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2018年8月10日金曜日

駿州往還と富士宮市内房の歴史

まず富士宮市というのは、街道が複数以上通過する地域である。詳しくは「中道往還と浅間大社そして大宮口登山道」にて記しているが、今回はそのうちの「駿州往還(河内路)」について取り上げていきたいと思う。

「足利尊氏軍勢催促状」(正平6年12月15日)に見える「うつぶさ

河内路は甲斐から駿河へ至る主要街道の1つであるが、その役割はとても大きいものがあった。現在の富士宮市でいうと内房(旧庵原郡)が河内路に属しており、重要な中継地点であった。「駿甲同盟」の際の嶺松院(今川義元娘)の輿入れの様子が好例であるので、挙げることとする。

「足利尊氏軍勢催促状」(正平6年12月17日)にみえる「駿河国内房山

まず今川義元の正室であった定恵院(武田信玄姉)が、天文19年(1550)6月に死去した。同盟関係上新たな関係構築が求められ、信玄の嫡男である武田義信に義元の娘である嶺松院が嫁ぐことになった。そのため駿府・甲斐間で婚儀のためのやりとりがなされ、信玄家臣である駒井高白斎がその取次を行い、天文21年(1552)11月に嶺松院は輿入れした。その様子が『甲陽日記』に記されている。

十九日丁酉御輿ノ迎二出府、当国衆駿河へ行(中略)廿三日ウツフサ廿四日南部廿五日下山廿六日西郡廿七日乙巳酉戌ノ刻府中穴山宿へ御着

駿府-興津-内房(富士宮市)-南部-下山-西郡-甲府というルートで移動している。これは河内路である。

武田信玄

またこの輿入れは大変華やかであったとされ、『勝山記』には以下のようにある。

武田殿人数ニハ、サラニノシツケ八百五十腰シ、義元様ノ人数ニハ五十腰ノ御座候、コシハ十二丁、長持廿カカリ、女房衆ノ乗鞍馬百ヒキ御座候

武田側は850人、今川側は50人が随行し、輿は12、長持(衣類等を収納する箱)は20、女房衆の馬は100頭にも上ったという。特に武田側の850人は驚くところであり、その壮大さを感じるところである。もちろん内房の地も通過したのである。

しかし、「桶狭間の戦い」以後の今川家の凋落を好機とみた信玄は駿河侵攻を展開。現在の富士宮市域も武田氏が領するところとなった。


その過程で「内房口の戦い」も行われた。

穴山信君

そこで以下のような文書が残る。



(齋藤2010)には以下のようにある。

この史料は勝頼段階の天正8年の史料であるが、河内路の要衝を書き連ねている。(中略)河内路の谷間の重要地点は万沢・南部・下山・岩間であったことがわかる。

この史料については、(小和田2001;pp.365-366)や(柴辻2001;p.281)でも言及されている。また(齋藤2010)は以下の史料をあげ、次のような説明を加えている。


年未詳


「爰駿州境目本栖・河内用心等、不可由断之由、申遣候」と富士南麓に出陣した武田勝頼が甲斐府中で留守居を務める跡部勝忠に報じていることが確認できる。具体的な年次が確定できないが、本栖および河内が北条氏に対する甲斐国境の拠点に位置付けられ、勝頼の代に至っても軍事的に重要な地点であることは不変であった

ちなみに当書状について『戦国遺文』では永禄10年(1567)とし、(齋藤;2010)は天正8年(1580)としている。永禄10年というと駿河侵攻の頃であるが、このとき富士山南麓に信玄の出馬はあっても勝頼の出馬は無かったため、永禄10年の可能性は大変少ない。

そして本栖側の街道は「中道往還」なのである。

武田勝頼

現在の富士宮市というのは、この「本栖」と「河内」に隣接している。例えば本栖湖は富士宮市の目と鼻の先にある。富士郡の要衝であり大宮城が位置した「大宮」まで距離はあるものの、本栖や河内から武田軍が進行していた際は特に緊張した状態にあったことは言うまでもない。

  • 参考文献
  1. 齋藤慎一(2010)「武田信玄の境界認識」『中世東国の道と城館』,東京大学出版会
  2. 小和田哲男(2001)『武将たちと駿河・遠江』,清文堂出版
  3. 柴辻俊六(2001)『戦国期武田氏領の展開』 (中世史研究叢書),岩田書院

2018年5月4日金曜日

富士山本宮浅間大社と流鏑馬の歴史

今回は「中世における富士山本宮浅間大社と流鏑馬の関係」について考えていきたい。まず一般に「浅間大社の流鏑馬は源頼朝が富士の巻狩に際し奉納したのが起源である」とされる。これは大正7年(1918)調査の「官幣大社浅間神社特別行事」に

建久4年5月源頼朝公富士ノ巻狩ノ時、神前二流鏑馬ノ式ヲ奉納セラレシニ始マルト言ヒ伝フレドモ詳ナラズ…

とあること以外に根拠となる伝聞はないとされる。富士宮市教育委員会編「富士山本宮浅間大社流鏑馬調査報告書」でも記されているように、この記録でさえも「詳ナラズ」としているので伝承の域は全く出ない。ただ鎌倉時代より時は下るが中世の記録で浅間大社と流鏑馬の関係を示す史料は存在しているので、そちらから考えていきたい。

武田勝頼

まず浅間大社と流鏑馬の関係が古文書で明確に確認できるのは、早い例で天正元年(1573)12月17日「武田勝頼朱印状」がある。


同報告書では

ここには「富士大宮鏑流馬銭之事、如旧規淀師之郷可請取」とあり、旧規の通りに鏑流馬領として淀師の郷を与えるというものである。ここに「如旧規」とあるので、浅間大社鏑流馬領は勝頼以前、少なくとも信玄当時からの例に従ったものである。ということは、流鏑馬も天正以前に遡るものである。

としている。この朱印状より少なくとも天正年間以前より流鏑馬が浅間大社にて行われていたということが確認できる。

また流鏑馬神事を考える際、『富士大宮神事帳』(以下『神事帳』)は特に注目される。これは浅間大社の年間祭礼を記す記録であり、浅間大社社人である「鎰取」職の時茂、「四和尚」職の春長、「一和尚」職の清長によって記された記録である。奥付に天正5年(1577)の年号が見えるといい、同年成立と考えられる(参考:他の令制国神社の年中行事史料を一覧化した文献として、鈴木聡子「神社年中行事の研究の現状とその意義について」『國學院大學研究開発推進機構日本文化研究所年報 第10号』がある)。

ただ『神事帳』には祭礼役の負担者として「葛山殿」「瀬名殿」といった人物も見えるので、天正5年時点の状況を示しているわけではないと考えられる。「戦国期における富士大宮浅間神社の地域的ネットワーク-「富士大宮神事帳」の史料的分析から-」では

このことは、祭礼役の負担者が今川被官であったことを示している。さらに、「富士大宮神事帳」に記載されている祭礼事例が、今川期のものであった可能性を指摘できる

としている。記録から見ると祭礼自体は今川期のものを記していると見て特には差し支えないと考えられる。というのは、瀬名氏と葛山氏は共謀して今川氏を裏切っているのであるが、永禄11年頃にはそれがなされているのであり、天正5年時点で祭礼役として名が見えるのはおかしいためである(参考:「中世の裾野 新史料にみる戦国期の葛山氏」)。

『神事帳』の5月の項には「成手若宮流鏑馬御神事」「山宮流鏑馬天上御神事」「大宮天上御神事」「大宮・山宮参あまつら銭」「あまつら銭」「流鏑馬御座の御酒」「若之宮流鏑馬」「福地流鏑馬」とあるといい、12月にも臨時の流鏑馬神事に関する記述が多く見られる。つまり今川期に流鏑馬神事が行われていたと言って良いのである

また『駿河富士大宮浅間神社神馬奉納記』という記録がある。これは武田勝頼が浅間大社の造営を行った際に多くの家臣が神馬を奉納し、記録としてまとめられたものである(以下『「駿河富士大宮浅間神社神馬奉納記」考』を参考にする)。原本は存在せず『甲斐国志』に引用が認められる他、写本が2つ残り、①「賜蘆文庫文書」のものと②永昌院所蔵『兜巖史略』にある「奉納記」(永昌院本とする)がある。また甲斐国志・賜蘆文庫文書と比べると永昌院本の方が家臣の数が多く示されており(92人)、また逆に永昌院本にはなく甲斐国志には名が見える場合もある。

この永昌院本は長篠の戦いで討ち死した武将の名が見当たらず、逆にその家督を継いだ人物の名が連ねているので、同論考では成立が長篠の戦い以後に記されたという仮説を示している。これは疑いないと言え、また氏は武田家臣が神馬奉納を実施した時期を詳細な検討から「天正5年1月から5月の間」までに絞り込んでいる。また同論考では原本では更に家臣数は増えるであろうと推測している。相当数の家臣が人馬を奉納しており、この事実が流鏑馬神事に与えた影響は少なくないと考えられる。馬専用の厩舎もあったであろうし、流鏑馬を行える環境は整っていたと言えるのである。また『富士大宮神事帳』にも奥付に天正5年とあることから、『富士大宮神事帳』および『駿河富士大宮浅間神社神馬奉納記』が同時期に意図をもって1つの史料として作成された可能性がある。

また「絹本著色富士曼荼羅図」の図から流鏑馬との関係を見出す論考もある。「富士参詣曼荼羅試論-富士山本宮浅間大社所蔵・国指定本を対象に-」には以下のようにある。

湧玉池の下方に騎乗者のいない白馬が描かれるが、白馬の前方に腰から空穂をさげた二名の者がおり、彼らが弓を携帯していることから、この図像は本宮の流鏑馬神事を示していよう。この集団は流鏑馬神事を行っていた「居住者」の図像である

としている。

白馬と帯同者(『絹本著色富士曼荼羅図』)

また近世になると『富士本宮年中祭礼之次第』が記されており、「加島五騎」「下方五騎」「上方二騎」等が組織され流鏑馬が行われていたことが分かる。小笠原流については「保阪太一 ,「小笠原長清と小笠原流」『甲斐源氏 武士団のネットワークと由緒』,2015」に詳しい。

  • 参考文献
  1. 富士宮市教育委員会,『富士山本宮浅間大社流鏑馬調査報告書』,2007
  2. 合田尚樹,「戦国期における富士大宮浅間神社の地域的ネットワーク-「富士大宮神事帳」の史料的分析から-」」『武田氏研究 第30号』,2004
  3. 相場明子,「富士山本宮浅間大社の流鏑馬神事-農耕神事と武芸の観点から-」『文化学研究 20号』,2011
  4. 平山優,「駿河富士大宮浅間神社神馬奉納記」考『武田氏研究 第45号』,2012
  5. 佐藤八郎,「駿州大宮神場奉納記」について『武田氏研究 第9号』,1992 
  6. 大高康正,「富士参詣曼荼羅試論--富士山本宮浅間大社所蔵・国指定本を対象に」『山岳修験34号』,2004  後に刊行された『参詣曼荼羅の研究』所収
  7. 杉嵜典子,「富士周辺の山宮祭祀」『神道宗教 191号』,2003
  8. 有光友學,「〔講演載録〕中世の裾野 新史料にみる戦国期の葛山氏」,『裾野市史研究』第7巻,1995