※正史で確認できる富士山噴火の最初の記録は天応元年(781)である。
- 浅間神社建立までの背景
『日本三代実録』の貞観6年5月5日の記録に
駿河国言。富士郡正三位浅間大神大山火。其勢甚熾。焼山方一二許里。光炎高廿許丈。大有声如雷。地震三度。歴十余日。火猶不滅。焦岩崩嶺。沙石如雨。煙雲鬱蒸。人不得近。大山西北。有本栖水海。所焼岩石。流埋海中。遠卅許里。広三四許里。高二三許丈。火焔遂属甲斐国堺。
とあり、駿河国側が富士山の噴火を報告している。
『日本三代実録』貞観6年7月17日の記録に
『日本三代実録』貞観6年7月17日の記録に
甲斐国言。駿河国富士大山。忽有暴火。焼砕崗巒。草木焦殺。土鑠石流。埋八代郡本栖并剗両水海。水熱如湯。魚鼈皆死。百姓居宅。与海共埋。或有宅無人。其数難記。両海以東。亦有水海。名曰河口海。火焔赴向河口海。本栖剗等海。未焼埋之前。地大震動。雷電暴雨。雲霧晦冥。山野難弁。然後有此災異焉。
このとき「セの海」が分断され、現在の「精進湖」と「西湖」が形成されている。つまり元はくっついていたわけであり、甲斐国の地理を一変させるほどの噴火であった。
『日本三代実録』貞観6年8月5日の記録に
下知甲斐国司云。駿河国富士山火。彼国言上。決之蓍亀云。浅間名神祢宜祝等不勤斎敬之所致也。仍応鎮謝之状告知国訖。宜亦奉幣解謝焉。
とあり、中央側から甲斐国に「駿河国が亀ト(きぼく)を行い富士山の噴火の原因をつきとめたところ、浅間明神の禰宜・祝らが斎敬を怠ったためであったと言上してきたので、駿河国司に浅間明神に鎮謝するよう告知した。したがって甲斐国も駿河国の浅間明神に解謝せよ」と言った。
この記述から「駿河国に浅間神社は存在するが、甲斐国にはこの時点で存在していない」ということは明白である。この事実は非常に大きく、浅間神社の由来を駿河国に限定することができる。またこの「浅間明神」については、富士山本宮浅間大社を指すとされている。文中にある「浅間名神祢宜祝等」とは現在の富士山本宮浅間大社の神職を指すのである。
『日本三代実録』貞観7年12月9日の記録に
勅。甲斐国八代郡立浅間明神祠。列於官社。即置祝祢宜。随時致祭。先是。彼国司言。往年八代郡暴風大雨。雷電地震。雲霧杳冥。難弁山野。駿河国富士大山西峯。急有熾火。焼砕巌谷。今年八代郡擬大領無位伴直真貞託宣云。我浅間明神。欲得此国斎祭。頃年為国吏成凶咎。為百姓病死。然未曽覚悟。仍成此恠。須早定神社。兼任祝祢宜。々潔斎奉祭。真貞之身。或伸可八尺。或屈可二尺。変体長短。吐件等詞。国司求之卜筮。所告同於託宣。於是依明神願。以真貞為祝。同郡人伴秋吉為祢宜。郡家以南作建神宮。且令鎮謝。雖然異火之変。于今未止。遣使者察。埋剗海千許町。仰而見之。正中最頂飾造社宮。垣有四隅。以丹青石立。其四面石高一丈八尺許。広三尺。厚一尺余。立石之門。相去一尺。中有一重高閣。以石構営。彩色美麗。不可勝言。望請。斎祭兼預官社。従之。
とあり、噴火から1年半経過し、甲斐国八代郡に浅間明神祠が建立され官社に列し、祝や祢宜がおかれ祭が行われることとなったと記している。
『日本三代実録』貞観7年12月の記録に
『日本三代実録』貞観7年12月の記録に
令甲斐国於山梨郡致祭浅間明神。一同八代郡。
これら一連の動きについて、「富士山噴火による甲斐国八代郡浅間神社の創建」では以下のように分析している。
当時甲斐国は中国であり、駿河国は上国であった。(中略)この時期に甲斐国は国力を増進させていることがわかる。甲斐国府の移転もそれと関連しているという指摘もある。そこで、甲斐国司や其の配下の郡司らは、富士山噴火のパニックを機に駿河と同じ浅間神を祀る神社を造ること、それも他に類のない壮麗な石造の社にしつらえて、力量を誇示し、この神の加護を得て甲斐の国土の安全をはかること、(中略)駿河国と互角の国になる、という政治的意図もあったであろう。
としている。
- 八代郡の浅間神社はどの浅間神社を指すのか
甲斐国初の浅間神社は、『日本三代実録』では八代郡に建立されたことを示している。『和名抄』によると、国司が勤務する国府は八代郡であったという。つまり甲斐国の中心は八代郡であったということになる。その八代郡であるが、この時代はある同一の場所でも郡の所属は変移しているという事実がある。そのため、郡の範囲としては計りがたい部分がある。例えば現在の南都留郡の一部も、この時代は八代郡に属していたと考えられている。
また『日本三代実録』貞観7年12月9日条の「郡家以南作建神宮」という記録は注目される。これは「八代郡家の南方」という意味であり、八代郡の中でも南方の位置に建立されたことを示している。そうするといっそ「現在の南都留郡辺り」は無視できない。多くでは、以下の3説が有力視されている。
- 一宮浅間神社(甲斐国一宮)
- 市川大門の浅間神社
- 河口浅間神社
また「埋剗海千許町。仰而見之。正中最頂飾造社宮」という記録も無視できない。「湖を埋めた地点より千町程離れたところにあり、仰ぎみると富士山の山頂を背にして浅間明神祠がある」と言っている。富士山から近いとも遠いともどちらもとれるような印象であるが、仰ぎ見るという表現はあまりに遠い場所というわけでもないと思える。中世以降の言い方であるが、いわゆる「国中」(甲府盆地)辺りでは明らかに富士山は隠れており、「仰ぎみる」という状況にはないと思える。また市川大門も富士山からみて西方向に遠く、仰ぎ見るという状況にはないと思える。そうすると、個人的には「河口浅間神社」が有力に思える。実際最近は「河口浅間神社説」が有力視されてきています。逆に「北口本宮冨士浅間神社」という説はほとんどない。そもそも北口の浅間社が形成されたのは16世紀以降と考えられている。
- 参考文献
- 菅原征子,「富士山噴火による甲斐国八代郡浅間神社の創建」『シャーマニズムとその周辺』,第一書房,2000
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