2013年12月31日火曜日

富士直時

「富士直時」は富士氏の富士大宮司とされる人物である。康永4年(1345)3月10日の「富士直時譲状写」が知られる。


子である「弥一丸」に「天万郷」「上小泉郷半分」「北山郷内上奴久間村の田二反」「黒田北山郷野知分」を譲るという内容である。譲渡される規模や権限から言って、富士直時は富士大宮司であろう(系図上もそれを示している)。その子息なので、「弥一丸」は嫡流(大宮司家の後継)であると予測される。

この文書は、以下の事実を示している。
  • 14世紀前半まで富士氏の存在は確実に遡ることができる("大宮司"という職でなく実名がみえる点で重要)
  • 富士氏は少なくとも14世紀前半には現在の富士宮市を領する立場にあった
  • 「神職」としての側面が確認できる

この文書が出された時代は南北朝時代である。少なくとも南北朝時代より現在の富士宮市という地で富士を称する氏族が領してきたという事実は間違いないと言える。しかし一方で、これ以前の富士氏について探るのは至難である。これ以前の文書としては「富士大宮司館」や「大宮司館」宛てのものが数例あるのみであり(共に『後醍醐天皇論旨』)、またそれらは性格を伺えるものではない。富士氏が領主であり、現在の富士山本宮浅間大社と富士大宮司が表裏一体であったということをただ示唆するのみである。それ以外は系図のみが示唆する状況である。

今回はこの文書にのみ限局して考えてみたい。まず「富士郡上方…」と始まる地域についてである。「富士郡上方」は「≒富士上方」の用例であり、「≒富士宮市」とも言える。文書に見える「天万郷」=「天間」は現在富士市なのであるが、それ以外は現在の富士宮市である。そして富士氏が領していたのは専ら富士上方であり、2世紀下ってもこれは同様であった。その理由は明確であり、富士氏が大宮郷に位置する富士浅間宮の大宮司家であり、大宮を拠点とする氏族であるためである。逆に言えば社家という性質故に、それ以上は広がらなかったとも言える。「富士上方」は14世紀初頭には使用例が確認されている名称であり、富士氏は平たく言えば富士上方の領主である。

次は「弥一丸」についてである。系図に従えば「富士資時」と考えるのが妥当である。妥当であるが、推測にしか過ぎない。他に「弥一丸」が見える史料は無く、特に富士家を揺るがす事象がなければ富士大宮司となる人物であろう…としか言えない状況である。富士直時の次代の富士大宮司である「富士資時」と一致するかどうかも不明であるが、そもそも富士資時自体が史料として見えてこないので、これ以後の富士氏の様相は不明である。それ以後の富士氏の様相を知るには、15世紀中盤あたりまで待つことになる。


  • 参考文献
  1. 大高康正,「東泉院旧蔵「冨士山縁起」諸本の翻刻と解題」

2013年11月1日金曜日

河東の乱時の富士氏

駿河国富士郡領主としての富士氏」にて「富士九郎次郎証状」を掲載しました。同文書では小泉久遠寺について「及十ケ年大破候」と記し、天文15年から遡ること10年前頃、何らかの理由によって大破したことがわかります。


そこで「10年前」を考えてみますと、丁度「河東の乱」の頃なのです(「河東の乱」については「駿甲相三国同盟」を御参照下さい)。しかもこの富士上方(≒富士宮市)付近は河東の乱の主戦地に該当する。池上裕子,「戦国期における相駿関係の推移と西側国境問題―相甲同盟成立まで―」には以下のようにある。

天文6年2月26日、氏綱は駿河に出陣した(『快元僧都記』)(中略)『妙法寺記』のいうように、北条軍は富士川を越えて興津まで進み放火したかもしれない。しかし、右(注:『快元僧都記』)の3月4日条にあるように、富士川以東=河東の富士郡・駿東郡を掌握することに実のねらいがあったとすべきであろう。(中略)しかし、3月8日付今川義元感状に、浅間神社大宮司家の富士宮若が小泉上坊に盾籠って敵を逐い払ったとみえること、4月20日条の記事などからみて、富士氏や富士上方の井手氏、下方の者による抵抗があったことがわかる。(中略)しかし、富士郡でも名職をもつクラスの者たちの中から北条方につく者が出たし、天文7年8月6日に氏綱が富士上方の北山本門寺に対し、寺中安堵と狼藉を禁止する判物を出していることから、北条に結びつく勢力がいたことがわかる

とある。そこで一回話題を変えますが、文書や年代記といった書物をみると、「〇〇殿」という表記が頻繁にみられます。例えば『勝山記』には「武田殿」と頻繁に出てきます。つまりは武田氏(特に当主)を指しているわけです。富士氏にそれを当てはめた際、当然「富士殿」となる。

北山本門寺
一方「富士殿」と表記されると、誰を指しているのかがわからないのも事実である。そこで以下の史料を掲載したい。


「日我置文」(天文18年11月16日)である。ここで「富士殿」とあり、富士氏が出てくる。そしてその内容が重要であり、「天文6年丁富士殿謀叛(むほん)之時、日是有同心而還俗之後、久遠寺御堂・客殿等焼亡」とある。これについて「世東国日蓮宗寺院の研究」では以下のようにしている。

日是の行動は、妙本寺に限定されない広がりをもっていたのである。それを象徴するのは、日是がその後の天文6(1537)年の駿河富士氏の叛乱に同心し、その還俗後、久遠寺御堂・客殿などを焼亡させ、「世出悉破滅」させたという事実である。この富士氏とは、大宮浅間社(静岡県富士宮市)大宮司家のことで、当時後北条氏と今川氏間での「河東一乱」勃発に際し、大宮司家内部で分裂が生じ、今川氏に属する若宮(後の信忠)に敵対し、後北条氏に与した富士氏(実名などは不詳)がいたのであった。それに日是が同心したのである。それ故に、今川氏への謀叛と位置付けられたのであった。

つまり河東の乱時、富士氏の誰かが謀反を起こしている。「何に対する謀反か」と言えば、おそらく富士家の当主、もっといえば富士大宮司に対する謀反であろう。今川氏側につく富士氏筆頭の富士大宮司と、それに従わない富士家の者との間で争いがあったと思われる。

この「富士殿」が誰なのかは分からない。ただ河東の乱時の天文6年3月、今川義元から富士信忠宛ての軍功を賞賛する旨の書状が発給されており、やはり「日我置文」の「富士殿」は「富士信忠ではない富士家の誰か」という理解にはなる。謀叛を起こした富士家の者は今川氏の意図にそぐわない者と思われるし、謀叛を起こした者に天文6年に感状が発給されるはずがないためである。

この頃の情勢を考えるに、おそらくこの「河東」の地を誰が有することになるかは誰も予測がつかなかった。一方どちら側(今川氏・後北条氏)に付くかを明確にしなければならないという情勢でもあった。その情勢の中で富士家の中でも意見が分かれ、後北条氏に付くことを主張する者もいた。ただ富士大宮司はこれまでの今川氏との関係を断つことは望ましくないと考え、今川氏側につくとこで帰結した。しかし後北条氏に付くことを主張する層は反発した、と考えられる(その層が後北条氏と通じていた可能性もある)。

一方時代が下り、武田信玄の「駿河侵攻」の頃になると、北条氏康より以下の文書が発給されている。

宛てが「富士殿」となっており、当時大宮城城主であった富士信忠へ宛てたものと推察される。「富士殿」とか「富士勢」といった表記を細かく確認する必要性がある。

  • 参考文献
  1. 佐藤博信,「日我の妙本寺入寺と駿河久遠寺再建・西国下向」『中世東国日蓮宗寺院の研究』,東京大学出版会,2003
  2. 池上裕子「戦国期における相駿関係の推移と西側国境問題―相甲同盟成立まで―」 『小田原市郷土文化館研究報告』27号,1991

2013年10月24日木曜日

駿河国富士郡領主としての富士氏

富士氏は浅間神社の神職であるが、その枠を超えて領主でもあった。むしろそちらの面の方が古典的であったのかもしれない。富士氏は富士郡大領を務めていた氏族とされているためである。領主というのは普通、ほぼ例外なく諸役(税)を徴収している事実がある。それを感じ取れる史料が以下のものである。


「富士九郎次郎」が小泉久遠寺の諸役を免除するという内容(三百文は以前のように徴収するとしている)であり、領主としての側面が垣間見れる。駿河国の富士上方の社寺に宛てられたものであり、富士氏とみて間違いない。その後は今川義元が判物にてそれらを改めて確認している(天文15年9月29日)。富士氏と駿河国守護である今川氏双方の認識からなるものである。

さてこれら文書が発給された背景には、久遠寺の日我上人が再興の働きかけをしたことに始まる。文書には「及十ケ年大破候」とあり、小泉久遠寺は10年もの間大破した状態であったのである。そして日我から駿河国国人である朝比奈氏を通して、今川義元が再興の意に同意したものである。その同意が「諸役免除」という形であった。それを在地勢力の富士氏が了承し、上の文書を発給するに至ったのである。

さて「富士氏が諸役を免除する」とし、また「三百文は従来の通り収めるように」としていることから、領主として富士氏が存在していたのは間違いない。富士氏は多様性があり、例えば根原(現・富士宮市)の関所は富士氏の「富士長永」が管理・支配していた。つまり富士上方の諸権利に広く関係していたのである。

一方「富士九郎次郎」という人物については分かっていない。この時期の富士家当主は富士信忠と推測されるが、「=富士九郎次郎」ではないということははっきりとしている。天文6年3月6日の今川義元が戦功を評した富士氏宛ての文書は、宛て名が「富士宮若」である。またこの頃「富士又八郎」なる人物の文書も見つかっており(天文22年3月24日・永禄6年12月20日)、この頃活躍していた富士氏の人物が複数人居たと推察される。

しかし「富士九郎次郎」はこれ以外には見あたらず、逆に「富士宮若」は複数以上が確認されている。時代が下ると「富士兵部少輔」(富士信忠のこと)として多くの文書がみられる。「富士宮若」は富士信忠の幼名と解釈され、当主に成りうる人物故に「宮若」としての複数文書類が存在するのだと筋が通るのだが、そうすると「富士又八郎」や「富士九郎次郎」の立場はいっそ不明となるのである。

文書が追加で発見されない限り、この双方の人物は不明のままであろう。

2013年9月30日月曜日

富士親時

富士親時は富士山本宮浅間大社の大宮司である。富士忠時の子とされる。

富士親時の花押
ところで「父:富士時、子:富士時」という名称は気になるところである。同時期の今川家当主は「祖父:今川範、父:今川義、子:今川氏」であり、偶然の一致を見ている。

富士忠時については、「忠」を拝領したと見られることも多い。『中世武家官位の研究』には以下のようにある。

富士忠時・興津忠清共に「忠」の一字を駿河守護今川範忠から拝領したと考えられることから、この任官に今川氏が関わっていたとする見方もできる…(省略)

とある。一方親時については文正元年(1466)の「足利義政御内書」にて既に「大宮司職等申付又次郎親時」とあり、今川氏親の生誕はそれからやや時代が下ることを考えると、(親時については)拝領したとは言えない。

このように文正元年(1466)の「足利義政御内書」の存在を記しましたが、「大宮司職等申付又次郎親時」とあるように、このとき足利義政により富士親時は大宮司職に就任することが決定された。

この文書は注目されるところであり、まず「足利義政が補任している」という事実が非常に大きい。つまり足利将軍家が富士家の当主(といってよいだろう)の決定権を保持していたということになる。この事実は、富士氏が既に中央と深い関わりを持っていたことを裏付けている(取り込まれている、とも言える)。この時期の富士家は家中騒動の最中でもあり、大宮司職の就任に関わる過程は「富士家のお家騒動と足利将軍」にて説明しています。

そして神職としての面で外せないのは「富士山信仰に篤かったこと」である。浅間大社の大宮司であるため篤いことは当たり前なのであるが、仏像類の奉納といった形でそれは明確に見てとれる。以下は文明10年(1478)の仏像である。富士氏と村山修験の合同で製作された仏像であり、現在も村山浅間神社境内の大日堂内にて展示されている。


他に明応2年(1493)の仏像が知られており、富士親時は檀那である。現在、柴又帝釈天の境内に安置されている。

富士山に奉納された仏像類の残存例は数多くあるわけではない。特に中世のものはかなり限られている(「中世後期富士登山信仰の一拠点-表口村山修験を中心に-」が参考になります)。その中で富士親時による奉納例は、複数以上が確認されている。この事実は、富士氏の祭祀面や信仰面を考えるにおいて特筆すべき事例であろう(仏像自体の考察は別項で設けたい)。

中世の富士山信仰を考える上で、富士氏の動向は外せないように思える。

  • 参考文献
  1. 木下聡,『中世武家官位の研究』,吉川弘文館,2011
  2. 大高康正,「中世後期富士登山信仰の一拠点-表口村山修験を中心に-」『帝塚山大学大学院人文科学研究科紀要 4』, 2003

2013年8月25日日曜日

浅間大社の春長坊と清長坊そして一和尚職と四和尚職

浅間大社の社人において、富士氏の次に取り上げられるのは十中八九「春長・清長(春長坊・清長坊)」ですね。その理由として、まず「中世において社中では富士氏に次ぐ権力を保持していた」という背景があります。清長・春長はそれぞれ一和尚職と四和尚職を務めていた。

「一和尚」とか「○和尚」というのは供僧に付属する者の名称として見られ、例えば1240年に東寺に常住供僧が設立されたとき一和尚から三和尚でまであったという(網野善彦,『無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和』(増補版)P169-170)。


  • 一和尚職と四和尚職

「一和尚」と「四和尚」は神職名である。つまり富士氏が「富士大宮司職」というところのそれである。


この文書には「一和尚四和尚御炊職之事」とあり、原来は一括されていたと考えられている。


この文書では「一和尚」と「四和尚」の職が「長源坊」の処務としている。つまり一和尚と四和尚は兼任されるのが常であり、それを「長源坊」が務めていた。




この文書は注目されることが多い。何故なら「清長=一和尚職/春長=四和尚職」の形態を明確に示す文書であるからである。

つまり天文8年(1539)には長源坊が務めていたそれが、天文21年(1552)には清長坊が一和尚職を務め、春長坊が四和尚職を務めるようになっているのである。『公共圏の歴史的創造-江湖の思想へ-』には以下のようにある。

天文14年6月、長源は一和尚職系の権利のみを子息長泉(のちの清長)に譲り、これを受けて20年2月には、この一和尚職系の権利が清長に安堵される。(中略)そして21年正月、清長には一和尚職系の権利が、春長には四和尚職系の権利がそれぞれ安堵され、ここに両職の分掌関係が確定する。

またこの文書では清長坊が御炊職を処務し、また春長坊は風祭神事を処務していたことが分かっている

  • 風祭神事

風祭神事は、本宮の祭事の中でも比較的よく取り上げられる。


上述の通り風祭神事は春長坊が処務しており、「冨士大宮風祭事米之事」とある当文書の宛も「春長」である。それ故に風祭神事に関わる勧進も春長坊に拠るところであった。この文書は祭資(米)の徴収範囲に「西は潤井川・東は伊豆国境」が該当する事を示し、また徴収において不入地(奉納義務が拒否できるなど外部からの介入が制限されるエリア)までもが含まれる事を示し、またそれらの名目としては「神慮」にあるとしている

「神慮」というのは現代でこそ想像できないものであるが、当時は当たり前に存在する概念であった。「「神慮」にみる中世後期の富士浅間信仰」では同文書について以下のように説明している。

この徴収は「為神慮之間」とされ、勧進にあたっては浅間社の神の意志を背景にしていることがわかる。また「在所之代官」の案内で毎年請け取ることが記されており、恒常的な負担となっていたことを想定させるが、徴収を行った春長が「本願」に相当するような役割を本宮内で担っていたということもあって、風祭神事米の徴収も「神慮」を背景にした春長自らの力量に負うところが大きかったものと思われる。

「神慮」という名目を借りて、祭事を成立させようという意図が感じられる。先の文書は弘治3年(1557)であるが、実はそれ以前の天文21年(1552)にも風祭神事の勧請(米の徴収)に関わる文書が出されている。それについて『公共圏の歴史的創造-江湖の思想へ-』では以下のように説明している。

この文書が重ねて出されなければならなかった理由は、勧進エリアにおける「不入」権(奉加拒否の権利)の否定を徹底することにあった。まず第一に、春長坊が勧進を行なう際に障害となる「不入」の地とは、史料(※天文21年の文書のこと)では「寺庵の門前・在家」とされるに過ぎなかったが、右の史料(上の弘治3年の文書)では、「寺庵の門前」が「諸寺・諸社門前」に拡大され、「在家」に相当する部分が「諸給主、鍛冶、番匠、山造、その外の輩」として、今川氏給人や諸職人にまで敷衍されている

このように、本来徴収できない層にまで介入できる権利を得ていた春長は特質的なものがある。この特質性の背景に、「富士大宮司」という存在があったと同文献は指摘し、「大宮司との対抗上、意図的に創りだされた関係であった」としている。

また清長(一和尚職)は本宮における不入権を行使・主張できる立場にあった。つまり本宮を中心に考えると、以下のように言える。本来不入の地(アジール)は不入権により守られているが、春長には国主により不入の地への介入権が認められているため、本宮はそれら地域からも勧請を行える立場にあった。一方本宮自体も不入権を有しているが、本宮は勧請を進める側であったので不入権が破られることは無かったのである。このシステムは同族(春長・清長)に行われることによって成されていた。これがなぜ春長・清長であったのかと考えるとき、本宮筆頭の富士大宮司の状況が絡んでいると考えられる。つまり戦乱の中で富士大宮司は留守であったことも多く、富士大宮司以外にこれらの権利を与えたと考えられるのである。

  • 参考文献

  1. 東島誠,『公共圏の歴史的創造-江湖の思想へ-』P79-85,東京大学出版会,2000
  2. 大高康正,「神慮」にみる中世後期の富士浅間信仰,帝塚山大学大学院人文科学研究科紀要8, 2006

2013年7月9日火曜日

『撰集抄』に見える富士山

『撰集抄』は鎌倉時代に成立したとされる説話集である。その『撰集抄』巻5「富士山隠士對覚尊読歌事」に富士山に関する記述がみられる。

中比、駿河国、いづくの者とゆくゑもしらぬ僧のつたなげなる侍り。富士の山の奥にけしかる庵を結びて、やすみするふじどとはし侍りけるなんめり。食物は魚鳥をも嫌わず、着物はこもわらをいはす身にまとひて、そこはかとなきそぞろ打ち言いて、物狂の如し。

とあり、覚尊なる人物が富士山の山奥で庵を結んで生活していたと記している。

そして興味深いことに村山浅間神社に伝わる正嘉3年(1259)の仏像の銘に「願心聖人・覚尊・□日・仏師□□」とあり、覚尊の名が見えるという事実がある。



正嘉3年(1259)の仏像の銘にあることから、覚尊なる人物が願主として存在したことは間違いなく、『撰集抄』に見える「覚尊」と同一人物ではないかという見方がある(これについては懐疑的見方も多い)。

富士山史において興味深いのは、このような推測が後に発見される史料において裏付けが進んでいくケースが多いことである。「末代」も後に発見された経典にて裏付けがなされた他、「富士山縁起」といったものも多くを裏付ける材料となった。

仏像の銘は富士山史の追求において非常に有意なものであると思う。

2013年7月7日日曜日

富士山本宮浅間大社並びに富士大宮司の朱印高

富士山本宮浅間大社の神職として中心的存在であった富士氏、そしてその中でも筆頭であった富士大宮司は強大な力を保持していた。

特に江戸時代においては、富士氏は専らその伝統的権威によって支えられていた。富士氏は戦国期には城主までをも務める存在であったが、今川氏衰退と共に武人としての側面からは基本的には退いていた。つまり、以後神官としての立場で権力を保つ必要性があったのである。そして実際富士大宮司は神官という身でありつつも強大な力を保持し、それは以下の記録からも察することができる。『古事類苑』より。

三國に秀し富士の御山、拜せん事をとて、能登の七尾の俳士笑鴉といへる老人、夏比行脚なして、不二の根かたにいたる(中略)富士の大宮司は、千四百石の御朱印たり、此神主一度も登山せず、たヾ〳〵麓より拜し奉るとなん…

富士大宮司は1400石の御朱印(朱印高)がある、としている。そして富士山自体には登ることがないとも記している。普通に考えると、1400石という朱印高はかなり大きな規模である。例えば武田家(高家)は500石であったと言われているので、これでは江戸時代の大名と比較する程の規模と言える。

文禄2年(1593年)の「富士大宮浅間領渡帳」には各神職の朱印高が記されており、末には「合千七十石」とある。一方『古事類苑』で参考にしたと思われる記録は江戸時代のものであるが、江戸時代より前の16世紀には既に社領が1000石を超えていたことが判明する。

しかし1400石という規模の朱印高を富士大宮司が個人で持つということはさすがに無かった。これは神職である富士氏(富士大宮司・公文・案主)の領地分、または別当分などを合計した規模を指していると見たほうが良い。江戸時代において朱印という形で所領を安堵されたのは富士氏及び別当に限られており、このような推測ができる(『浅間神社の歴史』P413)。

富士大宮司の社領は寛永18年の朱印状で明らかである(『浅間神社の歴史』P413)。また公文・案主の社領については、寛文の朱印状と元和3年の社領目録を照らし合わせ算出されている(『浅間神社の歴史』P416)。それによると、以下のようになる(『浅間神社の歴史』P368)。


神職社領
富士大宮司867石9斗1升
公文80石6斗2升
案主44石6斗2升
別当136石2斗1升
1129石3斗6升

おそらく1400石という記述は、これらの富士氏または別当宛の朱印状の合計やその他領地分を含めたものであろう。それが1000石を超えるという意味である。

しかし富士大宮司が約900もの朱印高を保持していたことに変わりはなく、富士大宮司が如何に大きな力を保持していたのかが分かる。富士山の山頂を管理または支配していたのは富士氏及び別当である(参考:徳川忠長の富士山における政策と富士氏)。そしてその中でも富士大宮司は特に発言力を有していたため、言い方を変えれば富士山頂は富士大宮司が管理する場所であった。富士山を総合的に管理する立場が富士大宮司であったのである。例えば政治的意図があったとされるオールコック(初代英国公使)の富士登山の際は富士大宮司が監視し、また寺社奉行へ書簡を出しているが、それも当然なのである(参考:幕末のオールコックによる富士登山)。

富士山を総合的に管理していたその背景には、富士大宮司自身の朱印高の高さ(=権力)があったと言える。

2013年6月27日木曜日

富士山禅定図と村山修験と元吉原

富士山禅定図はいわば「道中案内図」に該当する。以下「富士山南口案内絵図―村山修験者と南麓富士登山―」をベースに説明していきたい。

江戸時代には夥しい数の版本が流布し、また庶民による旅も盛んになって、道中案内も数々刷られている。(中略)南麓を描いた富士登山案内絵図において絵図中の表題を拾うと、「駿河国富士山絵図」、「駿州吉原宿絵図」、「富士山表口真面之図」と必ずしも一定しない。何種類もの版木があったと考えられ、おそらくは江戸中期以降明治期にかけて刷られたとみられるが、本稿ではこれらを富士山南口案内絵図と称しておく。南麓の場合、登山口として村山口・大宮口の両方が称される。

「駿河国富士山絵図」や「富士山表口真面之図」の作成主体は村山修験である。また富士山南口案内絵図において、以下の特徴を挙げている。

資料数が少ないなかでの比較になるが、富士登山案内絵図のなかで、もっとも登山口に至るまでの行程を詳しく描き込んでいるのが、南口絵図ではないかと思われる

私はこの点は非常に重要な点に思える。つまりは南麓関連の絵図は「大宮・村山口登山道」に至る過程を詳細に記しているということであり、一見してもその印象が強い。例えば田子の浦(富士市)といった登山口から遠い位置からも、登山口までの道程を記している。これは東海道を介して訪れる道者を意識した絵図となっていると言え、その特徴から吉原宿の存在は富士山禅定図を語る上では外すことはできない。

「駿州吉原宿絵図」と「駿河国富士山絵図」の場合、吉原宿から各地への里程が記されていることからみても、当初に述べたとおり、この図は富士山参詣道者のための案内図とみてよいだろう。「吉原宿絵図」には文政十年の「初夏」に開板とあり、初夏といえばこれから夏にかけての道者(富士山参詣者をさす)を対象にしていることが十分想像される。 

ここで吉原宿と富士山禅定図との関係を示す史料を提示したい。

『東街便覧図略』より
これは『東街便覧図略』(1786年)にある図柄であり、元吉原を示したものである。元吉原は「元々吉原宿が位置していた」という経緯から地名となった場所である。そして冒頭には以下のようにある。

此所にて富士山禅定図の図并富士山略縁起を売る店あり。家名を富士見屋といふ。

つまり元吉原には富士山禅定図を売る「富士見屋」という店が存在していたのである。これは重要な点である。また以下のようにもある。

文化8年(1811)、司馬江漢があらわした随筆『春波楼筆記』には、「元市場と云ふ処は、白酒を売る処なり、爰にて富士山の図を板行に彫りて、埒もなく押してあるを、蘭人往来する時、何枚も需むる事なり」とある。元市場は東海道・吉原宿と富士川の中間にある間宿であり、米宮浅間神社をその北に抱く門前のまちともいえる。司馬の文章からして、木版刷りの富士山図がここで頒布されていたことは明らかであり、蘭人だけでなく東海道を行く旅人に求められたであろう。

つまり登山口・登山道に至る地図を販売していた、と理解できる。またこの事実は、吉原周辺において北方への指向があったことを示している。そしてその背景には村山修験があった。

なお南口絵図のうち、明らかに明治以後に刷られたものもある。三坊蔵板の「富士山表口真面之図」と同じ題名・同じような構図だが若干異なり、明治初期の修験道廃止令など神仏分離政策を受けて、村山や富士山頂からほとんど仏教色は消え去っている。この明治以降の真面之図は数点が確認されているが、それらのなかに「□(欠損)山蔵板」と刷られているものが見られ、この表記がない図でもみな同じ構成・同じ内容であることや「表口村山ヨリ諸方ヘ里程」が列記されていることから、すべて村山蔵板の絵図と考えられる。

尚、この種の案内絵図との棲み分けは重要である。また多くの富士山禅定図、または富士山案内絵図を手がけていた村山修験の意図を探ることは最も重要である。

「資料紹介 『駿府風土記』の「富士山禅定図」」(静岡県立中央図書館のコンテンツ)は以下のように説明している。

『明細記』『風土記』の富士山絵図は二次史料であり、ともに村山三坊が版行に係わった「富士山禅定図」(以下「禅定図」)を一次史料として作成したものと考えられる。(中略)『東街便覧図略』には、天明6年(1786)に元吉原で「富士山禅定図并富士山略縁起」を販売した記録があることから 18 世紀後半の東海道筋での販売を確認できる。販売の意図は「道者向けの道案内」と「村山修験の富士信仰案内」が考えられる。

おそらく村山修験は、徐々に衰退していく中で道者誘致の必要性に駆り立てられていた。そして本拠地から下り、元吉原といった場所での絵図販売に何らかの形で関与していた。そしてその一部が現在も残っているわけである。

さて、もう一方の問題は頒布場所と村山修験者との関係である。この絵図の蔵板者が主に村山修験者だとして、これら村山を離れた東海道筋の頒布場所との関係はいかなるものがあったのか。この点を明らかにすることは難しいが、『駿河国新風土記』には、村山が富士川の東岸に役所を建て、西国の道者が大宮村山を経由せずに登山することを止めていたことが記されている

この部分については、「富士市岩本に出された制札と富士山登拝」にて取り上げている。

  • 参考文献
  1. 荻野裕子,「富士登拝案内絵図-富士村山修験者たちの画策-」『人はなぜ富士山頂を目指すのか』,静岡県文化財団,2011年
  2. 静岡県立中央図書館,「資料紹介 『駿府風土記』の「富士山禅定図」」(pdf),2013
  3. 宮本勉,『東街便覧図略 : 伊豆・駿河・遠江の部』,羽衣出版,1994

2013年5月20日月曜日

富士山における庚申縁年

富士山には庚申縁年という考え方が存在する。「庚申」は以下の年度が該当し、その年は富士山にって特別な年となるわけである。次の庚申縁年は2040年である。

16世紀以降の庚申年一覧
年号西暦
明応9年1500年
永禄3年1560年
元和6年1620年
延宝8年1680年
元文5年1740年
寛政12年1800年
万延元年1860年
大正9年1920年
昭和55年1980年
---2040年


なぜ庚申が「縁年」と考えられているかについては、「六代考安天皇92年に富士山が出現した」または「考霊天皇5年に出現した」という伝承による。しかしそれは「庚申と富士山がどう関係するのか」という場合の話であって、背景には浅間神社の社人や御師などがその恩恵などを人々に示したためであろう。

庚申年は登山風俗上も大きな変化があり、例えば女人禁制が一時的に解除される。また縁年という有難味から、特に道者が多く訪れる。道者が多く訪れることから、奪い合いも激しさを増す。庚申縁年の状況を示すと思われる有名な史料は『妙法寺記』である。明応9年(1500)の条に

此年六月富士導者参事無限、関東乱ニヨリ須走ヘ皆導者付也

と記されている。これは関東の乱が影響して特に須走口に道者が集中したという、須走口の状況を示した記録である。「限りなし」は、明応9年の庚申の年ということもあって多くの道者が訪れたのだと解釈できる。

また歌川広重の浮世絵の詞書や、葛飾北斎の『富嶽百景』には「考霊天皇5年富士山出現」を示すとされる記載がみられる。

延年である延宝8年(1680)に作成された「富士山」と題する「庚申縁年縁起の木版」(正福寺蔵)がある。これは当時「庚申縁年」の認識があったことを明確に示している。また正福寺は吉田に位置し、富士山信仰と関わりがあったことが指摘されている。この当時富士講は未だ発生していなかったことを考えると、富士講発生以前にも吉田には庚申縁年の伝承は根付いていたと考えて良い。『妙法寺記』の記述では庚申との関係性は明確ではない。しかしこの木版から、いっそはっきりするのである。

また案主富士氏の記録である「富士本宮案主記録」の延宝8年(1680)の項には

六月富士山参詣之導者面口六千人程有、…

とあり、六千人もの道者が訪れたと記されている。このことから、駿河国でも同様に庚申縁年の影響があったことが分かる。

また影響は広く、茨城県坂東市の大谷口香取神社の延宝8年の庚申塔には「奉祭礼富士大権見、衆望亦足攸」「右意趣者庚申待教養、善巧而巳、別当常光院」とある。また同じく延宝8年の「御公用諸事之留」(甲斐国・甲府)には「当年は庚申の年であるので富士山への道者が多くやってくる」という内容の記録がみられる。

これらの記録から「富士山信仰における庚申縁年の由緒について」では以下のように説明している。

これらのことから、延宝8年(近世前期)にはすでに庚申縁年の考え方が相当広範囲に広まっていた、と考えられる。この年に多くの道者が富士山を目指して各信仰登山道集落にやってくることは、事前に予測されていた。しかもこのことは延宝八年に初めておこったのではなく、それ以前にも庚申年に信仰登山道集落に多くの道者が押し寄せた経験があったからこそ、その再現が期待されていたものと思われる。

とし、これらの解釈は大きく傾聴すべきである。また表口の道者数についてはいくつか年度別の記録が残されており、参考となる。

公文富士氏「導者付帳」(慶長17年)による
年代西暦人数
元和元年161520
元和2年1616217
元和3年1617412
元和4年1618438
元和5年1619119
元和6年1620746
元和7年1621348
元和8年1622207
元和9年162352


明らかに庚申年である元和6年(1620 )に道者数が増加している。また以下は「大鏡坊文書」の記録である。

大鏡坊文書
年代西暦人数
享保13年1728311
天文5年17401440
寛政5年1793400/500
寛政6年1794600
寛政7年1795500
寛政8年1796400/500
寛政10年1798400/500
寛政12年18002000
享和元年1801200


「大宮」と「村山」の双方の道者についての記録であるが、双方とも明らかに庚申年で増加している。これは偶然ではない。やはり17世紀前半でも庚申縁年の考え方は広く伝播していたと考えるできであろう。

そしてやはり『妙法寺記』の明応9年(1500)の「富士導者参事無限」という記録も、庚申縁年による現象と考えるのが妥当と思える。これは「道者」の初見でもあり、大変重要な記録である。

またこのように、「庚申縁年=富士講」ではない。これを誤解している文献は多い。例えば今年刊行された富士山世界文化遺産登録推進両県合同会議編,『富士山百画 100 Portraits of Fujisan』のP60に「この年は富士講にとって特別な60年に1度の庚申の御縁年にあたる」とあるが、この類の記述も誤りである。また先ほど引用した公文富士氏の「導者付帳」には「先達」という記述がみられ、これが先達の初見とされるが(『富士の信仰』(古今書院版)P4)、一部の文献では「先達=富士講」としてしまっているものもある。先達も富士講に限局するものではない。

  • 参考文献
  1. 菊池邦彦,「富士山信仰における庚申縁年の由緒について」『国立歴史民俗博物館研究報告第142集』,国立歴史民俗博物館,2008

2013年5月7日火曜日

村山修験と富士郡各地域間との富士野論争

村山修験の衰退の理由の1つとして、そして村山の凋落を物語る出来事として「富士野論争」がある。この論争は比較的知られているが、複雑で掴みづらい所はある。

しかしこの論争が、基本的には「大宮と村山」という二大勢力間で行われたことは間違いない。そしてこの富士郡において大きな動きであったことは間違いないだろう。

※富士野とは富士上方の富士山西南麓一体を指す。古くは『吾妻鏡』などで名が見える
  • 明歴期の論争
以下の15もの地域が村山三坊の大鏡坊を訴えたのが明歴期の論争である。
  1. 富士郡大宮町
  2. 山本村
  3. 星山村
  4. 岩本村
  5. 入山瀬村
  6. 杉田村
  7. 久沢村
  8. 厚原村
  9. 野中村
  10. 中里村
  11. 下小泉村
  12. 若宮村
  13. 源道寺村
  14. 黒田村
  15. 淀師村
この争論は以下のような過程で経過していく。


年代内容差出→宛所
明歴2年6月14日大鏡坊と大宮町の野論について評定所で吟味するも、不明分として、論所の見分や解決を、勧定頭たちは代官に委ねる勧定頭・寺社奉行→代官
明歴2年11月25日誓紙をして立会絵画を作成し、江戸へ出頭するよう、勧定頭たちは直接大鏡坊へ指示する勧定頭・寺社奉行→大鏡坊
明歴3年6月19日論所が留山にもかかわらず草刈したり、公事相手の村へは通常の二倍の富士参詣の役銭を要求するなど、大鏡坊の非法を、村から訴える若宮村他6ケ村→奉行所
明歴3年10月18日論所を見分けした手代とともに、誓紙をしない大鏡坊を速やかに江戸へ出頭するよう、三奉行が代官に指示する三奉行→代官
明歴3年12月17日大鏡坊が堺をつけた論所の3分の1を、大宮町と他の村々へ渡す内済案を、大鏡坊から大宮町へ渡す大鏡坊→大宮町など
明歴4年4月14日墨筋の境目を社領として認める裁許三奉行→大鏡坊・大宮町他14ケ村

史料5の段階では、訴訟側の地域として「天間」「上中野」「若宮村」が追加されているようである。

また寛文9年には別の野論が再燃しており、大鏡坊により富士野への草刈が留められたことを発端に蒲原領・加嶋領・甲府領の39の村が訴えを起こしている。

  • 延宝の争論
明歴期の論争にて確定した(村山三坊支配の)境界外の場所において新規に薪取りを止められ、また鎌取などの被害にあったことを発端とし、延宝2年(1674)に蒲原領・加嶋領・甲府領の37の村が訴状を提出して村山三坊の非法を訴えた論争が延宝の争論である。

延宝の争論は以下の過程で経過していく。


そして延宝7年についに決着することとなる。それが以下の裁許である。



駿河国富士郡大宮町、以下蒲原領・加嶋領・甲府領などの計42の村々が冨奥院・村山三坊を訴えたものである。この裁許状は老中大久保忠朝以下10名の老中と三奉行が連名している。内容は以下のようなものである。

  • 冨奥院の流罪
  • 村山社領とされた地も含めて、論所は「入会地」と新たに認定する
  • 地西坊・大鏡坊の江戸十里四方と駿河国の追放
  • 村山修験と関わる山宮・粟倉・上小泉村の人々の追放

これにより、村山修験の浅間社のある土地などは、富士山信仰の地としての性格は大きく薄れたとみてよいだろう。また村山三坊の追放などから、力・権威を大きく失うこととなった。村山修験衰退の1つの原因であることに間違いないだろう。

  • 参考文献
  1. 宮原一郎,「近世前期の富士村山修験と野論争論」『國學院大學校史学術資産研究(紀要)第3号』,2011

浅間大菩薩縁起を考える

近年の富士山史関連の学術的見地において、最も大きな発見・動きは「新出の富士山縁起が発見されたこと」ではないかと思う。その中でも『浅間大菩薩縁起』の標題をもつ富士山縁起は注目されるものであり、現在「神奈川県立金沢文庫」に収蔵されている(富士縁起(全海書写)ではない方*1

浅間大菩薩縁起

「富士山をめぐる知識と言説-中世情報史の視点から-」には以下のようにある。

たまたま金沢文庫の仕事のかかわりで『浅間大菩薩縁起』という、中世の富士山の縁起を記した写本が見つかりました。(中略)それはちょうど巻末にあたる部分で、奥書には底本が建長3年(1251)に写されたものであることが記されております。(中略)

これが『浅間大菩薩縁起』である。また以下のようにもあります。

それ(『富士浅間大菩薩の発見』)と前後して、(中略)雑多な古書の切れはしを集めた箱の中から、鎌倉時代の終わりに全海という鎌倉極楽寺系の律宗の学僧が書き写した富士山の縁起の1部を探しだしてきました。断簡ではありますが、これは明らかに今まで知られていた富士縁起の1番古い形を伝え、しかも「かぐや姫」伝説の部分が含まれていたのです

とある。これは富士縁起(全海書写)です。

富士縁起(全海書写)

『浅間大菩薩縁起』には末代上人以前に「金時(上人)」「覧薩(上人)」という人物が登山を行なっていたことが記されているのである。これは、これまでの(富士山史の)解明作業の限界点を広げる発見であり、興味深い。

「中世の富士山-「富士縁起」の古層をさぐる-」には以下のようにある。

この縁起は、底本段階ですでに錯簡があったらしく、配列について若干の疑義はあるが、末代が登山する以前、年代も分からない往古に金時上人が初めて登山し、山頂い仏具などを埋納したという。次に覧薩上人が天元6年(983)6月28日に登山、さらに天喜5年(1057)に日代上人が登山したという。

このことから、末代上人が初登頂と考えるこれまでの傾向に終止符を打ちそうである。またこれらの人物の名前が伊豆走湯山の開祖とされる人物と共通する部分がみられるといい、関係性が指摘されている。

  • 富士山大縁起(東泉院所伝)について

富士山縁起には「富士山大縁起」(東泉院所伝)というものがあり、『浅間台菩薩縁起』との関連性を見出すことができる。「中世の富士山-「富士縁起」の古層をさぐる-」には以下のようにある。

奥書によると、この縁起書は、年代は不明であるが「五社正別当妙行」と称する人物が相伝し、正和5年(1316)に「正別当頼尊」が書写したものが原本であるという。(中略)最初の3部は考元天皇元年に震旦から来訪した「金覧(言偏に覧)上人」が記したという体裁となっているため

とある。また「(東泉院の縁起が)それほど古いテキストとは思われない」(P120)としている。そしてその「金覧(言偏に覧)上人」について以下のように推測している。

東泉院本大縁起の「金覧上人」とは、末代以前のこの2人の登頂者の人名、ひいては走湯山開創の二仙人の名を合成したものと考えることも可能である。室町後期以降、村山修験は聖護院末に包含されたために、役行者を開創として崇めるようになるが、これと袂を分かった走湯山系の修験の一派が、下方地区に東泉院を建てて移動し、醍醐派の法灯と、古い伝承を伝えたのではないであろうか。

これらを鑑みると、東泉院は富士山信仰から離別してできた過程できた建造物とも捉えられるのである。この縁起について「富士山をめぐる知識と言説-中世情報史の視点から-」では

富士山だけで完結しておらず、隣にある愛鷹山を含み込んでいたということがわかります。その中に「かぐや姫」の説話が含まれているのです。(中略)東海道筋に位置していた今泉東泉院に伝わる縁起は、富士山よりも愛鷹山を強調しています。

とあり、東泉院は富士山から離れた東海道を意識した建造物とみられている。また愛鷹山に重点を置いていたと見られている。「愛鷹山縁起」という見方ができるのである。

では『浅間大菩薩縁起』を考えていきたい。「新出『浅間大菩薩縁起』にみる初期富士修験の様相」には以下のようにある。

新出『縁起』は、巻末に建長3年(1251)「冨士滝本往生寺」において書写した旨の本奥書がある。滝本往生寺とは、富士山の村山登山口(廃道)の1合目、ちょうど森林限界にあたる地点に江戸中期まで存在した山岳寺院である。

つまり村山に伝わる富士山縁起である。一般に滝本往生寺(御室大日)は富士山興法寺(大日堂・浅間社・大棟梁権現)に含まず、別個として扱う。それは先にもあるように森林限界にあたる比較的標高の高い場所に位置するためである。

『浅間大菩薩縁起』によると、末代は本名を「有鑑」といい、駿河国の人物であるという。また以下のようにある。

末代の登頂は、山麓の「高下貴賎」の住人の支援を受け、下山後は山宮(大宮浅間社の末社)の宮司・神官らが歎讃したという。

また『地蔵菩薩霊験記』などと共通の内容がみられ、縁起以外の史料と共通した記述がみられる点はかなり大きい。「金時(上人)」「覧薩(上人)」については、以下のように説明している。

新出『縁起』が記す末代以前の金時・覧薩・日代、三名の富士登頂者は、いずれも従来全く知られていなかった人名である。(中略)新出『縁起』が引用する『金時上人記』なるものが、こうした記述の下敷きになった可能性はあり、伝説的な人名であるにしても、9世紀ごろに富士登頂に成功した人物がいた可能性は高い。しかし末代の直接の先蹤といえる日代の存在は、ある程度確実な記事によっていると考えられるのに対し金時・覧薩の二名は事跡も明瞭ではなく、実在性に疑問が残る。なぜならば、この2人の名前が走湯山の開創伝説に登頂する仙人の名前を模しているからである。

としている。しかし日代は少なくとも末代以前に登頂したと考えられるので、今後大きく影響を与えていくものであると思う。そしてこの縁起は、村山と伊豆走湯山との関係をいっそ裏付けるものとなっている。

  • 参考文献
  1. 西岡芳文, 「新出『浅間大菩薩縁起』にみる初期富士修験の様相」,『史学 73(1), 1-14』,慶應義塾大学,2004
  2. 西岡芳文,「中世の富士山-「富士縁起」の古層をさぐる-」『日本中世史の再発見』,吉川弘文館,2003
  3. 西岡芳文,「富士山をめぐる知識と言説-中世情報史の視点から-」『立教大学日本学研究所年報 (5)』,2006
  4. 神奈川県立金沢文庫編,『金沢文庫の中世神道資料』,神奈川県立金沢文庫,1996
  5. 神奈川県立金沢文庫編,『寺社縁起と神仏霊験譚』,神奈川県立金沢文庫,2003
*1: この2つは両方とも「金沢文庫の富士山縁起」と説明されることがあるので、区別する必要はある

2013年5月3日金曜日

富士山噴火と甲斐国八代郡浅間神社の創建

富士山信仰において、その富士山を祀る神社として「浅間神社」がある。甲斐国における浅間神社創建の直接の動機となった出来事は富士山の噴火であり、噴火の様子と合わせ甲斐国初の浅間神社建立までの過程は比較的詳細に記録されている。

※正史で確認できる富士山噴火の最初の記録は天応元年(781)である。

  • 浅間神社建立までの背景

『日本三代実録』の貞観6年5月5日の記録に

駿河国言。富士郡正三位浅間大神大山火。其勢甚熾。焼山方一二許里。光炎高廿許丈。大有声如雷。地震三度。歴十余日。火猶不滅。焦岩崩嶺。沙石如雨。煙雲鬱蒸。人不得近。大山西北。有本栖水海。所焼岩石。流埋海中。遠卅許里。広三四許里。高二三許丈。火焔遂属甲斐国堺。

とあり、駿河国側が富士山の噴火を報告している。

『日本三代実録』貞観6年7月17日の記録に

甲斐国言。駿河国富士大山。忽有暴火。焼砕崗巒。草木焦殺。土鑠石流。埋八代郡本栖并剗両水海。水熱如湯。魚鼈皆死。百姓居宅。与海共埋。或有宅無人。其数難記。両海以東。亦有水海。名曰河口海。火焔赴向河口海。本栖剗等海。未焼埋之前。地大震動。雷電暴雨。雲霧晦冥。山野難弁。然後有此災異焉。

とあり、今度は甲斐国側が噴火の被害を報告している。こうやってみると噴火の報告は甲斐国でかなり遅れているが、それほど被害が大きかったのだと解釈されることが多い。

このとき「セの海」が分断され、現在の「精進湖」と「西湖」が形成されている。つまり元はくっついていたわけであり、甲斐国の地理を一変させるほどの噴火であった。

『日本三代実録』貞観6年8月5日の記録に

下知甲斐国司云。駿河国富士山火。彼国言上。決之蓍亀云。浅間名神祢宜祝等不勤斎敬之所致也。仍応鎮謝之状告知国訖。宜亦奉幣解謝焉。

とあり、中央側から甲斐国に「駿河国が亀ト(きぼく)を行い富士山の噴火の原因をつきとめたところ、浅間明神の禰宜・祝らが斎敬を怠ったためであったと言上してきたので、駿河国司に浅間明神に鎮謝するよう告知した。したがって甲斐国も駿河国の浅間明神に解謝せよ」と言った。

この記述から「駿河国に浅間神社は存在するが、甲斐国にはこの時点で存在していない」ということは明白である。この事実は非常に大きく、浅間神社の由来を駿河国に限定することができる。またこの「浅間明神」については、富士山本宮浅間大社を指すとされている。文中にある「浅間名神祢宜祝等」とは現在の富士山本宮浅間大社の神職を指すのである。

『日本三代実録』貞観7年12月9日の記録に

勅。甲斐国八代郡立浅間明神祠。列於官社。即置祝祢宜。随時致祭。先是。彼国司言。往年八代郡暴風大雨。雷電地震。雲霧杳冥。難弁山野。駿河国富士大山西峯。急有熾火。焼砕巌谷。今年八代郡擬大領無位伴直真貞託宣云。我浅間明神。欲得此国斎祭。頃年為国吏成凶咎。為百姓病死。然未曽覚悟。仍成此恠。須早定神社。兼任祝祢宜。々潔斎奉祭。真貞之身。或伸可八尺。或屈可二尺。変体長短。吐件等詞。国司求之卜筮。所告同於託宣。於是依明神願。以真貞為祝。同郡人伴秋吉為祢宜。郡家以南作建神宮。且令鎮謝。雖然異火之変。于今未止。遣使者察。埋剗海千許町。仰而見之。正中最頂飾造社宮。垣有四隅。以丹青石立。其四面石高一丈八尺許。広三尺。厚一尺余。立石之門。相去一尺。中有一重高閣。以石構営。彩色美麗。不可勝言。望請。斎祭兼預官社。従之。

とあり、噴火から1年半経過し、甲斐国八代郡に浅間明神祠が建立され官社に列し、祝や祢宜がおかれ祭が行われることとなったと記している。

『日本三代実録』貞観7年12月の記録に

令甲斐国於山梨郡致祭浅間明神。一同八代郡。

とあり、山梨郡にも浅間神社が建立されている。つまり富士山噴火により「八代郡と山梨郡」にそれぞれ浅間神社が建立されているのである。

これら一連の動きについて、「富士山噴火による甲斐国八代郡浅間神社の創建」では以下のように分析している。

当時甲斐国は中国であり、駿河国は上国であった。(中略)この時期に甲斐国は国力を増進させていることがわかる。甲斐国府の移転もそれと関連しているという指摘もある。そこで、甲斐国司や其の配下の郡司らは、富士山噴火のパニックを機に駿河と同じ浅間神を祀る神社を造ること、それも他に類のない壮麗な石造の社にしつらえて、力量を誇示し、この神の加護を得て甲斐の国土の安全をはかること、(中略)駿河国と互角の国になる、という政治的意図もあったであろう。
としている。

  • 八代郡の浅間神社はどの浅間神社を指すのか

甲斐国初の浅間神社は、『日本三代実録』では八代郡に建立されたことを示している。『和名抄』によると、国司が勤務する国府は八代郡であったという。つまり甲斐国の中心は八代郡であったということになる。その八代郡であるが、この時代はある同一の場所でも郡の所属は変移しているという事実がある。そのため、郡の範囲としては計りがたい部分がある。例えば現在の南都留郡の一部も、この時代は八代郡に属していたと考えられている。

また『日本三代実録』貞観7年12月9日条の「郡家以南作建神宮」という記録は注目される。これは「八代郡家の南方」という意味であり、八代郡の中でも南方の位置に建立されたことを示している。そうするといっそ「現在の南都留郡辺り」は無視できない。多くでは、以下の3説が有力視されている。

  • 一宮浅間神社(甲斐国一宮)
  • 市川大門の浅間神社
  • 河口浅間神社

また「埋剗海千許町。仰而見之。正中最頂飾造社宮」という記録も無視できない。「湖を埋めた地点より千町程離れたところにあり、仰ぎみると富士山の山頂を背にして浅間明神祠がある」と言っている。富士山から近いとも遠いともどちらもとれるような印象であるが、仰ぎ見るという表現はあまりに遠い場所というわけでもないと思える。中世以降の言い方であるが、いわゆる「国中」(甲府盆地)辺りでは明らかに富士山は隠れており、「仰ぎみる」という状況にはないと思える。また市川大門も富士山からみて西方向に遠く、仰ぎ見るという状況にはないと思える。そうすると、個人的には「河口浅間神社」が有力に思える。実際最近は「河口浅間神社説」が有力視されてきています。逆に「北口本宮冨士浅間神社」という説はほとんどない。そもそも北口の浅間社が形成されたのは16世紀以降と考えられている。

  • 参考文献
  1. 菅原征子,「富士山噴火による甲斐国八代郡浅間神社の創建」『シャーマニズムとその周辺』,第一書房,2000

竹取物語に見える富士山

『竹取物語』はかぐや姫の物語であるが、作者・成立年共に不明である。史料実証的な取り組みをしても、はっきりしないようである。『竹取物語』の影響は富士山にももたらされており、たとえば「富士山縁起」などにも富士山とかぐや姫を結びつける記述が見られる。しかし富士山とかぐや姫の結びつきから、かぐや姫のモデルを「コノハナノサクヤビメ」に求めることは誤りであるように思える。実際の富士山信仰では、コノハナノサクヤビメが祭神と考えられるようになったのは江戸時代以降であるためである。

『竹取物語』において、富士山に関する記述は最後の「段登天の段」にみられる。


かぐや姫の美しさを聞いた男たちはこれを妻にしようとしたが、かぐや姫の出す難問に答えられず、果たせなかった。帝でさえも果たせず、姫は月に帰っていった。姫は帰るにあたり不死の薬と手紙を帝に贈った。しかし帝は塞ぎこんでしまった。

帝は大臣・上級役人を呼んで「どの山が最も天に近いのか」と聞いた。そこである者が「駿河国にある山が、都からも近く、天に最も近いそうです」と答えた。それを聞き帝は「逢うことも出来ず涙に浮かんでいるような我が身に、死なぬ薬が何の役に立とうものだろうか」と歌に書いた。帝は不死の薬の壺に手紙を添え、使者に託した。帝は使者に「月の岩笠という人を呼んで、駿河の国にある山の頂きに持っていくように」と命じた。そして山頂ににてすべきことをお命じになった。「手紙と不死の薬の壺を並べ、火をつけて燃やすように」という内容であった。その旨を承り、兵を連れ駿河の国の山に登ったので、その山を富士の山と名付けたという。手紙と不死の薬の壺を焼いたその煙は、今も雲の中へ立ち上っていると伝わる。

これは富士山の由来の1つに数えられているが、伝説的な部分として語られる中での話なのであり、史実ではない。ただこのように、当時富士山と女神(かぐや姫)を結びつける考え方があったことは間違いないだろう。

「富士-信仰・文学・絵画」では以下のように説明を加えている。

しかし不死の妙薬をなぜ富士の頂で焼かなければならなかったのであろう。それは富士の頂が天に最も近い場であるからであることは、ここに述べられている。かぐや姫は天にいる。その姫に帝の想いを伝えるには、富士の頂から開かれている通路を通してするほかない。しかもこれは恋い慕う思いである。すでに万葉の時代から恋の想いは富士の煙に託されてきた。その意味でも妙薬は富士の頂きで焼かなければならなかった。また焼かれた妙薬が不死の薬であったことも重要である。後にもふれることになろうが、高山は死と再生の場であると考えられている。そういう場でこそ、不死の薬が焼かれるべきなのである。そして、その焼く行為はいつまでも終わらない。いつまでも煙をたちのぼらせ続けるのである。そこへ立てがあるいは不死を得ることができるかもしれない。不死を得ることができないまでも、新たな生気を得て命を長らえるかもしれない。そんな山岳信仰の不思議を伝えて、『竹取物語』は極めて興味深い。

「富士山と煙」というのは、古来の和歌でもセットとなっていることは多い。

  • 参考文献
  1. 影山純夫,「富士-信仰・文学・絵画」『山口大学教育学部研究論叢第45巻第1部』,1995

2013年5月1日水曜日

富士宮市と無縁・公界・楽

富士宮市というところは、「無縁的」な場所が多く存在していた場所とされる。「無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和」には以下のようにある。

今川氏の分国、駿河・遠江国には、「無縁所」が多い。駿河についてみれば、弘治2年(1556)に今川義元、永禄3年(1560)に氏真の判物を与えられ、諸役等の免除、不入を認められた富士郡の久遠寺、同じく永禄3年、氏真判物で同様の特権を保証された本門寺(北山)、天文3年(1534)の氏輝、天文5年の義元、永禄3年の氏真判物によって「門前之内棟別」等の諸役を免許された大石寺、天正11年(1583)、徳川家康朱印状により「寺内諸役免許」を保証された妙蓮寺等があり…(中略)こうした諸寺は今川氏当主の代々の判物を与えられていること、つまり今川氏との縁によって支えられていたのである

とある。「久遠寺」「本門寺」「大石寺」「妙蓮寺」はすべて富士宮市に在地する寺院である。つまりは言い換えると、「富士宮市は無縁所が多い」と言う事ができる。


これら富士五山とも称される寺院が軒並み「無縁所」とされていたことを考えると、富士宮市を「無縁」という概念で総合的に捉えてもよいはずである。当時富士上方という地域が内外により「無縁所的集約地」と把握されていた可能性もある。


若挟国に万徳寺(旧正昭院)という寺があり、その寺は戦国期に「駆込寺」としての性質を持っていた。当時若挟国は武田氏が守護を務めており、当国に関わる文書を発布していた。その過程で武田元光により発給された文書には、正昭院を「無縁所」であるとした上で武田氏の祈願所と定める旨の内容がみられる。そして子の武田信豊の発給文書には「正昭院を駆込寺の特権をもつ寺」として保証する旨の内容が含まれている。これらの事実を合わせ、「無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和」では以下のように説明している。

注目すべきは、さきの文書で、この寺が「無縁所」であった、といわれている点である。元光はそのことを前提としたうえで、「寺法」を定め、祈願所としているのであり、とすれば、課役免除、徳政免除を含む掟書も、また信豊が公認・保証したさきの駆込寺の規定も、まさしくこの寺が「無縁所」だったことに淵源をもっているとみて、まず、間違いないと思われる。とすれば、縁切りの原理は、戦国時代、「無縁」といわれていたことを、ここに確認することができる

とある。駆込寺といういわば「縁切り」としての性質は、「無縁」という概念があってこそ成り立っているということになる。「無縁」は物でもあてはまるようで、物の場合「無縁的なものとなる」ことで、世俗的な争いが踏み入れないものとなると見なされていたようである。

「「神慮」にみる中世後期の富士浅間信仰」には「仮名目録追加」十四条の「違法な訴訟に対してその取次をした奏者の罰金を浅間社造営費とする」という内容について以下のように説明している。

ここでは浅間社造営費と称して係争地や罰金が処理されることに注目したい。これは単なる浅間社保護政策に留まらずに、係争地や罰金を造営費として寄進することで、対象を「神物」へと変化させる法的な行為で、これにより係争地や罰金が世俗と縁の切れた「無縁」のものになることで、論争の対象から切り離されることを意図したものと解釈できよう。この前提には、「神物」に転化させることによる「無縁」性が当時の人々の共通理解の中で納得される処理の仕方であったこと、その神の意志である富士浅間信仰の影響力を垣間見ることができる

と説明している。ある種「容易に介入できないもの」に変化している点では、同質のものに思える。これは「無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和」で「織田信長の雲興寺に対する禁制」への解釈の部分と共通するものがある(P45-49)。

また「無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和」では以下のような記述がみれれる。私はこれが、まさに大宮と一致するように思えてならない。

もう1つ注目すべき点は、金屋、正昭院の位置する遠敷川がきざんだ谷の入口に、遠敷市といわれた古くからの市場があり、北川の川上の山の1つへだてた谷にある東市場と相対していることである。遠敷市は若挟国二宮、若挟姫神社の門前、国分寺の傍にあり、金屋の谷を遠敷川にそって遡ると、谷の奥近くに一宮若狭彦神社が鎮座しているので、この市場は一・二宮、国分寺の門前の市場とみてよかろう。(中略)遍歴する「芸能」民、市場、寺社の門前、そして一揆。これらはじつはみな、「無縁」の原理と深い関係をもっているのであるが(P40)…

ここから浅間神社の門前、そしてその門前にて施行された楽市令につなげていきたいと思う。有名な「織田信長制札」について網野氏は以下のように説明している。


いわばこの第1条は「無縁」「公界」の原理を、集約的に規定したものであり、「楽」の原理もまたまさしくここにあるといわなくてはならない。前掲の多くの例と同じく、この市場も「無縁」の場であった。そしてこう考えてくれば「無縁」「公界」「楽」が全く同一の原理を表す一連の言葉であることを疑う余地は全くあるまい。(P108)


そして「富士大宮楽市令」で安野氏は「無縁の原理」について触れている。

「楽」とは「娑婆」の世界と対比される「極楽」の意味だと云われている。先に反転する世界としての「市場」を,ⅰ~ⅸの9つの特徴を持つものとして説明したが、今川領のように、小領主たちが「政所」等々の施設を通じて市場に介入することは、市場を「神仏事興行」から遠ざけ、限りなく「娑婆」の世界に近づけるものであった。それ故市場本来の在り方を求める人々からすれば、権力介入の排除は当然で、その「楽市令」は網野氏の云う「無縁論」の展開として位置づけられよう。(中略)このような中での「楽市」とは何かを云えば、外来商人達を定住商人達である市場住人の「法の保護下」に置くこと、定住商人達と外来商人達が1つの共同の法の下にあることを作り出すことであった

だとすれば、この富士大宮楽市令によりアジール的性質をもつ場所が大宮に形成されたととっても良いと思うのである。そしてそれは、駿州往還を行き来する者、道者などにとっても大きく影響を与えたものだと思う。

「1つの共同の法の下にある」といういわば守られた空間であり、一方「法を破ると然るべき処罰を受ける」という空間だと思うのである。

そしてそのアジール性は、富士信仰のもう1つの拠点である村山も同様に思える。「戦国期における村山修験」はそれを指摘している。以下は天文22年5月の今川氏による掟判物である。


この判物について以下のように説明している。

こうした禁止令が出されている以上、その裏側の事実は、現実にあったことであると見なければならない、。「汚穢不浄者」が、あるいは物乞、乞食等の所謂「無主・無縁」の人々をさすのなら、それは後に触れる村山の持つアジール的性格によるものとも考えられる。

ほとんどの条において、この空間内における保証や平等性を示しており、この判物は村山のアジール性を強く示している。

また以下のようにも記している。

こうした村山のアジール的性格が何時の時代から発生し、発展してきたかは不明であるが、その解決の糸口として、村山の「山」としての性格を考えたい。網野善彦氏は、その著『無縁・公界・楽』の中で、中世前期には、山林そのものが-もとよりそのすべてというわけではないが、-アジールであり、寺院が駆込寺としての機能を持っているのも、もともとの根源は、山林のアジール性、聖地性に求められる。と述べられているが、この掟判物にみられる村山のアジール的性格も、その根源的基盤は富士山が太古から持っていた、山としての神秘性、聖地性にあるのではなかろうか

一条目の「村山室中」という特殊な表現は、はやり空間としての特殊性を示しているとみて良いと思う。そして他の条もそれにかかるものだと思う。

「無縁」的なものが「信仰的空間・モノ」を媒介としやすいことは間違いないと言える。そして無縁所が多いという事実は、富士上方が信仰上有意義な場所であったからである、と思うのである。そしてそれは「富士山」という存在があって成立していたのだと思う。富士上方という場所が、「富士山を背景とする総合的無縁所」と言える状況にあったのだと考えている。

  • 参考文献
  1. 網野善彦,『無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和』(増補版),平凡社, 1996
  2. 安野眞幸,『富士大宮楽市令』弘前大学教育学部紀要,2002
  3. 近藤幸男,「戦国期における村山修験」『地方史静岡第13号』,静岡県立中央図書館,1960
  4. 大高康正,「神慮」にみる中世後期の富士浅間信仰,帝塚山大学大学院人文科学研究科紀要8,  2006

紙本彩色富士曼荼羅図を考える

以下「紙本彩色富士曼荼羅図」(静岡県立美術館蔵)である。


江戸時代初期(17世紀始め)辺りの作例とされており、富士山本宮浅間大社を大きく描いている。この富士曼荼羅図で特筆すべきは、中央に描かれる浅間大社のその建築であろう。浅間大社が現在のような「浅間造」となったのは、江戸時代以降とされている。そして、当曼荼羅図の社殿も「浅間造」でありため、「江戸時代以降の作例だろう」と解釈できるわけである。

またこの「浅間造」は、徳川家康が造営したものと云われている。それは以下の文言が該当するであろう。「幕府裁許状」(1779年)というものがあり、ここには大宮と須走の論争に関する経緯とその裁許(結果)が記されている。そこに以下のようにある。

慶長5年関ヶ原御合戦の節、御願望御成就本社末社不残御再建被為成、其後散銭等は修理に可致旨、…

つまり慶長5年の関ヶ原の戦いでの勝利が成就したことから、家康は浅間大社の本社末社残らず再建して、それだけでなく富士山の散銭までも寄進したのである。その記録が「幕府裁許状」という正式な文書で盛り込まれていることから、信ぴょう性はかなり高い(これ以外にも記録はあったかもしれません)。多くで、その際「浅間造」となったと考えられている。


  • 湧玉池


湧玉池と水屋神社が描かれている。道者の姿もみられるが、池内には見られない。


  • 社殿


二重楼であり、いわゆる浅間造である。現在の富士山本宮浅間大社に近い形態である。境内に女性の姿も見られる。

境内周辺の馬に乗る者たち
服装からは社人というより、在地の一般民衆のように捉えられる。


川に跨るようにして位置する建造物である。社頭絵図の写(下部に掲載)にも同様の部分に建造物がみられる。

三重の塔
神仏習合を象徴するかのように存在する「三重の塔」である。浅間大社の境内に古来は三重の塔が存在したことは明白で、寛文10年(1670)の社頭絵図にも「三重の塔」がみられる。


護摩堂などもみられるが、例えば1560年の「今川氏真判物」には以下のようにある。

富士大宮司別当領之事(中略)然者社中護摩堂年来断絶之上、…

また位置もほとんど同様であることを考えると、当図を参考にして描いた可能性もある。他、各建造物も比較できるものと思える。

  • 村山周辺



村山周辺はほとんど詳細な描かれ方はされていない。


ここには白衣を纏った道者が数人見て取れる。また緑色?に着色されたような箇所があり、これは水場であろうか。ただこれは大日堂(上の建造物)と捉えるのがすんなり理解がいくように思える。


  • 山頂



阿弥陀三尊である。


全体的には明らかに本宮を主体とした富士曼荼羅図である。また浅間大社の神仏習合を裏付ける史料として、また当時の建築を考える上でも参考となる富士曼荼羅図であると思う。
  • 参考文献
  1. 富士山世界文化遺産登録推進静岡・山梨両県合同会議編 ,『富士山 信仰と芸術の源』,小学館,2009年
  2. 富士市立博物館編,『富士山信仰と富士塚』,2000

2013年4月30日火曜日

富士市岩本に出された制札と富士山登拝

富士山南麓の登山口としては「大宮口」「村山口」を構え、双方が富士山信仰の拠点であった。それ故に大宮と村山には浅間神社が位置し、それぞれ禊の場が設けられていた。

この双方の位置関係としては、大宮が駿河湾側にあり、村山はより富士山体側に位置するため「大宮・村山口登山道」と一括りにされている。確かに古来より「大宮-村山」ルートは基本的な道者の辿るルートであったが、江戸時代はそれに反発する動きが明確にみられたのも事実である。そしてその部分は道者の登拝の風俗という意味で大変興味深く、また双方の勢力の動向という意味でも大変興味深い。ここではその部分について探ってみようと思います。

「富士山南口案内絵図―村山修験者と南麓富士登山―」(富士市立博物館学芸員 荻野裕子)には以下のようにあります(富士市立博物館HP)。

(富士山絵図などを吟味した上で…)しかし富士川を渡ったあと、すぐに北上させるのではなく吉原宿の手前まで道者を誘致するようになったことは何を意味するのか。寛文2年(1662)、大宮代官・井出籐右衛門と加島代官・古郡孫太夫は、かねてからの制札として、富士参詣の道者は凡夫川(潤井川)をすぐに渡らずに大宮を通るべきという制札を岩本に出し、また宿坊への道者の争奪は禁止する制札を大宮に出している

それら岩本(現在の富士市岩本)に出された制札は以下のようなものであり、この制札は重要な事実を示している。

慶長年中の制札

「大宮を通行しなければならない」と書かれているのだから、当時「大宮を通過しない登拝も蔓延っていた」ということを明確に示していることになる。そしてその背景に「村山」がいるのである。また以下のように続いている。

寛政10年(1798)には富士本宮浅間社の公文・富士長門が、近年富士参詣道者が古来からの決めを破って大宮を通らず、直ぐに岩本村から村山に行くため本宮浅間の坊が大変迷惑している、このため先年の通り大宮・岩本に制札を出して欲しいと韮山代官・江川太郎左衛門に願い出ている。これを受けた江川は、翌年に井出と古郡が寛文2年に出した制札の通りにせよと、新しい制札を出しているのである。

つまり次のようになる。村山の修験者からすれば「富士川-岩本(富士市)-村山(富士宮市)」と直接村山に来てもらったほうが都合が良いのであるが、しかし大宮の社人からすれば道者が大宮に訪れなくなり、直接的な不利を被ることになるわけである。

それに対し公文富士氏が代官に願い出て、それ(大宮を通過させること)を実現させているのである。つまり村山からすれば、大きくマイナスとなる。そして以下のように続きます。

村山は自らの坊への直接の道者誘致を禁止されたことになる。大宮を経由することは、少なくとも道者の何割かは大宮の宿坊を利用することになり、村山への収入は減少することになる。また登山税である山役銭も、大宮を経ればそこで徴収され、大宮を経なければ村山で徴収できることになっていた。村山の道者誘致ポイントは富士川東岸の岩本であり、そこに制札が出されたからには村山修験者は岩本から村山へ直接至る道(無題の南口絵図の行程がこれにあたる)を示すのは、難しくなろう。

これらのやり取りの事実から、当時大宮と村山は決して良好な関係ではなかったであろう。ある意味、熾烈な道者の奪い合いである。しかし古来より大宮と村山が不仲な関係であったわけではない。そればかりか、信仰面から連携する面すら見られるのである。例えば文明10年(1478)の大日堂如来像は、大宮の富士氏と村山修験が協力して作ったものである。

このように江戸期に村山が積極的な動きに出るようになった背景として、おそらく村山の著しい衰退が理由としてあるのだろう。大宮と村山の関係性がどのようにして変移していったかについては、大変興味深い。

また以下のように続きます。

こうした状況のなかで、「駿河国富士山絵図」が製作されたのではないだろうか。もし吉原宿手前から道者が北上するならば、”富士参詣の道者は凡夫川(潤井川)をすぐに渡るべきではない”、という制札の部分には少なくとも触れずにすむ。東海道を通って潤井川を渡ることになれば、止められるはずもない天下の公道である。この図と非常によく似た内容を盛り込んだ、文政10年(1827)個人開板の「駿州吉原宿絵図」では、富士山へと至る道は岩本から北上し大宮を経由して村山に至る道と、吉原宿から大宮へと至る道を示し、必ず大宮が経由されている。この状態ならば寛政11年の制札に抵触することなく、制札内容に乗っ取った正しい絵図ということができる。 元市場での富士山図頒布は文化8年の記録であり、寛政11年の制札以降のことである。柚木よりさらに東の元市場で頒布されたこの絵図は、「駿河国富士山絵図」や「駿州吉原宿絵図」のような道筋を示したものではないだろうか。 

この考察は強く傾聴すべきだと思える。つまり登拝ルートは多くとも2パターンであり、「①大宮経由」「②吉原宿からすぐ北上し村山へ」の2つである。②は紀行文などから多く見いだせるパターンである。これ以外のルートはほとんど見いだせない。あるとしたら江戸の最末期-明治時代の地図くらいで、恒常的とは言い難い例外のパターンであったと言える。

  • 参考文献
  1. 荻野裕子,「富士登拝案内絵図-富士村山修験者たちの画策-」『人はなぜ富士山頂を目指すのか』,静岡県文化財団,2011年

2013年4月28日日曜日

紙本着色富士曼荼羅図を考える

以下は、奈良市矢田原組合所蔵の富士曼荼羅図である(奈良市指定文化財)。


江戸時代中期に作成されたものとされ、表口を描いている。「絹本着色富士曼荼羅図」の作成時期などと比較すれば時代はやや下るが、個人的にはそれでも比較的早い例に思える。例えば多く残る富士山関連の絵図(曼荼羅図など信仰関連)は富士講関連のものが多く、富士講は江戸時代中期以降に成立したものなので、作例として時代は大きく下っていることが多い。しかし当曼荼羅図はそれに該当しない。またそれら曼荼羅図が大和国に伝わっているという事実は大変興味深い。それは当地に表口関連の信仰があったことを示すためである。全体としては、位置関係が大きくデフォルメされている印象がある。

  • 富士山本宮浅間大社
下に描かれる海は駿河湾であるが、具体的にどこを指すかは推定し難い。ただその上の円上の水場は湧玉池であると思われる。従って、その上の社は富士山本宮浅間大社に比定できる。

富士山本宮浅間大社

  • 村山
位置関係としてやや不自然にあるのが以下の社である。ただ竜頭滝を示すと思われる水場があるため、これは富士山興法寺に比定できる。

富士山興法寺

上の場所が富士山興法寺だとすると、以下の場所が何を指すのかはいっそ不明となる。村山であると思えるが、「すやり霞」により大きく逸脱した場所を指していることも考えられる。


この社より上は、すべての道者が杖をもち登山を行なっている。中宮八幡堂などの建造物を示したのだろうか。


この社より上の道者は松明に火を灯している。このことから、上の図の場所との時間的差異や距離感を演出しているように思われる。また「絹本着色富士曼荼羅図」では大日堂と推定される建造物より上の道者が同じく松明に火を灯し登拝を行なっている。このことから、以下の社は大日堂を思わせる。



山頂である。阿弥陀三尊が描かれており、山頂の神聖さを示している。また、登拝路の頂上に鳥居を描いているのは特徴的に思える。「登拝路の終着点に神社が位置する」という概念を明確に示している。

山頂の阿弥陀三尊

当時はまだ「浅間神社奥宮」ではなく「富士山興法寺の大日堂」として存在していたはずである。その当時に描かれた曼荼羅図で鳥居が描かれているという事実は大きい。と同時に、詳細な作成時期の分析も必要と思える。

全体としては位置関係などにデフォルメされた印象を強く感じ、当地に知見のない人物が描いたように思える。ただ全体的には村山に重きが置かれているように感じるため、村山修験と関わりのある人たちが背景にあると思われる。


  • 参考文献

  1. 富山県「立山博物館」編,『立山・富士山・白山みつの山めぐり : 霊山巡礼の旅「三禅定」 : 富山県「立山博物館」平成二十二年度特別企画展』,2010年

2013年4月23日火曜日

県指定富士浅間曼荼羅図を考える

富士曼荼羅図は複数が現存しているが、その中でも「絹本著色富士曼荼羅図」(重要文化財指定)は著明である。しかしその次を上げるとすれば、やはり以下の富士参詣曼荼羅図であろう。

富士参詣曼荼羅図

この県指定富士参詣曼荼羅図は「絹本著色富士曼荼羅図」(重要文化財指定)と同様室町時代作と考えられており、また同じく絹本着色である。以下、この県指定富士参詣曼荼羅図について取り上げたい。また当曼荼羅図について詳細に検討している文献に「富士参詣曼荼羅再考-富士山本宮浅間大社所蔵・静岡県指定本を対象に-」(大高康正)がありますので、そちらをベースに書いていきたいと思います。

この富士曼荼羅図は駿河国の現在の富士山本宮浅間大社を中心として描かれたものであり、それは湧玉池が大きく描かれていることからも明確である。他「清見寺」(+関所)「富士川」「駿河湾」「三保松原」などが描かれており、この点で言えば重要文化財指定富士曼荼羅図と広い意味での構成は同様である。しかしこの曼荼羅図において特筆すべきは、本宮を主体とし、また本宮と関わりがあると考えられる要素が広く散りばめられていることである。また本宮をスケールアップしつつも、遠くに位置するはずの「清見寺」などが遮るものなく下部に位置し、富士川が真ん中を横断する構造は絹本著色富士曼荼羅図よりデフォルメされている印象は非常に強い。

大高氏は本宮の社殿左右にある「棕櫚の木」に着目している。

浅間大社と棕櫚の木と神官
棕櫚は富士氏の家紋であり、この関係は注目である。棕櫚は「神霊の宿る葉として昔から尊ばれた」(『姓氏・地名・家紋総合事典』)と言われていることから、強いメッセージ性を感じるものである。

また同稿では「境内には道者と烏帽子を被る神官と思しき人物の二種しか描かれていない」とある。そして「本宮の聖域性が強調されている」としている。

富士山本宮浅間大社の神官
元画像が悪く見えにくいが、これが「烏帽子を被る神官と思しき人物」である。本宮の神官(のうち上級社人)を絵で記したものは他に無いように思える。個人的には神官が3人という点が気にかかり、大宮司・公文・案主(つまり富士氏)を指す可能性も考えたい。

また神官から上の部分をみると巫女が描かれており、これを「国指定本の富士山興法寺にみられたものと同様で、ここが村山であることを示していよう」としている。国指定本とは、重要文化財指定の曼荼羅図を指している。また「滝と橋」の図も興味深い。

竜頭池から流れい出る水
これは「竜頭の池」から流れでたものとしている。また左方向には「道者が弓矢を射る様子」があり、以下のように説明している。

本宮近辺の大字阿幸地にも「矢立」という小字が残っており、吉凶を占うということが目的の矢立の習俗は、各所で頻繁にみられたのであろう。

阿幸地は「悪王子」から来ている。「浅間大菩薩縁起」(滝本往生寺所伝)などの富士山縁起には、山頂の水精ケ岳に悪王子が祭られて「悪王子ケ岳」とも呼ばれ、末代ゆかりの霊地とされていたようである(「中世の富士山-「富士縁起」の古層をさぐる-」『日本中世史の再発見』P123)。

  • 背景
大高氏は作成主体は浅間大社の社人衆にあったとし、特に勧進活動に関係する宮崎氏などではないかと想定している(宮崎氏については「社家町としての駿河大宮」を参照)。そして作成時期については十六世紀後半を想定しているという。当時の本宮の情勢などを大きく加味しているようだ。

  • 参考文献
  1. 大高康正,「富士参詣曼荼羅再考-富士山本宮浅間大社所蔵・静岡県指定本を対象に-」,『絵解き研究 18』, 2004年
  2. 丹羽基二,『姓氏・地名・家紋総合事典』,新人物往来社,1988年

2013年4月6日土曜日

源頼朝の富士の巻狩

「富士の巻狩」は、源頼朝により建久4年(1193)5月8日から6月7日の1ヶ月にわたり行われた行事である。この「富士の巻狩」は、政治的背景からも重要な位置づけにあったことが分かっている。単なる行事としての巻狩ではないのである。

「月次風俗図屏風」(16世紀とされる)
「富士の巻狩」については『吾妻鏡』に詳しい。世に出ている「富士の巻狩」についての解説は、普通『吾妻鏡』に拠るところである(『吾妻鏡では「富士の巻狩」とは言っていない』)。

  • 富士の巻狩の経過

建久4年(1193)5月8日、頼朝は多くの武将を率いて藍沢(現在の裾野市・御殿場辺りとされる)へと出発した。同15日には藍沢での狩を終え、富士野の御旅館(富士宮市付近)へと移動した。鎌倉は東に位置するために「裾野・御殿場-富士宮市」と移動していたのである。15日は六斎日(殺生を忌む日)であったため、狩りを行わなかった。頼朝一行はご旅館で体を休めた。

翌16日には巻狩に興じた。このとき頼朝の嫡子「源頼家」が鹿を射止め、頼朝は大いに喜んだ。そしてその場にいて事をうまく運んだ「愛甲季隆」を賞賛した。夜には頼家の獲物に対して山の神に感謝する「矢口祭」が行われた。このとき千葉常胤・北条泰時・三浦義澄らが同席した。

曽我物語 富士巻狩・仇討図屏風



また巻狩の際に功労があった者として工藤景光・愛甲季隆・曽我祐信が呼び出された。矢口祭の形態としては、「黒・赤・白」と三色の矢口餅を神に捧げて三口餅を食べ、矢たけびの声をあげるといったものであったという。頼朝はこの三人に賞として馬・鞍・直垂などを与えた。また頼朝は梶原景高に命じ、頼家が獲物を見事射止めたことを妻の北条政子に報告するよう命じた。しかしその知らせを受けた北条政子は「武将の嫡子が鹿や鳥を仕留めることなど当たり前のことです。そんなことで急使をよこす必要性などない」と、冷淡な反応を示している。

5月27日には終日狩を行った。そこで工藤景光が「この鹿は自分に射させてほしい」と願い出て、鹿を射ようとした。しかしあたらず、その後もあたることはなかった。景光は頼朝に手をついて謝り、「私はこれまで獲物を逃すようなことはありませんでした。この鹿は山の神の化身に違いありません」と述べ、その後発病してしまったという。工藤景光は自らが射ようとしていた鹿が「山の神」だと悟り、罰当たりな事をしてしまったと悔いていたのである。有名な「曽我兄弟の仇討ち」については、この後からでてくることとなる。

  • 富士の巻狩の意味

「富士の巻狩」の意味として、多くで「権威の誇示」といった部分が挙げられている。では何故この時期にこのような大規模な催事を行う必要性があったのだろうか。その理由として、頼朝が征夷大将軍となりこれから本格的な統治を行うという段階であったためである。またこの巻狩の目的として「頼家の後継者としての確立」が挙げられている。そのために、多くの有力武将の前で武勇的な側面を象徴させる必要があったという指摘もある。

同じく後継者としての可能性を持ち合わせていた源範頼(頼朝の弟)がまさにこの後に殺されていることから、頼家の後継者としての位置づけをはっきりとさせる意図があったと思われる。つまりこの巻狩は、今後の幕府運営の上で重要な転機となったといえるのである。この象徴的行事の中で、粛正に対する意識が強まったと考えてもおかしくはない。また源範頼のような凋落の運命を辿った武将は他にも存在している。今後の幕府運営のためか粛正が行われており、安田義定などがそれである。

また巻狩自体が周到に準備されていたことも指摘されている。実は富士の巻狩以前に「三原野」と「那須野」で同じく巻狩が行われているのである。つまり「巻狩」という意味では、特に目新しいものではない(規模的にはかなり差がある)。しかしながらこの直前の巻狩と富士の巻狩は、性質的に異なる意味をもつ。それは富士の巻狩でより政治的に直結するような動きがみられることである。それが上の粛正につながっている。

  • 富士の巻狩の人物

那須野の巻狩の後、頼朝は北条時政を富士の巻狩の準備のために駿河国へ赴かせている。この巻狩は駿河国で行われたため、伊豆・駿河の御家人が多く参加していることも特徴である。また他に「甲斐源氏」なども多く参加している。

規模は相当のもので、『吾妻鏡』でも名だたる武将を羅列した後「そのほか射手たる輩の群参、あげて計ふべからずと云々」とある。数えられない程の群集であったようである。また西洋人の記録としてジョアン・ロドリゲスの『日本教会史』があるが、そこでは「昔、将軍の頼朝が、ここでかの有名な野獣狩を、三万人の狩人をもって行った」とある。三万人という数字がどこから出たのかは不明であるが、そのように表記するだけの規模はあったと言える。

  • 参考文献
  1. 石井進,『日本の歴史 12 中世武士団』P60-70,小学館,1974年
  2. 木村茂光,『初期鎌倉政権の政治史』P133-164,同成社,2011年
  3. 小和田哲男,『日本を変えたしずおかの合戦~駿河・遠江・伊豆~』,静岡県文化財団,2011年
  4. ジョアン・ロドリーゲス,『日本教会史 上』(大航海時代叢書第I期),1967年

2013年3月25日月曜日

戦国期葛山氏の富士山関連の政策

戦国時代における葛山氏は「葛山氏堯-氏広-氏元」と続き、今川氏の家臣であったとされる。富士山東南の御厨地方周辺は、この葛山氏が支配するところであった。このことから、葛山氏における富士山関連の政策は注目されるところである。

  • 葛山氏尭の政策
葛山氏尭は15世紀から16世紀初頭にて活躍した人物である。氏尭は二岡神社保護の政策を行なっている。その保護の方法として、道者関などを活用する手法が確認できる。大永五年(1525)4月に御厨を通る道者が二岡神社を通るように命じている。これは道者が神社に立ち寄ることを促すことで、散銭などの資金的側面での補助と考えられる。治める上での1つの政策と考えられる。また大永7年(1527)7月には二岡神社に道者関を寄進している。これは、道者関での諸役分などを前面的に安堵するということでもあり、明確な神社保護の政策である。氏堯は北麓の小山田氏などと同様、道者関を活用する政策を打ち出していたのである。

ちなみに二岡浅間(と思われる、要確認)に繰り返し土地を寄進した氏族として大森氏がおり、応永21年(1421年)には大森憲頼が御殿場の二岡権現と小山町の二岡神社に土地を寄進しているという。15世紀中盤は、この土地は大森氏が支配していたと考えられている。また後述の「佐野郷」も大森氏が支配に関与していた(池上裕子,「公演 今川・武田・北条氏と駿東」『小山町の歴史 第8号』,1994)。大森氏がいつまで影響力を保持していたかは不明であるが、時代が下る例では『小田原衆所領役帳』にもみられる(「小田原衆所領役帳に見える富士を考える」)。

  • 葛山氏元の政策
氏元は元は今川氏家臣であったが、今川氏衰退に伴い武田氏に帰属している。それは武田氏の駿河侵攻の際、大宮城(富士郡大宮)を穴山信君(武田氏家臣)と共に攻めていることで明確である(永禄12年2月)。その攻撃を富士信忠(大宮城城主、富士氏当主)は退いている。この事実から、葛山氏独自の政策がみられるのは駿河侵攻以前が主であるので、その時期の政策例を挙げたい。また氏元の代で葛山氏は滅亡していると伝わる。

またこの大宮城が位置する大宮で1つ確認しなければならないことがあり、以下の「今川氏真判物」により葛山一族の「葛山頼秀」が富士大宮司領の代官職を改易させられている事実がある(画像1)。改易されてはいるが、それまで代官職を受け持っていたという裏付けでもある。葛山氏はそれ以前にも、富士上方の 「山本 ・久日 ・小泉」を吉野氏に安堵するなどしている。つまり葛山氏の手は富士郡まで伸びていたということになる。



画像1

この改易の事実は、武田氏への帰属と関係していると考えるべきであろう。

文書1

葛山氏元は天文20年(1551)12月に、浅間神社(須山浅間神社か)の神主に禰宜分の懸銭を安堵する判物を出している。また天文21年(1552)正月に佐野郷(現・裾野市)の浅間神社修繕を目的とする勧進の許可を出している。

この「佐野郷の浅間社」についてであるが、『裾野市史第8巻通史編1』では裾野市域に2例の浅間社があったとし、その一方であるとしている。


所在地神社名初見典拠・参考事項、()の数字は『市史』の資料番号
大畑「あしたかの御まつり」社あるいはその前身か
茶畑か佐野郷浅間社(506)(551)神主柏宮内丞、禰宜助三郎
須山浅間社(411)
『裾野市史第8巻通史編1』P289より引用

文書2、後半掲載せず

天文21年12月には佐野郷の浅間神社の神領を安堵している。弘治3年(1557)8月には岡宮浅間神社の法度を定める判物を出している(同旨の判物が永禄4年にもあり)。永禄元年(1558)8月には佐野郷の浅間神社に修造のための勧進の許可を与えている。

文書3

永禄6年(1563)3月には須走口の過所に関する朱印状を出し(文書1)、永禄7年(1564)5月には須走の道者関にて毎度のように滞りなく処理するよう命じている(文書2)。永禄8年(1565)4月にも須走の道者関にて納めさせるよう命じている(文書3)。同年5月には、富士山を警固するために遣わした者の兵糧について命じている(文書4)。

文書4

須走口を多角的に管理している点で、特筆すべき動向であろう。

  • まとめ

これら判物などをみていくと、葛山氏が浅間神社を厚く保護していたことに間違いはない。特に須走口・道者関関連の施策の部分には注目である。葛山氏は道者関を管理し、道者の取締りを行い、須走口の管理を行なっていた。これは富士山麓の須走口の登拝関連のほとんどを全体として取り締まっていたと考えて良い。ここに葛山氏の統治性を感じ取ることができる。村山口は単独の氏族なりが取り仕切る形態はなかったため今川氏管理の下であったと考えられるが、須走口は葛山氏管理の下で継続されてきたと言える。後に武田氏により須走浅間神社に内院散銭の寄進が行われたのは(1577年)、ここが葛山氏管理の地であったために、葛山氏帰属後速やかに保護的政策が施すことができたためでであろう。

  • 参考文献
  1. 笹本正治,「武田信玄と富士信仰」『戦国大名武田氏』,名著出版,1991年
  2. 『裾野市史第8巻通史編1』P289-290