ラベル 芝川 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 芝川 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2023年3月19日日曜日

武田信玄の駿河侵攻開始から樽峠越えまでの過程考、富士郡勢の富士氏・井出氏・佐野氏の動向から見る

駿河侵攻は、永禄11年(1568)に開始された武田氏による駿河国への軍事侵攻である。この未曾有の危機から駿河国の富士郡勢もあますことなく行動を強いられ、それ故に古文書で多くの活動が確認される。


武田信玄

先で取り上げた「遠州忩劇」と「駿河侵攻」とを合わせると、富士郡の主だった面々は文書であらかた登場していると言って良い。それほどまでに、駿河侵攻の影響は大きかったのである。今回は駿河侵攻時の「富士氏」「井出氏」「佐野氏」の動向を見ていきたい。しかしその前に「駿河侵攻の区分と概要」について以下で記してみたい。


  • 駿河侵攻の区分と概要

武田信玄による駿河侵攻は、1度でなされたわけではない。甲斐から出兵し駿河に入りまた甲斐に戻りその後再出兵するといったように、繰り返された。それらは「第1・2・3期」に振り分けられることが多い。以下に、その概略を示す。

時期内容
第一期永禄11年(1568)12月から翌12年(1569)4月駿州往還より侵入。駿府一時占領後、甲斐撤退
第二期永禄12年5月から同年10月御殿場口より侵入、大宮城を落とし富士郡を手にする(その後甲斐に帰陣し、直ちに駿河に侵攻せず小田原侵攻を行う)
第三期永禄12年11月から元亀2年(1571)12月駿州往還より侵入。駿河山西地域を攻略後、駿河一国を手にする

(久保田ら2021;p.8)は「第3期」を「~元亀2年(1571)12月」としているが、私もこの解釈を支持するところである。

富士宮市『徳川家康と本門寺堀』には「永禄13年(1570)に駿河国は武田氏の支配下となる」とあるが、元亀元年(同年4月に永禄から改元)に入っても未だ武田氏と北条氏が駿河国で交戦し年内はその様相であるので、正しい記述のようには思われない。

例えば永禄12年(1569年)11月9日に武田信玄が諏訪大社へ戦勝祈願した際の願文には「今度向于駿州出陳、則蒲原落城、興国寺同前、駿州一円令静謐」とある。蒲原城と興国寺城を落城させ、「駿州一円」を支配下に置きたいという意である。その興国寺城は落とされていないわけであるので、武田氏の観点から考えてみても「永禄13年(1570)に武田氏の支配下となる」とは言えないのではないだろうか。また「大宮城(浅間大社大宮司富士氏居館)」ともあるが、大宮城が富士大宮司の居館であったかどうかは実際は分かっていない。

駿河侵攻の過程は、実はかなり煩雑である。それは単に「武田vs今川」という性質に留まらないからである。今川氏真は第1期の早々に駿府を追われており、そこに救援として北条氏が駆けつけることで戦況が膠着状態となる。

しかも武田氏の侵攻と同時に、既に口裏合わせをしていた徳川氏も遠江侵攻を開始しており、当然今川方は徳川方とも戦うこととなる。北条氏は今川氏を救援する立場なので、徳川とも遠江で対峙するのである。つまり、遠江情勢も含めれば以下のような構造が見えることになる。


今川・北条vs武田・徳川 ※懸川城開城前


武田と徳川の動きは連動しており、このあまりにも複雑な構造が理解を難しくさせている。しかもこれさえも駿河侵攻の中で構造は変化していくのであり、今川氏真が懸川城を開城した際は"今川・北条と徳川間の和睦"の元に手続きがなされるので、それ以後は


今川・北条vs武田 ※懸川城開城後


となるのである。無論武田氏は、この結果に不満を持つわけである。近年はその過程にも注目が集まることが多い。(小笠原2019)(丸島2022)(平山2022)は実はこの部分についても多く言及するものであって、駿河侵攻は近年特に注目されていると言って良い

この過程の中で北条氏が宿敵上杉氏と和与したり(永禄12年7月)、その1年後には手切(和与解消)となったりしている(元亀元年7月)。ここも複雑さの要因であるが、和与と手切が繰り返される要因は、北条氏や武田氏が自身の領国が攻撃される憂いを絶つため常に上杉と交渉しているためである。

この"自身の領国が攻撃される憂い"を更に巧妙に用いたのが武田氏で、第2期で「その後甲斐に帰陣し、直ちに駿河に侵攻せず小田原侵攻を行う」と記したように、信玄は小田原侵攻を行うことで、駿河の北条勢を相模に引き戻させている。北条氏からすれば、本領の相模が危うければ、戻らざるを得ない。

第3期では北条方の勢力は少なくなっていたため、武田氏は順当に侵攻を進めていくのである。この流れが理解できれば、駿河侵攻は概ね感覚を掴むことができると考える。

ところで、第1期の「駿府の一時占領」という結果は、信玄にとって満足のいくものであっただろうか。間違いなく、想定外であったであろう。この記事は、その「想定外」を紐解くものである。

※駿河侵攻および「武田氏の不満と徳川との不和」については(小笠原2019)が詳細に取り上げているが、同氏の博士論文が公開されており、誰でも閲覧可能である。また富士郡に関しても多く言及されている。従って「武田氏の不満と徳川との不和」と「富士郡に関する部分」を博士論文の頁数に沿って以下にまとめて示す(「戦国大名武田氏の外交と権力」)。特に「武田氏の不満と徳川との不和」と「富士氏と大宮城の戦い」を読んでいただければ当記事の理解が早まると思われる。

内容
善徳寺の会盟48-49
武田氏の不満と徳川との不和150-160
富士氏と大宮城の戦い177-179
柚野の篠原氏 296-313

ちなみに富士宮市HPは篠原氏を「武田氏の家臣」としているが、とてもそうは思われない(「寺院と地域の歴史をつなぐ特別コース」)。篠原氏については「遠江高天神小笠原信興の考察」(黒田2001所収)でも言及されている。

  • 武田氏による調略と1度目の大宮城攻撃


武田氏は第1期では「駿州往還」を用いて駿河に侵攻した。そこで「駿河に侵攻した際にまず接触するであろう勢力は誰であろうか」と、信玄は考えるのである。そして「衝突がないようあらかじめ調略しておこう」とも考えるのである。


穴山信君

実は実際にそれがなされている。武田方は"駿河に侵攻した際にまず接触するであろう勢力"である佐野一族らと予め話をつけている。(平山2022;p.143)には以下のようにある。


富士郡の佐野一族などは、国境を接する武田方の穴山氏の調略を受諾し、武田軍が動くと同時に従属することを誓約していた


佐野一族が富士宮市の一族であることは知られているように思うが、実は富士郡でも「上稲子」を本拠としており(小和田1996)、此処はまさに"駿河に侵攻した際にまず接触するであろう勢力"と言える。武田方は駿府に軍を進めるにあたって、なるべく障害がないことを望んだのである。



上稲子に隣接する甲斐の河内地方は穴山氏が領する所であるので、交渉は穴山信君が対応している。


惣左衛門尉は「佐野惣左衛門尉」のことで佐野一族の人物である。12月7日というと、駿河に入る直前にあたる。佐野氏はめぼしい軍事的能力を保有する勢力ではないため、この判断は致し方ないとしか言いようがない。抵抗していたら佐野一族は滅亡していたかもしれないし、現在富士宮市・富士市に佐野姓は見られなかったかもしれない。

しかし富士郡でも富士氏は、あくまで今川方として行動した。実は駿河侵攻で武田方がいち早く攻撃したのが、富士氏当主「富士信忠」が籠城する「大宮城(富士城)」であった。駿河侵攻の解説は「薩埵峠の戦い」から始まるきらいがあるが、本来は大宮城の戦いから話されるべきなのである。ここを通さず話をすると、後の「樽峠越え」の理由も見えてこない。

この富士氏の強い抵抗が信玄の大誤算となり、予定を大いに狂わせることになる。


  • 富士郡の主だった勢力

以下に、富士郡の主だった勢力について、その本拠と共に一覧化する。


本拠特徴
富士氏富士大宮当主富士信忠は富士城城主
井出氏井出・上野国衆に准ずる存在。上野にて警固を行い、また富士城に籠城する
吉野氏山本周辺葛山氏の家臣(=富士郡には葛山氏の支配領域が点在する
佐野氏上稲子在地の土豪
矢部氏吉原商人

ぞれぞれ立場は異なり、駿河侵攻時に軍役奉公が確認されるのは「富士氏」「井出氏」である。吉野氏は葛山氏の家臣であるが、遠州忩劇時の軍事行動は認められても(久保田2000;p.51-53)、駿河侵攻時の動向は管見の限り確認できなかった。

富士氏は国衆であるが、それ以外の面々は土豪層として括られることが多い。井出氏は「国衆に准ずる存在」としたが、限りなく国衆に近い位置にあると考える。

従って、この記事では「富士氏」「井出氏」「佐野氏」を考えていきたいと思う。


  • 駿河侵攻で浮かび上がる富士郡の特徴


見逃されてしまっている河東地域(富士川以東)の根本的な性質がある。それは"河東地域に国衆が少なかった"という点である。(鈴木2019;p.176)には以下のようにある。


彼らの本拠地を地図に落としてみると、今川氏の本国であった駿河では国衆が少ないのに対し、占有地にあたる遠江・三河に有力な国衆たちが多かったことが、よくわかるだろう。(中略)逆に、今川氏という強大な領域権力が以前から存在したために、富士川以西の駿河中西部には「国衆」が成立しなかったともいえる。


この指摘は重要であり、駿河国の国衆事情を簡便に書き記している。実は河東地域の主だった国衆は、葛山氏と富士氏くらいしか居ないのである。そして「遠州忩劇時の駿河国富士郡勢の動き、富士氏・吉野氏・森彦左衛門尉の活躍」で記したように、富士郡には葛山氏の支配領域も存在した。

また(松本2022;p.51)は「今川氏の大宮支配に関する文書発給も行われており、大宮司領は今川氏直轄(代官支配、代官は信忠か)の部分と、信忠の支配分が混在していた可能性があると考える」としている。

同論考は富士大宮という「町」の性格を"「富士大宮楽市令」の文言にのみに拠る"のではなく、更に広い視点で見たものであり、注目される。従来のその種の論考、特に(長澤2016)を見るに、楽市令後から時を経て非楽市化している部分に強い比重を置いてしまい、「市」そのものに対する評価の帰結を急ぎ過ぎている印象は拭えない。

富士大宮楽市令は「押買狼藉非分等有之旨申条」の文言から「それを申した主体が居る」という理解がなされ、「富士氏側の要請による」と学術的に理解される事が多い。この楽市令は、富士氏の歴史の中でこそ語られるべきなのである。

また今川氏が富士氏を引き留めることができた一要因に、このような国衆側の要求に応えていたという背景も関係するのではないだろうか。つまり氏真の試みは成功しているのである。

  • 北条氏の援軍と富士郡

ここまで富士郡の特性について述べてきた。つまり武田氏が河東地域を押さえたい場合、平たく言えば「葛山氏」と「富士氏」を調略してしまえば済む話なのである


北条氏政


実はこのうち葛山氏が駿河侵攻前に既に調略されていたため、武田氏は駿東郡・富士郡は順当に落とせると踏んでいたものと思われる。しかしそうはならなかった。その理由は


 北条氏が迅速に駿河入りを果たしたため


である。勿論大宮城の抵抗もそうであるが、北条氏の存在が極めて大きい。北条氏の動きは迅速であり、以下のような過程を経た。

日時内容
永禄11年(1568)12月12日北条氏当主「北条氏政」、伊豆国三島に着陣
同14日 北条軍が庵原郡に入る
同29日富士郡村山の「富士山興法寺」に禁制を発給
同月末北条氏信が蒲原城に入城

武田軍が12月6日に出立していることを考えると、この動きは「相当に速い」といって良いだろう。また早くも29日に富士上方の寺社に禁制を発給し、勢力下に置いている。また北条氏の当主自ら動いていることから、北条氏の相当な意気込みが見えてくる。(黒田2001;p.117)には以下のようにある。


河東地域には駿東郡の葛山氏元、富士郡の富士信忠という有力国衆が存在していた。富士氏は今川方の立場を取り、本拠大宮城に籠城して武田方に対抗したが、葛山氏は今川氏から離反して武田方に与した。氏元は武田氏の侵攻に際して瀬名谷に引き退いたというから、今川氏本陣のもとに参陣していた後、瀬名信輝・朝比奈信置らとともに武田氏に従属して戦線を離脱したととらえられる。(中略)北条氏が駿東郡に進軍すると、ほとんど抵抗をうけることなく葛山氏の支配領域がその軍事的勢力下に収められているとみられるのは、そのためだろう。


つまり北条氏は武田氏の駿河侵攻から大きな時を隔てず、駿東郡と富士郡を軍事的勢力下に収めているのである。また上記のように富士郡には葛山氏支配下の地域も点在しており、それらも北条氏の軍事的勢力下に収められたことになる。富士氏の躍進の背景に、郡下に武田方の勢力が居なかった点は挙げられるのではないだろうか。

それにしてもこの「葛山氏元」「瀬名信輝」「朝比奈信置」の謀反は、かなり衝撃的に受け止められたであろう。葛山氏は今川家の御一家衆である上、自前で朱印状を発給するような独立性の高い国衆であり、大きな権力を保持している。瀬名信輝は今川氏一族である。朝比奈信置も重臣である。これらが一度に、しかも進軍途中で謀反を起こすのは絶望的な状況である。氏真の撤退も止む無しだろう。

武田方は、佐野氏にしたのと同じように、国衆らにも調略の手を既に伸ばしていたわけである。しかし興津川以東の北条方と駿府・山西地域の今川方に挟まれ、武田氏は窮地に陥ることになる。


  • 信玄の駿河封じ込め


(清水市2002)を参考に作成、左端の河川は「興津川」

これは侵攻開始の永禄11年(1568)12月から翌12年(1569)3月の状況である。この図を見て明らかなように、興津川を挟んで東側を北条軍、西側に武田軍が布陣している。そして薩埵山・大宮城・蒲原城も北条方であることから、興津川以東は北条方が押さえている状況であった

しかし横山城に主力を置く武田方はどうだろうか(このとき武田氏は久能城を築城していた)。駿府は一揆衆が奪還し背後の山西地域には未だ今川方が健在であり、興津川以東は北条方が押さえているのだから、横山城・久能城の武田軍は取り囲まれていると言わざるをえない。薩埵山・蒲原城は東海道に位置するので、当然通過は出来ない。

武田軍の退路はこのとき駿州往還(現在の国道52号線)しか見当たらないが、駿州往還を進めば富士大宮の富士氏と薩埵峠・蒲原城の北条軍に挟撃されてしまうのである(矢印:橙)。無論、富士上方は完全に今川方(北条方)であるので「中道往還」も絶望的である。

実際に武田軍は、駿州往還を通す試みをした形跡が認められる。



しかし正月18日、遊野(富士宮市柚野)において鈴木助一が武田方の敵を討ち取っており、やはり駿州往還沿いの守りは固かったようである。そこで武田方は帰路を確保するために、2度目の大宮城攻めを敢行する。今回武田軍は特に力を入れ、穴山信君と葛山氏元の連合軍で攻勢を仕掛けた。両者共、相当の軍事力を持っている。


  • 二度目の大宮城攻めと中道往還の情勢

大宮城攻撃は3度行われているが、1度目と2度目共に第1期駿河侵攻の際に行われている。つまり武田軍は、侵攻開始から甲斐帰還の間に大宮城に2度の攻撃を加えていることになる。それほどまでに、大宮城を落とす必要性があったのである。

なぜこのような事が分かるのかと言うと、今川氏真が後に「富士信通」(富士蔵人)宛の感状を与えており、詳細が記されているためである。駿河侵攻後に直ぐに大宮城を攻撃したことが分かるのも、この書状による。この感状は他の同様の内容を示す感状と一括りにされ「暇状」とも通称され、極めて有名な書状である(前田2001)。

2度目の大宮城攻撃は「殊巳二月朔日、穴山・葛山方為始、大宮城江雖成動、手負・死人仕出 還而失勝利引退候」とあるように、2月1日の穴山信君と葛山氏元の連合軍によるものであった。つまり駿河侵攻で今川氏を裏切った葛山氏元が大宮城攻撃に参加していることになる。これには富士氏も思うところがあったであろう。


またこれらの戦いについて将亦以自分及二ヶ年、矢・鉄砲玉薬、篭城内者、人数等扶持出之候、忠信之至也」と記されている。この記録から、大宮城の戦いが鉄砲を用いるような極めて激しい攻防戦であったことが分かる。まさに大河ドラマで見るような鉄砲を用いた戦が、紛れもなく当地でも行われたのである。管見の限り富士郡下で鉄砲を用いたような戦が行われたのは、この大宮城の戦い以外にはないように思われる。

しかし2度目の攻撃にもかかわらず、大宮城は落とせなかった。

また驚愕すべき武田信玄書状が残っている。永禄12年(1569)2月24日の佐野惣左衛門尉宛の判物である。(小和田1996;p.129-130)には以下のようにある。


この文書で注目される点が2つある。1つは、文中にみえる富士兵部少輔の知行を早くも佐野惣左衛門に与えていることである。富士兵部少輔というのは、いうまでもなく、富士大宮司で、しかも大宮城の城主であった。永禄12年2月24日の時点ではまだ富士兵部少輔信忠は大宮城に籠城して戦っていた。


つまりこれは「空手形」なのであり、武田氏の駿河侵攻がこの段階で全くもって上手くいっていなかったことを示す証左と言えるものである。実際はこのとき、富士郡・駿東郡に宛行うことが可能な土地など無かったのである。おそらく武田氏は大宮城を落とせると踏んでおり、文書の下書きを策定済みであったのだろう。実際は落とすことが出来ず、一方で佐野氏に文書を発給する必要性にも迫られていたと考えられる。

また2度目の大宮城攻撃の翌月の3月2日には井出氏が上野筋で敵を討ち捕っている。上野筋は中道往還にあたるので、つまり武田軍は帰路を意地でもこじ開けようとしていたのである。しかし以下の感状から分かるように、武田方の試みは成功していない。



上のものは北条氏政を発給者とする井出正次(井出甚助)宛の感状であり、上野筋での戦功を賞する内容である。



これは上に同じく「上野筋の戦い」における戦功を賞した北条氏政の感状であり、宛所は井出正直(井出藤九郎)である。このように富士郡は「富士氏」「井出氏」が守っていたのである。

北条氏政が井出正直の戦功を賞した日と同日の、武田信玄書状が注目される。信玄の心境をよく示すものであり、多くで取り上げられる。


兵糧も無限ではないし、北条氏は上杉氏との和与を画策し動いていたため、越後の上杉氏が甲斐へ侵攻する可能性もあった。ついに武田軍は、駿州往還または中道往還での帰省を断念せざるを得なくなったのである。

この三条目に見える「信玄滅亡無疑候」、つまり「(信長に見捨てられたら)信玄が滅亡することは疑い無し」という危機感を形成した背景に、富士氏の存在も含まれることは言うまでもない。


  • 信玄の樽峠越え

樽峠越えルート(推定)

大まかな推定ルートを記した。この部分は(清水市2002;p38-39、同部分は前田利久による)でも言及されている。(平山2022;p.185)には以下のようにある。

不利を悟った信玄は、秘かに甲斐への撤退準備を進めるよう、家臣に命じた。信玄は、北条氏と対陣中、秘かに興津川上流の中河内川、樽川沿いに新道を切り開いており、甲斐への撤退路の確保につとめていた。『軍鑑』によると、重臣原昌胤が、新道開削の陣頭指揮を執っていたという。(中略)このような準備を整えた信玄は、駿河在陣を諦め、4月24日早朝から退却を開始し、甲駿国境の樽峠を越えて、甲斐に撤退した。

『甲陽軍鑑』には「駿河いはらの山を打越、道もなき所を原隼人助工夫に任、甲府へ御馬をいれ給ふ」とあり、信玄にとって苦難の脱出となったのである。

  • 参考文献
  1. 前田利久(1992)「戦国大名武田氏の富士大宮支配」『地方史静岡』第20号
  2. 小和田哲男(1996)「佐野氏古文書写」『地方史静岡』第24号
  3. 久保田昌希(2000)『遠州忩劇考−今川領国崩壊への途」『戦国大名から将軍権力へ−転換期を歩く−』、吉川弘文館
  4. 黒田基樹 (2001)『戦国期東国の大名と国衆』岩田書院
  5. 前田利久(2001)「今川家旧臣の再仕官」『戦国期静岡の研究』、清文堂出版
  6. 清水市教育委員会(2002)『薩埵山陣場跡』
  7. 大久保俊昭(2008) 『戦国期今川氏の領域と支配』岩田書院
  8. 長澤伸樹(2016)「富士大宮楽市令の再検討」『中世史研究』第41号
  9. 富士宮市(2018)『徳川家康と本門寺堀』
  10. 小笠原春香 (2019)『戦国大名武田氏の外交と戦争』岩田書院
  11. 鈴木将典(2019)「国衆の統制」『今川義元とその時代』、戎光祥出版
  12. 久保田昌希・加藤哲(2021)「確認された王禅寺所蔵「北条氏照・氏規連署書状」について」『川崎市文化財調査集録』第55号
  13. 松本将太(2022)「戦国期における大宮の様相」『富士山学』第2号
  14. 平山優 (2022)『徳川家康と武田信玄』、KADOKAWA
  15. 丸島和洋(2022)「武田信玄の駿河侵攻と対織田・徳川氏外交」『武田氏研究』65号

2023年3月12日日曜日

遠州忩劇時の駿河国富士郡勢の動き、富士氏・吉野氏・森彦左衛門尉の活躍

「遠州忩劇」(「遠州錯乱)とは、永禄6年 (1563) に勃発した"遠江国国衆たちの今川氏に対する反乱"である。発端は遠江の引馬城主「飯尾連龍」の逆心であり、連龍死後の永禄9年(1566)まで続いた。そのため、今川氏の文書では「引馬一変」と呼称されることもある。

実はこの乱の鎮圧に富士郡勢もかなり関与しており、しかもそれは早期から確認できる。この辺りは富士郡の性質も良く見えてくるので、今回取り上げていきたい。


今川氏真

家康にとって「遠州忩劇」は救いであったと思われる。(久保田2000;p.50)が指摘するように、永禄6年は三河一揆が勃発しており、今川氏は家康に打撃を与える好機であった。しかし今川氏真はそれが出来なかった。その原因こそ遠州忩劇であり、今川氏は三河一揆に加勢できる状況ではなかったのである。


  • 飯田口合戦の富士又八郎


「飯田(口)合戦」は、遠州忩劇勃発以後の「反乱勢」と「今川方」との初めての合戦であると思われ、富士氏からは「富士又八郎」が参加している。

(平山2022;p.48)には以下のようにある。


飯尾方と今川方は、永禄6年12月20日以前に、引馬飯田口で激突した(飯田口合戦)。かなりの激戦であったらしく、氏真は朝比奈右兵衛大夫、富士郡の富士又八郎、馬伏塚の小笠原与左衛門尉らに感状を与えている。


富士郡は遠州から見て遠方であるものの参加しており、総動員に近い状況であったと推察される。富士郡の勢力を動員しなければならない程、今川氏にとって危機的状況であったのだろう。


  • 牛飼原の陣の吉野氏


遠州忩劇時に「吉野日向守」が今川方として牛飼原(遠江国豊田郡森町)に在陣していたことが知られる。これは永禄8年(1565)11月1日の葛山氏元の発給文書から知られ、「去年従三州牛飼原野陣江茂早速来之条」とある。この軍役奉公に対する判物であるが、この事実から明らかなように、吉野氏は葛山氏の家臣である。今川氏発給文書でない点から、葛山氏の独立性を感じるところである。

吉野氏が何時から葛山氏の家臣であったのかを考える際、年未詳の「吉野九郎左衛門尉」を宛所とする葛山氏広の発給文書が知られる。氏広の発給文書はこの感状を含めた2点に限られもう1点は神社宛のものであるといい、(有光2013p.125)は天文初期に比定している。

このように氏広の代には既に家臣であったことは明らかであるが、文書の残り方から見ても、吉野氏が葛山氏の重臣であったという推測は許される範囲であろう。この従属関係は次代の氏元期にも引き継がれ、「吉野郷三郎」が河東の乱時の軍役奉公に対する感状を受給している。一方で同内容の今川義元の感状も存在したようである(『駿河記』に認められるが真偽不明、書状自体は現存せず)。(有光2013pp.178-191)はこの時の葛山氏の立場を「今川氏方か北条氏方かはわからない」としているが、やはりここは今川方であったと考えてよいように思う。

特に注目されるのは、天文15年(1546)4月22日に氏元が吉野郷三郎に久日・山本・小泉の所領を安堵していることであり、しかも以前より吉野氏の所領であったことが確認できる点である。また永禄元年(1558)8月12日に吉野氏は富士高原の関の支配を認められている。



つまり葛山氏は富士郡各地を支配下に置いていたことが分かるのである。遠州忩劇後の永禄11年(1568)2月2日には、淀士(淀師)の新四郎名を市川権右衛門に給付することを葛山氏は命じている。

また富士上方の大宮司領の代官職は「葛山甚左衛門尉」のもとにあった。永禄4年(1561)7月20日に富士信忠が大宮城代に任ぜられたと同時に解任されてはいるが、従来任じられていた事実からも影響力を強く感じるところである。もっとも文書には「如前々相計之」とあり、(大石2020;p.193)が指摘するように以前より城主としての立場は信忠の元にあったと捉えられるものである。

また先の富士高原関の支配を認める文書に「於富士高原仁村上被取候定之事」とあるが、この「高原」という言葉は大字・小字でないのにも関わらず現在も用いられており、感慨深いものがある。専ら「上の山本」という意味で用いられる。関所の存在や「富士本道」としての位置づけが、「高原」という言葉を現代にまで残したのだろう。つまり交通の要衝であり、そこを葛山氏が押さえ、給人である吉野氏が所領としていたわけである。

そのような立場の中で吉野氏は、今川方として遠州忩劇時に対応に追われたのだった。


  • 森彦左衛門尉の河舟労功


森彦左衛門尉が遠州忩劇舞台の地である遠州で「河舟労功」という形で奉公していたことが知られる。森彦左衛門尉は富士川沿岸の地である内房郷橋上(富士宮市内房橋上)の船方衆を束ねる存在である。この彦左衛門尉は戦地で渡船を担っていたわけである。

このような渡船の奉公は義元の頃にも確認され、天文20年(1551)4月17日の今川義元判物に「先年乱中走廻云、殊昼夜河舟労功」とある。


また永禄13年に比定される橋上の船役所に宛てた葛山氏元朱印状が残り、瀬名氏の縁者が富士川を渡る際に必要となる手形を役所側が与えるよう命じた内容となっている。これが「森家文書」として伝わっている背景を考えるに、やはり中心として主導したのは森彦左衛門尉だろう。

その後は穴山信君の発給文書で名が見え、武田方として活動していたことが分かる。これらはすべて同一人物である。『駿河記』の内房「綱橋」の項に「里民彦右衛門森氏家に今川義元氏真又は葛山備中守等の文書を蔵す。共に富士川越舟の事を載すと云」とある。

渡船に携わる者が戦時に河舟労功として動員され、見返りとして諸役免除を認められていたことが分かる。戦国大名は武士だけでなく渡船の要員にまで神経を張り巡らせていたわけである。大名支配の重要な側面を示すものである。


  • 武田氏の動き

武田信玄

(久保田2000;p.58)にあるように、遠州忩劇勃発後に甲斐の武田晴信はこの事態を早くも察知していた。それは永禄6年閏12月6日の晴信の佐野主税助宛の文書から知られるが、その内容が興味深い(この文書に見える佐野氏は甲斐の佐野一族であって富士郡の佐野一族ではない)。


(平山2022;p.59-62)には以下のようにある。


この追伸に書かれている事実は、信玄の意思と動きを如実に知らせてくれる貴重な情報と言える。信玄は、今川氏真が遠江の反今川方に敗退するようならば、ただちに軍勢を率いて駿河に侵攻する意思を示したのだ。(中略)書状に見える「彼国之本意」については、「駿河の回復を目指す今川氏真の本意を支援するためにも」とも、「駿河を奪いとることは信玄の本意である」とも解釈する余地があるからである。私は、後者の解釈に魅力を感じている。


何れにせよ富士軍勢を含めた今川方の活躍もあって、遠州忩劇は一応の終息を見た。しかしながらこの遠州忩劇は、今川氏の衰退に一層拍車をかけたことは言うまでもない。


  • 参考文献

  1. 久保田昌希(2000)『遠州忩劇考−今川領国崩壊への途」『戦国大名から将軍権力へ−転換期を歩く−』、吉川弘文館
  2. 有光友學(2013)『戦国大名今川氏と葛山氏』、吉川弘文館
  3. 大石泰史(2020)『城の政治戦略』、KADOKAWA 
  4. 平山優 (2022)『徳川家康と武田信玄』KADOKAWA

2022年4月4日月曜日

富士海苔の歴史

 「富士海苔」は、芝川流域(静岡県富士宮市の河川)に認められるカワノリの一種である。歴史史料でその名を目にする機会が比較的多いため、今回取り上げることとしたい。

この富士海苔は「絶滅危惧種カワノリを利用した環境教育に関する研究」(18K02969)として「科学研究費助成事業」(科研費)にも採用されているように、自然科学的な分野では介入が認められる。一方で「歴史学」の分野ではあまり日の目を見ることが無い状態であり、富士海苔の歴史的位置付けから考えると、このまま等閑視しておくのは望ましくないと考える。

まず「富士海苔」は「芝川海苔」とも呼称されるのであるが、当記事のタイトルで前者を採用したのは、富士海苔の方が古くよりの呼称であると思われるためである。


  • 初出

(川上・小川2006a;pp249-150)に以下のようにある。

川苔で今まで最も記録が多くかつ古い記録のあるのは富士のりである。それは静岡県の富士宮市の白糸の滝を少し登ったあたりにある小川がその産地になっている。富士川の支流の芝川の上流に当たるそうで、そこの川苔は富士苔、別名「芝川苔」とも呼ばれている。富士苔の産地は日蓮宗大石寺から距離にして五、六キロ前後のところにある関係からか、日蓮上人は身延山に在住時代、この川苔をもらわれて、その礼状が大石寺に保存されているという。

とある。言及された史料(1274年-1275年)については「河のり」「かわのり」としか記されないようであり(宮下1985;p.91)、残念ながら富士海苔と断定はできない。しかし地理的状況から考えると、富士海苔であるとするのは妥当であろう。また同文献は富士海苔に関する史料の残存状況を大きく見誤っており、少し注意が必要であると思う。

(遠藤1981;pp.207-209)にも同様の見解(礼状のカワノリ=富士海苔)が示されている。『静岡県史』資料編24民俗二にも類似した記述が確認される。

<中世>

多くの記録があるので、一部引用する。

番号内容
永享2年(1430)12月6日 室町幕府将軍足利義教、今川範政から富士苔等の贈答に対し礼を言う
永享6年(1434)4月25日管領細川持之、富士大宮司による富士海苔等の贈答を受け返礼品を贈る(年未詳)
永享6年(1434)10月9日足利義教、葛山駿河守による富士川苔等の贈答に対し礼を言う
永正8年(1511)5月20日三条西実隆の元に富士苔等届く(『実隆公記』)
大永4年(1524)12月三条西実隆、中御門宣胤から富士海苔を贈られ返歌(『再昌草』)
永禄4年(1531)4月20日近衛尚通、常庵竜崇より駿河紙・ノリを贈られる(『後法成寺関白記 』)
同日三条西実隆、常庵竜崇より富士海苔等を贈られる
天文4年(1535)3月18日三条西実隆、後奈良天皇に富士ノリを進上する
弘治2年(1556)11月26日山科言継、寿桂尼(今川氏親正室)より富士海苔を贈られる(『言継卿記』)
弘治3年(1557)2月29日 御黒木(山科言継養母)、言継に富士海苔を授ける(『言継卿記』)

これらの記録から、中世は「フジノリ」で統一されていたことが分かるこの時代は「芝川ノリ」という呼称そのものが無かったと考えられる。また(大長2002;p.20)には「近世に入ると富士海苔という呼称ではなくなった」という旨の記載が見られるが、実際は近世もフジノリと呼称されており、むしろそちらの方が多いように見受けられる。

富士海苔の歴史的位置づけとして注目されるのは「上流社会で重宝された」という事実であろう。(湯野上2013;p.139)に

戦国時代には戦乱の影響をうけて窮乏した多くの公家が地方の大名や土豪を頼って都を離れ、地域別の数は畿内を除けば北陸道がもっとも多く、東海道・中山道がそれに続いた。(中略)氏親から氏真にいたる時期に、史料に見えるだけでも三十名近くの公家や文人が駿河を訪れている 。(中略)公家らの直接の往来の他、僧侶や商人が使者となって京都から書状や、『伊勢物語』『源氏物語』『古今和歌集』を始めとする文物が東海道を下って駿河にもたらされ、一方駿河・遠江からは、黄金や浜名納豆・富士海苔・紬・茶などが進物として京都に届けられ、財政難に苦しむ公家らの暮らしを助けることになった

とある。駿河から京にもたらされた富士海苔は、更に天皇に献上されたり公家同士で行き来していた。上の記録を見ても、富士海苔は今川文化の一端を担ったと言えるのではないかと考える。富士海苔は京・朝廷にも名品として広く認知されていたと思われる。

寿桂尼


また(水井ら1980;p.2)や『世界大百科辞典』「カワノリ」の項に「芝川苔(富士川苔)」や「富士川苔」とあるが、おそらくこれは③の記録からそのように記したと考えられる。しかしこれは御内書が本来「富士苔」と記すべきところを誤って「富士川苔」と記したに過ぎないと考えられ、富士川苔と呼称されていたとは考えられないものである。

⑥は「ノリ」としか記されないが、⑦で同日に常庵竜崇が三条西実隆に富士海苔を贈答していることが知られるので、⑥のノリは「富士海苔」であると考えるのが自然である。

ただ(宮下1974;p.100)に「駿河国富士山麓の「富士苔」が武田信玄により朝廷に献上されたものがその例である」とあり、また同氏の(宮下1985;p.27)に「早くも鎌倉時代には、地名を冠した特産品として「芝川のり」が知られていた」「武田信玄により朝廷に贈られるなど」とあるが、私の方ではその記録は発見できなかった。

<近世>

  • 近世の記録、特に味・外見に言及されたもの

『食生活語彙五種便覧』にあるように、『料理物語』に富士海苔が記される。

のろのり ひや汁 あぶり肴 いりざけにすをおとし くりしやうが入 さかなによし
ふじのり ひや汁 あぶりざかな 色あをし
海鹿 に物 あへもの

前段の「のろのり」も海苔の一種であると思われるのであるが、よく分からない。肴に合うと評価されている点で富士海苔と一致している。

また『毛吹草』には

駿河 
安倍川紙子 久野蜜柑 三穂松露 富士苔〈山中谷川二有之〉

とある。駿河国13品目の特産物のうち富士苔にのみ注記が加えられているのであるが、これは海産物でなくカワノリであることを強調したかったがためと思われる。(水井ら1980;p.3)で指摘されるように、『毛吹草』は他のカワノリ(日光苔・菊池苔)の場合にも「川有之」と説明を附しているようである。編者の意図が感じられるのである。

貝原益軒

貝原益軒『大和本草』には以下のようにある。

川苔
川苔モ海苔二似タリ所々ニアリ富士山ノ麓柴川二柴川苔アリ富士ノリトモ云

省略したがここでも共に日光苔と菊池苔が紹介されており、どうもこの三種はカワノリの代表的存在であったように思えるのである


  • 近世の記録、進物・土産として

(斎藤1968;pp.15-16)に

「駿府奉行所雑記」の中の「差上物品品」という項にこの地方の差上物について、次のように定めている。すなわち、四月は筍、五月には白瓜、なす、六月は熟瓜と山椒、七月は雛うづら、十一月は芝川苔が江戸御台所にさしあげることになっており

とある。富士海苔の記録を見ていく中で共通するのは、富士海苔の旬が秋冬頃とされていることである。この原典にはあたっていないが、同様の記述は地誌にも確認される。例えば『駿国雑志』には「毎年十一・十二月の内發足、江戸に献す」「初冬より取上げ」とある。

正福寺(山梨県富士吉田市新倉)が浅野家(紀伊和歌山藩や安芸広島藩を治めた)に富士海苔を贈った記録(年未詳)があるといい(金子2021;p.17)、また『大坂代官竹垣直道日記』(1851年)にも「芝川苔贈ル」とある(西沢2016;p.113)。

ちなみに『毛吹草』の駿河国13品目の特産物の中に「善徳寺酢」というものが記されている。この酢は東泉寺(富士市今泉に所在していた寺院で廃寺となっている)で造られていたとされ、その東泉院が来訪者に贈った品物として「善徳寺酢」の他に「富士海苔」があった(菊池2012)。

また『和漢三才図会』巻六十九に「駿河国土産」として

富士苔(谷川に出づ)

とあり、同書の水草の項の「紫菜」の説明(巻九十七)にて

富士苔 
富士山の麓精進川村より之れを出し形状紫菜に似て青緑色味極めて美なり

とある。『和漢三才図会』の駿河国土産は『毛吹草』と多くで重複している。そのため同書にも「醋(善徳寺之れを作る)」とある。以下に『毛吹草』と『和漢三才図会』の対応表を示す。

『毛吹草』(順序通り、注記記す)『和漢三才図会』(順不同、注記省略)
安倍川紙子紙子
久野蜜柑蜜柑
三穗松露麦茸
富士苔〈山中谷川ニ有之〉富士苔 
黄芪黄茂木香
香爐灰香炉の灰
大井川萸萸子
瀬戸染飯染飯
宇都山十團子十団子
善徳寺酢
澳津鯛
同白砂干
神原鮎鮫
竹細工
藪(該当する字ナシ)
盆山石
甜瓜
松茸

『和漢三才図会』の方が時代が下るためか「茶」「竹細工」等が見える。やはり「富士海苔」の呼称は近世にも続いていたと言え、むしろ芝川海苔より明確に多いと言えるのではないかと考える。芝川ノリの呼称は近世でも比較的時代が下るものと推察された。

  • おわりに

富士宮市の固有名詞は勝手に用いられてしまうことが"極めて多い"のであるが、この富士海苔も例外ではない。


これで良いのだろうか?と考えるのは私だけだろうか。早く安定した生育を獲得し、将来的には「特定農林水産物等の名称の保護に関する法律」(地理的表示法)の指定を目指すべきであることは言うまでもない。

しかしこれは富士宮市側に問題があると考える。法人名や屋号を定める際、既存の名詞であるのかは一応の考慮がなされると思われる。がしかし、富士宮市が他が存在に気づく余地さえも提供できていないという言い方も出来るのではないだろうか。市のコンテンツの非力さは大変遺憾である。ある記事を以下に提示したい。

「富士山」商標権活用を 富士宮市、取得管理を支援(静岡新聞Web版2013/8/15)
ただ、富士山関連の商標は既に多くが登録されている。工業所有権情報・研修館(東京都)が提供する特許電子図書館の統計によると、「富士」「富士山」と銘打った商標は出願中を含めて160件に上る(7月18日現在)。市商工振興課の担当者は「富士山の地元でできるだけ商標を取り、活用するのが理想的。高まる需要に応えていきたい」と知財戦略のてこ入れを図る。(抜粋)

「富士山の地元でできるだけ商標を取り、活用するのが理想的。高まる需要に応えていきたい」とあるが、あまり行動しているようには思われない(ちなみに上の法人が指定されたのは、記事の翌々年の2015年である)。また商標を取るだけでなく、検索して存在を確認できるような体制を整えることも重要であると思われる。

"「富士」「富士山」と銘打った商標は出願中を含めて160件に上る"の最も標的になりやすいのが富士宮市であるということを認識しなければならないと考える。

  • 参考文献

  1. 大長康浩(2002)「駿河国における水産物の流通について(その二)ー前稿の成果と課題」『静岡県の歴史と文化』第2号,静岡県の歴史と文化研究会
  2. 遠藤秀男(1981)『富士川 : その風土と文化』,静岡新聞社
  3. 川上行蔵著・小出昌洋編(2006a),『日本料理事物起源』岩波書店
  4. 川上行蔵著・小出昌洋編(2006b),『食生活語彙五種便覧』岩波書店
  5. 『静岡県史』資料編24民俗二,467頁
  6. 宮下章(1974),『海藻』(ものと人間の文化史 11),法政大学出版局
  7. 宮下章(1985)『海苔の風俗史』
  8. 水井ら(1980)「日本の古書にみられる海藻類の食品学的研究 Ⅰ : カワノリ」『広島文化女子短期大学紀要』13巻
  9. 『日本庶民生活史料集成』第29巻,三一書房, 1980
  10. 斎藤幸男(1968)「林香寺山椒」『薬史学雑誌』vol.3No.2
  11. 菊池邦彦(2012)「富士山東泉院を訪れた人々」『六所家総合調査だより』第11号,富士市立博物館
  12. 湯之上隆(2013)「旅日記・紀行文と地方社会」,『人文論集』63号 
  13. 西沢淳男(2016),「関東代官竹垣直道日記」(6) , 『地域政策研究』巻19号,高崎経済大学地域政策学会
  14. 金子誠司(2021)「新倉三ヶ寺と富士山」『山梨県立富士山世界遺産センター研究紀要『世界遺産 富士山』』第5集
  15. 『世界大百科事典』,平凡社

2018年8月13日月曜日

観応の擾乱における薩埵山の戦い再考と桜野・内房の地理

まず駿河国庵原郡は…というより「桜野」(静岡県清水区、旧庵原郡)・「内房」(静岡県富士宮市、旧庵原郡)は、まさに「観応の擾乱」の主要舞台の地の1つと言えるであろう。観応2年(1351)12月に駿河国庵原郡で足利尊氏軍と足利直義軍が交戦し、この戦が大きな契機となって両者の命運は決定されたのである。

緑枠が旧庵原郡(町村制施行時のものであり、中世の郡を示したわけではない)

しかしこの部分についてはいくつかの留意点もあるので、それを先ず述べてからにしたい。

足利尊氏

まず小和田哲男『武将たちと駿河・遠江』は、この戦に関して以下のように説明している。

27・28日の両日、再度戦いがくりひろげられ、直義側は、由比・蒲原に陣をとる上杉能憲、内房(現、芝川町内房)に石塔義房・頼房父子が陣を構え、桜野から内房にかけての地域で激戦が展開した。ふつうこのときの戦いを薩埵山合戦の名でよんでいるが、『太平記』に記されたことからその名が一般的となったものであるが、実際の戦いの行われた場所からいえば、"桜野合戦"あるいは"桜野の陣"とでもよぶべきであろう

としている。この戦に関しては、古文書が伝わっていないわけではない。むしろしっかりと残っている。それ故に実際の合戦地も判明している。以下ではそれら「一次史料」をベースとして解説を進めていきたい。


  • 古文書等から

この合戦の状況を示す好例としてまず挙げられる史料が、京都大学総合博物館所蔵『駿河伊達家文書』である。京都大学文学部編『京都大学文学部博物館の古文書第5輯 駿河伊達家文書』には以下のようにある。

時あたかも南北朝の動乱は、尊氏・直義の対立によって激烈の極みに達していた。いわゆる観応の擾乱である。(中略)この間、駿河伊達氏の当主景宗は、一貫して尊氏方として、直義方や南北朝の軍勢と戦い、文字通り東奔西走した。そのありさまをよく物語るのが、写2~9の文書である。(中略)尊氏は先にも述べたように11月4日に京都を発して東に向い、12月13日には駿河手越宿に到着した。尊氏から恩賞を与えられた景宗は、観応2年(正平6、1351)12月27日から28日にかけての桜野の戦い(『太平記』に言う薩埵山合戦)でも奮戦した

とある。実はこれとは別に同じく入江庄の駿河伊達氏に関する文書群である『伊達与兵衛家文書』が中央水産研究所に伝わっている。史料は16点であるが、その中の正平7年(1352)年閏二月十四日「包紙(「駿河国入江庄内下知状 前遠江守在判 伊達藤三景宗」とあり)が注目される。中央水産研究所の報告書『伊達与兵衛家文書(採訪時住所 静岡県清水市入江)』によると"「正平七(1352)年閏二月十四日」の日付に大方の人は衝撃を受けたであろう。しかし後に、これは江戸時代に書かれたものとの見解に落ち着いたのである"としている。しかし京都大学総合博物館所蔵『駿河伊達家文書』のものは南北朝期を示すものが多数残されており、伝来の経緯は全く異にするものと考えられる。

また『伊達与兵衛家文書』に関する説明で、以下のようにもある。

一見してこれらの文書群は駿河国入江庄(現在の静岡県清水港の北西に広がる地域)を根拠地とした駿河伊達氏が残したものと推測できた。(中略)系図景宗の項に中世期におけるこの家の由緒(記事)が簡潔に書かれている。これによると、「足利尊氏に従い手越河原ノ合戦で高名感状を賜ったこと、観応二年十一月二十五日尊氏が関東御下向の時、駿河国佐田山合戦で高名、同年十二月二十七日、由比山桜野合戦で高名、駿河国入江庄を賜わり代々知行する。文和元年同国大津城、同鴾山城・神戸城にて高名、これにより正平六年十二月二十二日、右近将監に任ぜられる、その後、正平七年閏二月二十四日、駿河遠江の大将として今川上総介範氏御下向の間彼手に属し忠節いたすべく由、尊氏より御教書を賜る、その後今川家に属し戦功をたて感状数十通伝来する」とある。この由緒を裏付ける文書は多数現存し、今岡前書掲載の写真で確認できる。

とある。実際に裏付ける文書は多く存在し、『駿河伊達家文書』もその代表格である。まず「手越河原ノ合戦」「佐田山合戦」も史実である。「手越河原の戦い」は建武2年(1335年)のものも知られるが(足利直義 対 新田義貞)、この場合は観応2年9月27日の合戦を指す。また「佐田山合戦」(薩埵山合戦)は観応2年11月25日のものを指す。



上は「伊達景宗軍忠状」(『駿河伊達家文書』、軍忠状は自分の戦功を申告する文書のこと)の1つであるが、「同十一日車返宿有御合戦」とあり観応2年9月11日に景宗は駿東郡の車返宿にて合戦、「同廿七日於手越河原合戦之時抽忠節畢」とあり9月27日に手越河原合戦、「自小河打出小阪山打越之時」とあり11月16日には小坂山にて合戦している事がわかる。

また以下の「足利尊氏軍勢催促状」によると、9月11日は車返宿以外でも合戦があったようである。こちらには景宗は参戦していない。

A文書

B文書

内容を見てみると、同日発給で内容は類似していることが分かる。この部分については松本一夫「南北朝期における書状形式の軍勢催促状に関する一考察」に詳しい。

内容から見ていずれも正平6年(1351)12月15日付で尊氏が時の信濃守護小笠原政長に宛てて出した軍勢催促状である。すなわち尊氏は、同じ合戦について政長に対し、御判御教書と書状をそれぞれ発給していたことになる。何故こうしたことを行ったのであろうか。2点を見比べてみると、史料5(註:A、上のもの)の御判御教書の方も単なる形式的な軍勢催促ではなく、歩い程度詳しい戦況を報じて急ぎの参陣を要請はしている。しかし史料6(註:B、下のもの)の方は、傍線部分にあるように、由比・蒲原で味方が一応勝利したけれども、敵方はなお悔りがたい動きを示していることが正直に記されている。総じて史料6は、5に比べてより率直に味方の危機的状況を訴え、急ぎの出兵を求めたものになっている。この1例のみからの判断ではあるが、足利尊氏の場合、形式的内容であることが多い御判御教書による軍勢催促を補う形で、実情をより具体的かつ率直に伝える書状を自らが副えることがあったものと考えられよう。

としている。まずA文書に「今月十三日於由比山取陣畢」とあるので、尊氏は12月13日に由比山に陣を置いていることが分かる。由比山は浜石岳のことであるとされる。そして尊氏軍は11日の「蒲原河原の戦い」にて直義軍に勝利している。小笠原政長に対し、信州での活躍を称賛した上で自陣の状況を説明し、そして軍勢催促を行う流れである。それが端的に示されている。しかしB文書は「十一日の合戦に由比・蒲原にて討勝と言えども猶大勢由比越内房この道かかり候て、既に先途の合戦にて候…」とあり、より具体的且つ感情的である。また小松茂美『足利尊氏文書の研究』Ⅲ解説篇には以下のようにある。

これ(註:B文書)は、前掲(註:A文書)と同日の日付。宛所も同じ「小笠原遠江守殿」とある。前掲は奉行人がしたためた軍勢催促状であるが、これは尊氏みずからが自筆を染めた消息(原本)である。前掲の軍勢催促状を書かせ、みずからの花押を据えた直後に、尊氏はふと気を取りなおして、筆を執ると、一気にしたためたのが、この一通である。この消息には、そのような尊氏の心中の微妙な動きを感知させるものがある。

またB文書の本文と月日の間に異筆で「尊氏御自筆」とある。






以下は伊達景宗軍忠状の1つである。伊達景宗は今川氏の被官であったため、今川範氏の証判を得ているのである(この時の駿河守護は今川範国であったが、在京していたため範氏が対応し証判を与えている)。



ここに「十二月十三日将軍家当御陣御着之間、則日又被移御陳於桜野之時」とあるため、尊氏は12月13日に今川範氏・伊達景宗と合流し、そして桜野に移った事がわかる


この文書から「由比越(由比山)」と「桜野」は異なる場所であり、桜野がより内房寄りに位置することが推察される。上のA文書(小笠原政長宛て)にも「今月十三日於由比山取陣畢」とあるので、やはり由比越(由比山)に陣を布いていたのだろう。そして同日に桜野に移動し臨戦態勢に入るのである。こう考えると、そもそも尊氏は薩埵峠には陣を布いていないのである。由比越ですら合流のために一時居たのみで、直ぐに桜野に移動しているのである。


上は「別府幸実軍忠状」であるが、「駿河国由井山上御陣処」とあり、「由比山上」とある。これはやはり「由比山の上」と理解すべきであり、由比山より北上し桜野へ移ったことを物語ると考えられる。

では直義軍はどうであろうか。「足利尊氏軍勢催促状」には以下のようにある。


「御敵等取登駿河国内房山之間」とあり、直義軍は内房山の地に居た事が分かる。また先のB文書に「猶大勢由比越内房この道へかかり候て」とあることも、この場所に軍勢がいたことの証左となるだろう。



内房に直義軍が至った背景として先ず「内房が交通の要衝であったこと」が挙げられるだろう。「駿州往還と富士宮市内房の歴史」で記しているように、中世の駿州往還にて内房は重要な中継地点であった。ならばこの時代も街道が存在したと考えてもおかしなことではない。大軍の退路にもなり得るというわけである。


  • 太平記の検討

上述のものは古文書をベースとして整理した文章である。一次史料に該当する『駿河伊達家文書』等と軍記物である『太平記』は乖離が激しく、もっといえば『太平記』の誤りが甚だ激しい。また『太平記』に「薩埵山合戦ノ事」とあるのみで現在「薩埵山の戦い/薩埵山合戦」と称されているに過ぎないのである

『太平記』の内容を抜粋し、そこから検討してみよう。

十一月晦日駿河ノ薩多山二打上リ、東北二陣ヲ張給フ(中略)其勢僅二三千余騎ニハ不過ケリ(中略)一方ニハ上杉民部大輔憲顕ヲ大手ノ大将トシテ、二十萬余騎由井・蒲原ヘ被向。一方ニハ石堂入道・子息右馬頭頼房ヲ搦手大将トシテ、十萬余騎宇都部佐ヘ廻テ押寄スル。高倉禅門ハ寄手ノ惣大将ナレバ、宗トノ勢十萬余騎ヲ順ヘテ、未伊豆府ニゾ控ラレケル

まず「十一月晦日駿河ノ薩多山二打上リ」とあり、尊氏は11月31日に薩埵山に到着したことになっている。正平6年11月26日の結城朝常宛の足利尊氏書状に「すてに今日廿六日かけかハへつき候へく候」とあり、11月26日の段階では掛川に居た。つまり尊氏は東海道を用いて東に下ってきたのである。そして軍勢催促状に「今月十三日於由比山取陣畢」とあるので、12月13日に由比山(浜石岳)に布陣したという理解が正しい。まず冒頭から『太平記』の記述は誤りであり、日時および場所が異なっていると言える。

また特に尊氏軍と直義軍の兵力差は誇張以外の何者でもない。尊氏軍は「三千余騎に過ぎざりけり」と「三千に過ぎない」とあるのに対し、直義軍は「大手の大将である上杉憲顕は20万騎(由比・蒲原)」「搦手の大将として石塔義房・石塔頼房親子が10万騎(内房)」「総大将の直義直轄軍は10万騎(伊豆国府に在陣)」とある。つまり

尊氏軍:計3,000
直義軍:計300,000(直義直轄軍除く)

としているのである。また「太平記」のその後の記述として「取巻ク寄手ハ五十万騎、防グ兵三千余騎、而モ馬疲レ粮乏シカレバ」とあり、直義軍は50万騎で尊氏軍は3,000騎であったとしている。「取巻ク寄手ハ五十万騎、防グ兵三千余騎」という記述からも分かるように、尊氏側の立場から見た記述である(太平記はすべてそうであるが)。

しかし全くの想像ではないので人物も実際参加した武将であるだろうし、地名もそうである。なのでここで「宇都部佐」と「=内房」がでてくるのは順当であろうしかし冷静に見れば、ここに「内房」と「薩埵山」の2地点が本戦直前の「布陣地」として出てくること自体がおかしいのである

赤枠:富士宮市内房

というのも、地図を見ればわかるように「内房-薩埵山間」はとんでもなく離れているためである。しかし軍忠状には「今月十三日於由比山取陣畢」とあるため、明らかに陣地は内房に隣接する側にあるのである。場所は浜石岳より更に北になるのである。

また一部で「薩埵山体制」なる言葉も存在する。「豊島氏とその時代」には以下のようにある(講演録)。

そのような初期鎌倉府の段階のなかで、観応の擾乱が起こってきます。尊氏と直義が血みどろになって、何度も何度もいろいろな戦いを繰り返し、最終的にはどこで決着がついたかというと、駿河国の薩埵山(東海道の一峠)で両軍が相まみえて、そこで尊氏方が勝利する、これが薩埵山合戦です。その薩埵山合戦の勝利によって、最終的に勝った尊氏が、その翌年に武蔵野合戦と言う形で、反対派の上杉憲顕・新田義宗連合軍を撃破して関東の政治的・軍事的支配権を確立する。この時点で、勝利するために尊氏方に結集した勢力の三本柱が、畠山国清と河越直重と宇都宮氏綱です。この三本柱を中軸に尊氏が組織した政治体制を「薩埵山体制」と名づけました。(中略)観応2年(1351)の観応の擾乱、上杉氏の没落、薩埵山体制の確立という一線でもって、きれいに変化し、越後の守護は上杉から宇都宮、上野の守護も同様、そして武蔵の守護も、上杉憲顕から仁木頼章を経てその後畠山国清へと、相模の守護が河越氏、そして伊豆の守護が畠山国清にと変更される。1351年から1362年のほぼ10年余の間その体制でいくわけです

とある。今考えると妙な言葉と言えるが、これら武将は概ね「薩埵山合戦ノ事」に見えるのである。また「鎌倉府「薩埵山体制」と宇都宮氏綱」には以下のようにある。

東国支配のため関東に留まる尊氏の子基氏のもとで、畠山国清は基氏を補佐する関東管領と武蔵・伊豆守護、河越直重は相模守護、宇都宮氏綱は越後・上野守護にそれぞれ任じられた。このような支配体制が成立する発緒となったのが薩埵山合戦であったところから、この体制は「薩埵山体制」ともよばれる

とある。引き続き『太平記』を検討する。「薩埵山合戦ノ事」には以下のようにある。

相順フ兵ニハ、仁木左京大夫頼章・舎弟越後守義長・畠山阿波守国清兄弟四人

尊氏に相したがう兵として「仁木頼章」「畠山国清」等が見え、両者は観応の擾乱後に躍進した。また

去程二将軍已薩埵山二陣ヲ取テ、宇都宮ガ馳参ルヲ待給フ由聞ヘケレバ

とあり、尊氏はすでに薩埵峠に陣を布いており、そこへ宇都宮氏綱が参じるところであるとしている。またそれを見た直義は上野国に一万余騎を差し向けたとある。またその後の記述で「十二月十五日宇都宮ヲ立テ薩埵山ヘゾ急ケル」とあり、氏綱は12月15日に急いで薩埵山に向かったとある。また「其勢千五百騎、十六日午剋二、下野国天命宿二打出タリ」とあり、16日には上野国天命宿に着いたとある。

しかし自軍の三戸七郎(高師親)が錯乱し自害してしまい門出が悪いということで「始宇都宮ニテ一味同心セシ勢許二成ケレバ、僅二七百騎ニモ不足ケリ」という状況となり、急にその千五百騎は七百騎へと激減したとある。その勢は「十九日ノ午剋二、戸禰河ヲ打渡テ、那和庄二著ニケリ」とあり、氏綱は19日には那和庄に着いた。

すると「桃井播磨守・長尾左衛門、一萬余騎ニテ迹二著テ押寄タリ」とあり、氏綱に桃井直常・長尾景忠が襲い、その後桃井・長尾連合軍は敗走したとある。またその後「宇都宮二付勢三萬余騎二成リニケリ」とあり、この動向は直義軍に届いていたといい、「薩埵山ノ寄手ノ方ヘ聞ヘケレバ、諸軍勢皆一同二、「アハレ後攻ノ近付ヌ前二薩埵山ヲ被責落候ベシ」ト云」とある。

足利直義(歌川国芳筆)

このように直義軍の諸軍は宇都宮勢が後詰めの勢力となる前に攻めるべきであると主張したが、石塔義房・上杉憲顕は聞き入れなかったとある。但し、この一連の記述は特に疑わしい。直義軍の石塔親子に関しては序盤部分に

一方ニハ石堂入道・子息右馬頭頼房ヲ搦手ノ大将トシテ、十萬余騎宇都部佐へ廻テ押寄スル

とあり、内房(宇都部佐)に布陣したとある。この石塔義房は伊豆国守護であったが、観応の擾乱後はその地位を失った。上記にある「直義軍の諸軍が、宇都宮勢が後詰めの勢力となる前に攻めるべきであると主張した」という流れの後に太平記は

石堂・上杉、曾不許容ケレバ、余リニ身ヲ揉デ、児玉党三千余騎、極メテ嶮シキ桜野ヨリ、薩埵山ヘゾ寄タリケル

と記している。「極メテ嶮シキ桜野ヨリ、薩埵山ヘゾ寄タリケル」とあり、痺れを切らした直義軍のうち児玉党三千余騎が薩埵山に攻めかかったことになっている。ここは重要な箇所であろう。つまり太平記は尊氏は薩埵山に陣を布いており、そこへ直義軍が攻めかかる構図をあくまでも崩さないのである。しかし文書等から尊氏はこのとき薩埵山に本陣は布いていないことが判明しているので、この記述は明確に誤りである。しかも内房から薩埵山に攻めかかる構図であり、その距離感は不可解としか言いようがない。しかし太平記でも「桜野」が出てくるのは極めて重要であって、伊達景宗軍忠状に「十二月十三日将軍家当御陣御着之間、則日又被移御陳於桜野之時」とあることから

桜野→尊氏軍の本陣
内房→直義軍の本陣

という理解が成り立つのである。駿河国の地名としてはここまで「薩埵山」「桜野」「内房」等しか出てきておらず、その中で整合性を求めるならばこの理解以外は難しい。また太平記はこう続く。

児玉党十七人一所ニシテ被討ケリ。「此陣ノ合戦ハ加様也トモ、五十萬騎二余リタル陣々ノ寄手共、同時二皆責上ラバ、薩埵山ヲバ一時二責落スベカリシヲ

つまり諸軍のいうことを聞き石塔義房・上杉憲顕も同時に攻めていたら薩埵山は落とせていたかもしれないが、それをしなかったので児玉党は討ち取られてしまったとしているのである。しかし正平7年正月の伊達景宗軍忠状には

十二月十三日、将軍家当御陣御着之間、則日又被移御陳於桜野之時御共仕、同廿七日御敵石塔入道殿・同厩幷子玉党以下凶徒等寄来之処

とある。実際は石塔父子と児玉党は12月27日に尊氏軍を襲っていることが分かるのである。この記述からは石塔父子と児玉党はやはり行動を共にしていることが分かるのであり、太平記が記すようなことは無かった。

その後太平記は「廿七日、後攻ノ勢三萬余騎、足柄山ノ敵ヲ追散シテ」とあり、宇都宮勢は足柄山まで到達したとする。また以下のように続く。

焚續ケタル篝火ノ数、震ク見ヘケル間、大手搦手五十万騎ノ寄手共、暫モ不忍十方へ落テ行。仁木越後守義長勝二乗テ、三百余騎ニテ逃ル勢ヲ追立テ、伊豆府へ押寄ケル間、高倉禅門一支モ不支シテ、北条ヘゾ落行給ヒケル

直義軍は篝火の数の多さから恐れをなし、50万騎は十方へ落ち延びていったとある。また仁木義長は直義の居る伊豆国府に押し寄せ、直義はそれを支えられないと見て北条へと落ち延びていったとある。上杉・長尾左衛門に関しては、信濃国に落ち延びたとある。その後直義の元に和睦の提案があったため、それを受け入れ鎌倉へと帰ったという流れで「薩埵山合戦ノ事」は締めている。

そもそも何故直義は直接尊氏と対峙しなかったのであろうか。亀田俊和『観応の擾乱』には以下のようにある。

また薩埵山包囲戦の最中、直義は伊豆国府から一歩も動かなかった。(中略)直義の消極性と言えば、軍勢催促状にもそれが現れている。擾乱第一幕においては、直義は武士に動員を命じる際、師直・師泰の誅伐を大義名分に掲げていた。しかし第二幕では、その師直・師泰はもういない。この時期においては、直義は尊氏軍を単に「嗷訴の輩」などと称するのみであった。最後まで尊氏を名指ししなかったのである

とある。また同氏は高師直との抗争が勃発して以降精神的・肉体的重圧が相当強くのしかかっており、望まない戦争と実子の陣中での死等が理由で健康状態を悪化させていたのではないかと指摘している。直義は正平7年(1352)2月26日に死亡している。この日は高師直が死亡した日と同じである。毒殺説がよく指摘されている直義であるが、単純に健康状態の悪化が原因ではないかと指摘している。

結果論ではあるが、この戦の後まもなくして死去しているのだから、大契機であったことは間違いない。それにも関わらず直義は駆けつけていないのである。直義は憔悴していたのだろうか。本気で討ち取る気があったのか、という疑問さえ出てくる。

  • まとめ

まず「文書」および「太平記」との親和性を考慮すると、以下のようになる。




文書内容
伊達景宗軍忠状十二月十三日将軍家当御陣御着之間、則日又被移御陳於桜野之時
足利尊氏軍勢催促状(小笠原政長宛)大勢由比越内房この道かかり候て(12月15日発給)
御敵等取登駿河国内房山之間(12月17日発給)
『太平記』 宇都部佐ヘ廻テ押寄スル
極メテ嶮シキ桜野ヨリ、薩埵山ヘゾ寄タリケル

これらの史料より本戦時に「薩埵山」が本陣の所在地である可能性は否定でき、文書および「太平記」双方で登場する「桜野」「内房」はそれぞれ尊氏軍と直義軍の陣が位置していた地と考えられる。石塔父子は他街道を経たのち駿州往還を用いて内房に着陣し、足利尊氏は東海道を用いて由比に至りその後北上して桜野に着陣した。そして両者交戦したのである。結果尊氏軍が勝利し、そして直義軍は敗走した。これがこの合戦の過程と結果であると考えられる。石塔父子の敗走ルートは東海道とはとても思えないので、やはり駿州往還を経てのものであっただろう。

従来の説は太平記にあまりにも寄りすぎているように思う。「薩埵山体制」なる言葉も、それを色濃く反映していると言えるだろう。「桜野・内房合戦」と言ったほうが正確であると考えている。

  • 参考文献
  1. 亀田俊和,『観応の擾乱』,中央公論新社,2017
  2. 小和田哲男,「南北朝の内乱」『武将たちと駿河・遠江』,2001
  3. 日本古典文学大系36『太平記三』,岩波書店
  4. 大塚勲,「南北朝・室町時代」『駿河国中の中世史』,2013
  5. 峰岸純夫,「南北朝内乱と東国武士-「薩埵山体制」の成立と崩壊を中心に-」『豊島氏とその時代―東京の中世を考える』,新人物往来社,1998
  6. 江田郁夫,『室町幕府東国支配の研究』,高志書院,2008
  7. 鈴木江津子,「駿河伊達氏の末裔「津山松平家臣伊達家」文書の考察」『歴史と民俗29』平凡社,2013
  8. 松本一夫,「南北朝期における書状形式の軍勢催促状に関する一考察」『中世史研究』第39,2014
  9. 小松茂美『足利尊氏文書の研究』Ⅲ解説篇,1997
  10. 呉座勇一,「初期室町幕府には、確固たる軍事制度があったか?」『初期室町幕府研究の最前線』,2018
  11. 『静岡県史』資料編6 中世二
  12. 静岡県地域史研究会,『静岡県地域史研究会報第6号』,1982年

2018年8月10日金曜日

駿州往還と富士宮市内房の歴史

まず富士宮市というのは、街道が複数以上通過する地域である。詳しくは「中道往還と浅間大社そして大宮口登山道」にて記しているが、今回はそのうちの「駿州往還(河内路)」について取り上げていきたいと思う。

「足利尊氏軍勢催促状」(正平6年12月15日)に見える「うつぶさ

河内路は甲斐から駿河へ至る主要街道の1つであるが、その役割はとても大きいものがあった。現在の富士宮市でいうと内房(旧庵原郡)が河内路に属しており、重要な中継地点であった。「駿甲同盟」の際の嶺松院(今川義元娘)の輿入れの様子が好例であるので、挙げることとする。

「足利尊氏軍勢催促状」(正平6年12月17日)にみえる「駿河国内房山

まず今川義元の正室であった定恵院(武田信玄姉)が、天文19年(1550)6月に死去した。同盟関係上新たな関係構築が求められ、信玄の嫡男である武田義信に義元の娘である嶺松院が嫁ぐことになった。そのため駿府・甲斐間で婚儀のためのやりとりがなされ、信玄家臣である駒井高白斎がその取次を行い、天文21年(1552)11月に嶺松院は輿入れした。その様子が『甲陽日記』に記されている。

十九日丁酉御輿ノ迎二出府、当国衆駿河へ行(中略)廿三日ウツフサ廿四日南部廿五日下山廿六日西郡廿七日乙巳酉戌ノ刻府中穴山宿へ御着

駿府-興津-内房(富士宮市)-南部-下山-西郡-甲府というルートで移動している。これは河内路である。

武田信玄

またこの輿入れは大変華やかであったとされ、『勝山記』には以下のようにある。

武田殿人数ニハ、サラニノシツケ八百五十腰シ、義元様ノ人数ニハ五十腰ノ御座候、コシハ十二丁、長持廿カカリ、女房衆ノ乗鞍馬百ヒキ御座候

武田側は850人、今川側は50人が随行し、輿は12、長持(衣類等を収納する箱)は20、女房衆の馬は100頭にも上ったという。特に武田側の850人は驚くところであり、その壮大さを感じるところである。もちろん内房の地も通過したのである。

しかし、「桶狭間の戦い」以後の今川家の凋落を好機とみた信玄は駿河侵攻を展開。現在の富士宮市域も武田氏が領するところとなった。


その過程で「内房口の戦い」も行われた。

穴山信君

そこで以下のような文書が残る。



(齋藤2010)には以下のようにある。

この史料は勝頼段階の天正8年の史料であるが、河内路の要衝を書き連ねている。(中略)河内路の谷間の重要地点は万沢・南部・下山・岩間であったことがわかる。

この史料については、(小和田2001;pp.365-366)や(柴辻2001;p.281)でも言及されている。また(齋藤2010)は以下の史料をあげ、次のような説明を加えている。


年未詳


「爰駿州境目本栖・河内用心等、不可由断之由、申遣候」と富士南麓に出陣した武田勝頼が甲斐府中で留守居を務める跡部勝忠に報じていることが確認できる。具体的な年次が確定できないが、本栖および河内が北条氏に対する甲斐国境の拠点に位置付けられ、勝頼の代に至っても軍事的に重要な地点であることは不変であった

ちなみに当書状について『戦国遺文』では永禄10年(1567)とし、(齋藤;2010)は天正8年(1580)としている。永禄10年というと駿河侵攻の頃であるが、このとき富士山南麓に信玄の出馬はあっても勝頼の出馬は無かったため、永禄10年の可能性は大変少ない。

そして本栖側の街道は「中道往還」なのである。

武田勝頼

現在の富士宮市というのは、この「本栖」と「河内」に隣接している。例えば本栖湖は富士宮市の目と鼻の先にある。富士郡の要衝であり大宮城が位置した「大宮」まで距離はあるものの、本栖や河内から武田軍が進行していた際は特に緊張した状態にあったことは言うまでもない。

  • 参考文献
  1. 齋藤慎一(2010)「武田信玄の境界認識」『中世東国の道と城館』,東京大学出版会
  2. 小和田哲男(2001)『武将たちと駿河・遠江』,清文堂出版
  3. 柴辻俊六(2001)『戦国期武田氏領の展開』 (中世史研究叢書),岩田書院

2018年7月3日火曜日

富士宮市の基本情報及び富士山との関係

このページは「富士宮市の基本情報」と「地理上の富士山との関係」についてを簡潔に説明するページです。ただこのページは「歴史」についても少し触れようと思います。イメージが湧きやすいように画像を多用しておりますので、御覧ください。

富士宮市からの富士山
キーワード:
世界文化遺産、構成資産、富士山本宮浅間大社、富士上方、富士大宮司、富士氏、大宮城(富士城)、富士川舟運、中道往還、大宮(富士宮市の中心部の従来の地名、登山口)、村山(登山口、富士山修験道の中心地)

最低標高:35m  最高標高3,776m、標高差日本一

富士宮市は静岡県東部の市。富士山を主体として考えた際の静岡県側の中心自治体である。「富士宮」(=富士ノ宮)という富士山本宮浅間大社を指す古来の言葉が市名の由来である。中世より「富士上方」と称され、その範囲は現在の富士宮市域と概ね一致している。富士宮口新五合目が位置する、富士山への玄関口である。

歴史的に見てこの地で何が大きな事象とされていたかといえば、それは「富士大宮司の動向」であった。「富士大宮司」は富士氏の筆頭が名乗る神職名である。つまり以下の構造が見えてくるのである。

  • 富士氏:富士宮市を根拠地とした氏族
  • 富士大宮司:上の氏族の当主が名乗る「神社の神職名」
  • 富士山本宮浅間大社:上の神社のこと

これは先ず押さえておく必要があるだろう。富士氏は戦国時代には大宮城(富士城)の城主でもあった。

紫の箇所は護摩堂跡とされ、また周辺には三重塔もあった。大宮城は大社の東側に位置した

ここからは市域の下→上に移動しながら説明しておこうと思う。市域の下には富士川が流れており、この地域の人々は富士川舟運を糧としていた。「森家」や「沼久保の問屋跡」が知られる。

現在は両者は1つの市である

森家は市域でも「旧芝川町域」を根拠地としていたが、この芝川には「佐野氏」や「篠原氏」もおり、特に佐野姓は現在多く存在している。

また中道往還の存在がこの地域の文明を支えていたとも言え、中道往還沿いに富士山本宮浅間大社は位置している。


その一帯は古来より「大宮」と言い、登山道の起点である。大宮は戦国時代楽市が行われたことでも知られている。


以下はその朱印状である。

発給者:今川氏真 宛:富士信忠

また大宮より東北に「村山」という地があり、ここも登山口である。それをまとめた呼称が「大宮・村山口登山道」であり、以下のような地理的関係にある。


つまり「大宮」「村山」という富士山関係の主要な歴史地区が複数含まれているのが富士宮市なのである。そのため「富士宮市と富士山」という枠組みで歴史を説明するのは、あまりに大きすぎると言える。村山には富士山興法寺があり(以下の各施設群を総称した呼称であるが、主に中世の呼称)、それを管理する村山三坊が知られる。


大鏡坊・辻之坊・地西坊を合わせて「村山三坊」という。



世界文化遺産富士山の構成資産として当市に関わるものを以下にまとめた(富士山域を除く)。


構成資産
大宮・村山口登山道
富士山本宮浅間大社
山宮浅間神社
村山浅間神社
人穴富士講遺跡
白糸ノ滝

富士上方でもより上方に至ると富士五山の各寺が見えてくるし、構成資産のうち「人穴富士講遺跡」や「白糸ノ滝」も姿を見せてくる。

様々な「講」による建立物が現在も残る
人穴富士講遺跡には富士講信者による多くの建立物が残り、また白糸ノ滝にも関連する石碑がある。環境省により公開された「富士山がある風景100選」の、本市に関わる展望地一覧を以下に示す。


No.「富士山がある風景100選」展望地
61道の駅朝霧高原
62朝霧さわやかパーキング
63朝霧自然公園(朝霧アリーナ)
64田貫湖
65長者ヶ岳
66白糸の滝付近
67白糸自然公園
68狩宿下馬桜
69西臼塚駐車場
70天母山自然公園
71山宮浅間神社
72柚野の里
73興徳寺
74潤井川桜並木
75神田川御手洗橋
76富士山本宮浅間大社
77稲瀬川

また富士宮市は「特別天然記念物」を複数保持する市でもあり、1つは「湧玉池」ともう1つは「狩宿の下馬桜」である。狩宿の下馬桜は日本五大桜にも数えられる著名な一本桜である。市の最北部に行くと毛無山が位置するが、毛無山は鉱山でもあり、それは富士金山と呼ばれた。このように自然関係の文化財に恵まれた市と言えるだろう。


千居遺跡
以上が、「富士宮市と富士山との関係」についての簡潔な説明である。

  • 富士宮市における「富士〇〇」

富士宮市には「富士」を冠する歴史的名称が多い。これは周辺の静岡県の地域と比較しても圧倒的である。概ね、以下のようなものが該当する。

  1. 富士山
  2. 富士川
  3. 富士野(富士の巻狩の地)
  4. 富士氏
  5. 富士城(大宮城)
  6. 富士海苔
  7. 富士金山
  8. 富士五山(ここは含めたり含めなかったり。比較的最近の名称です)

実は「富士山の歴史」というのは、このうちの1つに過ぎないのである。このうち「3」と「6」と「8」は当ブログではまだ未着手である。

何より恐ろしいのは、富士宮市の刊行物を見ると「3」と「6」は出てきているのかさえ疑わしいことである。例えば、『富士野往来』も言及しているケースが殆ど無いように思われる。多くの時代に関して、同じようなことが言える。

「富士川と富士宮市」というテーマで論じるものも思いの外少ない。富士市が同テーマで企画展を、しかも複数回行っている点から考えても不可解である。「森家」や「富士山木引」といったことも、富士宮市の刊行物で見かけたことがない。そもそも「富士氏」自体も"取り上げている"とはとても言えない状態なのである。「等閑視の常態化」が垣間見えるのである。

実はこれらには共通項があり、「中世期」というワードが挙げられる。例えば富士宮市教育委員会による歴代の「調査報告書」を見ても、中世期を取り上げたものは殆どないのである。対して「古代」は多く見いだせる。このような両極端な状況は深く危惧するところであり、改善を求めたいところである。かなり可能性を狭める行為であると言わざるを得ない。