大宮も村山も現在は「富士宮市」として一体化した存在ではあります。しかし、昔は別々の地域でした。1958年の合併より以前ですら異なる地域なのですが、さらに古来は全く異にする地域であったことは想像に難しくありません。現在のようには行き来が容易ではなかった時代、様子を伺うことすら簡単ではなかったことでしょう。そういう関係性なので、互いに富士信仰の中心地域ではあるものの、分けて考えることが非常に重要です。例えば村山では修験道の形態があるものの、大宮ではそれら形態は全く存在していません。信仰形態が全く異なるのです。ここを一緒にしてしまうのは、あまりに雑な考え方です。
そこでいつも首を傾げてしまうのは「大宮と村山の関係性」です。双方がどういう意識であったのか、すごく難しいですね。時代が下り江戸時代辺りですと、登山道を巡る争いなどの記録から「決して良好な関係ではなかった」ということが分かります。しかしさらに時代が古いと記録があまり存在せず、どういう関係であったのかがよく見えてきません。しかしながら、大宮と村山が古くから関係があったということは言えると思います。
- 仏像の奉納
- 頼尊
富士氏21代「富士直時」の従兄弟とされる人物に、頼尊がいる。この人物は村山三坊の祖とされる人物であり、村山と関係が非常に深い。そういう人物が富士氏と非常に近い存在であることは、注目すべきところである。
- 修験道
記録などを見てみますと、むしろ「大宮が村山に影響を受けていた」というように感じることが多いですね。村山は今川氏と関係を深くしていたため、信仰をベースとした大きな権力を保持していたと考えられます。大宮も今川氏と関係がありましたが、富士信仰に限局するという意味では、村山が特徴的でしょう。富士信仰の歴史において、駿河・甲斐国などを含めても、村山は特徴的です。今川義元の道者取締(七ヶ条)などは、最たるものです。良く指摘されています。