2012年12月11日火曜日

社家町としての駿河大宮

「大宮」は旧駿河国富士大宮のことであり、現在の富士宮市中心部を指す。大宮は浅間大社を核とする富士信仰の中心地であり、その経緯から浅間大社の門前町として拓かれた。神社付近である門前には社家が家を構えており、この事実から大宮を別の言葉で表すと「社家町」とも言える。

春長坊(宮崎氏)付近の石碑 「社人町中」とある
神社の神職が社人であり、それら多くの社人が門前に住み着いていたからである(代々社人の家柄が社家)。現在は社家町としての光景はほとんど垣間見れないが、大宮は紛れもなく社家町であった。今回は、その部分について着目していきたい。

  • 社人の居住地について
社人はどの辺りに集合していたのであろうか。時代によって変移はあるとは思うが、浅間大社を取り囲む「宮町」辺りであるということは言えるだろう。しかしその中でも以下の通りは注目される。


黒の通り
この通りは現在も直接浅間大社の鳥居と繋がっている通りで、社人町の通りとして注目される。また明治初年の配置は以下のようであったという。



これらの資料から、この通りが社人町の通りとして注目される。この通りに位置した社人として代表的な存在に「宮崎氏」がいる。

  • 宮崎氏
まず以下の御影(御札)を見て頂きたい。
御影(牛玉札の類),「富士の信仰」P322より、江戸期のものと推察される

ここには「宮崎春長坊」とある。これは「宮崎氏が管理する春長坊」と解釈できるのだが、「大宮社中」などとあることから浅間大社の坊であることを明確に意味する。浅間大社の坊というのは「道者坊」であり、道者の宿泊施設であった。それを管理していたのが宮崎氏であり、その道者坊の名称が「春長坊」なのである(少なくとも江戸時代はそう)。いわゆる「大宮道者坊」の1つである。以下で挙げる複数の文書から、古い時代の春長坊の存在が確認ができる。

『戦国遺文今川氏編第二巻』一三六四号文書

これは春長宛てで、弘治三年(1557)のものである。朱印状中の「宇流井河」は今も存在する「潤井川」のことですね。

『戦国遺文今川氏編第二巻』一五六七号文書、「今川氏真判物」春長宛、≈以後省略

こちらも春長宛ての文書であり、永禄三年(1560年)のものである。文言から「春長坊」の存在が確認できる。つまり少なくとも16世紀中盤には春長坊は存在していることになる。「四和尚」は神職のことである。このことから「四和尚」=「春長坊」ということになる(坊の担当神職という感覚)。

『戦国遺文今川氏編』一五七一号文書

こちらは神職「一和尚」の「清長」宛ての文書であり、永禄三年(1560年)のものである。文中に「春長清長両人」とあることや、「一和尚」という神職である事実、人名などから同族のように思える。同じ時代に「春長」「清長」がおり、それぞれ「四和尚」「一和尚」であった。同族で異なる神職であったと考えられる。

時代が下り江戸期の神職の区別においては、「一和尚」・「四和尚」は「総社家」の中の1つとなっている。またそれぞれ「一宮仕」「四宮仕」という名称となっている。「戦国時代-江戸時代」の記録を鑑みると、やはり春長坊の宮崎氏が最も大きいように思える。春長坊の宮崎氏は、伝承では本来「井出氏」であったという。その井出氏の井出長閑が宮崎氏を名乗ったとされる(伝承の域を出ない)。ちなみに春長坊の宮崎氏は、現在の「宮崎ふとん店」(富士宮市宮町)である

米之宮浅間神社
幕末期の春長坊の当主は「宮崎隆三」といい、「駿州赤心隊」に参加したという。その駿州赤心隊の隊長が富士氏の「富士重本」である。富士重本は浅間大社の大宮司である。その後の宮崎家の当主は富士市に転出し、米之宮浅間神社の神職を務めているという。ここでも、富士宮市からの流れが確認できる(一五七一号文書の「富士市本市場」とはそういうこと)。富士市の富士信仰関連は、大変にそういうものが多い。神職を務めている人物に着目することも重要で、例えば「北口本宮冨士浅間神社」(山梨県富士吉田市)の現在の宮司は吉田御師の家系だったりします。また雲見浅間神社の宮司は高橋家の世襲であるという(羽衣出版 『山と森のフォークロア』P96-97)。このように現在の浅間神社の神職が、比較的由緒がある家系の色が強いことを考えると、富士氏が浅間大社の大宮司に復帰しても良いように思える(富士氏は続いているので)。

  • 鈴木氏
「祝子」・「七之宮禰宜」に鈴木氏がいる。鈴木氏の当主「鈴木右京」も駿州赤心隊に参加している。この系譜を引く鈴木氏は、現在も富士宮市に在地しているという。

他も社人は多くいるが、ここでは表記しない。

  • 参考文献
  1. 堀内眞,「富士山麓の近代-宿泊施設を中心に-」,『甲斐』No113,2007年
  2. 久保田 昌希 ・ 大石 泰史編,『戰國遺文 今川氏編第二巻』,東京堂出版,2011年
  3. 浅間神社編,井野辺茂雄「富士の信仰」(富士の研究第3巻),古今書院,1928年
  4. 前田利久,「戦国大名武田氏の富士大宮支配」『地方史静岡第20号』,地方史静岡刊行会編

2012年11月21日水曜日

享徳の乱と富士氏

文書1
まず最初に文書を掲載したい(文書1)。

享徳四年(1455)閏四月十五日、上杉持朝(扇谷上杉家当主)は「富士右馬助」宛てに、所々の戦功を賞する内容の文書を発給している。そして恩賞については上杉房顕(山内上杉家当主)と相談するように、という内容である。「享徳の乱」の際富士氏は、幕府より上杉氏への支援を命じられており、こういう文書が残されている。

「右馬助」は官途名であり、そういうものは一族で継承されることも多い。寛正3年(1462年)11月2日の「後花園天皇口宣案」の受給者は「右馬助和邇部忠時」、つまり富士忠時である。そして今回の文書は1455年とさほど時期を隔てていないため、ここでいう「富士右馬助」も富士忠時と考えることができる。

次に「醍醐寺文書」を掲載する。

これは上杉持朝との約束が反故にされているため、富士忠時が西南院に宛て、細川勝元(室町幕府管領)を通じ、持朝だけでなく上杉房顕への下知も依頼した文書である。享徳四年(1455)の文書とつなげて考えることができるため、忠時が恩賞を受けていないことの不満から発給されたと考えられる。

富士忠時の時代、富士家は武力を保持していた。そのため幕府からの依頼が来ることも多く、その結果古河公方勢力と戦をしていたことが分かる。そして数々の戦功を上げていたということも分かる。それらから、反古河公方勢力の中心である扇谷上杉家や山内上杉家などと関係が深かったのである。

しかし恩賞の約束が果たされておらず、当時の室町幕府の権力者管領「細川勝元」(後、応仁の乱を引き起こす人物)を通すことで、恩賞が支払われることを望んだのであろう。享徳の乱の時の富士氏は、こういう情勢であった。


「醍醐寺文書」

  • 参考文献
  1. 黒田基樹,『扇谷上杉氏と太田道灌』P120-123,岩田書院,2004年
  2. 大石泰史,「十五世紀後半の大宮司富士家」,『戦国史研究』第60号,2010年

2012年11月16日金曜日

富士家のお家騒動と足利将軍

まず、以下の文書を紹介したい。

「足利義政御内書(写)」、『戦国遺文今川氏編』二十八号文書
これは文正元年(1466年)の「足利義政御内書(写)」であり、「足利正知」宛である。内容は、富士忠時が右馬助から能登守への昇官することを承諾した上で、大宮司職を又次郎親時(忠時の子)に譲るという内容である。つまり、大宮司職が富士忠時から親時に移行することを意味する内容である。

富士忠時」にありますように、富士忠時は富士氏の大宮司職であり、当初官途名は「右馬助」であった。「静岡県の富士山の神仏像」に村山浅間神社蔵の大日如来像を掲載しているが、その仏像の銘に「大宮司前能登守忠時」とある。富士忠時が右馬助から能登守に昇官していることの裏付けである。

今回はこの「大宮司職を又次郎親時に譲る」という部分に関連する事柄について着目したい。系図上大宮司職は、富士忠時の次代が富士親時となっている。


つまり、「足利義政御内書」と辻褄があう。この富士忠時であるが、父「兵部少輔入道祐本」と人事を巡り確執があったとされている。つまり家督相続を巡るお家騒動である。このお家騒動があったことは、様々な資料で確認できる。『臥雲日件録』には以下のようにある。

寛政六年六月十八日、本寺長老來、茶話之次、問駿州国人富士父子闘争之事

とある。寛正六年(1465年)の記録であるが、つまりこの富士家のお家騒動の事は世に知れ渡っていたのである。「富士父子」は富士忠時(子)と兵部少輔入道祐本(父)のことである。また『親元日記』にもお家騒動の事が記されている。『親元日記』の寛政6年(1465年)7月の記録には以下のようにある。

就富士兵部大輔入道親子確執之儀父子確執事候間

とある。また同年12月17日条には以下のようにある。

富士兵部大輔入道祐本方江御状、孫宮若丸就二安堵之儀二千疋、同為御判頂戴御禮千疋…

とある。これは祐本が孫宮若丸における「安堵之儀」及び「御判頂戴御礼」として計3000疋を京都に送ったという内容である。ここで一回整理しますが、富士兵部大輔入道祐本からみて息子が「忠時」であり、孫(つまり忠時の子)が宮若丸と親時である。「安堵之儀」などの文面から、祐本は忠時から宮若丸へ家督を譲ることを推していたわけである。

『戦国遺文今川氏編』第十四号文書、「伊勢貞親書状写」

そうすると矛盾がでてくる。なぜなら、足利義政御内書では「親時に譲る」とあるからである。宮若丸は富士忠時の子であるが、嫡子はあくまでも親時である。おそらく、当時の富士大宮司であった富士忠時は、家督相続は嫡子である親時が筋であると考えていた(普通は嫡子に優先的に家督相続させるものである)。しかし忠時の父祐本は嫡子ではない宮若丸への家督相続を望んだため、ここで祐本と忠時との間で深い亀裂が生まれたのである。そのようなお家騒動の中、「足利義政御内書」にて分かるように、将軍(権力者)からは「親時を大宮司とせよ」という帰結が望まれていたわけである。つまり足利義政の方針は、祐本にとっては意中にそぐわないものであった。

「十五世紀後半の大宮司富士家」によると以下のようにある。

義政の御内書写には、祐本に使節を遣わして「相宥」めたところ、祐本は納得せず、館を出て社頭を放火したという。つまり、祐本による宮若丸への家督譲渡に納得しない将軍義政に対し、祐本は反発して社頭の放火を行った、さらにこの事態に憤慨した義政が、御内書で親時への大宮司職の移動を伝えた、という経緯を知ることができよう。

とあり、祐本が権力者である足利将軍の意向に反発する動きが見られるのである。ただこの前文に「祐本の孫宮若丸は、忠時の子息と考えられるが、祐本は子息の忠時ではなく、孫宮若丸への家督譲渡を考えていたのである」ともある。この部分の記述は、「祐本の孫宮若丸は忠時の嫡子ではないが、祐本は嫡子の親時ではなく宮若丸への家督相続を考えていた」と理解している。仏像の銘に「大宮司前能登守忠時」とあることから、富士忠時が大宮司であることは間違いないし、このお家騒動の時は忠時が大宮司であったということで良いと思う。

『親元日記』三

『親元日記』三

そして親時が大宮司となることとなり、実際に明応六年(1497)に富士親時が「富士浅間宮物忌令」を発しているのである。

『戦国遺文今川氏編』一〇六号文書 ※≈の部分は省略箇所
つまりこのお家騒動は、父であり先代の大宮司と考えられる祐本が家督相続に介入したために起こった騒動と言えそうである。ちなみに「兵部少輔入道祐本」は富士直氏とされている。

『浅間神社の歴史』によると以下のようにある。

現存富士氏系図には祐本の名は無い。されど当時入道しているのを見れば、寛正3年に能登守に任ぜられた右馬介忠時は、その子と想像せられるから、二十五代直氏の入道名であり、また宮若丸は二十八代親時であろう。

とある。実際「兵部少輔入道祐本」が富士直氏かどうかは、正確には分かっていない。しかし、家督相続に異を唱えることができたのは父くらいであろうから、忠時の父と言って良いと思う。尚『元富士大宮司館跡』では「富士祐本が孫宮若丸への家督相続安堵を得て決着したようである」と記しているが、足利義政御内書を見る限りそうではなく、やはり「祐本の意図とは異なり、親時を家督相続することで決着したようである」とした方がよさそうである。ただここまではあくまでも「大宮司職を務めた流れが嫡流である」という前提で書いている。例外があるとすると、理解はもっと複雑になるかもしれない。「富士氏」という考え方と「富士大宮司」という考え方を整理する必要はある。

  • 参考文献
  1. 大石泰史,「十五世紀後半の大宮司富士家」,『戦国史研究』第60号,2010年
  2. 官幣大社浅間神社社務所編,『浅間神社史料』P8・P167,名著出版,1974年
  3. 宮地直一,『浅間神社の歴史』(名著出版 1973年)P573-575
  4. 富士宮市教育委員会、『元富士大宮司館跡』、2000年
  5. 久保田 昌希 ・ 大石 泰史編,『戰國遺文 今川氏編第1巻』,東京堂出版,2010年

2012年11月8日木曜日

高橋虫麿の不尽山を詠める歌

高橋虫麿の「不尽山を詠める歌」は以下のようなものである。

なまよみの 甲斐の国 うち寄する 駿河の国と こちごちの 国のみ中ゆ 出で立てる 不尽の高嶺は 天雲も い行きはばかり とぶ鳥も とびも上らず 燃ゆる火を 雪もち消ち 降る雪を 火もち消ちつつ 言ひもえず 名づけも知らず 霊しくも います神かも せの海と 名づけてあるも その山の 包める海ぞ 不尽河と 人の渡るも その山の 水のたぎちぞ 日の本の やまとの国の 鎮めとも います神かも 宝とも なれる山かも 駿河なる 不尽の高嶺は 見れど飽かぬかも

原文は「万葉仮名」である。もちろん、「田子の浦に うち出でてみれば…」の歌も原文は万葉仮名ですね。意味は以下のようになる。

甲斐国と駿河国の真ん中に立っている富士山は、雲をも行く手を阻まれ、鳥も飛ぶのをはばかる。燃える火を雪が消し、降る雪を火が消している。言い表すのが難しい、名をつけることもできない程の霊験あらたかな山である。せの海と名付けられるのも、富士山に包まれているためである。人が渡るその富士川も、富士山から流れい出でている。日本の国を鎮める神とも宝とも言える山である。駿河の国の富士山はいつまで見ていても飽きないことだ。

「せの海」については「富士五湖とは」を参照。以下反歌。

(1)富士の嶺に降り置く雪は六月の十五日に消ゆればその夜降りけり
(2)富士の嶺を高みかしこみ天雲もい行きはばかりたなびくものを

の二首である。その後に「右の一首は高橋虫麿の歌の中に出づ。類を以ちてここに載す」の注釈がある。もしこれがただ純粋に「右」だとしたなら、(2)の短歌を指すことになるので、他のものは虫麿作とは言えない。しかし「類を以ちて」がこれら3つを指しているのだとして、この「不尽山を詠める歌」は虫麿作という風に一般には考えられている。

「なまよみ」の意味について諸説あるが、「半分、黄泉」という意味であり、「死者の国と、この世の堺の国」という意味である。「死」や「未開の国」というニュアンスである。この「なまよみ」は甲斐国の枕詞とされているが、このようなおどろおどろしい意味が枕詞であるということに懐疑的な見方もあり、齋藤芳弘氏が「枕詞ではなかった」と指摘している。

「黄泉」自体は「イザナギ・イザナミ」の神話などに出てくるが、当時の識者はこれら神話も知っていたのであろう。「古事記」が撰上されたのは711年とされ、高橋虫麿が富士山を詠める歌を作成したのが「719年-742年」辺りとされる。だから黄泉の説話を知っていてもおかしくはない。つまり「黄泉」が「死」に直結する意味を持つことを知っていたため、「よみ」という言葉を用いたことは想像できる。「なまよみ」が用いられている古代・中世の歌は、『万葉集』『夫木和歌抄』に限られるという。そして双方とも高橋虫麿作と推定されている。つまりこの時点では、単独の人物にのみによって用いられたとしか言えない。そうすると、たしかに枕詞とは断定できないかもしれない。

不尽河と 人の渡るも その山の 水のたぎちぞ」の部分は注目である。ここでは「人が渡るその富士川も、富士山から流れい出るのだ」としている。「人の渡るも」というのは、道の途中で富士川が通っているため人が富士川を渡っていく様を表しているのであり、その山というのは富士山を指している。そしてその後「駿河なる 不尽の高嶺は 見れど飽かぬかも」としていることから、駿河国の富士川付近から甲斐の国を見て歌ったものであるとされる。しかし当然ながら富士川は富士山から発生しているわけではない。つまりイメージで言っていることになる

この事実から、「たった一例しかなかった…(参考文献)」「富士川と五湖への虫麿の誤解…(参考文献)」などで「この人物は甲斐国にいったことは無かった」としている。これだけで甲斐国に行ったことがないとは断定できないかもしれない(実際せの海などを知ってはいるので)。ただ知見があまりないということは言えるし、だとしたら「未開の国」というニュアンスを含めたことも頷ける。この人物は東国・西国を行き来していた人物であり、それでも知見がないとなると、やはり甲斐の国は(他の国と比較して)未開の国として見られていたのかもしれない。その印象を先ず冒頭にもってきたのだろうか。

『古今和歌集』に小野貞樹の歌があるので、挙げてみる。

宮こ人いかにと問はば山高みはれぬ雲いにわぶと答へよ

この歌の詞書に「甲斐の守に侍りける時、京へまかりのぼりける人に遣はしける」とある。つまり、まとめるとこうなる。小野貞樹は甲斐守の任期を終え京へ戻る下僚に対しこう伝えた。もし都で「小野貞樹は甲斐でどのように暮らしているか」と聞かれたら、そのときは「山が高く、雲が多く陰鬱な国で心も晴れずに日々を送っている」と答えて欲しい、と。つまり「なまよみ」と歌われてもおかしくないような印象は、他の人物でも同様と言えるのである。

そしてこの「イメージで言っている」という事実は重要である。この歌は、ある事実からもよく知られている。それは「国のみ中ゆ出で立てる」ということから、例外的に「富士山は駿河国と甲斐国に跨る」と詠っている点である。他の歌では、まずこのように表現するものは見当たらない。つまり他の歌と比較して、かなり例外的なのである。他の歌では一貫して「駿河の国の富士山」としているのであり、この例外を普遍的であると考えてしまうと、富士山を巡る歴史の理解が進まない。先程のように印象で語っている部分が見られることを考えると、やはり「富士山は駿河国と甲斐国に跨る」という部分も、印象や根拠のない雑感から歌ったものであろう。ちなみに「せの海と名づけてあるもその山の包める海ぞ」という部分から「せの海」を「富士山に囲まれている」としている。しかしそれも誤りである。だから、例外的認識が出現した原因もこの事例で説明できてしまうのである。

さて、枕詞となった背景としては「国学者が用いたため」としている。先程「この時点では、単独の人物にのみによって用いられたとしか言えない」と書きましたが、大きな時期を隔て、かなり後世になって甲斐国の枕詞として用いられているのである。酒折宮にある、本居宣長撰文平田篤胤筆の石碑「酒折宮寿詞」には以下のようにある。

なまよみのこの甲斐の国のこの酒折の宮はもよ(書き出し部分の読み下し)

このように、枕詞として「なまよみ」を用いている。そして同じく国学者で本居宣長の弟子の「萩原元克」は、以下のような歌をうたっている。

なまよみの甲斐の国みすずかる信濃の国の二国の国のみ中にいや高く(読み下し)

その後も多く用例が見られ、二葉亭四迷の『浮雲』には「殊にはなまよみの甲斐なき婦人」などとあるという。この時代、かなり定着していることが伺える。甲斐の国の古典的表現が、江戸時代になって再び用いられたことが大きいと指摘されている。

  • 参考文献
  1. 斎藤芳弘,『たった一例しかなかった「なまよみの」-甲斐の枕詞を考証する』,甲斐路No.93,1999年
  2. 斎藤芳弘,『富士川と五湖への虫麿の誤解 枕詞でなかった「なまよみ」-万葉集「富士讃歌」解剖-』,甲斐No.122,2010年

2012年11月1日木曜日

富士川の歴史民俗編

富士川は長野県-山梨県-静岡県-駿河湾と続く河川である。富士川の歴史については多面的に考えてみたいが、ここでは主に民俗的な視点で追求したいと思います。

「一遍聖絵」第6巻(一遍上人絵伝)に見える富士山と富士川
  • 文明の基点という考え方

網野善彦「甲斐の歴史をよみ直す」では、以下のように記している。

山梨については、これまで「孤立した山国」という固定したイメージ、理解の仕方がかなり広く行き渡っていたのではなかろうか。(中略)山は周囲から人を隔てるという性格を一面に持っている。しかし、山には山なりの道があった。と同時に甲斐を縦横に流れる河川は山や盆地を海とつなぐ、海に向かって開かれた道だったのである。(中略)このなかで田代氏は、直径五十センチメートルを超える大型の渥美焼が河川に沿って分布している状況を確定しながら、不安定な馬の背に限る陸路よりも、船によって海から富士川をさかのぼって甲斐にもたらされた可能性が高いことを指摘している

これが真実であるとすると、甲斐の国というのは富士川などの河川を基点として文明が開いたといっても過言ではない。このように、富士川から歴史を考える必要性もあるかもしれない。

笹本正治「早川流域地方と穴山氏」には以下のようにある。

河内領という名称について文化十一年(一八一四)に成立した『甲斐国志』は、「河内カワウチ訓ズ。河落ノ転ナルベシ。三郡諸河一道二会集スル処」と伝えているが、この地はまさに富士川を中心として開けているといっても過言ではなく、人家は富士川の沿岸と富士川に流れ込む小河川のまわりを中心として点在している

上は交通手段としての河川の役割についてであるが、この場合は在地の民衆が水の恵みを頼りとし、沿岸に住み着いていた事が感じ取れる。

  • 富士川水運

富士川を語る際、外せないのは「富士川水運」であろう。「『富士川流域河川調査書』にみる物資物流」より引用。

富士川舟運は、(中略)山梨県ばかりでなく長野県、特に、その中信地域の物資物流の大動脈であった。しかし、明治三十六年(一九〇三)には中央線が甲府まで開通し、さらに、富士川に沿って北上してきた富士身延鉄道の昭和2年の完成によって富士川舟運は近世初頭以来のその役割を終える。 

とある。そしてこのような認識で正しい。しかしそれまでは非常に重視された物流手法・ルートであった。その地域における位置づけも大きく、外せないものであっただろう。しかし後に完全に衰え、過去富士川水運で栄えた地域は今は衰退している(例:鰍沢町(現・富士川町)、南部町など)。田山花袋の『赤い桃』には以下のようにあるという。

鰍沢は十年前とはまるで変ったやうなさびしい町になってゐた。(中略)依然として川舟の出る河港はあった。しかしそのさびれてゐることよ。その衰へてゐることよ。その茶店のさびしく田舎的になってゐることよ。

つまり水運という糧を失って、町自体が寂れてしまったのである。鰍沢は舟運の町と言ってもよく、鰍沢の人口増加は水運の発達によるところが大きい(明治二十年代は最盛期だという)。「富士川運輪会社」なるものも、鰍沢に設立されている。これは明治八年のことであるが、中央線が甲府まで開通した明治三十六年から数年後の明治四十四年には、富士川運輪会社は総会を開き会社存廃の件を議題にしている。この事実からも、中央線開通の影響力の大きさが感じ取れるだろう。その後は悲惨な状況であったという。

『富士川流域河川調査書』には「鰍沢、青柳、黒沢、三河岸、市部、切石、南部、下稲子、沼久保、星山、松野、岩本、松岡、堀川、岩淵」のデータが記されているという。そしてこの地域は共通して富士川沿いであり、河岸・船着場などがあった地域と想定される。広域であり各地域について取り上げることは不可能であるため、ここでは富士宮市を例に説明していきたい。

富士宮市で富士川水運で栄えた場所は概ね「稲子」「沼久保」かと思う。沼久保は現在も問屋跡が残る地域である。問屋は物資などを保存・管理する場所である。以下の建物がそれである。

問屋(富士宮市沼久保)
「富士川-富士川水運-問屋」のイメージは重要である。




実は私は敷地内に入れてもらい、詳しく話を伺っています(ありがとうございます!)。なので、内部からも撮影できています。やはり私は、重要な歴史遺産だと思いますね。

  • 角倉了以
角倉了以は、富士川水運の環境を整えるため開削を行った人物である。角倉了以は本性は吉田氏といい、宇多源氏の流れという。近江佐々木氏の一流で、近江の吉田の地を根拠地とし吉田氏を称したという。その後(吉田)徳春が京にて室町幕府に仕え、その子宗臨が土倉を営んだため「角倉」と称されるようになったという。

「近世の富士川水運」によると、以下のようにある。

慶長十二年角倉了以が幕府の命を受け開鑿浚渫を行い通船が可能となった。(中略)しかしこの大事業が慶長十二年に完成したとは考えられない。市川大門村(町)円立寺の鎮守天神祀の天神画像の裏書に「慶長十七年(中略)京都角倉勝左衛門富士川通船始之砌祈願之天神」とあり、おそらく慶長十七年に富士川通船が創始されたと考えるのが妥当であろう

としている。また同論考によると貢米(年貢米)は「-岩渕-蒲原(陸送)-清水港-江戸」と運ばれたようである。そしてこれを扱う問屋は独占的特権であったという。これらの地域は重要な輸送ルートであっただろう。

  • 難所
「富士川水運の民俗」によると、以下のようにある。

鰍沢から岩淵まで富士川十八里を船頭たちは『カワタケ』とよんでおり、『カワタケ』とは川が滝をなして流れることからよぶので、『カワタキ』というのだともいわれており、『カワタケ十八里』のうち支流早川の合流するところから上流を『クニガワ』といい、富士川とは早川の合流する下山以南を指してそうよんだのだといい、船頭らは船がクニガワに入つて来るとホッとしたという。

この論考は1961年のものである。そして鉄道開設(=水運の終わり)が明治三十六年の1903年であるから、この当時の論考でなければわからぬ部分もあると思う。習慣などについても詳しく掲載されており、大いに参考になる。

富士川において、難所は最も厄介であった。十坂舎一九『金草鞋』には以下のようにある。
舟のあたらざるやうに岩をよけて、舟を自由にまはすこと、まことに見るにあやうく、(中略)かくて富士橋の下、釜が淵といふところは、まことに目をあきてみられず、恐ろしき難所なり、そこを過ぎて、ほどなく東海道富士川にいでたり
このように、非常にスリリングなものでした。「富士川水運の悪場(難所)」によると、「天神ヶ滝、屏風岩、銚子ノ口(釜口=旧芝川町)」の三箇所は「富士川水運三大難所」と呼ばれていたという。ある種、賭けのような場所であったのだろう。川の合流点が「釜」で、水深があるところを「淵」というといい、そういう地名が多い。

しかしここまで犠牲を払ってまで水運に頼るのは、やはり生産の拡大や流通の必要性があったからである。水運は効率的であり、選択肢としては外せなかったのだろう。上で年貢米の例を出しているが、幕府の天領であった甲州は直轄の支配を受けていた。甲府の支配域の年貢分は鰍沢河岸から、市川の年貢分は青柳河岸から、石和の年貢分は黒沢河岸からと各河岸から積み出されることが決まっていたという。その関係で、これら地域には大規模な蔵があったであろう。特に鰍沢は諏訪領の米も積みだしていたといい、鰍沢に位置する諏訪問屋の裏の出入り口が由来となって『裏門』という地名があるという。

また『甲斐国志』にも「アクバ」が記され、やはり「銚子の口」などは記されている。古くから懸念の案件であったのだろう。鰍沢には「八幡神社」があるが、これは舟運安全祈願の社であったという(「研究材料七、建築」)。

  • 水運と客船

東海道線が開けてからも、水運は尚生活に必要なものであったという。例えば、電車の発着時間に合わせ水運の時間も調整していたようである。それ故に「時間船」「普通船」といったようなものがあったという。実は私もこの話は聞いたことがある。不特定多数の山梨在住の高齢者に話を聞いたことがあるが、水運で下って静岡の鉄道線に乗った方が圧倒的に効率的に移動できたらしい(私が静岡なのでこの話題を出したのだろう)。これはかなり強調されていたので、習慣的な方法であったのだと思う。「郵便船」というものもあったといい、『甲府局誌』によると「明治四年甲府柳町二十二番地に郵便取扱所を設置、東海道吉原より甲府へ郵便枝道を開いた」とあるという。

以上、富士川の歴史でした。

  • 参考文献 
  1. 青山靖,「富士川水運の民俗」『甲斐路』No1,1961年 
  2. 齋藤康彦,『富士川流域河川調査書』にみる物資流通,『甲斐路』No.88,1996年 
  3. 望月武実,「角倉了以と富士川の開削」,『甲斐路』No.88,1996年 
  4. 清水小太郎,「近世の富士川舟運」,『甲斐路』No.88,1996年 
  5. 石川博,「富士川下りを描いた文学」,『甲斐路』No.88,1996年 
  6. 立川實造,「富士川水運の悪場(難所)」,『甲斐路』No.88,1996年 
  7. 羽中田壮雄,「建築」,『甲斐路』No.88,1996年 
  8. 網野善彦,『甲斐の歴史をよみ直す―開かれた山国』P11-14,山梨日日新聞社,2008年改版 
  9. 笹本正治,「早川流域地方と穴山氏」『戦国大名武田氏の研究』,思文閣史学出版,1993年

2012年10月17日水曜日

吉田御師の北口本宮冨士浅間神社掌握の過程

北口本宮冨士浅間神社の諏訪森と諏訪明神と浅間明神」にありますように、現在の北口本宮冨士浅間神社については、戦国期において初めて浅間社が建立されたと考えられている。一方江戸時代、とくに江戸中期以降は吉田御師との関係が綿密である。御師によって掌握されていると言って良い。戦国前期においては浅間社が存在していなかったばかりか、吉田御師と神社との関係も薄いものであったというのに、江戸時代中期にはこのような関係が生まれている。つまり、この短期間で非常に大きな変移があったと言える。

といっても、同じく郡内の富士御室浅間神社はまた性格が異なる。こちらは古来より浅間社として成立してきた神社であり、御師とも強く結びつきがあった。御師から神職が選ばれていたわけであり、表裏一体とも言える。そういう意味で、北口本宮冨士浅間神社とは性格が全く異なる。北口も戦国時代、御師が神務に関わっていた部分は認められるが、それは富士御室浅間神社と比較すればその要素は圧倒的に少ない。

北口本宮冨士浅間神社の変化を考えると、当神社が御師により支配されていったと考える方がすんなり理解がゆく。

元亀3年の「宜吉田屋敷割帳」に「大鳥居祢宜」や「下祢宜」と記されている。「吉田」と「大鳥居」ということから北口の祢宜(神職)の屋敷と解釈されるが、「浅間祢宜」と評されていない。これについて「北口浅間社と御師-戦国期より近世絵へ・その信仰の変遷-」ではこのように述べている。

なぜ浅間祢宜と言わなかったのであろう。これについては、次のように推定される。永禄四年に、武田信玄が社殿を造営する以前には恐らく、ここには社殿といえるほどの建造物はなく、大鳥居内は富士山遥拝の神域とされ、その中に小祠くらいはあったかもしれないが、注連張を設け、そこで富士に向かって祈願、祈祷が行われていたのではないであろうか

これは「北口本宮冨士浅間神社の諏訪森と諏訪明神と浅間明神」で記した笹本正治氏の解釈とも繋がる。しかも戦国期の文書では「諏訪祢宜」と見えるのである。つまり、この時代(戦国時代)の北口社の中心人物は諏訪祢宜であったのである。というより、浅間祢宜が存在していなかったわけである。

資料1
明暦2年(1656年)に「御師職分についての訴状」がある。これは浅間社から御師に対して、境内の掃除や灯明番等において怠惰のなきようにと通達したものである。そしてその中で、宮の掃除や番は祢宜の職分であって、御師の職分ではない旨を訴えている。これは、浅間社の神職が御師に対して抵抗を示していたことを表している。時代が下るに伴い御師の介入が大きくなり、それに抵抗感を感じているわけである。御師による北口社支配の初期段階と言ってよいだろう。

宝永年間に北口社の祢宜「小佐野若挟」は、宮の支配権は神職に有りとして、御師の自由な祈祷を妨げようとした。それらに対する御師の訴状(宝永5年、1708年)に「祢宜の神社支配についての訴状」がある(資料1)。この中で、(御師の主観による)神職と御師の職分について記している。そしてその中で「神社の最も重要な祈願・祈祷は御師が努め、日常的な管理は祢宜が受け持つべき」とある。つまり御師たちは、神職より御師が祈願・祈祷を行うにふさわしいとしているのである。本来祈願・祈祷というのは神職が行うものであるので、御師の主張はかなり域を出たものと言えるだろう。

つまりこの段階で、御師の権威がかなり大きくなってきている。文献1では「戦国期より近世前期までは、神社の主導権は御師が握り、神職は日常の雑務に当たる者として一段下に見られていたを思われるのである」としている。これは、戦国期に領主により諏訪祢宜宛てに書状が発布されていたような時代(祢宜の立場が大きかった時代)と比較すると、あまりに様変わりしていると言える。

これらの流れを文献1が取り上げ帰結を記しているが、その解釈を要約すると「御師の解決法は、本殿以外の社殿の一部を御師の祈祷所として利用することを望む内容であるから、本殿の利用までは望んでいない以上御師が後退した形である」としている。しかしこれは神職の優位とは言い難い。そもそも北口は、御師が掌握していたものでは全くなかった。その中でここまで掌握されかけているのである。つまり、着実に御師の力が増しているのである。ただし文献の中で「神社に参拝する道者は、すべて御師を経由するわけであるから、御師との強調関係を簡単に失うことはできない」とある。たしかに道者は御師を経由して参拝しており、神社としては道者という最大の参拝者を失うわけにはいかない。その後ろにいる御師とは、協調関係は失うことはできなかったのである。

ここで御師はさらに神社との関係を深めるため、大きな動きに移るようになる。それは、「御師が神職になる」という選択である。これはどちらかというと、富士御室浅間神社のシステムである。しかしそこで「伝統的な体制に留まろうと考える人」と「御師」という2つに分かれることとなる。そこで争論が生じるようになる。

「神位、神幣新規申請についての書状」というものがある。宝永7年に「橘屋中務」「鶴屋新助」の2人(御師)が吉田家を介して浅間大神の神位・神号を請け、神幣を宮中(北口)に納め、浅間大神と記した大旗を立て並べたりした。これらの行動を良く思わなかった二十三人の御師たちは、上の2人を含む6人を訴えたのである。

神位、神幣新規申請についての書状
この内容によると、御師たちは「浅間大菩薩」ではなく「浅間大神」という神号を使用したことなどを不快に思っているようである。しかし本当のところは、相談せずにこのようなことを実行したことに納得がいかなかったという話のようである。また御師たちは吉田家をよく思っていなかったので、吉田家を介して行なったことに不満があったのである。

そして訴訟された側はこのような主張をしている。

答書
つまり「橘屋中務」「鶴屋新助」といった御師は、「神位、神幣を受けて格式を上げることに専念すべし」という考え方であったようである。この争論は内済によって決められ、「浅間大菩薩とするも、浅間大神とするも、互いに妨げるべきではない」という結論となった。こういう過程を経て、御師が神職となるケースも増えていったようである。御師はその性格上浅間社を推したため、諏訪社は追いやられていき、浅間神社が優位となっていったのだろう。

そして富士講の隆盛が決定的となり、諏訪社は影をひそめるようになった。浅間神社は拡大されてゆき、ここに御師による完全掌握が成されたのである。富士講は江戸幕府により禁制が繰り返しだされている。その内容の共通項として「僧侶でも神職でもない者が、行衣を着し、祈祷や配札などをすることを禁ずる」というものがある。つまり「僧侶でも神職でもない御師が、なにやらやっておるな」という解釈なのである。そういうようにみられないためにも、実際神職になることは御師にとっても悪いことではなかったのである。実は幕府の人間によって「御師が何やらやっておるようだ」というように見られていたのは事実である。そういう記述も、しっかり記録として残っている(再発見次第掲載)。

論考の中で

御師は、お山の守護者として、神礼の授与社として尊敬を受けたが、富士講とは一線を画する神道家としての性格を持つ姿になったようである

とある。しかし御師は富士講とかなり密接な関係であったため、一線を画すとはなかなか言い難い。しかしながら御師という存在が、信仰面では行動を異にしていた(共にしていない)のは間違いない。御師というと「祭祀的な行為」や「富士山への登拝」を行なっていたと考えがちであるが、実は基本的にそういう信仰的行為が見られない。「富士山内の信仰世界-吉田口登山道を中心として-」によると、富士講についてこのように記されている。

「このようにみてくると、地元の者の習慣の中には、天地の堺を超えて五合目に登る形態はみられない。頂上まで行くのは夏山を踏む富士講道者のみである」「御師の行動範囲は、道者・構中を出迎える下吉田愛染と浅間神社の裏門との間に限られる

とし、また「山内に踏み入れることはほとんどない」と記している。江戸時代当時、このような習慣であったのだと推測される。つまり、御師は祭祀や登拝など信仰的行為を行なっていたわけではない。道者を出迎え、見送っていたわけである。見送りといった意味で御札類を発布していたが、それが信仰的要素の限界であろう。御師を信仰と直接結びつけてはいけない。冷静に考えると、それはそうである(信仰の裏付けがないこと)。なぜなら、そもそも富士講成立以前に御師は存在していたわけであって、富士講により誕生したわけではない。だから、必ずしも富士講と密接であるわけではない。しかも戦国初期に至っては、北口に浅間社すら存在していなかったのである。時代の変化の中で、生活を維持・充実させていくために御師が形態変化していったに過ぎないのである。「吉田御師による北口掌握の過程」とは、そういうことである。

  • 参考文献
  1. 星野芳三,「北口浅間社と御師-戦国期より近世絵へ・その信仰の変遷-」,『甲斐路』77号,1993年
  2. 堀内真,「富士山内の信仰世界-吉田口登山道を中心として-」『甲斐の成立と地方的展開』,角川書店,1989年
  3. 笹本正治,「武田信玄と富士信仰」『戦国大名武田氏』,名著出版,1991年

2012年9月24日月曜日

静岡県の富士山の神仏像

信仰という場合、「奉納」という形で篤い信仰心を表明する方法がありました。富士山の場合富士山中への神仏像の奉納や、浅間神社に対する奉納が繰り返されてきました。特に山頂というのは聖視されていたため、山頂への奉納は重要視されていたと思います。しかしそれら奉納物も廃仏毀釈により多くが取り壊されてしまいました。しかしながら少なからず下山仏も存在しています。以下ではそれら下山仏や浅間神社蔵の神仏像を取り上げています。像からでも、多くの歴史的事実は読み取れます。

  • 菩薩立像:享保4年(1719)


現在でいうところの久須志神社に存在していた仏像がこれである。現在は高砂酒造に保管されている。

老舗の「富士高砂酒造」
江戸神田の鋳物師が製作し、同所の人々が連名で山頂に奉納したものである。廃仏毀釈の動きの中、破壊されないよう運んだ下山仏である。「富士山内の信仰世界-吉田口登山道を中心として-」によると以下のようにある。

岳薬師下山仏は今もなお、富士宮市内の酒屋に保管されている。村の共同作業によって仏は下ろされ、そのご苦労振る舞いに酒を飲んだが、その費用が捻出できず、飲代のかたに仏を酒屋に取られたという逸話が残っている

真偽は不明だが、村山の人たちの廃仏毀釈に抵抗しようとする姿勢は感じ取れる。


  • 大日如来像坐像:室町時代


大頂寺(富士宮市)蔵。頭部と両手は銅、体部は鉄の大日如来像である。頂上の初穂打場に存在していたとされる。廃仏毀釈の際に大頂寺に下ろされた下山仏である。


  • 大日如来坐像:正嘉3年(1259)


富士山における神仏像では古い部類のものであり(最古級)、非常に重要な大日如来像である。(近年他に木像が発見されたが、大日如来像としては変わらず最古級である)。大鏡坊(村山三坊)に伝来し、その後浅間神社の本殿に祀られたという。

銘は「敬白、奉造立倶金頭大日如来壱躰、正嘉三年未午正月廿八日、願心聖人・覚尊・□日・仏師□□」とある。またこの「覚尊」という人物であるが、『撰集抄』(鎌倉時代成立)に富士山の奥で庵を結んで生活していた僧として同じく「覚尊」という人物が挙げられており、同一人物ではないかという推察がなされている。

  • 大日如来像:文明10年(1478年)

村山浅間神社蔵。村山と大宮、双方による共同の造立・供用である。大宮は「富士氏」の富士忠時と富士親時親子による奉納である。村山は各坊からなる。銘などから分かる部分が多く、非常に重要な像である。木像からでも、15世紀の状況がよく分かる。「富士信仰の成立と村山修験」に銘がすべて掲載されている。


遠藤秀男氏は以下のように述べている。

文明10年に存在した坊は五坊で、後の元亀4年に修理を加えた時、左右の脇に四坊の名が加えられたようである。しかもそれらの盛衰を語る上うえで興味深いのは、村山三坊のうち辻之坊だけが後にでてきているということだ(続く)。

このように、銘から「三坊(というより当時の坊)のこと」「富士氏のこと」「富士山興法寺のこと」などが探求できる。例えば「大宮司前能登守忠時」とあるため、この時能登守ではなかったと考えることができる。「富士山興法寺」とあることから、このとき興法寺が存在していたことも証明できる。「大鏡坊成久」は富士忠時の兄と考えられている。また村山と大宮の関係を伺わせる重要なものである。

  • 参考文献
  1. 富士吉田市歴史民俗博物館,『図録 富士の神仏-吉田口登山道の彫像-』,2008年
  2. 堀内真,「富士山内の信仰世界-吉田口登山道を中心として-」『甲斐の成立と地方的展開』,角川書店,1989年
  3. 遠藤秀男, 「富士信仰の成立と村山修験」『富士・御嶽と中部霊山』(山岳宗教史研究叢書9),1978

2012年9月22日土曜日

絹本著色富士曼荼羅図を考える

「絹本著色富士曼荼羅図」(重要文化財指定)は富士曼荼羅図の代表である。参詣曼荼羅図において、特に絹本のもので現存するものはかなり限られており、絹本の富士曼荼羅図は3点しか現存しない(「参詣曼荼羅試論」による)。


「参詣曼荼羅試論」に準ずる

この絵画は狩野元信の壺形朱印があり、また本宮の社殿が浅間造でないことから、多くで室町時代作と考えられている。

壺形朱印(当図の右下)
当時の富士信仰を探るにおいて非常に重要なものである。近藤喜博氏は『神道史学』にて以下のように述べている。

この画家は少なくとも現実に大宮の社地を一度は踏んだことがあり、富士山の縁起や地誌的事を耳にして、筆をとっていると考えている

このようにこの曼荼羅図はデフォルトされた部分とは別に、信仰面においてはリアルな描写がされている。白衣姿の道者が登拝を行う姿、湧玉池にて禊を行う道者、その湧玉池の神聖な湧水の流れ…当時の登山風俗をよく示している。この図の中心にある水辺は「湧玉池」であり、それほど禊を重視しているとも取れる。また道者が火を灯しながら登山をしているため、夜行登山であることも分かる。頂上にある三峰、阿弥陀如来、薬師如来の描写も重要な部分である。「参詣曼荼羅試論」で大高氏は「本図の作成が富士登山信仰を絵解くことに目的があった」としている。富士山は山頂に至るほど神聖とされていたが、本図もそのような意識があったと考えられる。1つ1つの空間を意識させる構成のように思える。

当図は全体で237人の人物が描かれている。子供を除くと男性が209人、女性が22人であるという。道者とそれ以外の居住者が描かれており、各人物が如何様な身分であったかについて「参詣曼荼羅試論」では詳しく説明がなされている。


  • 日輪・月輪


この「日輪・月輪」の組み合わせは、他の曼荼羅図でも確認できる。『太平記』では後醍醐天皇が笠置山で掲げた旗が「日輪・月輪」の意匠であったと記している。

  • 清見寺付近



清見寺と境内の三重塔が描かれている。門前の門については、ほとんどの文献で「清見寺関」であるとされる。「海の東海道」にはこの関所について以下のように説明している。

船に乗った道者の着いたのは「蒲原船関」であろうという指摘があるが(永禄11年、駿府浅間神社文書)、それよりも吉原湊であると考えた方が、より直接的である

つまりここで「清見寺関」「蒲原船関」「吉原湊」の説があると言えるが、やはり「清見寺関」と考えるのが素直なように思える。

他、「船(駿河湾で八隻)」「道者」「海水を汲む者」や「連歌師」などが描かれている。

茶を販売する様子
船にも道者が乗っていることから、地上にいる道者も船でやってきたことを示している。

潤井川で禊をする者(左)
これらの図示から参詣曼荼羅試論では「参詣ルートを意識して描いていることが指摘できる」としている。

  • 富士山本宮浅間大社付近



湧玉池で禊をする道者が描かれており、すべて男性である。

流鏑馬神事
この白馬であるが、参詣曼荼羅試論では「白馬の前方に腰から空穂をさげた二名の者がおり、彼らが弓を携帯していることから、この図像は本宮の流鏑馬神事を示していよう」としている。本宮と流鏑馬の関係を示すものは、文書では「武田勝頼判物」が初見であると思われる。

大宮道者坊
大宮道者坊は、本宮の社人が営む道者坊である。

神官
社人と思われる。

  • 富士山興法寺付近



富士山興法寺の各建造物を示し、拝殿では巫女が舞う姿が見られる。


その前に見える道者数名は女性である。僧とそれに同行する数人の者が居る。また下部の「竜頭滝」には注目である。この中で1名のみ、巫女の前に立つ道者と同様の格好をした人物(女性)が禊をしている。解釈としては「女性でも禊を行なっていた可能性がある」ということになる。


上の僧の格好をした人物とその一行について、「この一行は、村山に文明18年(1486)に来訪した聖護院道興の一行を想起させるものがある」としている。服装が異なり、身分の高い高僧を意図している可能性は高いと思われる。

3名の女性

またこの3名の女性が居る位置より上では女性が見当たらず、これが女性が登拝できる限界点を示している。つまり「女人禁制」である。


また上の図の左の4人は白装束であり、またそれより上はすべて白装束姿であることから参詣曼荼羅試論では「この場所で全ての富士参詣者が白装束に身を包むことが、形式化していたことがわかる」と述べている。

松明をうける道者
また「富士信仰の成立と村山修験」で遠藤秀男氏はこのように説明している。

湧玉池では数人の男が裸で池水につかり、垢離をとっている。その上方には村山浅間が描かれて、ここでも水垢離をとる道者が表現されている。登山者はここから俗界との縁を切り、森林中の踏みわけ通を登り始める

このように「俗界」とそれらとは異なる「聖地」の境界があったとしている。その接点となる場所に浅間神社が存在するのである。ですから浅間神社は「門」にあたると言える。登山道でいうところの起点である。だから浅間神社境内またはそれに隣接する形で必ず禊の場があるし、道者は水垢離を行なってから登山に入ったのである。その世界観を示したのが「富士曼荼羅図」である。また村山に関しては「今川義元判物」にて「村山室中」と表現され、同判物の中で村山を聖域とする旨が示されている。「村山室中」という聖域としての空間があり、そこは世俗とは一線を画す特別な空間であったのである。

童子が道者を案内する様子
「富士信仰と曼荼羅」では以下のようにある。

この仏の世界をわが目で見、自らの体で触れることができるということを説くために、このような「俗界」「神域」「聖地」という三区域に分けた図柄がつくられたのではないかと思われる

この曼荼羅図は富士山信仰を広める目的があり、富士信仰を絵画という形で説いたものとしている。

尚「富士宮市立中央図書館」2階には原寸大のレプリカが展示されているので、興味ある方はどうぞ。

  • 追加部分

この図のいくつかの場所で、後に「追加された部分がある」と指摘されている。そしてそれを「人物図像を追加することによって、駿河国以東、東国方面からの富士参詣者の誘致を意図したのではないか」と説明している。禊に女性の道者が含まれている部分(この部分は追加された部分としている)などは「後に限界点の延長を示した故」としている。

  • 参考文献
  1. 大高康正,「参詣曼荼羅試論」『参詣曼荼羅の研究』,岩田書院,2012年
  2. 遠藤秀男, 「富士信仰の成立と村山修験」『富士・御嶽と中部霊山』(山岳宗教史研究叢書9),1978年
  3. 近藤幸男,「戦国期における村山修験」『地方史静岡第13号』,静岡県立中央図書館,1960年
  4. 平野栄次,「富士信仰と曼荼羅」『聖地と他界観』(仏教民俗学大系3),名著出版,1987年
  5. 若林淳之,『海の東海道』P14-17,静岡新聞社,1998年
  6. 皇學館大学佐川記念神道博物館編,「神社名宝展 : 参り・祈り・奉る : 皇學館大学創立百三十周年・再興五十周年記念特別展」,2012年

2012年9月15日土曜日

富士山麓の道者関と小山田氏

戦国期吉田御師の実像」にあるように、永禄2年(1560)に小山田信有は吉田御師の「小沢坊」に富士参詣の道者が悪銭を持ち込まないよう取り締まることを命じている。これら悪銭は売買に支障をきたしていたとされる。この伝令は小山田氏が甲斐国の法度に準じていたものであったが、一方永禄4年(1562)に小山田信有は独自に、吉田御師の「刑部隼人」に来年富士参詣にくる道者200人の当郡役所中の通行許可を与えている。「役所」とは「関所」のことであり、小山田氏にとって「関所」という存在は外して考えることのできない重要な存在であったのである。

「武田氏の領国形成と小山田氏」では、上記の記録などから「富士参詣の道者のもたらす銭貨は、直接間接に、生産力に乏しい郡内を領した小山田氏にとって、主要な財源となった」とし、また「小山田氏が設置した関所から、間接には御師に賦課される諸役として徴収された」としている。関所と道者の関係は重要である。

武田晴信は弘治3年(1557)に富士御室浅間神社に願文を掲げ、同時に船津の関を撤廃することを約束した。



そうすると困るのは小山田氏である。なぜなら、上述のように小山田氏は道者が関所を通過する際に徴収する関銭を財源としていたため、これを撤廃されるということは、財源を失うことになるからである。そこで小山田氏は武田氏に抵抗するも、信玄は書状にて激しく叫弾したという。

永禄11年(1568)以来の武田氏の駿河侵攻に伴う甲相関係の悪化により、道者が激減していた。そのため小山田氏は元亀3年(1672年)に、関銭半減という手段で道者を勧誘することとした。それほど、道者の関銭というものは小山田氏にとって重要であったのである。また、過所や伝場手形を御師を中心として発給するなどしている。

そのような中小山田氏の自領経営は停滞し、「戦国期河口御師の実態」にあるように武田氏が御師に対して結びつきを強めるようになっている。情勢が悪化する中で、小山田氏は御師の諸役を免除するという保護政策を打ち出している。その文書の中で「対信茂」などとあるが、このように御師との結びつきを強める意図があった。しかしこれ以後、小山田氏による浅間社に対する保護や統制に関する資料はないという。つまり、小山田氏が道者関や郡内の御師を支配する時代はここで終えたのである。武田氏が浅間社への崇敬を掲げる中で交通路を掌握していき、道者関までをも管理し、御師を取り込んでいく中で、小山田氏の影響力は消えていったと言える。

  • 参考文献
堀内亨,「武田氏の領国形成と小山田氏」『富士吉田市史研究』第3号,1988年

戦国期吉田御師の実像

甲斐国の吉田地区は、富士信仰の拠点の1つである。その現在の山梨県富士吉田市に存在していた御師が「吉田御師」である。吉田御師は江戸時代以降に発生した富士講により大繁栄し、権力を得る。それは商業的成功による潤沢な資金源からなり、それが北口本宮冨士浅間神社の支配につながっていく(支配といっても良い気がする、ここは検討が必要)。この事実を考えると、逆に富士講成立以前の吉田御師の検討が重要である

まず富士講は江戸時代より以前には存在しておらず、隆盛は少なくとも18世紀中盤以降と考えられる。つまりは、少なくとも「~17世紀」までの記録において、富士講関連やそれに影響を受けた記録は存在していないと考えても良い。では吉田御師に関わる部分を取り上げたいと思います。

  • 小山田氏と御師衆
弘治2年(1556)に領主である小山田信有が吉田御師の「堀端坊」に前々のごとく諸役を免除する印判状を出している。このことから、河口御師同様に諸役として領主により掌握されている形態が確認できる。

永禄2年(1560)に小山田信有は、吉田御師の「小沢坊」に富士参詣の道者が悪銭を持ち込まないよう取り締まることを命じている。「甲州悪銭法度(中略)一切被停止之間」や「当国被破法度」とあり、小山田氏が甲斐国の法度に準じていた(規制されていた)とされる。永禄4年(1562)に小山田信有は吉田御師の「刑部隼人」に、来年富士参詣にくる道者200人の当郡役所中の通行許可を与えた。武田氏の設けた法に準ずる部分と自らが出す権利が混在した状態であると考えられる。また「役所」とは「関所」のことである(道者関については「富士山麓の道者関と小山田氏」を参照)。

『妙法寺記』の永禄2年(1559)の記録に、吉田御師と小林和泉守との対立が記されている。これは宮川の川除木材伐採をめぐる「吉田の御師衆」と河口船津(現在の富士河口湖町)の地頭「小林和泉守」との対立である。そしてその判決は小山田氏に委ねられ、最終的に御師衆の主張が通っている。

  • 武田氏と御師衆 
『妙法寺記』の弘治2年(1556)の記録に、河口の有力者「小林尾張守」と吉田御師との対立が記されている。

小山田弥三郎殿御被官探題御座候而、地下衆歎モアリ喜も御座候。殊更尾州吉田衆に非分多く候間、二十人ひきわかさり…

これは小林尾張守貞親が吉田衆に対して非文を成したので、二十人程が小山田氏のもとへ訴え出たけれど判決が出ず、今度は甲府へ行って武田晴信の判決で処理されたというものである。「非文」とは吉田衆からみた視点であり、小林尾張守が勝手な灌漑を行なったことを御師衆が非文としたということである。

これをみると、上記の『妙法寺記』永禄2年(1559)の吉田御師と小林和泉守との対立との比較は重要である。つまり郡内に位置する御師衆は基本的に小山田氏を頼りにするも、行動が示されない場合は武田氏を頼りにするのも普通になっていたのである。それは、郡内において武田氏の存在が既に強くあったことを示している。『妙法寺記』には「甲州晴信公」とあり、郡内においても存在が大きくなっていたと言える。またこれらの資料から、御師は川口地区の有力者と日常的に対立していたことが分かる。川口は現在の富士河口湖町で、吉田御師は現在の富士吉田市に位置する。

永禄5年(1562)、武田氏は河口御師と吉田御師衆に「本栖之定番」を命じている。その文書はそれぞれ河口と吉田に送られている。本栖は駿河に通ずる「中道往還」上に位置しているため、国境警備上重要な地域であった。直接的な警備としては「九一色衆」が有名であるが、この文書では九一色衆だけでなく御師衆にも軍役を望んでいたと考えることができる。

  • 御師町
元亀3年(1572)の記録とされるものに「吉田村新宿帳」がある。これは吉田宿が消失したため、新宿を造ったために作成されたとされる。その人名や屋号から御師と推測されており、まとまった人数の御師衆が存在していたことが確認できる。そして「御師町」という形態が確認できる

  • 参考文献
  1. 笹本正治,「小山田氏と武田氏-外交を中心として-」『富士吉田市史研究』第4号,1989年
  2. 柴辻俊六,『戦国大名領の研究-甲斐大名武田氏領の展開-』P317-338,名著出版,1981年
  3. 笹本正治,「武田氏と国境」『甲府盆地-その歴史と地域性』,雄山閣 ,1984年

2012年9月14日金曜日

山梨県或いは甲斐国にて呼称される甲州とは

山梨県において現在でも使用されていると思われる言葉に、「甲州」という言葉がある。そしてそれは「=山梨県」として理解されている。しかし本当に歴史的にみて「甲州=山梨県」であったか検討していきたい。

「遊行縁起」(遊行上人縁起絵)/甲斐国御坂・川口を描いているとされ、河口での別れの場面

『山梨県の歴史』にはこのようにある。
元文五(1740)年、古文書調査のため甲斐を訪れた青木昆陽は、『甲州略記』に「郡内(都留郡)の人は、甲州とは別の一国のように思って、三郡(国中の山梨・八代・巨摩の三郡)を指して甲州という
つまり外部からきた人間が客観的に見て、甲州は「=甲斐国」とは感じていないわけです。

また甲斐国の地誌である『甲斐国志』の記述も重要です。

博物館だよりMARUBI №24
この資料にあるように、『甲斐国志』では上記の三郡に行くことを「甲州へ行く」と称しています。そしてそれは、郡内の人たちがそう意識していたわけです。

では、もっと古い歴史的資料ではどうでしょうか。

『妙法寺記』の永正15年(1518年)の記録にこのようにあります。
此年ノ五月駿河ト甲州都留郡和睦也
これは今川氏と小山田氏との和睦を示しています。この時期駿河と甲斐国は争いを繰り広げており、それに関する和睦です。この資料では「甲州都留郡」とあり、都留郡を甲州の中のものと認識しています。ちなみにこの前年の永正14年(1517年)、『妙法寺記』に「吉田自也国一和二定也」とあります。「小山田氏と武田氏-外交を中心として-」によると、これは甲斐と駿河との和平を示しているとある。ではなぜ、その次の年に同様の和睦の記録があるのだろうか。それは永正14年のものは「今川氏と武田氏間の和睦」であり、永正15年のものは「今川氏と小山田氏との和睦」であるからである。つまり今川氏にとって小山田氏と武田氏は同列で、独自の外交権をもつ領主として認識されていたわけである。

と長くなりましたが、現在の富士河口湖町で記されたと考えられる『妙法寺記』の記録にて「甲州都留郡」とある事実は、重要である。

ちなみに、「郡内」に対して「国中」という言葉がある。これも歴史的資料にて互いを用いている例が確認できる。『妙法寺記』の永正7年(1510年)の記録にはこのようにある。
此春中国中都留郡御和睦落付
今川氏と小山田氏との和睦があった永正15年から8年前の年代であるが、この時代は武田氏と小山田氏が争っていた。この記録は、武田氏と小山田氏とで交わされた和睦の記録である。「国中都留郡御和睦」の「国中」が武田氏領で「都留郡」が小山田氏領である。つまりここでは「国中」と「都留郡」という言葉で、互いの地域を記しているのである。ここで「国中」と「都留郡」は異なる地域であるということが明確に分かる。

戦国時代の小山田氏と武田氏が争うような時代では、「甲州」といった場合都留郡を除くという意識はそれほどなかったと考えられる。しかし下って江戸時代辺りでは「甲州」といったとき、「都留郡を除く」という意味合いが明確にみられる。これは「国中=武田氏」、「郡内=小山田氏」という大きく対比された状況の中、武田氏の勢力拡大に伴い「甲州=武田氏」という認識が強まっていったことに関係があるように思える。つまり「(国中とか郡内などの言葉はあるが)甲州と言った場合やはり国中」という認識が強くなり、自然と甲州といった場合国中地域を指すようになったのではないか(逆に郡内という強い意識が生んだ可能性あり)。また国中と郡内は文化が大きく異なり、地域住民による「異にする」という意識がこれらの区別を後押ししたのかもしれない。しかし『甲斐国志』に従えば、むしろ郡内地域の住民が「甲州とは違う」と意識していたように感じられる。郡内の人は自分たちのことを「甲州人」などと決して言わなかったのではないかと思う。

  • 参考文献
  1. 『山梨県の歴史』,山川出版社,1999年
  2. 笹本正治,「小山田氏と武田氏-外交を中心として-」『富士吉田市史研究』第4号,1989年
  3. 富士吉田市民俗歴史博物館,『博物館だよりMARUBI №24』,2005年