅間神社】
須山口登山道の起点として遅くとも1524年には存在していた神社である(棟札による。なお、社伝では神話の時代に創建されたとする。)。現在の本殿は1823年に再建されたものである。1486年の須山口登山道に関する記述や16世紀前半の地元支配者(武田氏)の寄進状からこの時期には富士山南東麓の信仰登山活動に大きな意味を持っていたと考えられている。1780年登山道が宝永噴火の被害から本格的復興を果たすと富士山よりも東側(西側もあり)を中心とした道者が立ち寄っている。(推薦書原案よりP19)

須山は噴火により直接的な被害を被り、登山道が破壊されてしまったため、道者の確保が難しく信仰形態も衰退した地域です。やはり登拝道がないと難しいんですよね。これは登拝道の重要性を良く表しています。

【須走浅間神社】
20社伝では807年に社殿を造営したとされ、須走口登山道の起点となった神社である。16世紀には地元支配者(武田氏)の保護を受け、山頂部の散銭取得権の一部を得ている。神社には特に18世紀後半から富士山よりも東側の道者が多く訪れ、須走口を下山道として利用することが多かった富士講信者も多く立ち寄り、20世紀前半を中心に登拝回数の達成(33回がひとつの区切り)等の記念碑を約80基造営した。(推薦書原案よりP19、20)

16世紀には地元支配者(武田氏)の保護を受け、山頂部の散銭取得権の一部を得ている。→(富士山と内院散銭)。富士講との関係性も伺えます。ここの部分はあまり詳しくないので、少し探ってみたいと思います。

【河口浅間神社】
河口浅間神社は、864~866年に富士北麓で起こった噴火を契機に、北麓側に初めて建立された浅間神社であると伝えられている
浅間神社を中心とした河口の地は、甲府盆地から続く官道の宿駅という役割に加え、富士登拝が大衆化した16世紀頃から御師集落として発展を遂げた。しかし、江戸における富士講の大流行と、それに伴う吉田御師の隆盛により、河口の御師集落としての機能は、19世紀以降衰退してしまった。(推薦書原案よりP20)

これも解説があります→(富士山の河口御師)。御師って富士講ができる以前に存在しています。というより、富士講の歴史は結構浅いので富士講以前の形態を把握することは重要なんですね。しかし、そこが結構難しいんですね。

【冨士御室浅間神社】
富士山における修験道の拠点は南西の村山浅間神社(興法寺)であるが、北面の二合目、御室浅間神社が鎮座する御室の地にも山内の信仰拠点として役行者堂が整備された。修験や登拝といった様々な富士信仰の拠点として位置づけられる二合目の本宮と、土地の産土神としての里宮が一体となって機能してきた神社である。(推薦書原案よりP20、21)

冨士御室浅間神社は分かっていない部分が多くはっきりしない部分が多いです。私はどちらかというとより初期の富士信仰に興味があるので、これも探っていきたいと思っています。

【御師住宅】
信仰の布教活動と祈祷を行うことを業とした。富士山御師を代表する吉田の御師は、吉田口登山道の起点となる北口本宮冨士浅間神社へ続く南北に伸びる道路の左右に大規模な御師集落を形成していた。(推薦書原案よりP21)

旧外川家住宅と小佐野家住宅が知られています。

【富士講の巡礼地・霊場】

富士五湖も富士講信者による水行の地であり、富士八海を構成していた。また洞穴なども修行なり霊場なりの位置づけであったといわれ、船津胎内樹型や吉田胎内樹型がそれである。人穴を意識したものであろうか。白糸の滝も水行の地であったといわれる。人穴富士講遺跡は代表的な存在である。忍野八海は角行の八海修行になぞらえ「富士山根元八湖」と唱えられた。

  • まとめ
当ブログは一応「推薦書原案」にあるようなことが理解できるようなものを目指し、作成していました。まだ須走・河口の方はあまり取り上げていないのですが、将来的に充実していければいいなと思います。