2011年2月13日日曜日

表富士と裏富士、表口と裏口

富士山というのは「富士」、「冨士」、「不二」など様々な表記のされ方をされています。このシンボルとして考えられてきた富士山は、地理的な経緯・歴史的経緯などが複雑に関わりさらに表現として細分化され、「表富士・裏富士」、「表口・裏口」などと言った歴史用語が存在しています。今回はそこの部分に迫っていきたいと思います。

『甲州道中図屏風 左隻』に見える「裏富士」の表記、下部の文字は「甲府」

世間一般では表富士は静岡県側を、裏富士は山梨県側を指しますが、歴史的に見てもそうでした。今回はなぜそのように区別されるようになったのか、歴史的史料にて探っていこうと思います。

  • 昔からあった「表口」「裏口」の意識
いつからこのように言われるようになったのかはよく分かっていません。例として延宝8年(1680)の『八葉九尊図』には駿河側の登山道を指して「するが口表」という言葉が表記されています

八葉九尊図
緑の部分に「するが口表」とある

参考:富士山の表と裏(富士吉田市歴史民俗博物館資料)
これは実際図をみれば分かるように北口(山梨県側)中心の図であり甲斐側によって作成されたものでありますが、この中で北口に対して南口(静岡県側)を「するが口表」と言っている構成です。つまり「表口」という呼称を否定するようになったのは、現代になって見られるようになった特殊現象と言えるでしょう

また『富士の道の記』(天保9年と推定)には

此町(注:大宮町、現在の富士宮市)は近辺の都会にて、常に往返絶間なし。(中略)扨また此所より東の方、富士山南表山の方に寄りて、世にあまねく聞へしふじの鶴芝といふあり。

とあり、当時の旅人も駿河側を表と考えていたようである。富士吉田市歴史民俗博物館(山梨県富士吉田市)の資料によると

駿東郡方面からの「浅間駒嶽」(須山口・ 御殿場口頂上)、北・東口頂上の「薬師嶽」(久須志ヶ岳)は「裏口」と記述されます(『浅間文書纂』)。駿河で も富士郡からの登拝路のみが「表口」 と意識されていたのであって、実際に幕末期頃までには表口と呼ばれるようになりました。

とあります。しかしこれは誤りで、須山口を「表口」と称する史料は比較的存在しています。


登山口場所呼称
川口口甲斐国都留郡川口村北口・裏口
吉田口甲斐国都留郡上吉田村北口・裏口
須走口駿河国駿東郡須走村東口・表口
須山口駿河国駿東郡須山村南口・表口・東口
村山口駿河国富士郡村山村南口・表口・西口
大宮口駿河国富士郡大宮町南口・表口・西口
※『裾野市史第八巻通史編』P665より引用


この表からも分かるように、単に「駿河国=表、甲斐国=裏」という認識であったと言えます。また甲斐国の代表的地誌である『甲斐国志』などでも普通に「南面が表で北は裏である…」という表現が見られます。甲斐国側の地誌で「裏」としているのですから、甲斐国側が裏と認識されていたということは疑う余地がありません。

清水浜臣『甲斐日記』には以下のようにある。

ここより駿河国駿東郡也(中略)二里あまりくたりて竹下村にいたる(中略)一里はかり行て御殿場といふにやとて…(中略)此あたり山櫻いとおほくさけり、ここは東口なれは花はやし、北口吉田のあたりはいまた咲ましき也と国秀いふ

この「国秀」という人物は清水浜臣に同行していた吉田の刑部国秀のことであり、富士山麓の人間が「東口」や「北口」という呼称を日常的に用いていたことが伺える。ちなみに同紀行には「南口」「東口」「西口」の呼称も登場する。

また『甲斐叢記』にも注目すべき内容がある。田代一葉「都良香「富士山記」について」には以下のようにある。

江戸時代後期の儒者で甲斐国(現在の山梨県)出身の大森快庵(寛政9年<1797>生、嘉永2年<1849>没)が著した『甲斐叢記』(嘉永元年<1848>成立)は、富士山が甲斐・駿河二国にまたがるものであることを解説する冒頭で、「都良香『富士山記』にも、皆駿河国と記せるは、山の表の向きたる方にて言ふなるべし」とし、国史や「富士山記」が富士山の所在地を駿河国とするのは正しくないと主張している。

とある。確かに『富士山記』には「富士山は駿河国に在り」とあり、例えば『日本霊異記』といった古史料にも「駿河富岻嶺」とあるのであって、「富士山=駿河国」と記す史料は多く確認できる。しかし快庵が生きた近世のそれ以前も富士山は地理的に駿河国と甲斐国に跨るわけであり、快庵の主張はもっともである。ただここで注目されるのはその理由を

山の表の向きたる方にて言ふなるべし

と快庵自身が述べていることである。つまり快庵は「富士山が駿河国に在ると記されたのは、駿河国が表側であったためである」としているのである。やはりここでも「駿河国=表」の概念が示されているし、快庵はそれが平安の昔からそうであると言っているのである。

また同時代の紀行文に霞江庵翠風の『甲州道中記』がある。同紀行には以下のようにある。

惣躰甲州は諸国に勝りて高山なり、富士山は表は駿州五分、裏は甲州四分、壹分相州に掛る

同紀行の序文から、安藤助五郎なる人物がひと昔に旅行した際に見聞したものを著した書がベースとなっていることが知られる。ここでは富士山の割合を「駿河国:甲斐国:相模国」で「5:4:1」とし、また駿河国を「表」、甲斐国を「裏」としている。

これら資料に鑑みると、甲斐国側の資料においても駿河側を「表」としている記録が多く確認できることが分かります。

表口迄海道線図(富士山みちしるべより)

  • 「表富士」と「裏富士」
これもいつから呼ばれるようになったのかよく分かっていません。しかしこれらの言葉は既に昔には一般に用いられていたということははっきりしています。著名な例では歌川広重の不二三十六景の中の一つ、『甲斐夢山裏富士』などもそうです。

『甲斐夢山裏富士』
※夢山とは現在の夢見山のこと

歌川広重というと、もう一人思い浮かべるのは葛飾北斎。葛飾北斎といえば「富嶽三十六景」が有名ですが、この作品の後に10図が追加されています。その10図を「裏富士」と呼んだりします。「富士吉田市歴史民俗博物館」の資料の中では「版行当時、もしくは後代の呼称なのか定かではない」とあります。私もそれは疑っていて、後に呼称されるようになっただけにすぎないのではないかと推測しています。つまり便宜上「裏富士」としたと考えられるのです。

その「裏富士」の作品群の中に『身延川裏不二』というものがあります。これは当時に命名された作品名です。

『身延川裏不二』

葛飾北斎や歌川広重、また版行に関わった周りの人物も普通に「裏富士」という言葉を用いていたと言わざるを得ません。悪意を込めて北斎らがその文字を書き込むとは考えにくいことから、つまり当時一般にそういう言葉が存在していて、江戸の人たちなども普通に用いていたということになります。北斎や広重は駿河の人間ではないので、当然「静岡県の人がそう呼んできた」というのも全くの見当違いということです。

また「東海道から見える富士山を表と言っていた」という表現もおかしいと言えます。少なくとも富士郡からの登山口は「表」とされているわけであり、その富士郡の登山口がある「大宮口」や「村山口」は別に東海道に属してはいません。なので東海道を主として考えるのは的を射ていないと思います。


作者出版名作品名と場所
歌川広重不二三十六景「甲斐夢山裏富士」(甲斐国甲府)
葛飾北斎富嶽百景裏不二」(甲斐、甲府盆地西部)
葛飾北斎富嶽三十六景「身延川裏不二」(甲斐国身延)

  • 今川義元と武田信玄間の一説
これは大河ドラマでの場面を実際の逸話のように勘違いしているだけです。そもそも互いに対面したとされる「善徳寺の会盟」ですが、学術的には無かったという理解が定説です。なので、もう全く関係のない話となっています。気になる方は「善得寺の会盟と善得寺城について考える」をご参照ください。

「富嶽百景 裏不二」(葛飾北斎)

  • この言葉の解釈
『富士山記』に「富士山は駿河国に在り」とあり、また『日本霊異記』に「駿河富岻嶺」とあるように、古来富士山は「駿河のもの」と考えられてきたという事実があります。その意識が根強くあり、そのような区別が形成されたのだと私は思っています。時代が進むと登山道が複数作られるようになり、「登山口の区別における名前」として駿河国のものを「表口」とし、それ以外を「裏口」としたのかもしれません。その「表と裏」の意識が巡り巡って「表富士、裏富士」という言葉を生んだのだと思います。

「表富士、裏富士」という言葉は歴史用語なので、史料から考えていく必要性があると思います。

  • 参考文献

  1. 富士吉田市歴史民俗博物館『MARUBI 富士吉田市歴史民俗博物館だより』21,2003
  2. 『裾野市史』第八巻通史編
  3. 田代一葉,「都良香「富士山記」について」,『環境考古学と富士山2』,2018

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