現在は「富士山本宮浅間大社」という名称ですが、神社の名前(社号)は時代によって変移するものです。ですから、現在の富士山本宮浅間大社の名称も元々は違う名称です。つまり、社号を考えるときは通史で考える必要性がある。今回は、それを探っていきます。
- 「神名と神号」と「社名・社号」
- 「本宮」とは
廿二日 巳丑 駿河国より使者を進じて申して云はく、一昨日丑の剋、当国惣社ならびに富士新宮等焼失す。神火と云々。
廿三日 戌寅 晴る。平三郎兵衛尉盛綱・尾藤左近将監景綱等、前奥州の御使として、駿河国に下向す。富士新宮等の回禄の事によつてなり。
静岡浅間神社は俗称であり、実際は「神部神社」「浅間神社」「大歳御祖神社」の三社をまとめた形である。正式名称は「神部神社浅間神社大歳御祖神社」という。『延喜式』によると、安倍郡七座として「神部神社」と「大歳御祖神社」が記されている。浅間神社は延喜年間(901〜923)に浅間大社より勧請されたという。「静岡浅間神社の稚児舞と廿日会祭」には以下のようにある。
ここに惣社宮司とある村主氏は延長4年(926)に「駿河国浅間新宮」の鐘を作ったとされるので、その時点ですでに富士宮からここに浅間神社が勧請されていたと見られる。
これは大変に重要な事実である。『静岡県史資料編4 古代』831号に鐘の銘が載るが、「駿河国浅間新宮」の銘文が見られるのである。銘文には他に「延長四年丙戌九月十七日」とあり、このとき既に「新宮」が存在していることが分かり、また既に浅間大社が存在していたことも分かるのである。
以下は文書上などでみられる社号などを挙げたものである。
- 社号について
【富士大神、浅間大神、浅間明神】
古くは『文徳実録』や『日本三代実録』にみられる。本によって神社を指すのか、はたまた富士山に宿る神としての浅間大神のみを指すのかが分かれる。
【富士ノ宮】
通称と考えても良い。『今昔物語集』や『勅撰和歌集』に代表として見られ、富士宮市の市名の由来ともなっている。また「勅撰集」にあることを考えると、当時広く用いられてたと考えても良い。「ふじの宮」(『新勅撰和歌集』より) |
【富士浅間宮】
主に戦国時代以降にみられる。最も良く確認できるように思える。戦乱の世となり、これまで以上に文書でのやりとりが多くなり、多く残っているのだと思う。また富士氏の活躍などから、当時の社号を用いた文書を多く目にする。
【富士浅間本宮社】
「本宮」とあるものである。「脇差浅間丸」の銘や、豊臣秀吉の朱印状などでも確認できる。「脇差浅間丸」の銘によると「奉富士本宮 源式部丞信国」「一期一腰 応永卅二年二月日」とあり、応永32年(1425)の時点で「本宮」なる呼称があったと考えられる。
【富士山本宮浅間社】
富士山本宮浅間大社に改称される前の名称。が、江戸期には既にこのような名称であった(例えば『浅間神社の歴史』古今書院版のP234-244辺りの史料などにもみられる)。
【富士山本宮浅間大社】
富士山本宮浅間神社からの改名である。元々「大社」を名乗る神社は「出雲大社」のみであった。明治時代になり政府は全国の神社の調査を行い、社格を整理した。全国の神社を官社と諸社に分け、うち官社を官幣大社と国幣大社に分けた。そしてそれぞれ「大社」・「中社」・「小社」の三等に区別した。戦後になり、その社格にて「大社」とされた神社が社号を大社とした例がみられた。それがこの名称変更である。例えば伏見稲荷大社などもそうである。富士山:富士山を御神体とする、富士大神などから
本宮:新宮に対する名称
浅間:浅間大神を祀る
大社:官幣大社より
このようにまとめられる。律令国家により建立された浅間神社は、当初は現在の富士山本宮浅間大社のみであったと考えられる。古い時代であったので単に「浅間大神」などと呼称された。しかし浅間神社が多く建立されていく中で社号も変移を重ねていく。しかしその過程でも「富士ノ宮」・「富士本宮」・「富士浅間宮」などとあるように、古来より「富士」は継承されてきたように思える。それが現在の「富士山本宮浅間大社」の「富士山」の部分にあたる。
中村羊一郎編,『静岡浅間神社の稚児舞と廿日会祭』,2017
- 参考文献
中村羊一郎編,『静岡浅間神社の稚児舞と廿日会祭』,2017
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