2011年12月31日土曜日

浅間大社と徳川氏の内院散銭寄進

推薦書原案より抜粋します。
浅間大社は徳川家康の庇護の下、1604年「浅間造り」と呼ばれる二層構造の独特な構造を持った現在の本殿等が造営されるとともに、1609年には山頂部の散銭取得における優先権(山頂の噴火口へ投げ入れられた賽銭を回収する権利)を得た。これを基に浅間大社は山頂部の管理・支配を行うようになり
今回はこの部分にクローズアップしたいと思います。

推薦書原案にある通り、浅間大社は1609年より富士山頂の支配なり管理なりを行っていました。この大きな権限は、徳川氏のもとで庇護されたことによるものである。しかし、個人的には1609年の時点では「(完全な)支配」というまでのところまでの権利は保持していなかったように思える。

「1609年には山頂部の散銭取得における優先権を得た」という部分は1779年の幕府の裁許状から分かる。


ここには関ヶ原の戦いの際に戦勝祈願し、見事それが成就したことから、本殿や末社などを残らず再建したことが記されている。また、内院散銭を修理代として寄進したことも記されている。

つまり
  • 1604年の徳川家康による本殿などの造営
  • 1609年の徳川家康による内院散銭の寄進
これら徳川氏による庇護を元に、浅間大社は富士山頂を支配するようになったということである。

確かに浅間大社は、徳川氏に庇護されてからというもの権限を強め、富士山頂において支配する立場にありました。富士山領が徳川忠長領である時代、忠長の家老からの書状に、富士山頂を指してはっきりと「大宮司支配の所」とある。家老というのは重鎮的立場であり、正式な書状である。ここにある「大宮司」とは、富士氏の富士大宮司のことである。つまり、富士山頂は富士大宮司支配の土地という認識であったのである。

富士山頂において他の土地の者(須走や吉田)が何かをする場合、大宮司らの許可が必要であった。なぜ須走と吉田かというと、登山道は大宮口の他に須走口や吉田口などがあり、それらを管理していたのはこれらの土地の者であったからである。そして、それらの者も山頂において道者相手の経営などを行う為、「許可を得る者」と「許可を出す者」という関係が生まれるのである。それらの書状も確認でき、例えば山頂において何か販売するなどの諸事も、許可を得てから販売していた。つまり浅間大社、厳密に言うと大宮司らというのは、許可を出す側であったのである。

しかし須走などでは抵抗する動きもみられ、それらが「元禄の争論」である。こういう争論が起きるということは、やはり完全なる支配では無かったためではないかと思う。しかしこれらの記録から、管理以上の支配に近い権限を保持していたと言える。

  • 参考文献
  1. 『裾野市史』第三巻資料編近世,P650-654
  2. 青柳周一,『富岳旅百景―観光地域史の試み』, 角川書店,2002年

富士山本宮浅間大社の社号の変移


現在は「富士山本宮浅間大社」という名称ですが、神社の名前(社号)は時代によって変移するものです。ですから、現在の富士山本宮浅間大社の名称も元々は違う名称です。つまり、社号を考えるときは通史で考える必要性がある。今回は、それを探っていきます。

  • 「神名と神号」と「社名・社号」
例えば「浅間大明神」という言葉があるが、浅間が「神名」で大明神が「神号」にあたる。他に神仏習合の影響で「浅間大菩薩」や「浅間大権現」などの名称があるが、大菩薩は「菩薩号」、大権現は「権現号」などともいう。「神宮」「神社」「大社」「宮」などが社号にあたる。ですから「浅間神社」は社号です。

  • 「本宮」とは
資料によると「富士山本宮浅間大社」の「本宮」という呼称は、浅間大社より勧請された静岡浅間神社(厳密にいうとその中の浅間神社)の「新宮」(しんぐう)という語に対する名称と言われる。例えば『吾妻鏡』の貞応3年(1224)2月22日条・23日条には「富士新宮」とある。富士新宮の焼失を伝えている。

廿二日 巳丑 駿河国より使者を進じて申して云はく、一昨日丑の剋、当国惣社ならびに富士新宮等焼失す。神火と云々。
廿三日 戌寅 晴る。平三郎兵衛尉盛綱・尾藤左近将監景綱等、前奥州の御使として、駿河国に下向す。富士新宮等の回禄の事によつてなり。

静岡浅間神社は俗称であり、実際は「神部神社」「浅間神社」「大歳御祖神社」の三社をまとめた形である。正式名称は「神部神社浅間神社大歳御祖神社」という。『延喜式』によると、安倍郡七座として「神部神社」と「大歳御祖神社」が記されている。浅間神社は延喜年間(901〜923)に浅間大社より勧請されたという。「静岡浅間神社の稚児舞と廿日会祭」には以下のようにある。

ここに惣社宮司とある村主氏は延長4年(926)に「駿河国浅間新宮」の鐘を作ったとされるので、その時点ですでに富士宮からここに浅間神社が勧請されていたと見られる。

これは大変に重要な事実である。『静岡県史資料編4 古代』831号に鐘の銘が載るが、「駿河国浅間新宮」の銘文が見られるのである。銘文には他に「延長四年丙戌九月十七日」とあり、このとき既に「新宮」が存在していることが分かり、また既に浅間大社が存在していたことも分かるのである。

以下は文書上などでみられる社号などを挙げたものである。


  • 社号について


【富士大神、浅間大神、浅間明神】
古くは『文徳実録』や『日本三代実録』にみられる。本によって神社を指すのか、はたまた富士山に宿る神としての浅間大神のみを指すのかが分かれる。

【富士ノ宮】
通称と考えても良い。『今昔物語集』や『勅撰和歌集』に代表として見られ、富士宮市の市名の由来ともなっている。また「勅撰集」にあることを考えると、当時広く用いられてたと考えても良い。

「ふじの宮」(『新勅撰和歌集』より)

【富士浅間宮】
主に戦国時代以降にみられる。最も良く確認できるように思える。戦乱の世となり、これまで以上に文書でのやりとりが多くなり、多く残っているのだと思う。また富士氏の活躍などから、当時の社号を用いた文書を多く目にする。

【富士浅間本宮社】
「本宮」とあるものである。「脇差浅間丸」の銘や、豊臣秀吉の朱印状などでも確認できる。「脇差浅間丸」の銘によると「奉富士本宮 源式部丞信国「一期一腰 応永卅二年二月日」とあり、応永32年(1425)の時点で「本宮」なる呼称があったと考えられる。

【富士山本宮浅間社】
富士山本宮浅間大社に改称される前の名称。が、江戸期には既にこのような名称であった(例えば『浅間神社の歴史』古今書院版のP234-244辺りの史料などにもみられる)。

【富士山本宮浅間大社】
富士山本宮浅間神社からの改名である。元々「大社」を名乗る神社は「出雲大社」のみであった。明治時代になり政府は全国の神社の調査を行い、社格を整理した。全国の神社を官社と諸社に分け、うち官社を官幣大社と国幣大社に分けた。そしてそれぞれ「大社」・「中社」・「小社」の三等に区別した。戦後になり、その社格にて「大社」とされた神社が社号を大社とした例がみられた。それがこの名称変更である。例えば伏見稲荷大社などもそうである。

富士山:富士山を御神体とする、富士大神などから
本宮:新宮に対する名称
浅間:浅間大神を祀る
大社:官幣大社より

このようにまとめられる。律令国家により建立された浅間神社は、当初は現在の富士山本宮浅間大社のみであったと考えられる。古い時代であったので単に「浅間大神」などと呼称された。しかし浅間神社が多く建立されていく中で社号も変移を重ねていく。しかしその過程でも「富士ノ宮」・「富士本宮」・「富士浅間宮」などとあるように、古来より「富士」は継承されてきたように思える。それが現在の「富士山本宮浅間大社」の「富士山」の部分にあたる。


  • 参考文献

中村羊一郎編,『静岡浅間神社の稚児舞と廿日会祭』,2017

2011年12月14日水曜日

富士山興法寺

富士山興法寺は村山修験の中心地であり、村山の施設群の総称である。

富士山興法寺(『絹本著色富士曼荼羅図』より)
施設群も様々なものがあるが、例えば村山浅間神社も元は興法寺である。以下、推薦書原案の文章である。

1868年の神仏分離令までは神仏習合の宗教施設として興法寺(富士山興法寺または村山興法寺)と呼ばれていた(資産範囲には浅間神社と寺院である大日堂が含まれる)。なお、周辺には興法寺の維持・運営にあたっていた宿坊の村山三坊(池西坊・大鏡坊・辻之坊の三箇所)の跡がある。

このように、村山修験の中心地である富士山興法寺は、村山三坊により管理されていたのである。「国指定文化財等データベース」にはこのようにある。

慶応4(明治元)年(1868)の神仏分離令により村山浅間神社と大日堂に分離された興(こう)法(ぼう)寺(じ)は、末代の創建によるとされ、村山修験の中心であった

末代などの名が出てくることからも分かるように、富士信仰の起源の部分により近い、非常に重要な施設といえる。村山は今川氏に庇護されていたため、今川氏との文書でのやり取りが多くみられる。文書上では「富士山興法寺」や「富士興法寺」、「村山興法寺」、または単に「興法寺」などと見える。

天文四年(1535)の「今川氏輝判物」

  • 施設
村山浅間神社
 管理は三坊のうち「辻之坊(つじのぼう)」が行なっていた。村山浅間神社の創建は、三坊それぞれで伝承が異なり、複雑である。しかしながら共通していることに「大寛元年から始まる」と伝わることや、「役行者との接点」を見いだせることが挙げられる。明治7年ころになると「根本宮浅間神社」と改称し、大正13年には県社となった。
大日堂 
管理は三坊のうち「池西坊(ちせいぼう)」が行なっていた。大日堂は富士山頂上に存在し、村山三坊が管理していた。後の富士山本宮浅間大社奥宮である。
大棟梁権現社 
管理は三坊のうち「大鏡坊(だいきょうぼう)」が行なっていた。村山浅間神社の摂社としての位置づけであったといわれる(たぶん)。後に「高嶺総鎮守」と改称している。
村山浅間神社の創建の伝承で「役行者との接点」を見出しているが、「中興の祖」としての位置づけとして末代上人が仰がれていた。このことから、富士山興法寺を開いたのは末代上人であると言って良いように思える。村山三坊や村山浅間神社の詳細な解説は、別機会にて設けたいと思います。

  • 参考文献
  1. 久保田 昌希 ・ 大石 泰史編,『戰國遺文 今川氏編〈第1巻〉』P225,東京堂出版,2010年
  2. 『浅間神社の歴史』 
  3. 「推薦書原案」

2011年12月13日火曜日

梁塵秘抄における富士山

『梁塵秘抄』(りょうじんひしょう)は平安時代末期の歌謡集である。『梁塵秘抄』の巻第二には富士山に関するものがみえる。『梁塵秘抄』における富士山は、まさしく修験道としての面であり、これが非常に大きな特徴である。

訳:
全国各地の霊験あらたかな所は伊豆の走湯、信濃の戸隠、駿河の富士の山、伯耆の大山、丹後の成相とか聞く。さらには土佐の室戸、讃岐の志度の道場と聞いている

『日本古典文学全集〈25〉神楽歌・催馬楽・梁塵秘抄・閑吟集』の解説によると
全国の主な修験道場を列挙し、山岳宗教の広がりがよくわかるが、山だけでなく四国の海辺の道場もあげられている。そこには未知の世界へのあこがれも秘められていよう。
とある。

この作品は平安時代のものであるため、平安時代には富士山において既に修験道が開かれていたことが明確に分かる。また「四方の霊験所」、つまり全国におけるその中でも代表的な存在として挙げられていることから、良く知られていた存在であると考えることができる。

解説には「三:富士山本宮浅間大社」とある。たしかに「一:伊豆の走湯」は伊豆山神社、「二:信濃の戸隠」は戸隠神社とあるように、これらは神社を指しているかもしれない。しかし、富士山の場合は修験道としての面が強くみられるのはやはり村山と考えるのが妥当である。だから、村山の修験道としての面が世間に流布されていたそれが、歌謡となって取り上げられた可能性もあるように思える。

この頃といえば、末代上人が山頂に大日堂を建立したと伝わる1149年から何十年しか経っていないような時代である。つまり比較的古い時代に記された富士山に関する記録なのである。しかもただ「富士」と出ているのではなく、その性格が見える記述は非常に重要であるように思える。この時代、世間に流布されるまでに至る影響力を持ったものは、多分大宮と村山だけだろう。大宮は律令国家の先導による浅間神社の創建から由来する浅間信仰の中心地としての面、また村山は末代上人らに代表される修験道としての面である。

この『梁塵秘抄』の記録は、富士山を解説する際よく取り上げられる。「古くより信仰の対象となっていたこと」や「修験道が確立されていた」ことが説明できるからである。これが平安時代における記述であるということは非常に重要である。富士山において修験道はやはり早くから確立されていたと言えると思う。

2011年12月8日木曜日

富士山推薦書原案を読み解く


  • 推薦書原案とは
世界遺産登録の過程における文化庁への提出資料で、これに手を加えられたものが「推薦書正式版」としてユネスコに提出されます。そしてこれが診査されて世界遺産の登録の是非が決められます。



実は推薦書原案は1年提出が遅れているのですが、完成はされていたんですね。それがまた再度見直され提出されたわけですが、すごく簡略化されています。「とにかく分かりやすく」ということを念頭においているためにそうなったと思われますが、以前のものと比べるとスリム化されどんな人でも読めるような感じになっています。外国人が読んで理解できるように求められているわけですからね。

「推薦書原案」

今回はその推薦書原案の内容を紐解いていこうと思います。「信仰」に関わる部分を抽出し、解説することとします。

  • 構成資産の基準
今回は文化遺産での登録を目指す形であり、信仰がメインであることから、「富士信仰と関係するものが構成資産となっている」と言うことができます。そして「富士信仰と関係するものとはどういうものが当てはまるのか」ということですが、それは「富士山の登拝道が存在する地域にみられる文化や建造物」と表すことができます。そして「富士山の登拝道が存在する地域」というのは「大宮」・「村山」・「須走」・「須山」・「河口」・「吉田」であり、この中でも「大宮」「村山」「須走」「吉田」は中心的存在であったので、これらの地域でみられる文化財が構成資産の中心となっております。富士信仰は登拝道の存在する地域に特徴的にみられたもので、登拝道周辺に独自の文化が発展していました。

  • 解説
【富士信仰の成り立ち】
上記のような自然環境を持つ富士山は、古来自然物、特に山岳に対する信仰の伝統を持っていた。日本人に畏敬の念を抱かせ、日本における様々な宗教・宗派の枠を超えて信仰の対象とされてきた。山麓から信仰心を持って富士山を仰ぎ見る遙拝や、山域・山麓での修行、神仏の在所と考えられていた山頂への登山(以下、「登拝」という。)という宗教行為が一般化すると、多くの信仰登山者(以下、「道者」という。)が山頂を目指した。そのため、山体及び山麓周辺に神社や仏教施設などが建立されるとともに、登山のための道や神社、山小屋等の諸施設及びそれを支援するシステムが整備されてきた。(推薦書原案よりP6)
富士信仰とは何か」で解説してあります。

配石遺溝・集石遺溝
【霊山として】

さらに富士山域の範囲は、山体の神聖性の境界の一つである「馬返」以上に該当する標高約1,500m以上の区域でもあり、その中でも、他界(死後世界)と考えられた森林限界より上方の区域、富士山本宮浅間大社の境内地とされた八合目(登山道を10区間に分割した目安の一つ。登山道ごとに異なり標高約3,200~3,375m)以上の区域と、山頂に近い区域ほどより強い神聖性を持つようになると認識されてきた。(推薦書原案よりP8)

これも説明済みですが、山頂は浅間大神の御在所ともいわれ、最も神聖な場所であった。まず富士山が霊山なのですが、その中でも山頂は特別な場所であったわけです。八合目以上が富士山本宮浅間大社の境内地になるに至る説明もあります。→「富士山の大宮・須走・吉田の争いと元禄と安永の争論」。

【富士信仰の発展】
富士山には、麓の浅間神社を起点として山頂に至る登山道が複数存在する。12世紀前半から中頃にかけての修行僧である末代上人(1103-?)の活動がきっかけになったと考えられる大宮・村山口登山道や、六合目から1384年の銘のある掛仏が出土した須走口登山道などがある。吉田口登山道は、富士講信者の登山本道とされ、18世紀後半以降、最も多くの道者(他の登山口の合計と同程度)によって利用された。登山道沿いには要所要所に祠や石碑が設置され、随所に小屋や石室が設けられており、富士独特の登拝システムを語る上で、登山道は欠かすことのできない枢要の要素である。(推薦書原案よりP9)

登山道あっての富士信仰なんです。ですから富士信仰を考えるとき、登拝道ベースで考えるとわかりやすいんですよね。ここポイントです。

【浅間神社】
溶岩流の末端や登山道の起点、山麓には浅間神社が建立されている。古くから富士山は遥拝の対象であり、浅間神社のうちいくつかは神話の時代に建立されたと、各神社の社伝には記述されている。特に山宮浅間神社などは古代からの祭祀の形をとどめているとされる。その後、富士山では8世紀末からの噴火活動の活発化を受け、律令国家によって9世紀前半に富士山を神体とする浅間神社(後の富士山本宮浅間大社)が、9世紀後半には北麓にも噴火を鎮めるための神社が祭祀された。11世紀後半の噴火を最後に火山活動が休止期に入ると、日本古来の山岳信仰と密教・道教(神仙思想)が習合した修験道の道者による活動が活発化し始め、修験者の拠点が後に村山浅間神社や冨士御室浅間神社へと発展していった。登拝の大衆化に伴って、須山浅間神社や富士浅間神社(須走浅間神社)など、登山口の起点にも浅間神社が建立されたと考えられる。(推薦書原案よりP10)

これも「富士信仰とは何か」にて説明してあります。

【富士講】
18世紀後半から爆発的に流行した富士講の信者は、山頂を目指して富士山に登るだけでなく、周辺の風穴・溶岩樹型や湧水地などを巡り、巡礼や修行を行っていた。特に先達になる人は必ずそうした。 富士講の開祖とされる長谷川角行(1541-1646)は、16~17世紀にかけて人穴(人穴富士講遺跡内)で修行をし、富士五湖を始めとした8つの湖沼や白糸ノ滝で水行を行ったとされている。(推薦書原案よりP11)

富士講は富士信仰の歴史において大きな存在ですね。規模という意味では最大であると思います。角行が修行した地と伝わる人穴は、富士講信者により浄土とされていました。角行を崇拝する一派・団体らを指し「角行系富士信仰」といった言葉で表現する文献もありますが、この捉え方は分かりやすいでしょう。富士講もその中の1つです。ですから人穴の浄土的位置づけは、実は富士講にとってだけではなかったりします。あとあまり知られていませんが、白糸ノ滝も富士講の巡礼地の1つだったりします。江戸期に吉田口の利用者が特に多い理由も、富士講によるものと言ってよいでしょう。他にも巡礼地として駿河国のものが含まれていたりしていたので、富士講というのは広範的な団体だったんですね。(→富士講

【道者の文化・習慣】
このうち八合目以上(標高約3,200~3,375m以上)は、1779年以降、富士山本宮浅間大社の境内地とされている。これは、山頂にある噴火口(内院)の底部には浅間大神が鎮座するという考え方から、その底部とほぼ同じ標高である八合目から山頂までが神聖な地と捉えられたからだという。ほぼこの境域に沿って富士山体を一周する巡礼道は、富士講の開祖とされる長谷川角行によって16~17世紀頃に開かれたとされ、その後、「大沢崩れ」という危険箇所を通るため富士講信者により修行の道として大いに人気を博し、「御中道」と呼ばれた。 富士山への信仰登山が開始されると、修験道の影響を受け山頂部において寺院の造営や仏像等の奉納がおこなわれるとともに、山頂部での宗教行為が体系化されていった。1482年の銘のあるものが最古)・仏像等(1303年の銘があるものが最古)の山頂部への埋納・奉納や火口部に当たる内院への散銭が行われた。(推薦書原案よりP.12)

富士山体だけでみても、内院散銭や御中道や奉納など多くの慣例、信仰形態がみられます。

【大宮・村山口登山道】
富士山南西麓の富士山本宮浅間大社(その所在である富士宮市はかつて大宮と呼ばれた。)を起点とし、村山浅間神社(興法寺)を経て山頂南側に至る登山道である。17世紀以降19世紀後半まで、「村山三坊」と呼ばれた3つの有力な坊が村山浅間神社(興法寺)と登山道の管理を行うとともに所属の修験者が登山道等を利用して修行を行った。また1860年、外国人として初の登山を行った英国公使オールコックがこの登山道を利用した。 また、一般人の登拝も開始され、その様子は16世紀の作である《絹本著色富士曼荼羅図》などに描かれている。(推薦書原案よりP13)

大宮・村山口登山道(現富士宮口登山道)という表現にいささか疑問は感じるが、古来より存在する登山道である。村山三坊は分類的には「御師住宅・大宮道者坊」と同じ所に入ります。「村山浅間神社(興法寺)」という意味は、元々は富士山興法寺と総称される建造物群の1つであったものが、後に村山浅間神社と呼ばれるようになったためです。「絹本著色富士曼荼羅図」は「THE・静岡県」という感じの見事な絵図です。

【須走口登山道】
 登山道は遅くとも17世紀までに、冨士浅間神社及びその所在地の須走村が登山道の山頂部までを支配し、山頂部における散銭取得権の一部などを得ていた。山頂部の権利については富士山本宮浅間大社と争いになり、須走村は18世紀(1703年と1772年)、幕府に裁定を求め、幕府によって須走村の権利として認められた。(推薦書原案よりP13、14)

この「須走と浅間大社の争い」はかなり詳しく書いたと思います。ここは重要です。

【吉田口登山道】
 このため、富士講の信者が次第に増加した18世紀後半以降は、最も多くの道者(他の登山口の合計と同程度)が吉田口登山道を登って山頂を目指している。北口本宮冨士浅間神社は、富士講や吉田御師と密接な関係を持ちながら発展した神社である。江戸時代(19世紀後半まで)の北口本宮冨士浅間神社はその運営を吉田の御師が掌握しており、宮司や禰宜等の神官は御師から選ばれた者が務めた。(推薦書原案よりP15,16)

吉田口の道者が多いのは大きな特徴ですね。多くの古資料がそれを示しています。あと御師が権力を掌握していたことでも知られています。神社も富士講によって様変わりしました。御師による影響によりもたらされたと言ってよいでしょう。

富士山道しるべ
しかし社号や神社としての経緯などから、北口本宮冨士浅間神社は元は諏訪神社としての側面が大きかったことも忘れてはいけません。(→吉田諏訪大明神から北口本宮冨士浅間神社への変移と富士講



【富士山本宮浅間大社】
本神社は、富士山を遙拝し噴火を鎮めるために創建されたものであり、朝廷は853 年に従三位の神階を与え、これを順次高めていくことで浅間大神を慰撫し、噴火を鎮めようとした。その後、15世紀頃登拝が盛んになるにつれて、富士山本宮浅間大社(以下「浅間大社」という。)は村山浅間18神社(興法寺)とともに大宮・村山口登山道の起点となり、宿坊が周辺に建設された。登拝の拡大に伴い、富士山中での諸権利が構築されていく中で、浅間大社は徳川家康(約150年間の戦乱期をおさめ統一政権である江戸幕府を開いた人物)の庇護の下、1604年「浅間造り」と呼ばれる二層構造の独特な構造を持った現在の本殿等が造営されるとともに、1609年には山頂部の散銭取得における優先権(山頂の噴火口へ投げ入れられた賽銭を回収する権利)を得た。これを基に浅間大社は山頂部の管理・支配を行うようになり、1779年、幕府による裁許によりこの八合目以上の支配権が認められた。八合目以上は明治政府により国有地とされたが、1974年の最高裁判決に基づき、2004年浅間大社に譲渡(返還)された。(推薦書原案よりP17、18)

富士山においては、山中の仏像類が破壊された廃仏毀釈など様々な大きな出来事が過去ありました。しかし富士信仰などを含め富士山に焦点を当てた場合に挙げられる最大の出来事は、「1779年の幕府の裁許」であると私は思いますね。ですから、ここはかなり重要な部分です。

【山宮浅間神社】
富士山本宮浅間大社の社伝によれば、浅間大社の前身とされる。本来社殿が位置すべき場所には建物がなく、石列でいくつかに区分された遥拝所が設置されるのみという特異な形態は、古代からの富士山祭祀の形を止めていると推定されている。この遥拝所の主軸は富士山方向を向いている。また、1577年の『冨士大宮御神事帳』に記述があることから、この頃までには浅間大社との間で「山宮御神幸」といわれる儀式が始められていたとされる。この行事は1874年まで行われていた。なお、「山宮御神幸」に使用される経路を御神幸道という。(推薦書原案よりP18、19)

山宮と大宮のつながりも重要な部分ですね。

【村山浅間神社】
12世紀前半から中頃の修行僧である末代上人によって創建されたとされ、1868年の神仏分離令までは神仏習合の宗教施設として興法寺(富士山興法寺または村山興法寺)と呼ばれていた(資産範囲には浅間神社と寺院である大日堂が含まれる)。なお、周辺には興法寺の維持・運営にあたっていた宿坊の村山三坊(池西坊・大鏡坊・辻之坊の三箇所)の跡がある。14世紀初頭には、僧の頼尊による組織化によって、富士山における修験道の中心地になったと考えられている。興法寺は修験道の中心的寺院である京都の聖護院と関係を持ち、主に富士山より西側の地域の道者をまとめていた。1868年、神仏分離令により興法寺は浅間神社と大日堂に分離され、1872年の修験道の禁止により大日堂は衰微したとされる。ただし、修験者の活動は1940年代まで継続されていた。(推薦書原案よりP19)

富士山興法寺も富士信仰において重要ですね。京都の聖護院と関係を深くしたことも大きな転機でありました。今年に「聖護院の峰入り修行」のニュースがありましたが、それもこの関係があったためです。

【須山浅間神社】
須山口登山道の起点として遅くとも1524年には存在していた神社である(棟札による。なお、社伝では神話の時代に創建されたとする。)。現在の本殿は1823年に再建されたものである。1486年の須山口登山道に関する記述や16世紀前半の地元支配者(武田氏)の寄進状からこの時期には富士山南東麓の信仰登山活動に大きな意味を持っていたと考えられている。1780年登山道が宝永噴火の被害から本格的復興を果たすと富士山よりも東側(西側もあり)を中心とした道者が立ち寄っている。(推薦書原案よりP19)

須山は噴火により直接的な被害を被り、登山道が破壊されてしまったため、道者の確保が難しく信仰形態も衰退した地域です。やはり登拝道がないと難しいんですよね。これは登拝道の重要性を良く表しています。

【須走浅間神社】
20社伝では807年に社殿を造営したとされ、須走口登山道の起点となった神社である。16世紀には地元支配者(武田氏)の保護を受け、山頂部の散銭取得権の一部を得ている。神社には特に18世紀後半から富士山よりも東側の道者が多く訪れ、須走口を下山道として利用することが多かった富士講信者も多く立ち寄り、20世紀前半を中心に登拝回数の達成(33回がひとつの区切り)等の記念碑を約80基造営した。(推薦書原案よりP19、20)

16世紀には地元支配者(武田氏)の保護を受け、山頂部の散銭取得権の一部を得ている。→(富士山と内院散銭)。富士講との関係性も伺えます。ここの部分はあまり詳しくないので、少し探ってみたいと思います。

【河口浅間神社】
河口浅間神社は、864~866年に富士北麓で起こった噴火を契機に、北麓側に初めて建立された浅間神社であると伝えられている
浅間神社を中心とした河口の地は、甲府盆地から続く官道の宿駅という役割に加え、富士登拝が大衆化した16世紀頃から御師集落として発展を遂げた。しかし、江戸における富士講の大流行と、それに伴う吉田御師の隆盛により、河口の御師集落としての機能は、19世紀以降衰退してしまった。(推薦書原案よりP20)

これも解説があります→(富士山の河口御師)。御師って富士講ができる以前に存在しています。というより、富士講の歴史は結構浅いので富士講以前の形態を把握することは重要なんですね。しかし、そこが結構難しいんですね。

【冨士御室浅間神社】
富士山における修験道の拠点は南西の村山浅間神社(興法寺)であるが、北面の二合目、御室浅間神社が鎮座する御室の地にも山内の信仰拠点として役行者堂が整備された。修験や登拝といった様々な富士信仰の拠点として位置づけられる二合目の本宮と、土地の産土神としての里宮が一体となって機能してきた神社である。(推薦書原案よりP20、21)

冨士御室浅間神社は分かっていない部分が多くはっきりしない部分が多いです。私はどちらかというとより初期の富士信仰に興味があるので、これも探っていきたいと思っています。

【御師住宅】
信仰の布教活動と祈祷を行うことを業とした。富士山御師を代表する吉田の御師は、吉田口登山道の起点となる北口本宮冨士浅間神社へ続く南北に伸びる道路の左右に大規模な御師集落を形成していた。(推薦書原案よりP21)

旧外川家住宅と小佐野家住宅が知られています。

【富士講の巡礼地・霊場】

富士五湖も富士講信者による水行の地であり、富士八海を構成していた。また洞穴なども修行なり霊場なりの位置づけであったといわれ、船津胎内樹型や吉田胎内樹型がそれである。人穴を意識したものであろうか。白糸の滝も水行の地であったといわれる。人穴富士講遺跡は代表的な存在である。忍野八海は角行の八海修行になぞらえ「富士山根元八湖」と唱えられた。

  • まとめ
当ブログは一応「推薦書原案」にあるようなことが理解できるようなものを目指し、作成していました。まだ須走・河口の方はあまり取り上げていないのですが、将来的に充実していければいいなと思います。

2011年11月28日月曜日

歌集や説話集にみられる富士宮

「富士宮」といっても「富士の宮」…つまり現・浅間大社のことです。富士宮市はこの「富士の宮」から由来しているため、つまりは浅間大社について記述してある古記録を探せば、市名の由来である「富士の宮」が古い資料にて確認できるということになります。

これ(富士の宮と呼ばれていたこと)については、「富士浅間信仰」にて解説がなされています。この記述から、今回は「歌集」と「説話集」から引用しようと思います。

説話集は『今昔物語集』からです。みなさんも一度は「今昔物語」という言葉を聞いたことがあると思います。まさにそれのことで、正確に呼称すると『今昔物語集』となります。今回は『今昔物語集』の「駿河国富士神主帰依地蔵語第十一」を解説したいと思います。例えば『今昔物語集』に「羅城門登上層見死人盗人語第十八」というものもありますが、これを基に構成されたのが、芥川龍之介の『羅生門』です。

  • 今昔物語集(平安時代)
『今昔物語集』(「鈴鹿本」国宝)より

『今昔物語集』はすべての物語が「今は昔、…」で始まります。「駿河国富士神主帰依地蔵語第十一」の冒頭だけ話すと「今は昔、駿河国の富士の宮に神主をしているものがおった。和気光時といった。」とあります。つまり現・浅間神社の神主の話なんです。


ですから、この話の主人公である「和気光時」(神主)は富士氏の当主であるか否か…についてを述べる本などもあります。ここに「富士〇〇」という人物があった
としたら、「富士氏系図」の信ぴょう性がぐっと上がるんですけどね。

しかし、この話だけでも神仏習合を強く感じ取ることができ、そういう意味でも重要であるように思えます。「駿河国富士神主帰依地蔵語第十一」の解説は長いため省きますが、訳などの解説を見ることをお勧めします。

和歌からは『新勅撰和歌集』です。『新勅撰和歌集』における「富士の宮」は「北条泰時」の詠で確認できます。あの御成敗式目の人です。

  • 『新勅撰和歌集』(鎌倉時代)
『新勅撰和歌集』は、その名の通り和歌集です。勅撰和歌集(天皇の命により作られた和歌集)の1つで、『古今和歌集』(905年)〜『新続古今和歌集』(1439年)まで二十一の勅撰和歌集があります。それをまとめて「二十一代集」といいます。その中の『古今和歌集』から『新古今和歌集』までを「八代集」といい、『新勅撰和歌集』〜『新続古今和歌集』を「十三代集」といいます。

ここで一回「詞書(ことばがき)」について述べておこうとおもいます。和歌の前に説明のようにしてあるのが「詞書」で、詠んだ場所や動機などが書いてあります。例えば「…水面に映る月が美しいことよ」みたいな歌があったとします。でも和歌のみだと、どこから眺めたのかが分かりませんよね。そういう感じです。『新勅撰和歌集』にも詞書はあります。

『新勅撰和歌集』(伝二条為右筆本)室町時代前期写


詞書:
するがのくにに神拝し侍けるに、ふじの宮によみてたてまつりける

和歌:
ちはやぶる神世のつきのさえぬればみたらしがはもにごらざりけり

ふじの宮
神拝:神社を参拝して回ること
ちはやぶる:「神世」を導く枕詞。
神世のつき:神世の時代そのままの月。
さえぬれば:「さえ」は「冴ゆ」の連用形。「ぬれ」は完了の助動詞「ぬ」の已然形。「ば」は接続助詞。
みたらしがは:御手洗川。今もありますよね。

それを踏まえると、このようになる。

詞書:

「駿河の国に神社を参拝して回りましたときに、富士の宮に詠んで奉納した」

和歌:

「神世の月が冴え冴えと澄んだので、御手洗川も濁らないのであったよ」

御手洗川が清らかに澄んでいるということを言って、富士の宮の神威神徳を讃えている歌である、という解釈がなされています。

初詣の際などに、富士の宮で和歌を詠んでみるのも良いかもしれない。

  • 参考文献
  1. 神作光一 ・ 長谷川哲夫著,『新勅撰和歌集全釈〈3〉』P203-204,風間書房,2000年
  2. 『日本古典文学全集 (22) 今昔物語集 (2) 』P362-363,小学館
  3. 平野栄次編,『富士浅間信仰』P18,雄山閣出版,1987年

2011年11月21日月曜日

富士山と内院散銭

内院散銭は、富士山の噴火口である「内院」にお金を投げ入れる行為をいいます。道者が行う風習でありました。それを環富士山地域の有力者が得る権利を持っていました

実は「内院散銭を制する(得る権利を保持する)者は、富士山を制する」ようなものなのです。これは誇張した表現でもなく、まさにそうなのです。先ほど「環富士山地域の有力者が得る権利」といいましたが、だれかが山頂に行って自由に得られるわけではありません。しっかりと大名などに権利が与えられることで、得ることができるのです。

ここらへんの戦国大名はどのようなものがいたでしょうか?今川氏や武田氏や北条氏などですよね。そして時代は下り、戦後時代を終わらせた徳川家康です。戦国時代初期は今川氏が最も勢力があった時代ですが、例えば富士山の村山修験、すなわちそれらの主である村山三坊は今川氏の庇護を得ることで栄華を誇っていました。

この内院散銭の権利も時の権力者が与えているため、それはその権力者に庇護されるということであり、大きな権威を保持することになります。そして内院散銭は富士山自体の、そして山頂におけるものであるため、「山頂における支配」的な要素が生まれます。ですから、内院散銭の権利を与えられるということは非常に大きなことなのです。そもそも内院散銭自体が莫大なお金になりますからね。大名がお金を保証するようなものなのです。

よく「登山者が一番多かったので、この地域が一番強かった」というような表現をする例がみられます。たしかにそのように言える部分はあります。しかし「富士山における権利」と「登山者の多さ」は全く直結していません。たしかに道者が多い分、宿などは財政的に恵まれる面がありますが、それと「富士山における権利」は全く別物なのです。なぜなら権威というものは「権力者に与えられる物」であるからです。

内院散銭自体は室町時代に風習があったことが分かっています。今川氏輝の富士山興法寺村山三坊辻之坊への判物に見られます。判物には「内院諸末社参銭等之事」とあります。



これについては「中世後期富士登山信仰の一拠点-表口村山修験を中心に」にて以下のように説明されている。

「中宮・御室・内院・諸末社参銭之事」は、村山以降富士山頂までの道程に存在した中宮八幡堂、御室大日堂、内院(山頂噴火口)や諸末社で、道者が投下する参銭を徴収する権限を辻坊が握っていたものと思われ、これは「山中参銭所」とも記されている。

内院は各登山道の頂点であり、各参銭所の中でも特に多くの参銭を有していたと思われる。それを取得するという権利は軽視できない。

「富士講の信者が内院散銭を行っていた」と書くものが多いですが、間違えてはいませんが、非常に語弊のある言い方であると思います。「富士講信者も行っていたことから、この風習が続いていた」というべきです。大体、富士講信者以外も行っていました。なぜか富士講と絡ませて話すと、なんでも「富士講特有の現象」のように説明してしまうんですね。私もその先入観を取り払う作業に苦労しました。

しかしどうでしょう。栄華を誇っていた今川氏ですが、当主である今川義元が桶狭間で没し、次の当主の今川氏真もその状況を好転できずに、駿河は武田氏の手に堕ちてしまいました。戦国大名としての名門今川氏は滅びてしまったわけです。つまり今川氏に庇護されていた村山は後ろ盾を失ったわけです。そして武田氏は「須走」に内院散銭を与えています。1577年の事です。「富士山内院之参銭、六月中に一日之分所務」とあります。



内院散銭を制する者は、富士山を制する」…、須走はどんどん勢力を拡大していきました(決して内院散銭だけによるものではないが)。須走という地域は、実は登山道が開かれたのは比較的遅いと言われています。しかしながら、勢力の拡大は目を見張るものがあります。

しかしどうでしょう。武田氏も1582年に滅びてしまいます。武田氏当主の武田勝頼は「長篠の戦い」にて大敗し、逃走する中でなんとか好機を探ろうとします。そして家臣の小山田氏を頼みとすることとし(小山田信茂の強い勧めによる)、小山田氏の領地を目指して逃走を続けます。しかし、その中でなんとその小山田氏に裏切られ、ついに天目山にて死することとなります(自害とも、野党に襲われたともいう)。そしてそれと同時に支配したのは「徳川家康」ですね。つまり「内院散銭」を与えるというようなことができるのも、このときは家康であったのです。徳川家康は元は今川氏に属し、名を「松平元康」といいました。この名前の「元」は「義元」の元からもらったものなのです。しかし今川義元が討たれると独立に動きます。そして名を「家康」とします。改名したのは、決別を明確に示したことを意味します。

そして内院散銭だけでみれば、家康は1609年に浅間大社に内院散銭の取得権利を与えています。

ここで疑問が出てきます。「今川氏や武田氏は滅びているけど、権利はどうなっていたのか」ということです。ここは非常に難しい部分です。遠藤秀男氏は『富士山の謎と奇談』の中で「与えられた権利は後世にも続き、散銭を得ていた(大宮と須走で分けていた)」というように説明しています(本が手元にないためニュアンスだけ、いつかしっかり書きます)。
つまり、(村山)・大宮・須走は「それぞれ内院散銭を得ることができる立場」という複雑な状況であったわけです。しかし、やはり争いは起こります。それが「富士山の大宮・須走・吉田の争いと元禄と安永の争論」にあるようなことなのです。

「国指定文化財データベース」より引用(国指定文化財等データベース>富士山>富士山(史跡)>詳細解説で全文が見れます)
噴火口は内院(ないいん)と呼ばれ、散銭が行われ、火口壁のいくつかのピークは曼荼羅における仏の世界に擬せられ、「お鉢めぐり」と呼ばれる巡拝が行われた。山頂部の八合目以上については、安永8年(1779)、幕府の裁定により富士山本宮浅間大社の支配権が認められた。
これは国指定文化財データベースによるものなのです。言ってみれば、学術的視点による教科書のような、見本となる歴史解説なのですが、やはり内院散銭は重要な位置づけにあります。そして安永8年の幕府の裁定(安永の争論の決着)は富士山史において「大き過ぎる」と言っていいほどの出来事でしょう。

安永8年(1779)の幕府の裁定の一部
この安永8年の幕府の裁定により、富士山における権利や支配などは明確なものになりました。だれがどのような権利をもつのかがはっきりとしたのです。先ほど「内院散銭は富士山自体の、そして山頂におけるものであるため、「山頂における支配」的な要素が生まれます…」と書きましたが、例えば吉田などが山頂にて何か独自で行う場合などは、大宮の許可が必要でした。この関係は安永8年の幕府の裁定以前もそうでしたが、裁定後はより明確でした。例えば大宮が吉田に新たに許可を与えたところ、須走が反論している例などもあり、それが元禄の争論の争点の1つだったりします。

内院散銭という側面からみると、戦国時代をよく感じとれますね。そして富士山における権利構造というものがよく分かります。

  • 参考文献 
  1. 『小山町史第1巻 原始古代中世資料編』P514 
  2. 『浅間文書纂』P120
  3. 大高康正,「中世後期富士登山信仰の一拠点-表口村山修験を中心に-」『帝塚山大学大学院人文科学研究科紀要 4』, 2003

2011年11月8日火曜日

駿河大宮城

今回は大宮城についてです。大宮城は駿河国富士郡大宮に存在した城である。戦国時代の三国(駿河・甲斐・相模)の動向に深く関係しています。以下は「富士氏の富士信忠(富士兵部小輔)が今川氏真により大宮城の城代に任命された」という判物である。富士氏はこの大宮城と武力の拠点として武田氏と交戦を繰り返した。




  • 大宮城とは
築城は富士氏によるものと伝わる

『駿河記』には
「当城ハ昔時大宮司某ノ築城スル処也、今川義元朝臣ノ頃富士兵部小輔信忠城代氏真ノ時富士蔵人某。元亀三年武田信玄入道当城ヲ攻、蔵人籠城防戦シテ不落、ココ二於テ北条氏政扱ヲ以テ蔵人開城ス…」
などとある。

『駿河国志』には
「大宮神田、大宮浅間社の市町なり。…曲輪とて塁あり」
とある。

『駿河国新風土記』には
「神田町ノ北二神田塁ノ古城跡アリ。コノ城ハ大宮司和邇部氏築ク所ニテ」
とある。これら記すところをまとめると、「神田町の北に所在・富士氏が築城したと伝わる・今川氏に属して武田氏と交戦した」となる。

発掘調査に基づいて書くと、浅間大社とほぼ一体をなし、現在の城山公園当たりに主郭があったようである。しかし「曲輪」「塁」などで書き示すところ、「強固な城」とはいえないように思う。

  • 武田氏の駿河侵攻
元亀2年(1571)10月に今川氏真は富士信通(富士氏・信忠の子)に感状を与えている。

去る辰十二月九日駿甲の境錯乱の乱の処…。殊に巳の二月遡日穴山葛山方を始めとして大宮城え動き成すといえども…還って勝利を失い引き候。同じく六月廿三日信玄大軍をもって彼の城之取り懸り…種々行いに及び候といえども堅固に相拘り結局数人討捕り候。然る処氏政より罷り退くべきの書札三通参着の上双方の扱いをもって出成候。(中略)忠信の至り也。只今進退困窮についての暇の儀申すの間…東西いず方において進退相定むべし。…                                氏真(花押)

これより「永禄11年12月」・「永禄12年2月」・「永禄12年6月」と、3回にわたり武田軍が大宮城に攻撃していることがわかり、そして富士氏は善戦していることがわかる。しかし3回目の武田信玄の攻撃には耐えられなかったようである(この感状を受け取った後、穴山信君を通し降伏している)。


穴山葛山方:穴山信君と葛山氏元による大宮城への攻撃
信玄大軍をもって彼の城之取り懸り:武田信玄の本隊の攻撃


磯貝正義『定本武田信玄』には以下のようにある。

富士郡に入り、二十五日(一説に二十三日)より大宮城の攻撃を開始した。大宮城は富士浅間社の大宮司富士兵部少輔の守るところで、さきの興津対陣中、信玄は穴山信君・葛山氏元らに攻めさせたが、かえって手負死人らが続出して敗退してしまった。

とある。この「二十五日(一説に二十三日)」という部分ですが、上の氏真感状(1571年)では二十三日としているが、北条家の複数の文書には「廿五日(二十五日)」とあるためである。しかし氏真感状は時期を隔ててから出されたものであるから、二十五日と見られることが多い。

「戦国大名領の研究―甲斐武田氏領の展開」によると、このようにある。

永禄12年に入って、両者の最初の争点となったのは、甲州より駿河への入口にあたる富士の大宮城の攻防であった。ここで注目されることは、早くもこの二月朔日の大宮城攻撃軍に駿東郡領主の葛山氏一族が武田側として加わっている点である。(中略)信玄の駿河侵攻直後に葛山氏は武田側に帰属しており、駿東郡での調略をめぐっては武田方に有利な展開であったといえる。

このように、大宮の知見があったと考えられる葛山氏などが敵方にいたことは、確かに不利な情勢であったといえる。しかし武田側でも有力な存在であった穴山氏や知見のある葛山氏を相手にして富士氏は撃退に成功しているという事実は、重要な点であるように思える。以下のように続く。

信玄は帰陣後の五月、(中略)西上野の小幡氏宛にも一層忠信を励むよう督促している。そして五月二十三日には(中略)書状をだしているが、その同日に氏政はその子氏直を今川氏真の養子として、駿河の仕置を任されたと、大宮城を守っている富士氏に通知している。その後、『甲陽軍艦』によれば、信玄は六月二日に甲府を出発して、再度駿河へ侵入し、まず大宮城を囲み、韮山・山中へ出張し、十七日には三嶋を焼いている。(中略)そして伊豆よりの帰路、七月二日には懸案の大宮城を開城させ、富士氏を穴山信君に配属させている。

とある。このように信玄の本隊の攻撃により開城し、穴山信君がその後の処務を行なっている。例えば開城の交渉を司ったのも信君であった。武田氏にとって大宮攻略は鍵であったので、大きな進歩であっただろう。この穴山信君であるが、後に武田氏を裏切り徳川家康に付く。武田氏滅亡後、家康と共に京巡りを行なっていた最中に本能寺の変が起き、領国に近い安全圏まで退こうとする中、土民に襲撃されて殺されてしまったという(なぜか家康と同行せず)。

そして「忠信の至り也。只今進退困窮についての暇の儀申すの間…東西いず方において進退相定むべし」の部分から、氏真はいままで忠義を尽くしてくれたことに感謝し、暇を与える旨の意思を伝えていることがわかる。つまり「自由にしていいよ」ということであり、言ってみれば今川氏からも認められた別れであった。その後富士信忠(富士氏・信通の父)は武田氏に付くことを決意し、今川氏から離れることとなる。

北条氏政から富士信忠へ

駿河侵攻の時期、北条氏康と氏政から永禄11年から12年にかけて5通の書状が発給されている。「氏政より罷り退くべきの書札三通」は多分これらの中のものであろう。

  • おわりに
大宮城は世間一般の城と比べると知名度こそはないが、今川・武田・北条が絡む部分なので、なかなか興味深い部分であると思う。特に、時期的には駿河が落ちようとしている時であり、今川氏の動向などを考える上で重要であると思う。大宮城は構造的には守ることが苦難であると推測されるが、それでも善戦した点は富士氏の力量を感じるものである。

  • 参考文献
  1. 富士宮市教育委員会,『元富士大宮司館跡-大宮城跡にかかわる埋蔵文化財発掘調査報告書-』,2000年
  2. 柴辻俊六,『戦国大名領の研究―甲斐武田氏領の展開』P58-62,名著出版,1981年
  3. 佐野安朗,『古城 第51号』P87-92「大宮城の戦いと十四ノ城砦群」,2006年
  4. 磯貝正義,『定本武田信玄』P263-265,新人物往来社,1977年

2011年11月3日木曜日

富士山とかぐや姫伝説

富士山とかぐや姫を結びつける書物はたくさん存在しています。今回はなぜそのような考え方が成立したかについて追求しようと思います。

  • 富士山と女神
木村武山 「羽衣」

富士山とかぐや姫伝説を考える上で重要なことはまず「古来より富士山と女神を結びつける考え方が存在した」ということを把握することが非常に重要です。『富士山記』には以下のようにある。

「白衣の美女二人有り、山の戴の上に雙び舞う。」

とあり、富士山の神を「白衣の美女」とする女神像が認められる。つまり平安時代には既に富士山と女神を結びつける考え方は成立していたことになります。またこの『富士山記』には同時に「浅間大神」の記述があるため、「浅間大神=女神」と考えられます。

少し後期の『海道記』(鎌倉時代)には富士山に関する伝説を挙げて

「此山の頂に二泉あり、湯の如くわくといふ。昔は仙女が此みねに遊びて常にあり。ひがしふもとに新山と言山あり、延暦年中に天神くだりてこれをつくといへり。」

とあります。これは都良香の『富士山記』に影響されたものといわれますが、この考え方が継続されていたことが分かります。そしてこの中に

「むかし採竹翁と云ものあり。女を赫野姫といふ。おきなが家の竹林に鷹の卵子の形にかへりて巣の中にあり。」

とあります。赫野姫=かぐや姫なので、竹取物語ですね。これは富士山を意識したものとして挙げた話であるので、富士山とかぐや姫を結びつけていたと考えられます。そして併せて『竹取物語』所蔵の和歌2首をあげています。

  • 富士山縁起
ここで注目したいのは「富士山縁起(富士縁起)」である。「富士山縁起」は「富士山に関する起源・沿革や由来を示したもの」で、富士山の神についての言い伝えなどもあり、様々な種類が伝わっています。

「富士山縁起」の存在を確認できるものに、古いものとして南北朝時代に成立したという『神道集』にある「富士浅間大菩薩事」がある。この文中に「富士縁起」とある。「富士浅間大菩薩事」にはこのようなことが書かれている。

子のない翁夫妻が竹林から5・6歳の女子(赫野姫)をみつける。赫野姫は国司と夫婦となるが…

と続く。つまりは竹取物語である。他に『詞林采葉抄』に「富士縁起」があり、これも赫夜姫と結びつけるものであり、南北朝時代には富士山とかぐや姫を結びつける考え方があったことは間違いない。また『三国伝記』に「富士山事」があり似たような視点の記述がある。「富士浅間大菩薩事」で「富士浅間大菩薩事-富士縁起/赫野姫の逸話」が認められ、『詞林采葉抄』の「富士縁起」でも同様のものがあるため、これらの系統の「富士縁起」が複数存在していたことが理解できる。「竹取翁説話系富士山縁起」という感じだろう。


竹取翁説話を含む富士山縁起所伝
富士縁起『詞林采葉抄』
富士縁起(1とする)金沢文庫(全海書写)
富士大縁起(2とする)公文富士氏伝
富士山縁起(3とする)村山三坊(池西坊)
富士山縁起(4とする)村山三坊(池西坊存撰)

これら「竹取翁説話系富士山縁起」は「かぐや姫が富士山頂上の岩山にこもり、浅間大菩薩となる」という「浅間大菩薩の化身」として伝わるものである。以下、「中世の富士山-「富士縁起」」から引用する。

富士山縁起諸本に収録される竹取翁説話を集約すると次のようになる。富士山麓の「乗る馬里」に、箕作りを行業とする老夫婦がおり、翁は鷹を愛し、媼は犬を飼っていた。ある時竹の中から赫野姫を見出し、麗しく育てた。姫が16歳のみぎり、時の帝は全国に勅使を派遣して富士山に登り、姿を消した。このとき、地元の人が悲しんで涙を流した場所が「憂涙河」(潤井川)と呼ばれた。帝はこれを惜しんで勅使に(あるいは自ら)跡を追わせたが、追いつくことができず、途中で落とした冠が石に変じて「冠石」となった。姫の故地は、宣旨によって「乗馬里一斎京」とされた。やがて赫野姫は富士の神となって浅間大菩薩と名乗り、竹取翁は愛鷹山に入って愛鷹明神、媼は今山に入って犬飼明神となった

また「中世の富士山-「富士縁起」」では「末代の滝本不動尊に関する縁起は3と4の富士山縁起に含まれており、それらと同様の記述は鎌倉時代の書写とされる1の富士山縁起と同様なので、3・4の縁起の伝承は古さが証明されている」と説明している(P123)。鎌倉時代の書写とされる1の富士山縁起が古いため、それと類似する3・4は古いとしているようだ。

また大宮に関して云えば、「木花咲耶姫系富士山縁起」(後述)が主流であるが、「竹取翁説話系富士山縁起」もある。「富士大縁起」(公文富士氏所伝、2の縁起)のものである。しかし上の表からすると、はやりこれら「竹取翁説話系富士山縁起」はどちらかと言えば村山で主流であったと考えるのが自然である。

  • 富士市に伝わる伝承
富士市の比奈地区には「竹採姫」の石碑があり、そこから由来してか「竹取物語発祥の地」を自称している。無量禅寺にあったという鐘の銘文に「駿州富士郡姫名村神護宝山雲門無量寺」とあるというので、比奈という名前は「姫名村」から由来すると考えられる。富士市になぜこのような伝承があるのかということを考える上で、ある文献がでてくる。富士市の無量禅寺(廃寺)の禅師が著した書(江戸時代)に

「富士郡比奈村の神輿無量禅寺は、雲門と名づく。赫夜仙妃の誕育の聖跡なり…」

とある。しかしこの内容は「富士山縁起」と同様であり、これに沿ったものであろう。しかしこの文末に「空しく口碑あるのみ」とあり、伝説はあったが史跡などは存在していなかったことが示されている。では誰が「竹採姫」の石碑を建てたかというと、それはよくわかっていない。

つまり、ほぼ江戸時代に禅師が著したそれのみの影響で今日「かぐや姫生誕の地」という伝承が成立したことになるが(これを拡大解釈させたものが『竹取物語』由来の地という表現だろう)、それらの背景として「富士山縁起」の存在があったのは間違いない。上述のように禅師が著した書は「富士山縁起」から"引用/参考"にしたものであるからである。そしてこれは元は村山に伝わるものと推測されるため、ある意味村山の影響を強く受けたものであろう。しかし江戸時代より遥か前に「竹取翁説話」は成立しているので、伝承の域を出るものではない。といいますより「姫名村」≒「かぐや姫」と考える事に無理があるのである。

「富士山縁起」の中に「竹取翁説話」があるという事実は興味深いが、学術的に言えばそれら「富士山縁起」より早く『竹取物語』は存在すると考えるのがごく自然であり、これら石碑類だけで発祥の地などと言えるものでは到底ない。そもそも、「竹取翁説話」が含まれる富士山縁起はかなり前に存在しているのである。例えば、鎌倉時代末に遡る称名寺伝来の縁起が存在している(大高康正, 富士山縁起と「浅間御本地」」)。

もちろん、大真面目に富士市が竹取物語発祥の地であるという論調で語る論文類など、存在しません(地元の資料類のみ)。但し富士市に於いては広報等でも「竹取物語発祥の地」として盛んに宣伝され、他に自治体史である『富士市史通史編(行政)昭和六十一年~平成二十八年』P435には
『竹取物語』発祥の地と伝えられる「竹採塚」の調査報告書である。調査は、竹取物語のふるさととされる「竹採塚」をめぐり、物語の伝承を調査し…

などとあるのである。つまり自治体史の執筆者ですら疑いなく記述する程、当地では信じ込まれているのである。富士山とかぐや姫を考えたとき最も重要なことは、「富士山縁起になぜかぐや姫が取り込まれていたのか」ということである。そしてその答えとしては「古来より富士山と女神を結びつける考えが存在していた」ということであろう。

  • 木花咲耶姫系富士山縁起

女神である「木花咲耶姫(コノハナノサクヤヒメ)」を浅間神とする富士山縁起もある。「木花咲耶姫系富士山縁起」という感じだろう。しかしこれらが発生した背景としても「富士山と女神を結びつける考え」があったと言わざるを得ない。これらは『浅間御本地由来記』や『源蔵人物語』などにみられるという。しかしこれらは村山を中心に発生したものではない。「中世の富士山-「富士縁起」の古層をさぐる-」には以下のようにある。

大宮浅間社(富士宮市浅間大社)の縁起書は、『神道体系』に収録されるものをはじめとして、富士山の祭神を木花咲耶姫とする近世以降の作とみられるものが大半であり、仏教的な説明をほどこした中世縁起の体裁を備えているものは少ない

「木花咲耶姫系富士山縁起」は本宮浅間神社の縁起の傾向と言えそうである。この差異も注目されるべき部分であろう。

  • 参考文献
  1. 西岡芳文,「中世の富士山-「富士縁起」の古層をさぐる-」『日本中世史の再発見』,吉川弘文館,2003
  2. 『富士市史通史編(行政)昭和六十一年~平成二十八年』,2018

2011年10月21日金曜日

駿河国富士郡について

律令期の駿河国の郡は7郡ある。志太郡・益頭郡・有度郡・安倍郡・庵原郡・富士郡・駿河郡である。

富士郡の名称の由来は、直接的に示すものがないので不明である。しかし例えば「富士山」という名称は富士郡から由来すると言われる。『富士山記』に「山を富士と名づくるは、郡の名に取れるなり」とあるのがそれである。「フジ」の由来については多々指摘されているが、山の名称が「富士」となった由来を直接的に説明する文言は『富士山記』のみである。

富士郡の初見は『平城京二条大路木簡』である。天平7年(735年)の木簡3点に

  • 「駿河国富士郡古家郷
  • 富士郡久弐郷
  • 「駿河国富士郡嶋田郷

とある。「富士郡久弐郷」は「富士郡久弐郷野上里大伴部若足調荒堅魚…」と続く。これはおそらく「富士郡/久弐郷/野上里/大伴部若足/調/荒堅魚」と切れる。「荒堅魚」は「カツオ」のことであり、都に納めていたと推測される。「若足」は平城京役人とされる「車持朝臣若足」や「阿部朝臣若足」「江沼若足」「八多朝臣若足」などの人名として古来の資料から見えるといい、「名代」であったと推測されている。

他に古い例として、『東大寺要録巻八』の天平19年(747年)条には「駿河国富士郡五十戸」とある。

この富士郡を支配する一族の富士郡家の所在地については、大きく2つの説があったという。それは「富士宮市大宮説」と「富士市今泉説」である。しかし近年の考古資料などから「富士市伝法付近」であるとされている。これは非常に重要である。そして郡家に関わる土器類は特に注目される。


その中に「布自」とみられる土器がある。「布自」はつまりは「富士」である。富士郡を支配する者が「布自」と書かれた土器を所持していたと考えられる。土器の存在や遺跡の規模などから、富士郡家は9世紀後半までは経営されていたと推定されている。

しかしこの富士郡家は考古学的知見によると10世紀頃に移動をしたと考えられている。その移動先が富士郡大宮である。つまり富士郡の拠点の移動であり、それは浅間神社の祭祀を意識した「祭政一致」であると考えられている。その浅間神社の祭祀を務めたのが富士氏である(そもそも富士郡家を富士氏とする考えもあるようだ、個人的には懐疑的である)。

これはまさに「本格的な富士信仰の始まり」と捉えていいと思う。大きな転機であったと言える。

  • 参考文献
  1. 富士宮市教育委員会,『元富士大宮司館跡-大宮城跡にかかわる埋蔵文化財発掘調査報告書-』P155-182,2000年
  2. 渡井英誉,「富士山の開発と信仰-富士浅間宮の考古学-」,考古学ジャーナル,2000年1月号,P10-15
  3. 告井幸男,「名代について」『史窓 (71)』,京都女子大学史学会,2014

2011年10月3日月曜日

富士信仰とは何か

山岳信仰の1つである富士山信仰に、明確な定義は設けられていません。しかし表現するなれば、以下のようになると思います。

  • 富士山への崇拝心
  • 富士山に宗教的価値を見出す行為

富士山信仰の成立・発展には大きく以下の2つの要素があります。その2つとは…

  • 噴火に対する畏怖心(恐れ敬う心)
  • 登拝の大衆化
です。以下では「〇〇という記録があり富士山信仰が根付いていたと言えそうだ」というものを断片的に紹介したいと思います。感覚的に、そして大まかに捉えて頂ければ幸いです(互いの記録に一定の共通性を持たせるため記録の対象地域は重複しています)。

【噴火に対する畏怖】

よく「富士山が噴火したらどうなってしまうのか …」などという言葉を耳にします。それらと同様に、古来の人々もその荒々しい猛威を常に危惧していました。当然「富士山の噴火が鎮火しますように…」というような願いはあったわけです。富士山の噴火に関する古い記録では、『続日本記』の以下の記録がある。

駿河国言、富士山下雨灰、灰之所及、木彫萎

このように、古来より噴火を繰り返していました。そのような中で、富士山に宿る神像を見出し、それを「浅間大神」(浅間神や浅間明神など名称は様々で時代によっても変わる)として崇拝する形態が古来からありました。

ここで一回「浅間大神(あさまのおおかみ)」について考えてみたいと思います。

  • 浅間大神(コノハナノサクヤヒメ)という表記
よく「浅間大神(コノハナノサクヤヒメ)」という表記をみますが、これは厳密に言うと正しくはありません。というのは、浅間大神というのは上述したように「古い時代に、富士山に宿る神像を見出したもの」であり、当時はコノハナノサクヤヒメ(日本神話における女神)と同一視はされていませんでした。しかし近世になるとこの考え方が一般化します。つまり同一視されるようになったという意味で「浅間大神(コノハナノサクヤヒメ)」ということなのです。しかし歴史を見通せば長い間そのような同一視された歴史ではなかったわけですから、「別々であった」ということをしっかり認識することが重要です。ここも理解を複雑化させてしまう点かもしれません。

話は戻りますが、この「富士山の噴火を鎮火させる」ということを重要視していたことが分かる例があります。

  • 浅間大神の昇級
平安時代の記録の『文徳実録』(仁寿3年)に「駿河国浅間神が名神に預かる」という記録があります。そしてこの年に従三位という神位(神にも位階がある)となります。これは浅間神が名神(重要な神にのみこの称号がある)として敬わるようになったということです。その後平安時代の歴史書『日本三代実録』(貞観元年の記録)に「正三位とする」という記録があり、つまり「従三位→正三位」に昇級します。これらの昇級は浅間大神を重要視していた裏付けであり、「富士山の噴火を鎮火させる」という強い願いのもとの処置と考えられています。

後に甲斐国(山梨県)にも浅間神社が建立されます。そのきっかけも何を隠そう「富士山の噴火」なのです。つまり「噴火を沈める=浅間神社での祭祀」はダイレクトに結びついているのです。ネットを見てみますと、今年3月以降急に多くの人が『日本三代実録』の記録を取り上げていることが見て取れます。何故でしょうか。実はみなさん「東日本大震災」に触発され、「古い時代の地震や噴火の災害」を取り上げているのです。

『日本三代実録』の貞観6年の記録に
「富士郡正三位浅間大神大山火」
とあり富士山の噴火を記し、
「下知甲斐国司云、駿河国富士山火、彼国言上、決之蓍亀云、浅間名神禰宜祝等、不勤斎敬之所致也」
とあり、貞観7年の記録に
「甲斐国八代郡立浅間明神祠。列於官社。即置祝祢宜。随時致祭。」
とあります。

これは何を言っているかというと、甲斐国司が「貞観6年の貞観大噴火(現代の表現)は駿河国の浅間神社(つまり浅間大社)が祭祀を怠ったために噴火した」と述べ、その後貞観7年に「甲斐国にも浅間明神を祀る官社(=浅間神社)が置かれた」ということです。現在で言うところの富士五湖を形成したのもこの噴火によるものです。それほど大規模な噴火でした。

つまり「噴火に対する畏怖→浅間信仰の誕生であり拡大」であるのです。ですから浅間信仰は富士山信仰の中にカテゴライズされます。ある意味「富士山信仰≒浅間信仰」といっても過言ではないかもしれません。


【登山の大衆化】

11世紀の終わり頃になると噴火は沈静化します。そこでどのような現象が生じるかというと「登山の大衆化」が起こるわけです。つまり噴火がおさまり、「人々が登る山」としての側面が大きく見えてくるわけです。「噴火が収まった→登山してみよう」というのはとても自然な道理ですよね。

そこで重要となってくるのは「では最初に富士山を開いたのは誰か」ということです。「最初に登山を行ったのは誰か」とか「最初に宗教的な動機をもたらしたのは誰なのか」などの視点が重要となります。

最初に登山を行ったのは「役行者」という人だと言われています。この人物は「修験道の開祖」とされる人物で、山岳信仰に多くで関わり、各地で霊場と結びつける伝承が残り、富士山もその1つなのです。富士山信仰は山岳信仰の1つでしかないので、私は「富士山信仰を考える際他の山岳信仰に通じずそれを捉えようとするのは賢明ではないのだろうな」と感じています。役行者と富士山といえば平安時代初期の『日本霊異記』に「夜往駿河、富岻嶺而修。然庶宥斧鉞之誅、近朝之邊、故伏殺劍之刃、上富岻也。」や平安時代の『富士山記』に「昔役の居士といふもの有りて…」とあり、関係性を見出すことが容易にできます。しかしやや伝説的な感じは否めません。例えば『日本霊異記』などは「海を一夜で渡り富士山に登った」などとあるのです。なので初めての登山として名前が挙げられない場合も多くあります。

そして「末代」(富士上人)という人がいます。平安時代末期の『本朝世紀』の久安5年(1149)条に

「駿河国に富士上人と称される末代という人がいる。富士山に登ること数百回にも及び、富士山頂に仏閣を建てた。それを大日寺という。」

と記す記録があります。これはもちろん信仰心からなる行為です。つまり「最初に富士山を開いたのは誰か」と言ったときに、「山頂に大日寺を建設する」という信仰的行為の例は見逃せないわけです。ここに「富士山を開いたのは末代上人」という考えが成り立ちます。

また末代は「修験道を行なった」という点でも非常に重要な人物です。鎌倉時代成立の『地蔵菩薩霊験記』は「末代が富士山を拝していたことや、修行としての一面」を記述し、修験の形態を見出すことができます。また「垂迹浅間台菩薩。法体ハ金剛毘盧舎那ノ応昨」とあり、末代は「本地垂迹説」( 仏・菩薩を本地とする信仰形態を見出すようなもの)を説いています。つまり「浅間大菩薩」というのは「神仏習合から由来する名称」なのです(それまでの浅間大神信仰と仏の要素の合体という感じ)。神仏習合が富士山でもはっきりとみられたというのは重要な歴史です。また「村山に伽藍を建立し、自らは大棟梁と号する守護神となった」という記録があり、その他の記述から照らし合わせると、末代は富士山にて修験道を成立させた人物というような言い方もできます。富士山において早い時代に修験道としての面がみられ、後世に大きく広範的に影響を及ぼしたこの歴史は、富士山信仰の歴史において非常に大きな出来事と言えます。

つまり「登山の大衆化→修験道などの民衆による信仰の誕生」ということです。

大日如来像(1259年の銘、村山)
  • その後の富士信仰
その後も『梁塵秘抄』(平安時代末期)や『神明鏡』(15世紀)などの記録に「霊場として富士山の名が挙げられており」、富士山が信仰の対象であったのは明らかです。先ほど末代は「後世に大きな影響を及ぼした」と書きましたが、その後「頼尊」(らいそん)という人物が「富士行」を創設し、村山修験(富士修験)を確立させたとされています。末代の時代はまだあまり開かれていない時代であったので限られた範囲内でした。しかし、影響は脈々と受け継がれ村山修験という一派を形成するまでに至り、この時代の富士山信仰を牽引する存在となったのです。

富士山信仰の担い手は中世以降多岐にわたり、ますます拡大することとなります。先ほどの「浅間大菩薩」ですが、前述の文面を更に崩していうと「浅間大神が時代背景により変移したもの」であり、鎌倉時代の歴史書の『吾妻鏡』にも「是浅間大菩薩御在所」と見えます。是は「人穴」を指し、つまり人穴というのは「浅間大菩薩の御在所」と考えられていたわけです。この人穴で修行したと伝わる人物に「角行」という人物がおり、この角行を祖と仰ぐものに「富士講」(18世紀中盤頃成立)があります。そして富士講では独特な表現として「仙元」という文字を用いており、つまり富士講というのは「浅間信仰の一種」ともいえるのです。富士信仰と浅間信仰は切っても切り離せない関係なのです。

『妙法寺記』という記録の明応9年(1500)の条に「富士山に道者参ること限りなし。関東の乱により皆須走から登った」という記録があります(須走に多くの道者が参ったことを示している)。「道者」は「登山者」を指します。なのでこの時代既に登拝は一般大衆化していたのです。またこの年は「庚申」であり、 庚申の年は富士山におけるご縁年とされていたため、特に道者が多かったのです。裏を返せばそれほど富士山の由緒が広く知れ渡ってたということでもあり、富士山信仰が民衆に広まっていた裏付けであると言えます。よく「江戸時代以降に民衆に広まった」 とするものがありますが、そんなことは無いわけです。民衆による奉納物なども、江戸時代以前のものは多く確認されています

では外国人からみてどうかと言いますと、例えばジョアン・ロドリゲスの『日本教会史』には「山頂にはきわめて大きな穴、火口があって、そこから絶えず噴煙を出している。ここは、日本中から多くの巡礼者が来る所であり、…」とあります。

  • 更に古来の富士信仰の形態
考古学では集落経営が「その地での本格的な開発の始まり」と考えられるようであり、例えば村山浅間神社遺跡には10世紀前半の竪穴住居が発見されています。しかし、その形態には特異性がみられ、実はそれらの「特異性のみられる遺跡」が富士山信仰に関わるものではないかと言われています。

また現在の浅間大社のエリアで11世紀後半の竪穴式遺構と堀立柱建物などが発見されています。エリア内に様々な施設が点々と存在していたことが分かり、それぞれに何らかの意味があったのだと考えられています。また独特のカワラケが見つかっており、神事で使用された可能性も指摘されています。そしてこれら建築物と土器などを考慮すると、「祭祀などの形態があったのではないか」という考え方が成立するのです。これを考えるに重要なこととして「富士山南麓における本拠地の移転の形跡」が確認されていることがあります。7世紀から10世紀までは現在の富士市域で集落が形成されていたが、11世紀以降は現在の富士宮市大宮の地で集落が形成されるようになっています。これは「祭祀の重要視」により「政治的な中枢」と「信仰の拠点」を一致させる動き、つまり祭政一致(祭祀と政治の一体化)が行われたと考えるものもあります。

つまり村山、大宮といった「早くより富士信仰で繁栄した地域」というのは、古来より富士山信仰の形態が存在していたとも考えられるのです。


  • おわりに
富士信仰の成立は「噴火に対する畏怖」や「登山の大衆化」が背景としてあり、それらが浅間信仰や修験道などを形成する要因となりました。「噴火を鎮める願い」などはいかにも人間らしい部分から来ているようにも感じます。「富士信仰の担い手は中世以降は多岐にわたり、ますます拡大することとなります」と書きましたが、これには「登山道の開削」が1つの要因としてあると思います。時代が進むと様々な登山道が形成されていき、道者を集めてきました。ですから「登山道を有する地域」に独自の文化がみられ、1にも2にも「登山道あっての…」なのです。大高康正「中世後期富士登山信仰の一拠点-表口村山修験を中心に-」では「富士山が山岳霊場として発展していく過程には、各登山口それぞれに信仰の拠点(信仰登山集落)が形成され、そこを中核として発展を遂げていった経緯があり…」とあるが、まさにそうでしょう。

この「それぞれの登山道を有する地域」間でも特色が異なります。例えば修験道の形態を主体とするのは他の登山道の中でも「村山口」だけなのです。他は「御師」(道者に対して宿や食事を始め、一切の世話をする人)の形態がみられます。「御師」も江戸時代の富士講の繁栄により「吉田の御師」は大きく繁栄します。これは江戸から一番近いのは吉田であるためです。ですから吉田より西に位置する「河口御師」は逆に富士講の恩恵を受けにくい構造にありました。わざわざ遠くまで行くということがないからです。このように時代が進むと複雑さを増します。複数の登山道の成立は「道者の奪い合い」=「競争の時代」となっていくのです。ある意味「純粋な富士山信仰」の色は薄れて行ったのかなぁ…なんて思うこともあります。

2011年9月24日土曜日

東泉院と下方五社

今川氏真判物(五社別当東泉院宛)
下方五社
浅間大社の末社のうち、富士下方(庄)にある浅間神社五社を総称した呼び名。東泉院はこの下方五社の別当として五社を統括していた

その五社とは
  • 富知六所浅間神社 
  • 瀧川神社
  • 今宮浅間神社
  • (入山瀬)浅間神社
  • 日吉浅間神社
他に「五社浅間宮」(今川氏真朱印状による)などとあるのも印象的である。

  • 東泉院と富士山興法寺
東泉院(富士市今泉)は元は「富士山興法寺」における一寺であったとされる。「富士山興法寺」というのは大日堂や大棟梁権現社などの施設群の総称であり、つまりそれらの建築物の1つと認識されていたということである。これらは村山三坊の支配下にあり、村山三坊もある意味興法寺の1つとも言える(ここは解釈が分かれる)。例えば大日堂は三坊のうちの池西坊が担当し、大棟梁権現社は大鏡坊が管理するなどそれぞれ直轄は分担されていたものの、東泉院はどういう位置づけであったかはよくわかっていない。

富士山興法寺というのはこういう位置づけであり、仮に東泉院を含めるとこんな感じになる。(>は分類化)
富士信仰>村山修験>富士山興法寺(村山三坊はここに含めてもよい)>大日堂・大棟梁権現社など(主な施設)他、東泉院など
解説すると…まず村山修験は富士信仰の1種であり、その村山修験の中心地が富士山興法寺である。富士山興法寺や登山道を管理したのが村山三坊であり、富士山興法寺を構成する大日堂・大棟梁権現社などの直轄なども三坊により分担されていた。これら施設の1つであったと考えられるのが東泉院である。

大永6年(1526)、「今川氏親書状」
村山三坊は、それまでの各宿坊がしだいにまとまっていき、最終的に三坊になったものである。上の「今川氏親書状」は日吉浅間神社の造営に関する文書であるが、それが東泉坊に宛てられている。この時代、浅間神社を統括する性格があったと考えられる。

それらを考えると、そもそも東泉坊なるものが存在していて、三坊にまとまっていく中で別の方向性を歩んでいったのではないか(あくまで個人的な見解)。富士山興法寺の位置づけから外れ、現在の富士市の各浅間神社を管理する立場に変わったのかもしれない。だから富士信仰との関わりは深くは見いだせないが、村山の流れを汲んでいると考えられる。

  • 別当として
別当としての存在などから、東泉院は現在の富士市の地区において重要な位置づけをされていた。慶長9年(1604年)には富士下方の192石が東泉院領となっていたという。しかし神仏分離により東泉院は廃される運命となる。下方五社のうち日吉浅間神社のみを残す形となった。

2011年8月31日水曜日

忍野八海と八湖信仰

忍野八海は山梨県の忍野村にある富士山の湧水群です。出口池、底抜池、銚子池、濁池、湧池、お釜池、鏡池、菖蒲池の総称で、天然記念物に指定されています。文化との接点もあり、富士山の文化の歴史を考える上で重要です。

  • 形成
これら八海、いや忍野村一帯というのはかつては山中湖と続いていた湖でした。それが富士山の噴火による溶岩流により分断され、干上がって平地になったことにより形成されたと考えられています。桂川という川の水源だそうです。

  • 八湖信仰
忍野八海は「富士御手洗元八湖」といわれ、富士信仰の霊場でもありました。角行の修行になぞらえたもので、角行を拝めることから形成された習慣であると推測されます。それぞれの池を巡礼する八湖信仰(江戸時代以降)というものが存在していました。内八海・外八海とはまた違うものであり(これになぞらえた)、これらに比べ範囲が狭まれていることから個別のものとして存在したのではないでしょうか。江戸末期には消失したものでしたが、再興に動いた友右衛門なる人物により浅間神社などが修復されたりしたようです。


  • 富士八海とは
混同しやすいのですが、いわゆる八湖信仰(忍野)と富士八海(内八海・外八海)は異なります。八海巡りは富士講信者による巡回のようなもので、時代によりその場所が多少異なります。当初は現在の沼津市と富士市との間に存在したという「須戸(すと)海」を含めて富士八海と言っていました(厳密にいうと富士八海のうち内八海)。しかし後に須戸海の替わりに「泉津湖」を加えて富士八海というようになりました。『甲斐国志』には「富士八海-山中海、明見海、川ロ海、西海、精進海、本栖海、志比礼海、須戸海」とあり、 須戸海が含まれています。このことから、比較的後に「泉津湖」が加えられたのだと考えられます。

このように、富士八海というものは特に甲斐国に準じていたわけではありません。また富士講信者が人穴などを訪れていたことを考えても、富士講の一連の現象は甲斐国固有の現象とは言えなさそうです。

  • 参考文献
  1. 『富士吉田市歴史民俗博物館だより№8』
  2. 『富士吉田市歴史民俗博物館だより№19』
  3. 『富士吉田市歴史民俗博物館だより№20』

2011年8月26日金曜日

戦国時代の富士宮の関所

現在の富士宮市に位置する場所には、戦国期多くの関所があったことが確認されている。

今川義元の判物に
同名新三跡分事、為富士上野関銭、年中一度、…
とあり、「上野関」の存在が確認できる。現在の富士宮市上野と位置は一致している。この周辺は市の機能があったと推測されているが、それと関係していると思う。また他に今川氏真判物に「根原関」なるものがみえ、これも現在の富士宮市根原と一致している。

関所
特筆すべきは「神田橋関」である。これは富士大宮に存在した関で、中道往還の存在を考慮すると「商人関」・「経済関」としての存在意義が強い。富士信忠宛の今川氏真朱印状に「神田橋関」の存在が確認できる。

内容
この朱印状にある「新関」については気になるところである。小和田哲男氏は「新関」という以上、それに対する「古関」があったはずであるとし、とって変えられたことを『今川仮名目録』における内容の実現化によるものであるとしている。また楽市研究をしている安野眞幸氏は、神田橋関の「役所」は今川氏が掌握していたとしている。

現在の富士宮市の地域には「関所が多く存在したんだな」という感覚でよいと思います。

  • 参考文献
小和田哲男,『武将たちと駿河・遠江』(小和田哲男著作集第三巻),P375-378,2001年

2011年8月24日水曜日

富士信忠

富士信忠は氏族は富士氏。第三十代当主にあたる(「富士大宮司系図」)。今川氏と富士氏との関係は範国の時より続いていたが、この頃は今川氏家臣としての立場として武家への転換志向が強く現れている。

  • 大宮城城主として
富士郡大宮には「大宮城」という城があった。大宮は富士氏の根拠地であり、いわば大宮の砦であった。今川氏真(今川氏当主)は永録4年7月に富士氏を城代に据え、信忠は大宮城城主となった。この大宮城は富士氏の武力として機能し、その後の武田氏の駿河侵攻の際は駿甲国境の押えの城として主要な役割を果たす。

  • 富士宮若・富士兵部小輔
信忠は(富士)宮若・(富士)兵部小輔と称されていた。例えば天文6年の義元よりの書状(後に説明)には「宮若殿」とある。また氏政から信忠の書状(後に説明)には富士兵部小輔とある。

  • 花倉の乱
「花倉の乱」は今川氏輝死後の今川家の家督相続のお家騒動である。「栴岳承芳」と「玄広恵探」で争われた。このときに富士信忠は栴岳承芳側についている。

  • 河東の乱
花倉の乱で勝利した栴岳承芳は還俗して義元と名乗る。それまでの北条氏・今川氏両家は良好な関係であった。早雲と今川氏との所以や、武田信虎との戦いの際は援軍を出すような結びつきの強い関係であったからである。しかし義元は武田信虎と手を結ぶという手段を講じた。これにより生じたのが「河東の乱」である。今川氏(今川義元)と北条氏(北条氏綱)との戦いである。「河東」とは富士川以東の富士郡・駿東郡(駿河郡)を指した言葉である。

この河東の乱では場所が場所だけに大石寺への制礼や北山本門寺への禁制など富士郡に関わる動きも多い。天文6年3月には富士信忠が小泉坊に立て篭もり反乱者を討ち取ったことを義元から賞されている。天文6年5月15日には義元が信忠に田中や羽鮒(両方とも現在の富士宮市、羽鮒は旧芝川)の名主の権利を与えている。
天文6年3月(義元から信忠へ)※左

  • 三国同盟破棄後の富士氏
今川義元が「桶狭間の戦い」で死すると、今川氏真が当主となった。しかし氏真はその状況を好転することができず、それを見た武田氏は三国同盟を破棄し、駿河侵攻を開始する。信忠は今川義元亡き後も今川氏に忠義を尽くし、やがて大宮城城主となり、永禄期には戦を繰り返した。永禄12年2月1日には穴山信君と葛山氏元の連合軍が大宮城を攻めるも、かえって撃退するなど善戦している。

大宮は駿甲国境の要衝であり、重視される場所であった。そしてこれまで大宮城は武田氏の攻撃を良く防いでいた。また氏康・氏政がこのとき繰り返し書状を送っているのが本当によく分かる。
北条氏康より(右)、しかし「富士殿」は信忠か信通か不明

北条氏政から信忠へ

しかし戦況は余談を許すところではなく、永録12年6月の武田信玄の本隊の襲来により、ついに降伏することとなる。富士信忠は武田氏家臣の攻撃を防いでいたために、武田信玄の本陣が出陣するまでの活躍をしていたのである。


後に富士氏は武田氏に属することとなり、武田氏側として元亀3年(1572年)4月に信忠は甲府に顔を出している。

元亀3年4月2日 ※右

その後は大宮司職を嫡男信通に譲り、天正11年8月8日に死没したという。

  • 参考文献
「静岡県史 通史編 中世」
「駿河・遠江・伊豆~日本を変えたしずおかの合戦」
「浅間神社の歴史 宮地直一」
「浅間文書纂」

2011年8月21日日曜日

富士山の大宮・須走・吉田の争いと元禄と安永の争論

富士山を巡るの争いは「環富士山地域」で行われていたが、その歴史の中でも大論争だったのは「大宮」と「須走」間の争いだと言える。「富士山を巡る争い」と言ったら普通はこれを指すくらいの有名な論争である。それは「元禄の争論」と「安永の争論」である。

まずその前に用語について確認する必要性があります。


  • 富士本宮…現在の浅間大社
  • 大宮…現在の静岡県富士宮市大宮
  • 村山…現在の静岡県富士宮市村山
  • 須走…現在の静岡県駿東郡小山町
  • 吉田…現在の山梨県富士吉田市
  • 内院散銭…内院は火口を意味する。その火口に道者がお金を投げ入れることを言う。山頂が神聖な場所とされたので、儀式的な意味合いがあったと思われる
  • 薬師堂…現在の山頂久須志神社
  • 1番拾い…内院散銭のお金をまずはじめに得る権利のこと
  • 2番拾い…1番拾いにて残ったお金を得る権利


富士山頂の様子(『富士山道しるべ』より)

【元禄の争論】

元禄16年(1703年)に散銭や山小屋の経営などを巡り須走村が富士本宮を訴えた論争が「元禄の論争」である。

  • 須走の訴え
  1. 「富士本宮が新たに吉田村(甲斐国)の者に薬師嶽の小屋掛けを認めたが、そのような権利はない」
  2. 「薬師富嶽の薬師堂を富士本宮が造営したが、本尊の薬師仏の入仏は須走が入仏拝していたにも関わらず、富士本宮が入仏を進めると裏書したのは既得権を侵害している」
  3. 「内院の散銭取得において、従来の慣例を無視し、富士本宮が2番拾いの散銭まで取得したのはおかしい」というもの。

  • 争論の結果
  1. 「小屋掛けは他の者にはさせないこと」
  2. 「薬師堂入仏は須走が勤めることとする」
  3. 「内院散銭の1番拾いの分を大宮と須走で6:4とする。また2番拾いはこれまでと同様に須走のものとする」

と決まった。

つまり須走の全面的な勝訴と言える。特に3はかなり大きな権利を得たことを意味する。というのは、大宮は1番拾いの権利を得ていたが須走は2番拾いの権利に留まっていた。つまりほぼ大宮の独占だったのである。しかしこの争論により1番拾いの権利を一部得たばかりか、2番拾いの権利はそのまま継続されたので大きな躍進だったわけである

【安永の争論】

安永元年(1772年)に須走村は富士山の8合目以上は同村の支配にあるとして徳川幕府に訴えた。またこのとき「支配境界の論争」が大宮と吉田間でもあった。このことにより富士本宮の当時の富士大宮司である「富士民済」も幕府に訴える動きに出たため、三奉行が関わる争論となった。そして安永8年(1779年)まで裁判は持ち越されることとなった。

『浅間神社の歴史 宮地直一著』に
安永元年7月駿東郡須走村、甲斐都留郡吉田村を相手として富士山頂の地境を論じ、同八年終に三奉行より富士山八合目以上は大宮の支配たるべき旨裁許を蒙った
とある。このように三奉行により8合目以上は富士本宮の管理地であることが決定されました。

このように1779年に富士山の8合目以上は浅間大社の支配となることとなった(今般衆議之上定趣者富士山八合目より上者大宮持たるべし)。つまり大宮の全面的な勝訴と言える。これが現在に至っている。しかし内院散銭については1880年の内務省の通達により廃止されることとなった。

大宮と吉田間の「支配境界の論争」を「8合目を巡る争い」と勘違いしてしまうケースがあるように見受けられます。歴史的には、駿河と甲斐間で実質的に山頂部を争ったということはありませんでした。逆に駿河の地域間ではありました。そしてやはり「富士山を巡る争い」という意味では「大宮と須走」を指すのが良識と言えます。

  • 参考文献
  1. 宮地直一,『浅間神社の歴史』,名著出版
  2. 『小山町史』第7巻近世通史編,P469-488
  3. 小山真人,『富士を知る』,集英社,P94-100
  4. 『富士山推薦書原案』
など。

2011年8月19日金曜日

駿河国富士郡大宮の由来

富士宮市の由来については「富士宮市という市名の由来」にて取り上げましたが、今回はその中心地であった「大宮町」の「大宮」の由来について取り上げようと思います。

「大宮」の初見などは確認していませんが、例えば『富木殿御書』(文永11年(1274))の記録に

十二日さかわ十三日たけのした十四日くるまかへし十五日ををみや十六日なんぶ…

とある。日蓮が身延入りした日程を記しているが、「大宮-南部-身延」という流れから、ここでいう「ををみや」が駿河国大宮を指しているのは間違いないだろう。「大宮」という言葉を聞いたときに、なんとなく「大きい宮?」となりそうだが、実はそのような解釈で正しい。

まず「宮」というのは「神社」を表わしています。古い書などをみると「きふねの宮」や「宇佐の宮」などを度々目にしますが、つまりは貴船神社であり、宇佐神社を示しているのです。現在の浅間大社の社号は昔は「富士の宮」(平安時代に既にみられる)とも呼ばれていました。それが現在の「富士宮市」の由来という話でしたね。

そしてここで本から一部抜粋したいと思います。「日本史小百科 神社」によると
その境内(浅間大社)が広大であったからその地を大宮と呼ぶようになった
とあります。これが正しいとすると、大宮はやはり神社から由来する地名であると言えるでしょう。意味的には「大きい神社がある=大宮」という感じですね。「大きい」というのは境内という意味もありますが「位」という意味も考慮する必要があるかなと個人的には思います。
官幣大社昇格祭文
『日本三代実録』に「富士郡の正三位浅間大神の大山」(噴火の報告の中で)とあります。貞観1年(859年)に正三位の位階を与えられているそれ(正三位の神社ということ)が「大きい」という由来かもしれません。どちらにせよ神社から来ているということには変わりはないと思います。そして現在の市名も神社から由来するので、はやり富士宮市というところはどうあっても「浅間大社一筋」なのでしょうね。

2011年8月18日木曜日

富士山の語源

「富士山」の語源については諸説ある。ここで1つ注意したいのは、富士山の語源といったときに2つの考え方が出てくることである。その2つとは…

  1. 「フジ」という語の語源
  2. 「富士山」という名に至る由来

という考え方である。「フジ」は「不尽(和歌など)」「不二(和歌など)」「福慈(『常陸国風土記』)」「富岻(『日本霊異記』)」などあまりにも多くがあるが、それらのそもそもの「フジ」の語源についての検討が1である。2はそれら多くの「フジ」の中で「富士」で留まるに至る部分の検討を指す(「不尽や不二はそれ以後もたびたび用いられている」)。

まず、割とはっきりしている2から話していきたいと思う。

駿河国の郡の名として「富士郡」というものがあります。この「富士郡」という名は「富士山」からきていると思われがちですが、むしろ一般的(学術的)には「富士山が富士郡から由来する」と考えられています

というのは、平安時代に記された『富士山記』には駿河国富士郡を指してはっきりと「山を富士と名づくるは、郡の名に取れるなり」とあるからです。富士山という名は富士郡の「富士」からとったということであり、これに影響してと思われるが、それより後期の資料で同じような記述がいくつもみられる。そして他に由来を示すものがない以上、「富士山の由来は駿河国富士郡である」といっても特に間違いではありません。例えば現代においては普通に「富士山」と書くと思いますが、その元をずうっとずうっと辿ると駿河国富士郡ではないかということなのです。「富士山」という表記の初見は平安時代初期の『続日本紀』とされています。『富士山記』も平安時代であり、都良香(『富士山記』の作者)の文人としての人物像などを含めても一番信用に値するということなのだと思う。

個人的には、そもそも地域の名称と山の名称のどちらが先に名付けられるかといったら地域の名称だと思うし、古来まで遡ると支配の区分として「富士郡」なるものが生じ、そこから由来するのだと思う(古すぎてよくわからないが)。

次に1ですが、まず説にどのようなものがあるかです。尚、この部分については「富士-信仰・文学・絵画」がとても詳しく、分かりやすいです。


史料内容
『竹取物語』かぐや姫の残した不死の霊薬を山頂で燃やしたことによる「不死」の山から
『海道記』上と同系統
謡曲『富士山』上と同系統
『運歩色葉集』男の子を得るための「呪文」としての言葉による
『士峯録』「民に豊かな恵みを与える」から富士とする/「不二」という「他にない美しい山」という意
『古史伝』富久士(布久士)→富士となったとし、久士は「天にそびえる姿が霊妙である」という意味とする
『松屋棟梁集』火口から火や煙を吹き上げるから富士
『浅間大神御伝記』(一説目)富士は「班白(ふしろ)」という意味で、四時雪の班白を指す
『浅間大神御伝記』(二説目)富士は「覆」の意味で、器を伏せたような形という意味
『アイヌ英和辞典及びアイヌ語文典』フチ、フジ→火、カムイフチ→火の女神
『百草露』フジは「ホデ(火出)」の転化であるとする
『仙覚抄』「けふりしげし」の略
『日本地名学』「フジ」は「長いスロープの美しい形態」を意味する語

どれが正しいのかは分からないし、これらの中に正解が無いかもしれない。それほど歴史の紐を解くのは難解だと思う。これからもどれかに特定されることはないと思われる。

富士山の古い時代の記録として期待できそうなものに『駿河国風土記』が挙げられそうだが、基本記録として残っていない。だから、富士山の最も古い記録として挙げられるものに『常陸国風土記』(よく伝わっている)がでてくるのである。


『常陸国風土記』の記述

この中で常陸国の山と富士山を比較する記述として「福慈岳」(富士山)が出てくるのである

  • 「富士」を冠する語
今でこそ企業名や「〜市」やらと「富士」を冠するものは多いが、これが昔の時代だったらどの程度であっただろうか。15世紀以前で考えた場合、富士を称するものや冠するものは多分それほど多くはないのではなかろうか。代表的なものは浅間神社の社号(例「富士浅間宮」)や「富士大宮司」(神職名)などだろう。

足利尊氏から富士浅間宮への書状(※1335年)

これらは、ある意味伝統的な「富士」と言えるのではないかと思う。他には巻狩りが行われた地である「富士野」なども思いつく。しかし土地の名称ではない固有名詞に限局すれば、かなり限られているように思う。富士宮市の市名の由来である、浅間大社を指す語である「富士ノ宮」という言葉もかなり昔からある呼称である。「富士の語源」という考えだと難しいので、「富士」を冠するものがいつの時代から見える(呼ばれる)ものなのか、という視点でも面白いかも知れない。


  • 富士郡における「富士」の用例


富士郡は必然的に「富士○○」という用例が多い地である。史料的にみると、多くは富士上方に集約されているように思える。以下、用例を見てみる。

<富士上方の場合>


大宮城の別名として「富士城」という名称を用いている。当時富士郡には城といえるものがいつくか存在していた(『佐野安朗,『古城 第51号』P87-92「大宮城の戦いと十四ノ城砦群」,2006年』が詳しい)。しかしその中でも大宮城に対してこの呼称を用いているという事実は大きい。つまり「(駿河国の)富士の城」といったとき、それは普通「大宮の城」を指していたのである。

<富士下方の場合>

  • 参考文献
  1. 影山純夫,「富士-信仰・文学・絵画」『山口大学教育学部研究論叢第45巻第1部』,1995

2011年8月17日水曜日

富士の巻狩り

富士の巻狩りとは
建久4年(1193年)5月に時の征夷大将軍「源頼朝」によって行われた壮大な巻き狩りを指す。富士山麓で行われた大規模な巻狩りであり、このときに「曽我兄弟の仇討ち」が行われたことでも有名である。その規模から征夷大将軍としての権威を示すための目的や、予行演習的な要素があったと考えられている。

巻狩りの行動範囲自体は広範囲に及ぶものの、御旅館の所在地の他、仇討ちなどがあった時期での巻狩りの場所は上井出辺りと推測され、メインは富士宮市周辺であると考えられる。

非常に有名な出来事であり、『吾妻鏡』を筆頭として以後の歴史書などで多くで言及されている。

『吾妻鏡』より。
  • 5月8日癸酉将軍家富士野藍澤の夏狩りを覧玉わんが為、駿河の国に赴かしめ給う。
頼朝一行が夏狩りを行うために富士野の藍澤へ向かう部分の記述である。この「富士野」のエリアの詳細は不明で、富士山南麓とだけいわれている。後に村山と大宮で入会権で争っている地である。

  • その外射手たる輩群参し、勝計うべからずと。
数が数えられないほど多くの群をなしているということ。巻狩りの規模の大きさが伺える記述である。

  • 藍澤の御狩り、事終わって富士野の御旅館に入御す。
この「御旅館」 ですが、この辺りは富士宮市だと言われている。富士宮市のHPでは井出家の元の屋敷の場所が富士野の御旅館の跡だと述べられている。

また。『壬申日記』では
上野より富士のすそ野を北ゆけば上井出まで一里あり。是、頼朝卿の富士の狩し給ひし時、かりの屋形ありし所、今もそのあとあり。
と、御旅館と思われる記述が見られれ、江戸時代の時点でも御旅館跡が確認できたと推測できる。

  • 十六日辛巳。富士野御狩之間。将軍家督若君始令射鹿給。
息子である頼家が鹿を始めての巻狩りで射止めたことを指している。頼朝はこれを大層喜び、政子に対してこの報告を行ったところ、「武士の子だからそんなの当たり前です(というようなニュアンスで)」と返されたという。


この富士の巻狩りに関する逸話はかなり多い。特に北部はそれに関する地名なども多い他、例えば浅間大社の社伝では、流鏑馬の起源は富士の巻狩りの際に頼朝が奉納したと伝わる。

2011年8月11日木曜日

武田信玄と富士山


  • 信玄による浅間神社の庇護
甲斐国といえば諏訪信仰が良く知られており、武の神である諏訪明神は武田氏により厚く庇護されていた。一方浅間神社に目を向けてみると、武田氏の繁栄に伴い浅間神社に対してもしだいに庇護の姿勢が見られるようになっている。これは、小山田氏領において武田氏が優位に立つための施策でもあった。つまり浅間神社を庇護することで、武田氏が台頭することを目論んだのである。



  • 信玄は富士登山を行なったか 


例えば『妙法寺記』を読んでみると父信虎の登山の記録はありますが、信玄自身の登山の記録はありません。父信虎の登山であるが、このときは大永2年(1522年)という時期である。

この2年前は永正18年(1520年)であるが、この時の小山田信有の岩殿山円通寺の修復に対する棟礼に「当郡守護」とあり、小山田氏は郡内における支配者と称している。つまりこの時代、武田氏は郡内への影響力は限りなく低かったと思われる。そういう中での武田氏当主の登山なので、当然緊張感はあったはずである。

ちなみに、武田信玄の鈎釜に「富士釜」なるものがあるそうです。

  • 参考文献
  1. 勝山村史編さん委員会,『勝山記』,1992年

2011年8月6日土曜日

壬申紀行にみる富士山

『壬申紀行』は江戸時代の儒学者である貝原益軒による紀行文であるが、その中に富士山に関する項目がある。

ここから一部を抜き出す。

  • 駿河国中の人は一日ものいみしてのぼる。他国の人は百日潔斎す。近江の人はものいみせずしてのぼる
富士山に登る際は儀式があり、駿河国の人は当日行い、他国の人はもう少し長く行っていたようである。しかし近江国(他国に該当する)からの道者はそれが簡単に済ましてもよかったということ。近江国は富士山に関する伝説もあり、また修験道で接点があったために、このような特別な扱いがあったのではないかと個人的には思います。

  • 別当三坊あり。是より上は山なり。村山より中宮へ三里。中宮に八幡宮あり。
村山三坊や中宮八幡宮についてです。

  • およそ高嶺にのぼる人、吉原より行には丑の時に宿りを出て其あけの日ひねもすゆけば其日の暮つかたには、すなぶるひまでいたる。そこにて飯などくひ、やすみて、夜に入、たいまつをともしてのぼる。
富士登山を行うパターンとして、午前2時頃に吉原宿を出てたいまつに火を灯し、夜登ったようである。これら同様の記述は多くの書物でみられます。
『富士山表口絵図』
  • 八葉のめぐりは駿河に属するゆへ、大宮の社人社僧などは、八葉の上にて修するわざありと云。甲斐相模の方にも此山のふもとはかかれり。されど此山は駿河の富士郡にある故、富士山と名づけ、駿河の富士なれば甲斐相模よりは八葉の上、其国のかたむかへる所にも社人などのつとめなしと云。
八葉、つまり富士山頂は駿河に属しているため、大宮の浅間大社の社人などはここを儀式などに利用していた。富士山のふもとは甲斐国や相模国にもかかっている。しかし富士山は駿河国富士郡に由来があって富士山と名付けられた他、8合目より上にいくには駿河の社人などの許可が必要であった。(その後に富士郡から由来するという部分は駿河国の伝えによるものとと述べられている。)

  • されど甲州の方よりみれば、山の形いよいようるはし。絵にかける図あり。甲斐国よりみたる形によくあへりと云。山は駿河に属して、ふもとは駿河、甲斐、相模三州にかかれり。
(上の部分に対し…)しかし甲斐国からみた絵画も多くある。山は駿河国に属しているがふもとは三国に跨っている。この「三国国境説」は、後に取り上げたいと思います。

富士山の登山における道者の時間の使い方、また当時の富士山の土地の認識などが書かれていて、参考になる部分は多いと思う。

  • 参考文献
板坂耀子,『近世紀行集成』(叢書江戸文庫17) ,P39-42,1991年

壬申紀行にみる大宮

『壬申紀行』は江戸時代の儒学者である貝原益軒による紀行文である。
貝原益軒
その中には富士山に関する記述と大宮に関する記述もある。「大宮へ」とある部分に、大宮とその他の芝川などの地域についての記述もあるので、併せて紹介します。

  • 柴川は名所なり。(中略)此川に富士苔と云物多し。

今の芝川のりではないかと思います。苔の名産地であったと推測できます。

  • 西山に本門寺とて大なる寺あり。北山の重巣本門寺、西山本門寺、上野の妙蓮寺、大石寺、大宮の久遠寺あり。其中につゐて、西山本門寺最大なり。僧舎16坊あり。西山より上野の妙蓮寺に一里半あり。寺、大ならず。妙蓮寺より大石寺に五丁あり。是又、上野村にあり。大石寺も大なる寺なり。寺領60石あり。…

富士五山の各寺についての記述。

  • 是、頼朝卿の富士の狩し給ひし時、かりの屋形ありし所、今もそのあとあり。
富士の巻狩の御旅館などについての記述。

  • 大宮に至る。(中略)いちくらにはくさぐさの食品器材等うりもの有、にぎはへり。

大宮のにぎわいが感じ取れる文である。

  • 富士浅間の大社あり。南にむかへり、拝殿あり。

浅間大社についての記述です。

  • 浅間の祝部は、大宮司、公文、案主、是三家を長とする。其外、神前にかはるがはるとの居する番の社人18家あり。又、社僧には別当あり。其外僧家五坊あり。社領千石、其内大宮司三百石、別当百石、其外各配分せり。

浅間大社の大宮司、公文・案主とそれらの所領についての記述など。