2017年12月31日日曜日

室町幕府と富士氏

「室町幕府と富士氏」というテーマで考えた際、「永享の乱」直前の動向は外せない。まず永享の乱(1438年)とは、室町幕府将軍である足利義教が鎌倉公方の足利持氏討伐を決定し生じた、一連の戦乱を指す。

室町幕府と鎌倉公方の緊張の高まりは永享4年(1432年)の「富士遊覧」でも読み取れる。これは義教による牽制と今川範政の自己陣営への保持を意図したものであり、明らかに鎌倉公方を意識しての行動である。そこでこの時代の富士氏を考える上で重要な記録として先ず挙げられるのが、『満済准后日記』である。

足利義教

この時代の駿河国は大変に混乱した状況であった。以下、『満済准后日記』から駿河国の様子を見ていくこととする。

  • 『満済准后日記』 永享5年(1433)4月14日条
狩野・富士大宮司両人ヘ、今度国次第、具被尋聞食、可有御成敗条、尤可然由申入也

富士大宮司に「駿河国の内情を知らせよ」という申し付けを幕府が行っている。このときの富士氏が既に幕府とつながりを保持していたことは、注目に値する。今川範政(今川氏当主)の次男である弥五郎が次期家督相続を狙って不穏な動きを見せており、これに満済は不信感を示し、また将軍は駿河国衆に内情を探らせているという流れである。今川範政は家督を三男の千代秋丸に譲る意向を示しているため、それに対抗する動きである。

  • 『満済准后日記』 永享5年(1433)4月27日条

駿河国ヨリ富士大宮司注進状幷葛山状等一見了、国今度不慮物忿事申入了、随而富士進退等事可任上意旨、載罰状申入也

富士氏(および葛山氏)は幕府に注進状を出し、駿河国の混乱を幕府に報告している。

『満済准后日記』
この動向について「室町幕府の東国政策」では以下のように記している。

事態がひとまず小康状態に入った永享3年以後、なお緊迫した政情のなか葛山氏に求められた役割は、各種の情報を室町幕府にもたらすことであった。そしてそれは、懸案の鎌倉府に関する情報に限定されていた訳ではない。たとえば『満済』永享5年(1433)4月27日条には「駿河国ヨリ富士大宮司注進状幷葛山状等一見了、国今度不慮物忿事申入了」とある。これは葛山氏が、永享5年4月、駿河守護今川範政の後継家督問題によって駿河国内が混乱している様子を室町幕府に伝えたことを示している。(中略)しかし、この問題で葛山氏が『満済』に登場することは皆無である。つまり葛山氏は、駿河守護今川氏の家督問題について室町幕府の意向と異なる家督を擁立しようと積極的にうごいた形跡が全くないのである。

としている。対して富士氏は「室町幕府の意向と異なる家督を擁立しようと積極的に動く」側となっていくのである。そして今川家当主今川範政は、5月27日に死去した。

  • 『満済准后日記』 永享5年(1433)5月30日条

国人狩野・富士・興津以下三人ハ、及両三度起請文、可被仰付彦五郎畏入之由申上了、

同日記の5月28日条に「今河遠江入道参洛」とあり、今川貞秋は上洛した。そして30日には京の諸大名に情勢を伝えた。今川貞秋は、狩野氏・富士氏・興津氏が起請文をもって彦五郎(後の範忠)の家督相続を了承したと報告した。

「駿河国中の中世史」には以下のようにある。

5月30日満済は幕府に赴き、去る4月28日駿河国から上洛した今川貞秋の家督相続についての上申書を閲すると共に、奉行らが管領細川持之・畠山満家・斯波義淳・山名時熙・赤松満祐の5人の大名から聴取した意見を聞いた。今川貞秋の上申書によれば駿河国では国人の狩野・富士・興津らおよび内者(家中)である矢部・朝比奈らも範忠の家督相続を概ね了承したといい、管領以下も弥五郎(注:今川範忠弟)に一旦は家督相続了承の御判が渡されたことは問題であるが、将軍の裁定であれば已むを得ないと範忠の相続を納得した。

とある。が、以下の動向を見て分かるようにその後狩野氏・富士氏・興津氏は反乱を起こしており、彦五郎の家督相続には同意していなかったようである。「駿河今川一族」では「その後の狩野・富士・興津氏らの動きをみると、この時、そのような誓書を提出したことは考えられず、むしろ、内紛を憂慮する一族の長老今川貞秋の苦肉の策ともみられるのである」と解釈している。

  • 『満済准后日記』 永享5年(1433)6月23日条

此外就三浦・進藤等事、以管領奉書狩野介富士大宮司幷三浦進藤等二、於国私弓矢不可取出之由、固被仰附也

足利義教は狩野氏・富士氏・三浦氏・進藤氏に争いを禁じるよう命じている。しかしこれでも争いは収まる所を知らなかった。

  • 『満済准后日記』 永享5年(1433)7月19日・20日条

自今河右衛門佐注進在之、民部大輔去十一日入国無為、就其三浦・進藤・狩野・興津・富士以下同心及合戦、雖然民部大輔手者打勝云々(19日)

今河民部大輔方注進到来、十一日入国儀先無為祝着云々、就三浦・進藤等、狩野・富士・興津令同心寄懸間、(20日)

彦五郎(範忠)の家督相続に納得しない駿河国衆が彦五郎の入国に伴い反乱を起こした。「今川一族の家系」では報告を行った今川右衛門佐について「貞秋の弟氏秋と推定する」としている(今川仲秋の嫡子が貞秋、その弟が氏秋)。「駿河国中の中世史」には以下のようにある。

7月19日の今川右衛門佐氏秋、および20日の範忠から幕府の注進によれば、入国したその日、三浦・進藤・狩野・富士らの国人たちが攻め寄せて来て、範忠方の岡部・朝比奈・矢部らと合戦になったが、これを打ち負かして退散させ、再び攻撃してきた狩野には氏秋が対処しこれも追い払った

とある。ここで岡部・朝比奈・矢部氏らが彦五郎派であったことが分かる。

  • 『満済准后日記』 永享5年(1433)7月27日条

自将軍御書、如夜前伝賜了、仰題目、甲斐国跡部・伊豆狩野等・令合力富士大宮司ヲ、可発向守護在所聞在之

甲斐の跡部氏、伊豆の狩野氏、そして富士氏が力を合わせ府中に攻め入るのではないかという伝聞があることを記している。駿河国・伊豆国だけでなく甲斐国の勢力も加担する、大規模な反乱を予感させていた記録である。


  • 『満済准后日記』 永享5年(1433)閏7月5日条

駿河国々人狩野介・富士大宮司・興津、已上三人可召上旨可仰管領、此事等内々自駿河守護申子細在之、依之如此被仰出也

管領「細川持之」が狩野氏・富士氏・興津氏を京に召喚することを望み、今川範忠がそれを伝えている。


  • 『満済准后日記』 永享5年(1433)閏7月28日・閏7月30条

狩野・富士以下三浦・進藤等罷出、国中所々放火、剰近日可指寄府中云々(閏28日)

狩野・富士・興津等、可被召上之由被仰出間(閏30日)

狩野氏・富士氏・進藤氏等が府中に迫ってきていることを記している。そして同三氏の京への召喚を検討している。「駿河国中の中世史」では以下のように記している。

そしてその後も狩野らの抵抗は続き、閏7月28日幕府に届いた駿河からの注進によれば、狩野・富士・三浦・進藤らが国中所々を放火し府中に攻め込んできそうな状況である。(中略)範忠の入国に狩野以下の国人たちが抵抗したのもその後ろで持氏が糸をひいていたからであろう。範政が跡継ぎとして申請した千代秋丸のちの新五郎範頼の母は扇谷上杉氏定の女であり、持氏は上杉氏との関係は良好であったためこれを支持していた。

富士氏は足利持氏側についていたのであり、このような反乱に出たと考えられる。


  • 『満済准后日記』 永享5年(1433)12月8日条

富士大宮司御免事、不可有子細由被仰出間…

足利義教が富士大宮司を赦免するという内容である。また狩野・興津氏両氏も罷免された。

管領「細川持之」
「駿河国中の中世史」では以下のようにある。

永享6年10月29日、満済は管領細川持之と駿河の狩野・興津両氏の赦免について談合している。それは範忠からの注進で持氏の野心が現わになったため、範忠に敵対した彼らを許して味方に付け関東に備えようということである

そしてなんとか駿河を平定することに成功した。これにより室町幕府は、足利持氏討伐に本腰を入れることが可能になったのである。そして「永享の乱」へと繋がっていくのである。


  • 参考文献
  1. 大塚勲,『駿河国中の中世史』,2013
  2. 杉山一弥,『室町幕府の東国政策』,2014
  3. 家永遵嗣,『室町幕府将軍権力の研究』,東京大学大学院人文科学研究科国史学研究室,1995年
  4. 小和田哲男,『駿河今川一族』,1983
  5. 大塚勲,『今川一族の家系』,2017
  6. 大塚勲,『今川氏と遠江・駿河の中世』,2008

2017年11月6日月曜日

富士城開城後の富士と武田の動向

この項では「富士城(大宮城)開城後の主に"富士城を取り巻く様子"」について取り上げていきたい(大宮城が「富士城」と呼ばれていたことについては「戦国時代の吉原の歴史と吉原宿の成立」をご参照下さい)。

まず「富士城開城」自体は、富士信忠から武田方の穴山信君を通じてなされた。以下の2つの文書が知られる。


「大宮之城主富士兵部少輔、属穴山左衛門大夫、今明之内二可渡城之旨儀定」とある。


その後の富士氏であるが、富士城開城後も実は武田勢と交戦している事実がある。開城後直ぐに武田の軍門に下った訳ではないのである。


この文書について「戦国大名武田氏の富士大宮支配」では以下のように説明している。

開城後、富士氏はどこに移ったのか明確にする史料はないが、信玄による第三次駿河侵攻の際、蒲原城において抗戦したことが次の史料によってわかる。蒲原城は富士川以西における唯一の北条方の支城で、東海道を押さえる要所にあった。北条氏政は、ここに北条氏信を置いて守らせた。富士氏も大宮城を堅守した実績を買われてこの城へ送られたのであろうが、12月6日に武田勢の総攻撃を受け、城主氏信は討死し、落城してしまった。

そして北条氏は富士信忠に居住地として豆州河津の符河を与えた。

蒲原城
しかし戦況は好転せず、今川氏真により暇(いとま)を与える旨の感状が富士信通に発給されると、富士氏は武田氏に帰順することを決意した。
北条氏政
「戦国期東国の大名と国衆」では以下のように説明する。

武田氏は、甲斐と駿河との連絡路確保のために同年2月(注:永禄12年)から富士大宮城の攻略を図っており、そのため北条氏は富士氏の支援、あるいは富士郡や駿東郡御厨地域の防衛のための体制も整える必要があった。(中略)その間の7月3日に大宮城が武田氏によって攻略され、富士郡北部は武田氏に帰属するに至っており、これによって興国寺城はにわかに武田方に対する最前線に位置することとなった。(中略)永禄12年7月に富士大宮城の攻略に成功した信玄は、9月から10月にかけて西上野・武蔵を進撃して小田原まで攻めるなどして北条氏を牽制した後、11月に入ると駿河府中の再攻略のために駿河へ侵攻した。(中略)22日に武田氏が大宮城に着陣したことを知った氏政は、24日に韮山城に弟氏規・六郎を派遣するとともに、自身伊豆に出陣して駿河・伊豆国境地域の防備を固めた。一方、27日まで大宮城に在陣していた信玄は、その後は南進し、12月6日には蒲原城を攻略した。この時、「城主」北条氏信を始め、その弟融深、北条氏の重臣清水新七郎・笠原氏(美作守か)・狩野介らの在城衆のほとんどは討死するに至っている。

武田氏は大宮城を攻略したことにより大宮城に布陣する事が可能になり、大宮から直接軍を率いることが可能となった。また退路も確保した安定した状態で戦を進めることが可能となっていた。

北条氏信
そしてその後、富士信忠は甲斐へ赴いた。


その後の動向として元亀3年(1572)5月23日「武田家朱印状写」が知られる。


この文書について「戦国大名武田氏の権力と支配」では以下のように説明している。

この史料は、最終的に服属を遂げた富士信忠の処遇について記したものである。信玄は富士信忠の居所を富士郡外に定めるとともに、子息を人質として甲府に滞在させるように命じ、扶持米として久能城の城米から50俵を出すように指示をしている。

富士信忠は興津と獅子原の間に留め置かれている。つまり富士氏を富士郡から離すことで軍事力を用いる手立てをなくし、また人質を取ることでそれら行動の抑止を図っている。

「大宮城を取り巻く動向」として注目される存在に「原昌胤」が居る。


「戦国大名武田氏の権力と支配」では以下のように記す

この後、大宮城は富士郡支配の拠点城郭として取り立てられており、ひとつの領域を形成するようになる。(中略)元亀元年5月、武田氏は大宮城下の路次整備を行った。(中略)以上のような原昌胤の立場は、富士大宮城代として位置付けられるものではないだろうか。

としている。文書上では原昌胤が「大宮城代」「城主」であるということを示す表現はない。なので当文献でも可能性として指摘しているという段階である。ただ原昌胤は大宮宿の整備等を行い、より富士大宮に特化した整備を行っていることは事実である。

原昌胤
大宮城が富士郡の拠点であったことは周知の事実であるが、ここを局所的に原昌胤が関与していたことは注目される。また「"大宮城を取り巻く"」という意味では、渡辺豊前守宛の武田家朱印状が注目される。


この文書について柴辻氏は以下のように説明している(「戦国動乱期の九一色郷」)。

これら知行宛行状に共通している点は「大宮在城について」知行を宛行うから、「軍役を勤しむべし」である。つまり、九一色衆が、武田氏の駿河進出後の富士大宮城の在番役を長期にわたって勤めていたことを示すものであり、この段階では、当然のことながら、九一色衆の全体が武田氏の軍役衆と位置づけられていたことを推定させる。しかし表でも明らかなように、本栖の渡辺豊前守は他氏にくらべて知行高が突出している。この時の豊前守は縄であり、この後に活躍する囚獄祐守の父である。(中略)こうした点から、すでに通説でいわれているように、本栖の渡辺氏が九一色衆の頭目的存在であったと認めて良いだろう。

としている。甲斐の本栖は駿河国富士郡に隣接する地であるが、その在地勢力である同衆の有力者が大宮城に在城していたことは、「就大宮在城」とあり明らかなのである。「井頭」とは現在の「猪之頭」のことであり、「富士兵部少輔」(=富士信忠)の土地であった。つまり富士氏は従来、富士上方のその最北方まで保持していたのである。例えば応永16年(1409)の記録で「根原関」の管理を富士氏が勤めていたことが知られ、北方への関与は旧来から認められており、違和感は無いと言える。また大宮城と富士上方の百姓を結びつける資料もある。


「武田氏の領国形成─富士山麓地方を中心に見た─」には以下のようにある。

これによって見ると何処の誰にという点のはっきりするのは天正2年11月30日の清左衛門外47名にあてたもののみで、それらの百姓は見その=後園(富士宮市北山)から猪之頭(同市猪之頭)にかけて住む48名であった。(中略)この朱印状によると武田氏の課した普請役とは見その=後園・馬場・上野・精進川・半野・佐折・内野・猪之頭などに住む百姓48人に、江尻城や興国寺城、更には大宮城や本栖城等々の築城に必要な葺板、材木などの調達にあたらせられていたものであることが知られるのである

としている。文書に「江尻興国寺幷本栖大宮」とあるが、すべて「城」のある地域であり、やはり城郭を示す可能性が高い。本栖城については「 戦国期における国境の一様相」に詳しい。

また「甲斐における辺境武士団について(上)」では以下のように説明し、『甲斐国志』の記録を取り上げている。

近世において九一色衆の指導的役割を果した渡辺囚獄佐守の系譜をみると次のようになる。渡辺右京亮知および左近はともに「武田家につかへ甲斐・駿河両国の境本栖に居りしばしば忠節をつくし」たといい、その子豊後縄は「信州大宮城ヲ守リテ功アリ元亀元年午7月15日五拾貫文大宮・井頭両所ノ印書ヲ賜」っている

とある。実際『甲斐国志』巻之百七には

〔渡邊囚獄佐〕本栖村
家系二内舎人綱十六世源次知武田家二仕ヘ左京亮ト称ス福島乱入ノ時功アリ其子源次縄豊後ト称ス駿州大宮城ヲ守リテ功アリ

とあるのである。「守リテ」という部分は、武田氏と徳川氏の争いを指すと考えられる。

富士城は伝承によれば天正10年(1582)に焼失したという。天正2年の文書から考えると、おそらく焼失直前まで大宮城として用いられていたと考えられる。ただ元亀期以降富士氏は武力解除が進められており、この時代に富士氏が軍を率いるということは無かった。武田方の九一色衆の有力者が在城していたことは確実で、これらを束ねていた存在としてあえて挙げるとすれば、原昌胤等が考えられるという状況である。

『信長公記』によると、天正10年4月12日に織田信長が中道往還を用いて大宮へ至っている。

大宮の社人、杜僧罷り出で、道の掃除申しつけ、御礼申し上げらる。昔、頼朝かりくらの屋形立てられし、かみ井手の丸山あり、西の山に白糸の滝名所あり。此の表くはしく御尋ねなされ、うき島ヶ原にて御馬暫くめさせられ、大宮に至りて御座を移され侯ひキ。今度、北条氏政御手合せとして、出勢侯て、高国寺かちやうめんに、北条馬を立て、後走の人数を出だし、中道を通り、駿河路を相働き、身方地、大宮の諸伽藍を初めとして、もとすまで悉く放火侯。大宮は要害然るべきにつきて、社内に御座所、一夜の御陣宿として、金銀を鏤め、それぞれの御普請美々しく仰せつけられ、四方に諸陣の木屋木屋懸けおき、御馳走、斜ならず。爰にて、一、御脇指、作吉光。一、御長刀、作一文字。一、御馬、黒駮。以上。家康卿へ進めらる。何れも御秘蔵の御道具なり。四月十三日、大宮を払暁に立たせられ…

とある。「信長公記」で「要害」とされている大宮であるが、信長が拠り所としたのは大宮城ではなく浅間神社である。やはりここに大宮城が出てこないということは、焼失しているからであろうか。伝承通り、この年には焼失していたと考えられる。

  • 参考文献
  1. 平山 優・丸島和洋,『戦国大名武田氏の権力と支配』,岩田書院,2008
  2. 黒田基樹,『戦国期東国の大名と国衆』,岩田書院,2001
  3. 若林淳之,「武田氏の領国形成─富士山麓地方を中心に見た─」『戦国大名論集 10武田氏の研究』,1984
  4. 前田利久,「戦国大名武田氏の富士大宮支配」『地方史静岡第20号』,1992
  5. 柴辻俊六,「戦国動乱期の九一色郷」『上九一色村誌』
  6. 畑大介,「 戦国期における国境の一様相」『戦国大名武田氏』,1991
  7. 村上直,「甲斐における辺境武士団について(上)」,『信濃』第14巻第1号,1962

2017年10月6日金曜日

富士宮市域の名族佐野氏と富士氏を今川氏武田氏後北条氏動向から探る

以前「小田原衆所領役帳に見える富士を考える」にて武田氏による駿河侵攻以前より今川氏ではなく後北条氏方に与したと考えられる富士家一族の人物について取り上げた。

※このページでは『役帳』の記録は駿河侵攻以前を反映しているという仮定で進めています


『小田原衆所領役帳』(以下『役帳』)によると、後北条氏の領地である「東郡片瀬郷」が富士氏に知行されており、富士家一族の中でも後北条氏側に近接した者が居たことを示している。これが武田氏の駿河侵攻以前の状態を反映している記録であるとすれば、富士家の内部分裂を想定しなければならない。そしてこの『役帳』の富士氏が、「富士常陸守」であると指摘する文献は多い。『中世東国足利・北条氏の研究』では

とくにこの『役帳』の富士氏は、元亀元年(1570)4月に北条氏康が早川の海蔵寺に禁制を下した際、その責任者として見えた富士常陸守某ではないかと考えられている

としている。『後北条氏家臣団人名辞典』ではこの点について説明している。

元亀元年4月26日北条氏康禁制写では相模国早川(小田原市)の海蔵寺に禁制を掲げ、違反する者は富士常陸に申し断る事とした。海蔵寺は大森氏と関係する寺であることから『役帳』の富士某と富士常陸は同一人物

これは大変に重要な指摘である。つまり以下のようになる。『役帳』の片瀬郷は現在の藤沢市に位置する地であるが、その地を富士氏と共に大森氏が知行先として得ていた。ここに先ず両者の関係性を見出すことができる。そしてその大森氏と関係の深い海蔵寺に禁制が掲げられた際、その監視役的位置づけとして「富士常陸守」が出てくるのである。ここでも大森氏と富士氏との接点が見出だせる。

大森氏については池上裕子,「戦国期における相駿関係の推移と西側国境問題―相甲同盟成立まで―」の解説を参考にすることとする。

北条以前にこの地(注:小田原のこと)にいた大森氏は、駿河国駿東郡大森(裾野市)を本貫の地とした国人であるが、関東公方足利持氏に結びつき、忠節を尽くしたため、上杉禅秀の乱後の恩賞で小田原を領することになった。大森の一族には箱根別当がおり、また大森は駿東郡北部をも支配下にいれていたから、小田原、箱根、足柄、駿東郡という、関東の西の境を固める目的で、持氏がこれを小田原に入れたことは疑いない。

とある。参考であるが、大森氏と関係するとされる竹之下孫八左衛門頼忠は「竹之下藍沢氏家伝」に「其後富士の大宮に住す」とあり、余生は富士大宮に居住していたようである(『裾野市史』第二巻 資料編 古代・中世 別冊付録)。


禁制は戦時における安全保障として大名側が出すものであり、寺社領内における軍勢乱入や狼藉を禁止する内容が織り込まれていることが多い。当文書も寺領内での狼藉等を禁止する内容である。このことから、この富士氏は小田原においても知行を得ていた可能性があり、少なくとも当地で一定以上の権限を得ていたのである。後北条氏の被官として捉えられなくはない記録がこの2つしかなく(役帳および禁制)、同一人物ではないかとしているのである。

ただ同文献(『後北条氏家臣団人名辞典』)では富士常陸守を「大宮司職」としていたが、当ブログではそれを示す史料は確認できなかった。むしろ大宮司職でないがために、『役帳』の富士某が富士常陸守である可能性が高まるのである。『役帳』の富士某は富士大宮司とはとても思えないのである。

また永禄12年(1569)「武田信玄判物写」にも富士常陸守の名が見える。

この文書で富士家の人物として「富士能登(守)」「富士常陸守」「富士左衛門」「富士兵部少輔」がそれぞれ出てくる。まず富士能登守は富士信通、富士兵部少輔は富士信忠である。富士左衛門は不明。

そして「富士常陸守」であるが、永禄12年(1569)の武田氏側の発給文書と元亀元年(1570)の北条氏側の発給文書にそれぞれ「富士常陸守」が見える点を考えなければならない。このとき富士常陸守が富士上方の精進川・山宮の地を有し、そしてそう違わない時期に相模国でも動向が確認できるということなのである。駿河侵攻(1568年-)において富士氏は後北条氏の庇護を受けるが、それに伴う体制であろうか。また役帳の富士氏であるが、役帳の成立およびそれを反映する時代が駿河侵攻を遡るとすると、これはとても同一人物とは思えないのである。

そしてこの文書の宛は「佐野惣左衛門尉」である。佐野氏は言わずと知れた富士郡に土着した氏族であり、富士郡でも「稲子」を根拠地とする氏族である。現在富士地区(富士宮市・富士市)に多く分布する佐野姓の大元とされ、いわば佐野の故郷である

上稲子
この文書について小和田哲男氏は以下のように説明している。

佐野惣左衛門尉は上稲子(現在、富士郡芝川町上稲子)の土豪であった。今川氏に仕え、大宮城の富士氏の指揮下に入っていた。富士氏を寄親とする寄子だったものであろう。ところが、周知のごとく、永禄11年(1568)12月、信玄率いる大軍が甲斐・駿河国境を越えて駿河になだれこんできた。そのとき、上稲子は武田軍の通り道だったこともあり、いち早く、佐野惣左衛門尉は信玄の軍門に降っている。この知行宛行状はそのときの功績によって与えられたものである。この文書で注目される点が2つある。1つは、文中にみられる富士兵部少輔の知行を早くも佐野惣左衛門に与えていることである。(中略)注目されるもう1点は、富士兵部少輔信忠の子富士能登守信通の屋敷が稲子と野中にあったことである。野中は現在の富士宮市野中東町に比定されるので、大宮城下の屋敷ということになるが、稲子にも屋敷をもっていた点は注目される。

としている。まず稲子は甲斐国の河内地区に隣接しており、国境に位置する。このことから早くに武田氏に降った背景は容易に理解できる。野中ですら大宮城が位置する狭義の「大宮」からするとやや離れた箇所の印象があり、また稲子は更に距離を有する。つまり富士氏は、富士上方各地に屋敷を有していたと考えて良いだろう。それは支配領域といっても良く、富士氏の富士上方での権力の一端を示すものである。「富士能登分但浅間領除」の「浅間領」は当然浅間大社領のことである。当文書は駿河侵攻で大宮を手中に収めた場合、それら土地を代わって佐野氏に充てがうという内容である。

武田氏はこのとき「大宮城の戦い」で2度目の攻勢を仕掛けたという段階であり、しかもその戦いで穴山信君と葛山氏元の連合軍は富士氏に敗れているという段階なので、まだ大宮の平定どころか大宮城すら落ちていない状況であった。小和田氏が"この文書で注目される点が2つある。1つは、文中にみられる富士兵部少輔の知行を早くも佐野惣左衛門に与えていることである"と述べているのは「まだ大宮は奪われていないのに佐野氏に知行を与えている」という意味であり、指摘の通りである。また現在ここまで佐野姓が多いのは、おそらく富士上方各地に散らばっていた富士氏領に佐野氏がより広範囲に住むようになったためであろう。

さて、上記の「武田信玄判物写」は以下のような過程があって現在翻刻に至っている。

この「佐野氏古文書併甲斐国志」を、私はたまたま東京の古書店で買入した。佐野氏関係の古文書は、これまでに活字となったものを何通もみていたので、はじめのうちは、本書に所収されている古文書もすべて活字化されているものとばかり考えていた。ところが、調べていくうちに、ほとんどが未紹介のものであることが明らかになった。何と、文書総数22点のうち、15通までがこれまで未紹介、すなわち新発見のものであった。(中略)いずれにせよ、写しとはいえ、戦国期の古文書がこれだけ大量にみつかったのは稀で、武田信玄による駿河侵攻の過程、さらに、武田勝頼および穴山梅雪による駿河国富士郡支配の実像が浮き彫りになってくる文書群である。

この発見により、富士宮市の佐野氏の実像が大きく判明したのである。まずこの事実は挙げておきたい。従来から伝わる「佐野氏文書」は若林淳之,「武田氏の領国形成─富士山麓地方を中心に見た─」にて「佐野文書(富士宮市大岩)に包括され所蔵されている文書であって、佐野氏によって代々継承されてきたもの」と説明されている。これら従来の佐野氏関係文書、またこの「佐野氏古文書写」からいくつか抜粋していきたい。まず佐野氏が従来よりこの上稲子に在住してきたことが分かる文書を挙げたい


この文書について小和田氏は以下のように説明している。

この文書は注目される文書である。佐野宗左衛門尉、すなわち惣左衛門尉の知行地が上稲子にあったこと、そして、佐野惣左衛門尉が本来勤めなければならなかった棟別役ならびに御晋請役が特別に免除されていたことである。(中略)しかも「如先方之時」とあるように、それが今川氏時代からの慣行だったことも分かる

これら文書から、従来より上稲子に佐野氏が土着していたことが分かるのである。伝承の域は出ないものの、源平合戦で敗れた平維盛の家臣「佐野主殿頭」が稲子の地に土着したことから佐野氏は由来するという。また西山(旧芝川町)の地頭である大内安清の孫「雅楽助」が佐野姓を名乗ったためともいう。これら伝承も含めて、中世期より佐野氏が根拠地としてきたことは疑いようがない。



この文書は佐野善次郎宛の文書である。この人物も稲子への知行を受けている。他「佐野氏古文書写」より多くの佐野姓の人物が確認できる。

また以下の文書は興味深い。


穴山信君から佐野善六郎への偏諱である。つまり穴山信君は、自身の「君」の一字を佐野善六郎に与え「君」と名乗らせたのである。このときの佐野氏と穴山信君との深い関係を思わせるものであり、着目すべきものである。鉄山宗鈍という高僧が記したという法語・香語録『鉄山集』によると、信君は「のぶただ」と読まれたという(『真田三代 幸綱・昌幸・信繁の史実に迫る』)。ここから推察するに、おそらく君胤は「ただたね」と読まれたであろう。また小和田氏は佐野氏古文書写のうち天正19年(1591)に比定される文書等から以下のように説明している。

武田氏のあと徳川家康に仕えることになった佐野惣左衛門尉が、関東から故郷下稲子に居住している佐野氏同族にしたためた書状であろう。戦国期、下稲子において、佐野氏による一族一揆的な結合、すなわち、地域的一揆体制ができていたことを物語る史料である。(中略)下稲子の土豪佐野氏の内、佐野惣左衛門尉が武士化して村を出、佐野九郎左衛門らがそのまま村に残ったことが分かる。
この文書の場合、下稲子にも佐野氏一族が居たことが確認できる。佐野氏は上稲子・下稲子、つまり稲子全域に土着していたようである。佐野氏のその後は不明であるが、現在の状況が示すように、佐野氏は隆盛したようである。以前「元亀天正期の富士郡情勢を富士氏と小笠原信興から考える」にて、小笠原信興の富士郡転封に伴う富士郡の情勢変化を記した。特に柚野周辺は影響を受けた。近接する稲子周辺も同様であったようで、信興が佐野弥右衛門に宛てた文書が残る。


この文書について黒田氏は以下のように説明している。

宛名の佐野弥右衛門に対し、その屋敷の四壁の竹木について信興の被官衆による勝手な伐採を禁じるとともに、用所の際には印判状をもって所望すると規定したもので、いわば信興被官衆の非分の排除を保証したものである。その具体的な在所については不明であるが、佐野氏は駿河富士郡北部に多く初見される土豪層であるから、この佐野氏も同様であったと見られる。また、本文書の内容や、ここで印判が押捺されていることからみて、宛名の佐野氏は信興の被官ではなく、その知行地に在所する土豪層であったと推定される。

としている。また小笠原信興の転封で篠原氏もその影響を受けているが、実は「佐野氏古文書写」には篠原氏宛のものも含まれる。以下はそれである。



篠原氏は柚野を根拠地とする氏族であり、佐野氏の根拠地である稲子に隣接する。なのでここで篠原氏が出てくるのである。


「中世期の文書」と「現代」が見事にリンクしていることから(現在も柚野には篠原姓が多いし稲子には佐野姓が多い)、文書が正直であることを実感すると共に、佐野氏の原点が稲子にあったことが改めて確認できた。

  • 参考文献
  1. 小和田哲男,「史料紹介「佐野氏古文書写」」『地方史静岡 第24号』,1996
  2. 下山治久,『後北条氏家臣団人名辞典』,2006
  3. 佐藤博信,『中世東国足利・北条氏の研究』P165,岩田書院,2006
  4. 黒田基樹,「高天神小笠原信興の考察」『武田氏研究 第21号』,1999
  5. 平山優,『真田三代 幸綱・昌幸・信繁の史実に迫る』,2011
  6. 池上裕子「戦国期における相駿関係の推移と西側国境問題―相甲同盟成立まで―」 『小田原市郷土文化館研究報告』27号,1991

2017年7月18日火曜日

田子浦と吉原湊その地理と歴史

今回は「吉原湊」(現在の田子の浦港)に軽く触れた上で、「田子浦」について考えていきたいと思います。そもそも「田子の浦港」と「田子浦」は別物なのですが、今回はそのうちの「田子浦」について触れていく形となります。

"「田子の浦港」と「田子浦」が別物"というのは何も難しい話ではなくて、例えば富士市に隣接する富士宮市で言った場合「富士宮」と「富士宮市」は違うということと同じです。「富士宮」は『今昔物語集』等で用いられているように現在の富士山本宮浅間大社を指す言葉であり、「富士宮市」というのはあくまでもその歴史的用語を用いた「市」なのです。「富士宮」という言葉自体は古くからあって、それ自体に意味があるということです。同じように「田子浦」という言葉自体は古くからあって、「田子浦」自体に意味があります。

  • 吉原湊について

まず「吉原湊」は現在の田子の浦港を指す。吉原湊の初見は不明であるが、矢部氏宛の文書の内容が大変よく知られている(詳しくは「駿河国吉原の吉原湊と道者問屋」を参照)。矢部氏は①吉原道者商人問屋②吉原渡船③立物に関わる有力者であり、吉原湊を経済的地盤にしていた。

駿河国の地が徳川氏のものとなると、今度は徳川家康の各家臣が矢部氏にそれぞれ知行を与えている。例えば天正11年の牧野康成(長久保城城主)および松平康次(三枚橋城城主)から矢部清三郎宛の文書が残るが、それぞれ「吉原湊渡舟破損修理之事」「吉原湊渡舟修理依」とあり、徳川氏になっても吉原湊で矢部氏が経済活動をしていたということが伺える。

  • 田子浦は何処を指すのか?
言わずもがなかもしれませんが、昔からある議論である。田子浦は『万葉集』に「田兒之浦」とあるそれが知られ、次いで正史の記録である『続日本紀』に「廬原郡多胡浦浜」とあることでもよく知られる。この古記録からまず

この時代の田子浦が庵原郡にある、または少なくとも庵原郡にはかかる

という理解が生じます。単純に考えれば『万葉集』でいうところの「田兒之浦」も庵原郡(いはらぐん)を指すと推察できる。

ちなみに庵原郡の各地は現在は静岡市清水区、富士宮市、富士市に分かれて分布している。しかしこれらのうち海に属する地域はすべて現在の静岡市に該当するので、当時「田子の浦=庵原郡」であった場合、富士宮市や富士市が田子の浦の所在地であるとすることはできないわけである(つまり、庵原郡の地で海に接する地域はすべて現在の静岡市清水区であるということです)。


『続日本紀』で多胡浦(田子浦)の所在地として見える庵原 ※廬原郡=庵原郡

「今川政権の金山開発と黄金運用について」では以下の解釈を示している。

駿河国において初めて黄金を産出したのは、続日本紀に天平勝宝2年(750)3月10日に廬原郡多胡浦浜に於いて黄金を得たという記事があり、これは富士郡麓村の金山から富士川に流れ出した砂金を得たことによるもので、以後、黄金の採掘は川床の砂金や河岸段丘に堆積した砂金などを中心に行われてきた

とある。「富士郡麓村の金山」とは「富士金山」(静岡県富士宮市)のことであるが、まず富士金山の麓に富士川は流れていない。また仮に流域にかかっていたとしても砂金がそこまで下ることは考えづらい。庵原郡多胡浦浜で金が採掘されたのは別の理由である。



史料を探してみた所、富士川の源を富士金山とするものがあったので、参考に以下に示す。

『和歌駿河草』より。

今千                              家雅 
立まよふ山路の雪の音もなくすそのの里に雨ふるらん 
山やまのかさなる峯の梢をもふじの裾野にうつしてぞみる 
河 

富士金山より出、又は甲州より出、又宍原、長嶺の川とともに富士川に入り大河となる。驛道往還は舟渡なり、内房といへるにつな橋有、此所の釜の口といふ有て、富士川第一の難所なり。立石とて川中に有、日蓮の旧跡有といへり。岩淵より甲州へ舟沂る十八里也
古来の田子の浦の所在地とされる箇所


驛道往還は駿州往還のことであり、「釜の口」は釜口峡のことである。「日蓮の旧跡」はおそらく「日蓮の身延入山」に関わるだろう。しかし地理的背景は誤認しているといって良いものである。なのでやはり富士金山から流れ出たとするのは難しいと思われる。

また『平家物語』にも「田子ノ浦」は「多胡浦」として出てくる。流れは以下のようなものである(『延慶本』より)

祇園精舎乃鐘ノ聲、諸行無常ノ響アリ。娑羅雙樹ノ花乃色、 盛者必衰ノ理ヲアラハス。(中略)昔、朱雀院御宇、将門追討ノ為二、宇治民部卿忠文奥州ヘ下リケル時、此関二留リテ、唐歌ヲ詠ケルトコロニコソト、哀レニオホヘテ、多胡浦ニテ富士ノ高根ヲ見給ヘリ。時シラヌ雪ナレトモ、皆白妙ニミヘ亘テ、浮島原ニモ至リヌ。

「時シラヌ雪ナレドモ」は、『伊勢物語』の在原業平の歌で、『新古今和歌集』にも収録される以下の歌から由来する表現と考えられる。

時しらぬ山は富士の嶺いつとてか鹿の子まだらに雪の降るらむ

ここから「時しらぬ山→時しらぬ雪」と転じていると考えられる。「多胡浦」が出て来る部分は、『平家物語』第六である。内容は、源義経一行が捕えた平家方を連れて都から鎌倉に下向するものである。その過程で、捕えられている平宗盛が故事を偲ぶという流れである。

平宗盛
昔、朱雀院御宇、将門追討ノ為二、宇治民部卿忠文奥州ヘ下リケル時」とあるのは、十世紀の頃に藤原忠文が平将門討伐のため奥州へ下る際、清見関で唐歌を歌ったことを記している。宗盛がこの出来事を偲びながら、田子浦にて富士山を眺めるという流れである。

その後に「浮島原ニモ至リヌ」とあることから、まず平家物語中で言う「田子浦」は、清見関以降且つ浮島原よりも手前であると言うことができる。文の流れからすると、清見関を過ぎた箇所から田子浦としているようにも捉えられる。ただ正確には不明である。

記録表記場所
『万葉集』田兒之浦不明
『続日本紀』多胡浦浜庵原郡
『平家物語』多胡浦清見関-浮島原の間

次に『東関紀行』を見ていきたい。

清見が関も過ぎ憂くて、しばしやすらへば(中略)昔、朱雀天皇の御時、将門というふ者、東にて謀反起こしたりけり、これを平らげんんために、民部卿忠文を遣はしける。この関に至りて留まりけるが…(中略)この関遠からぬほどに、興津という浦あり。海に向かひたる家に宿りて侍れば、磯辺に寄する波の音も身の上にかかるやうにおぼえて夜もすばら寝ねられず。(中略)蒲原という宿の前をうち通るほどに、後れたる者待ちつけんとて、ある家に入りたるに(中略)田子の浦にうち出でて、富士の高嶺を見れば、時分かぬ雪なれども、なべていまだ白妙にはあらず。(中略)浮島が原は、いづくよりもまさりて見ゆ…。

と「清見関→蒲原宿→田子浦→浮島が原」と通過していることが分かる。ここで「田子の浦にうち出でて」とあり『万葉集』との一致点を見出すことは確かにできるが、区別が必要であることも事実であろう。『万葉集』では「田兒之浦従」とあり「従→ゆ」は「通って」という意味であるので、「田子の浦を通って見えた風景」を指して言っているのである。しかし当紀行文はおそらく単純に「田子の浦」に到着した様子を記しているのである。『万葉集』の場合過ぎた地点を指している可能性があるので、意図に差異があると言える。

『東関紀行』では蒲原以降且つ浮島原より手間の箇所を指して「田子浦」と言っているということが確認できる。これは『平家物語』とほぼ同様である。この記録でも庵原郡の箇所を指すのか、富士郡を指すのか、またそれを跨るのかははっきりしていない。蒲原宿の位置から幾らか至らないと富士郡には入らないし、『続日本紀』といった記録を考慮すると、この時代の「田子浦」も庵原郡を含めて呼称していたと考えた方が良さそうである。古態を示すとされる『延慶本平家物語』の成立年等も考慮する必要性がある。

しかしその後明らかに駿河国富士郡の地を指して「田子浦」とする例が史料上出てくるようになり、両者異にする地であることから混乱を生じさせている。近世以降の資料を見ると、富士郡の箇所を指す例が優位にあると言って良いように思われるのである。

『駿府風土記』(江戸時代)


『駿府風土記』では岩淵のより東側を指して「田子ノウラ」としており、ここは富士郡の領域である。また下図でも「川成」(「富士市の島地名と水害そして浅間神社」を参照)の付近を指して「田子浦」とあるのであって、やはり富士郡である。

以上のように古記録では庵原郡を「田子浦」とする記録が確認でき、中世は清見関-浮島原の間を指す傾向が確認でき、より後世では富士郡に限局するという流れが見えるのである。そして明治期の町村制施行の際に「田子浦村」(後の富士市)が誕生する。ただ「田子浦村」は中世・近世には見られない村名であると思われる。村名というのは、度々変更されることもあった。例えば富士市立博物館,『六所家総合調査だより 第11号』には以下のようにある。

一方、東泉院や旧善徳寺を含む広大な地域は、近世には村高三千石を越える善徳寺村という近世村落の村域であった。この村は、寛文二年(一六六二)に今泉村と改称されるが、「善徳寺」というのは、村名でもあった。

また「綱吉期孝子表彰と富士郡今泉村中村五郎右衛門の年貢永代朱印状」には以下のようにある。

今泉村は慶長4年(1599)には「瀬古村」と呼ばれていたことが残されている検地帳からわかり、その後「善徳寺村」と呼ばれ、寛文2年(1662)には「今泉村」と改称されている。

そこで「田子浦村」の存在を考えるに、元禄郷帳・諸国郷帳・天保郷帳を見ると「田子村」があるが「田子浦村」が無い(ちなみに「田子村」は普遍的な名称で例えば伊豆国那賀郡にも田子村は在った)。時代別に調べを進めてみるも、かなり時代を下っても確認できない。ほぼ町村制施行か極めてそれに近い時代に初めて「田子浦村」と冠するようになったと推察できる。ここに「この地が古来から田子浦と呼ばれていた」という誤解を生じさせる要因があるように思われる。

ただ『続日本紀』『平家物語』の記録に鑑みるに、この地(現在の田子浦港付近)と山部赤人の歌とを安易に直接的に結びつけることは望ましくないと考える。それ故に「田子浦は何処を指すのか」という議論が今日も生じているのである。

中世の『東関紀行』等の記録をみても庵原郡の領域を指すのか富士郡の領域を指すのか、はたまた跨るのかははっきりしないが、古記録で『庵原郡多胡浦浜』とあるので、中世の記録も庵原郡の領域を含める形で呼称していたと考えたい。『平家物語』では平将門討伐といった故事を持ち出しているのであり、これらは当時記録が存在しているために引用できるのであって、地理的側面も『続日本紀』といった古記録に沿っていると考えるのが大変自然である。また「吉原湊」との関係性も気になる所である。

  • 田子浦は「何」を指すのか?
「田子浦は何を指すのか?」といったとき、「浜」を指すのである。なので歴史的史料にて「吉原湊(みなと)」はあっても「田子浦湊」が無いのである。後世の町村制施行で「田子浦村」が誕生したがために「田子浦港」という名称になっているが、本来は「吉原港」といったほうが歴史的性質からはしっくりと来るのである。

例えば『駿府風土記』で大変に内陸を指して「田子ノウラ」とあることに違和感を覚えたが、これは「浜」を意識してのことと考えられる。江戸幕府将軍「徳川家茂」は文久3年(1863)に上洛を試みるが、この際東海道を用いた。そのため原宿・吉原宿も用いているが、その様子を記したという『昭徳院殿御上洛日次記』で家茂は「足高山手前海岸田子之浦辺」を巡覧したという。ここでいう「海岸田子之浦辺」という表現からも、海自体は指さないと考えられる。(大高康正「将軍徳川家茂の上洛と東泉院」を参考)。


中世の記録を見るに、戦国大名の発給文書等で「田子浦」を用いている例が見られない。管見の限り確認できていない。これは何を意味するのであろうか。おそらく中世でも戦国期に「田子浦」はそもそも多用されるような用語では無かったのであろう。支配領域の細分化・変移で蒲原以降から浮島原の間(のどこか)という広範囲を指す曖昧な用語が受け入れられて来なかったのだと思われる。それ故に故事の引用等から由来し紀行文等で稀に「田子浦」という用語が用いられることがあるか、近世の国学研究において言及されるに留まると推察される。

『続日本紀』に「多胡浦浜」とあり、後世でも「浜」と「湊」を区別していたと考えると、水運関係に富む矢部氏文書であっても「田子浦」が出てこないことも理解できる。上の『駿府風土記』等でややランダム性を持つ形で図示される例が見られるが、各図でも異にする地を「田子浦」としており、実際は最後まで明確な場所は定まっていなかったと考えられる。

  • 参考文献
  1. 高山利弘・久保勇・原田敦史編,『校訂延慶本平家物語 11』,汲古書院,2009
  2. 東島誠,「租税公共観の前提――勧進の脱呪術化」『公共圏の歴史的創造 江湖の思想へ』東京大学出版会,2000年 
  3. 阿部浩一,「戦国期東国の問屋と水陸交通」『戦国期の徳政と地域社会』吉川弘文館 ,2001年 
  4. 原田千尋,今川政権の金山開発と黄金運用について : 『真珠庵文書』を中心に読む,『静岡県地域史研究 (3)』,2013年

2017年6月22日木曜日

富士上方と葛山氏その支配領域と被官吉野氏

富士上方は「≒現在の富士宮市域」である。この領域の領主は富士氏が知られているが、葛山氏の支配領域も存在していた。

沼津から小山町にかけては歴史的には「駿河郡」と呼称される

まず挙げなければならないのは、以下の葛山氏元判物である。


孫九郎(吉野氏、後述)の所領である「久日」「山本」「小泉」を吉野郷三郎に安堵するという内容である。これらの土地が従来通り吉野氏のものであるという認識を示す文書である。つまりこれらの地を葛山氏が支配していたのであり、葛山氏の支配領域の広さを示す一端であると言える。


また飛んで淀士(現在の富士宮市淀師)にも支配領域があることは興味深い。この文書が発給された永禄11年(1568)という時代は、葛山氏元が今川方から離反し武田方に寝返る間近の時期(または離反していた時期)である。葛山氏元は「新四郎名」を市川権右衛門に給付することを命じており、これはやはり葛山氏が淀師の地を支配していたためなのである。

ただ富士上方地域だけで見れば、富士氏の方が影響力を保持していた。例えば富士氏が寺社に対し諸役免除を行う古文書も存在するが、葛山氏が同時代富士上方地域に同様の性質を持つ文書を発給している様子はないのである(「駿河国富士郡領主としての富士氏」を参照)。他にもこの地域での多様性は富士氏で認められるように思えるのである。


しかし葛山氏は自前で朱印を用い文書を発給するような独立性の高い国衆であり、その支配力については疑いの余地はない。「駿河国駿東郡と葛山氏」(有光)でも朱印状を使えていたのは武田陣営では武田氏・穴山氏・小山田氏等、今川陣営でも今川氏・朝比奈氏等と限られた国主・国人のみであったことが指摘されている。富士上方の地は、富士氏の勢力と葛山氏の勢力がせめぎ合っていた地域なのである。

  • 富士大宮における富士氏と葛山氏

富士大宮は富士氏の本拠であるが、そこにも葛山氏の影響が認められることには葛山氏の力量を感じざるを得ない。富士大宮は交通の要所であり、交通路掌握に長けていた葛山氏が狙わないはずがないのである。「戦国大名今川氏と葛山氏」には以下のようにある。

西隣の富士郡には、富士信仰の道者坊として著名な村山三坊の一つ辻坊の所職を継承する葛山氏や「富士大宮司代官職」を有した葛山氏など、葛山姓のものが史料上散見する

村山にも葛山一族の勢力があったことは分かっているが、研究が大変少なくよく分かっていない。今回はこの大宮の「富士大宮司分代官職」の方を考えてみたい。「楽市論―初期信長の流通政策」には以下のようにある。

駿東郡の国人領主葛山氏は、富士郡にまで勢力を伸ばし、富士大宮の南「山本・久日・小泉」を領する吉野氏を自己の配下に収めた。おそらくこのことと関連してだろう、葛山氏は大宮城の城代に任ぜられ、神田川以東は葛山氏の支配下に置かれた。つまり富士大宮は、「社人町」を含む西側が浅間神社の支配地域だったのに対して、東側の「雑色町」は葛山氏の支配下となったのである。(中略)永禄4年7月、大宮城代葛山甚左衛門頼秀は改易され、「大宮城」城主は葛山氏から国人領主富士氏に替えられた

史料上からは「神田川以西=富士氏、神田川以東=葛山氏」とあるわけではなくこれは推測に過ぎないが、富士大宮に境界は確かにあったのかもしれない。橋を境にその精神性・地理的性格が変わることは多々ある。真に問題となってくるのは「富士大宮司分代官職」についてである。ここの部分は、読み手により文書の解釈に大きな差異が認められる部分である。

永禄4年7月「今川氏真判物」


「改易」の部分が少なくとも「富士大宮司分代官職之事」にかかるとして、「城代」(≒城主)にもかかるのか、という問題である。


「富士大宮司分」は富士大宮司領のことを指し、領するのは富士大宮司(富士氏)であったが、その土地の代官職は葛山氏にあったのだろう。葛山氏はそれ(代官職)をまず改易されたのである。その上で大宮城代を富士氏としたと考えられる。つまり、葛山氏が大宮城代であったわけではないと思われるのである。この判物で氏真は、この土地における葛山氏の介入を完全に退く形としたかったのである。

「戦国期における富士大宮浅間神社の地域的ネットワーク-「富士大宮神事帳」の史料的分析から-」では『富士大宮神事帳』に祭礼役の負担者として記される「御代官」が「富士大宮司分代官」に相当すると仮説を立てており、興味深い。また『元富士大宮司館跡』には以下のようにある。

市立大宮小学校屋内運動場建設予定より、12世紀前半から16世紀前半まで連綿と営まれた居館跡が発見され、これが芙蓉館以前の元富士大宮司館跡であり終末期には史料に言う大宮城とも充分な関わりを持っていたことが判断されたのである。  ※執筆を一部担当している若林氏は「富士氏の居館であったのでは無いかという大前提のもとに考察をすすめているのであるが、このことに対して若干の疑問を提起するところである」とも述べている

つまり市としては「大宮城の前身は富士大宮司館である」と言っているのである。そもそも「富士大宮司館」という文言は元弘3年(1333)と建武元年(1334)「後醍醐天皇綸旨」にしか見られない。

元弘3年(1333)「後醍醐天皇綸旨」

この2点の文書しかないという事実もそうであるが(その後「大宮司館」の文言は見当たらない)、個人的には14世紀中盤に「大宮司館」とあるだけで後の「大宮城」(15世紀後半から見られる)と同場所であるという論は普通成り立たないと考える。また発掘物を祭祀へ直接的に結びつけてよいものだろうか、とも思う。また「富士大宮司分代官職」が葛山氏にあったという事実も無視できない。振り出しに戻ってしまうが、「代官職」を保持している人間が「大宮城」と呼ばれる場所に関与していたと考えることはおかしなことではない。

また発掘調査時に「元富士大宮司館跡」として刊行したことには違和感を覚える。それ以前に「大宮司館」が浅間大社そのもの、または境内を指している可能性も充分にある。例えば『絹本著色富士曼荼羅図』には浅間大社境内の館に神官が居る様子が描かれている。
『絹本著色富士曼荼羅図』より

このようなものを指して「富士大宮司館」と呼称していた可能性も十分あるのである。その特異的な用例から2点、もっと言えばごく短い期間のみしか確認できないと考えた方が良さそうである。そもそも土地の寄進であるのに宛を「居館」とするのは何故だろうか。大変違和感を感じる部分である。「大宮司館」はごく短期間しか確認されていない用例であるが、「大宮城」はもっと長きに渡り用いられていたのであり、それが最後の姿である。なので通常であれば「大宮城跡」と名付く形で刊行されるべきであっただろう(遺跡地名表では「大宮城跡」に包括)。

ただここでは、富士大宮にて葛山氏の影響力があったという事実は示しておきたい。

  • 吉野氏
まず吉野氏は葛山氏の被官である。富士宮市山本に勢力を持ち、同地には吉野屋敷が存在していた。ただ「中世城郭史の研究」によるとその規模は30mから40mといい、小規模である。吉野氏と葛山氏との関係は、葛山氏広の時には確認できる。「戦国大名今川氏と葛山氏」にて「氏広については、発給文書は天文初年時期の二通しか存在しない」とあるうちの一通である。つまりかなり早期から関係性が確認できるのである。


年欠であるが、天文4年(1535)に比定されている。このように、葛山氏広は「吉野郷九郎左衛門尉」に下遠島での戦功を賞して感状を与えた。そして以下は、氏広の次代の葛山氏元による天文14年(1545)の感状である。



この感状から、吉野氏が長久保城の戦いに参加していたことが分かる。これは「河東の乱」の一幕である。「戦国時代の吉原の歴史と吉原宿の成立」にて

天文14年(1545)八月に今川義元が河東に入り、その後援軍要請を受けた武田信玄も駿河に入り大石寺に着陣。今川軍と武田軍の合流が明確であることが分かると、北条軍は吉原城を放棄し三島へと後退した。その後北条氏は和睦を提案し、武田氏が両者を仲介した。

と説明した。このとき北条方が今川方に明け渡した城こそが長久保城である。ただ問題はこのとき吉野氏が「今川・北条どちら方として戦っていたのか」ということである。また「777号・778号」であるが、文面・日時が同様であるのにも関わらず発給者が異なるのは違和感がある。「戦国大名今川氏と葛山氏」では上の感状(777号)だけでは今川・北条方のどちらかは分からないとしている。また脚注内にて「『駿河記』には、この氏元感状とほぼ同文の今川義元発給の感状が載せられている。

これに対して『静岡県史料』の下註にて「(現品なし)今採らず」と記されている。本章でも、この『県史料』の判断に従っている」としている。氏は他史料を考察の上で「氏元は北条氏方の一員として、その後の長久保城攻防戦に参戦したというのが歴史的経緯であろう」としている(ここは諸説あり)。『駿河記』の記述は検討を要する。

そして以下の天文15年(1546)の文書は特に知られている。


上述のように、葛山氏が富士上方地域を一定規模以上支配していたことが分かるのである。弘治3年(1557)の文書に「吉野采女」なる人物の名が見える。


「富士郡山本村吉野采女殿」とあるのでやはり山本の吉野氏なのであるが、この人物についてははっきりしていない。「本文書は検討の余地がある」とあるのは、この文書のみ唐突に後北条氏との接点が見出だせるためである。この文書の存在を考えると、上の「氏元は北条氏方の一員として、その後の長久保城攻防戦に参戦したというのが歴史的経緯であろう」という解釈は是であるかもしれない。


また同文書も大変重要な示唆をしており、永禄元年(1558)葛山氏元が吉野郷三郎に「高原関」の管理と関銭の上納を命じているものである。つまり吉野氏は関所を管理していたのであり、また葛山氏は富士郡の交通を一部掌握していたのである。まず現在の富士宮市では「高原」という住所自体は存在しないものの、山本でも高台にあたる一帯は現在でも「高原」と呼称され、根強く呼称が残っている。高原は岩本に隣接する地で、富士下方地域と大宮を繋ぐ主要路の1つであった(「富士市岩本に出された制札と富士山登拝」を参照)。関所があるのもその理由からなる。



遠州忩劇時に吉野氏は今川軍として参加しており、葛山氏元の指示を受けている。


「戦国大名今川氏と領国支配」では以下のように説明している。

また月日は不明ながら駿河富士郡より東三河に出陣していた吉野日向守は、葛山氏元の指示により遠江牛飼原(豊田郡森町)に転戦し、周智郡西楽寺(袋井市)には群生乱入があった。

永禄8年(1566)11月のことである。その後永禄9年(1567)に吉野日向守の名が見える。葛山氏元が富士浅間社の正月三ヶ日の祭礼に必要な負担分を吉野日向守領から受け取るよう命じたものである。


ここでいう富士浅間社は、駿河郡における浅間社(佐野郷か)を指すと考えられる。そして葛山氏元は後に謀反を起こすのであるが、やはり吉野氏は葛山氏に同調したであろう。その後の吉野氏の動向は少ないものの確認できる部分があるが、葛山氏と吉野氏の関係は不明である。葛山氏元は武田氏に帰順後の永禄12年(1569)、富士氏が守る大宮城(富士城)を攻撃している。この時、吉野氏も同様に大宮城を攻撃していた可能性が高い。


永禄13年(1570)、氏元が駿河国内房橋上・船役所に宛てた文書が残る。内容は橋上の船役所に対して「瀬名信輝」およびその同朋を通すよう伝達した文書である。瀬名信輝も葛山氏元と共に武田氏に帰順した人物である(「戦国時代の富士川流域の役割と船方衆」を参照)。天正元年(1573)に葛山氏元は武田氏より謀反の疑いをかけられ、処刑されている。その後吉野氏がどのような過程を経たのかはよく分かっていない。

  • 参考文献
  1. 久保田昌希,『戦国大名今川氏と領国支配』,吉川弘文館,2005
  2. 『沼津市史 通史編 原始・古代・中世』
  3. 『裾野市史 第八巻 通史編Ⅰ』
  4. 有光友學,「駿河国駿東郡と葛山氏」『武田氏研究 第22』,2000
  5. 有光友學,『戦国大名今川氏と葛山氏』,吉川弘文館,2013
  6. 安野眞幸,『楽市論―初期信長の流通政策』,2009
  7. 小和田哲男,『中世城郭史の研究』,清文堂出版,2002
  8. 大石泰史,「今川領国の宿と流通 : 宿と流通を語る「上」と「下」」『馬の博物館研究紀要 第18号』,2012
  9. 池上裕子,講演「今川・武田・北条氏と駿東」『小山町の歴史 第8号』,1994
  10.  合田尚樹,「戦国期における富士大宮浅間神社の地域的ネットワーク-「富士大宮神事帳」の史料的分析から-」『武田氏研究 第30号』,2004
  11. 富士宮市教育委員会編,『元富士大宮司館跡』,2000
  12. 富士宮市教育委員会編,『元富士大宮司館跡2』,2014