2022年7月29日金曜日

富士宮市立郷土史博物館基本構想を独自に模索してみる

「(仮称)富士宮市立郷土史博物館基本構想」を独自に模索してみようと思います。

資料「(仮称)富士宮市立郷土史博物館基本構想」をベースとし、それに対して私見を述べる形で進めていきたいと思います。同資料から引用し、該当する頁数を附しています。では、始めていきます。

(仮称)郷土史博物館事業 豊かな歴史や文化を後世に伝える博物館の整備を進めます。(P2)

まず仮称の「郷土史博物館」ですが、この名称自体避けた方が良いと考えます。絶対に人は近寄りません。外部から来た人なら尚更です。仮称であることは分かりつつも、不安です。

富士宮市史を刊行し、富士宮市の豊かな歴史・文化を後世に伝えます。(P3)


新富士宮市史編纂事業の意義と古史料の提供呼びかけ」でも述べましたが、図説的なもので補えるのか懐疑的です。

市内に広がる多数の歴史文化資源を巡り、身近に「見て、触れ、感じて」も らうことをコンセプトに、24のモデルルートからなる「歩く博物館」を設定しています。(P7)

私は富士宮市HPに公開されている「歩く博物館」の資料を基に現地に訪問するなどしましたが、明確に所在地が異なるものがいくつも存在した。示されるポイント(グーグルマップでいうところの「ピン」)があまりにも巨大で、全く詳細が掴めない。ポイントが荒いだけでなく、明確に誤っているものもあり、訂正が必要である。

埋蔵文化センターの存在を知りませんでした。この施設の存在意義とは。市民に 告知されているのでしょうか。(註:アンケートより)(P8)


そもそも、自分から存在意義を調べようとしましたか?広報を見たことはありますか?

富士山と埋蔵文化財があるので世界遺産センターのような施設を作り県外を始め、国外からやってくる人を対象にした施設を作って欲しい。(註:アンケートより)(P8)

世界遺産センターのような施設は要らないと考えます。気持ちは分かります。

市民や多様な利用者が、富士宮市の歴史・文化の全体像を把握するととも に、市内に数多く所在する歴史文化資源や世界遺産富士山の構成資産などを知ることができるよう、展示施設等や富士宮市が展開する「歩く博物館」と連携し、市内周遊を促進する取組が求められます。(P9)


まず資料の完成度を上げる必要がある。人を動かしたいと本当に思っているのか、疑問にすら思う。

あらゆる世代の人々が気軽に訪れ、憩い、交流し、活動を行うことができる開かれた空間を備えます。市民や多様な利用者の様々な活動に利用することができる空間を提供します。(P13)


その「場」ですら歴史的なテーマを含むものであって欲しい。ただの「箱」で良いのだろうか。『築山庭造伝』に記される富士大宮司邸(茶庭・大書院)を模したもの等、施設自体の工夫を求めたい。もっともっと考えても良いと思う。


富士宮市の歴史と文化を学び、自ら調べる活動をとおして、より多くの市民が郷土への理解と愛着を深め、生きがいや心の豊かさを実感で きるよう、多様な探究と創造の機会を提供します。(P13)


おそらく、以下のような事例が広く認められるようになることを望んでいるのでしょう。



「自ら調べる」と言うと"文献にあたる"必要性があると思いますが、例えば富士宮市立中央図書館は郷土史に関わる文献が一部欠如しています。外郭の環境整備も必須かと思います。当ブログは参考文献を数百程掲載しておりますが、蔵書化することが望ましい文献は多く存在しています。年数が経れば経る程、入手は難しくなっていくのです。

この高校生らは研究レポートのテーマとして「富士氏」を選んだわけですが、通史で考えていくためにまず「古代」を調べようとしても、富士宮市の図書館にはその文献はあまりありません。古代を取り上げた「富士氏家祖の謎と吾妻鏡に記される和田合戦の富士四郎および富士員時」で挙げた参考文献も、半分も無いようです。全く話になりません。富士宮市の図書館だけでは、基本的な地域史情報の把握が出来ないというわけですね。

市民や多様な利用者が、富士宮市の歴史・文化の全体像を把握し、市内に数多くある歴史文化資源や世界遺産富士山の構成資産等を知り、市内を巡るきっかけを提供します。 (P13)


当地で数百年にわたり影響を及ぼしてきた「富士氏」ですら、市民の殆どが知らないのです。近年それらを取り上げる動きがやっと認められるようになってきたものの、失われた数十年は戻らない。現在の位置から考えると、「全体像の把握」は途方もない目標のように感じてしまいます。本当に途方も無いことだと思います。

(1)富士宮市の貴重な歴史文化資源の散逸を防ぎ、未来へ継承します。 [ 展開例 ] ① 現在の埋蔵文化財センターが収蔵する資料に関する情報を一元的に管理 します。 ② 富士宮市の歴史・文化に関する資料を、市民等からの受贈や寄託により、 また、必要に応じて購入することにより、体系的に収集します。(P16)


現在の富士宮市内房橋上(旧芝川町域)を根拠地としていた「森家」も、「森家文書」を静岡県側ではなく山梨県側に寄託しています(富士川との関わりが如実に現れている文書です)。もうだいぶ散逸しているのが現状でしょう。「森家文書」は富士宮市のせいではありませんが、思う所はあります。

ちなみにこの辺りの歴史も、富士宮市が取り上げているかと言われれば、そんなこともないのです。

(1)市民の活動に資する調査研究を行います。 [ 展開例 ] 学芸員による調査研究をとおして、富士宮市の成り立ちや歴史文化資源の 形成に係る特徴など、富士宮市の歴史・文化の基盤を明確にし、その成果を市民に提供します。(P17)


一例を出せば、「富士宮市文化財調査報告書」も50を優に超えてはいるものの、あまりにも考古学に偏りすぎている。この中で「中世・近世」をテーマとしたものがどれだけありますか?

富士宮市の報告書群を見ると、まるで「文化財」=「古代」と定義しているかのように錯覚すらしてしまう。信じられないような偏りだと思います。まず「時代の偏り」を内側から是正して欲しいです。文化課の姿勢にも問題があると考えます。

市民の活動に資する調査研究を行います。 [ 展開例 ] 学芸員による調査研究をとおして、富士宮市の成り立ちや歴史文化資源の 形成に係る特徴など、富士宮市の歴史・文化の基盤を明確にし、その成果を市民に提供します。 [ 必要機能・要素等 ] ・調査研究室、書庫、倉庫 ・収蔵資料データベース、歴史文化資源データベース、WEBサイト(P17)

富士宮市のWebコンテンツ量は、極めて少ないです。そして、とても分かりにくいです。

④ 世界遺産富士山や「歩く博物館」など歴史文化資源の拠点として、価値や魅力を紹介するとともに、アクセス情報を提供し、現地へ誘います。(P18)


資料の改訂を早急に行ってください。普通の人は行けません、これでは。「示されるポイントがあまりにも巨大」と上述しましたが、実際に見てみると"道の幅×8ないし10"くらいの巨大サイズです。

星山の手ひきと倭文神社コース(Jコース)

冷静に考えてみましょう。4.4cm(スケールバー)に対して距離200mのとき、ポイントの●は、直径およそ1.1cmです(ブラウザやズーム比等で表示されるサイズは異なりますが、比率自体は同様。原寸大ならおよそ1.8cmに対して距離200mで、●の直径およそ0.45cm)。簡単に言えば、おおよそ●4個分で200mということになります。

ということは、この1つの●だけでなんと直径50mの範囲を指しているということになります。実際は、この直径50mという広範囲の中から石造物等を探し当てる事になるわけです。それが各箇所に課されます。不親切であることは言うまでもありません。訪れて欲しいと思っているようには、とても思えませんよね。またこの場合、たとえ●1つや2つ分のズレであっても、全く別の箇所を指すことになります。

「歩く博物館」という言葉は同資料で「P7」「P9」「P18」「P21」「P38」と、かなりの高頻度で登場します。とやかく言いたくありませんが、もし売りと考えているならば、せめてそれに直接関わる部分くらいはそれなりのものを求めたくもなります。

③ 小中学校による地域学習「富士山学習」の場として、情報提供などの研究 支援を行います。 ④ 学校教員と連携し、学習プログラムや学習教材を開発・展開します。 ⑤ 学校の学習プログラムとの連動性を高めた取組を展開します。 ⑥ 教育普及ボランティアによる展示解説を行います。そのための人材育成プ ログラムを開発・展開します。 [ 必要機能・要素等 ] ・講座室、ワークショップルーム、屋外学習スペース、図書・情報室、 ミュージアムショップ ・教育普及担当職員、教育普及ボランティア、展示解説(P20)


正直、教員の負担をこれ以上増やさない方が良いのではないかと思うところもある。が、学習の中で富士宮市の歴史をほんの少しばかり挿入する工夫があるだけでも、学生の見方は大きく変わるようにも思う。以下に一例を示す。


先生)『今昔物語集』という平安時代に成立したとされる作品があります。(興味薄)
       ↓
変更例)『今昔物語集』いう平安時代に成立したとされる作品があって、実は「富士宮」も出てくるんです(興味がちょっとは出てくる)


というように、やりようは幾らでもある。つまり「義務教育で習うような知名度の高い史料」と「富士宮市との関連」を示す対応表などを作成する努力はあっても良いと思う。それを「富士山学習」で活用するという形が現実的ではないだろうか。余裕があれば普通の授業で挿入しても面白い。

また、多くの学校で用いられている山川出版社の『詳説日本史図録』には、富士宮市の事柄が2つ程確認される。1つ目は「富士大宮楽市令」であり、2つ目は「富士金山」である。このような学校の参考書に記されるレベルのことでも、学生・市民は殆ど知らないのである。これが現実です。現在地を知る必要性があります。

このような状況を打破できずにいるのは、富士宮市教育委員会のベクトルが誤っているためである。土壌づくりをあまりにも怠りすぎた。これをまず認める必要がある。必要なのは、現在地の底上げだったわけである。上記で言及したように、「全体像の把握」は途方もない目標です。本当に、あまりにも、途方もない目標だと思います。

そもそも行政側が出来ていないというのに、市民への啓発などできようもない。

地域の自然環境に調和し、市民の誇りとなるような優れた建築デザインを 目指します。(P24)

歴史史料に確認されるような、富士宮市に所在した建築を模して頂きたい。平面図を3D化する技術は既に確立されている。現地点でもっと考えて欲しい。

埋蔵文化財センターは現在地から移設し、本博物館に併設します。現在の 埋蔵文化財センターは立地などの観点から廃止します。 ・郷土資料館は、本博物館に統合します。(P25)

妥当である。

本博物館で必要となる機能の全てを整備することができる既存の建物がないため、新築することを前提とします。(P25)

妥当である。


整備及び維持管理費用を勘案し、必要な機能を満たしつつもできるだけコンパクトな建物を整備します。(P25)


一考の余地あり。むしろ災害との兼ね合いで、ある程度面積があった方が良いという考えもある。


施設合計 約 2,600 ㎡ 屋外 体験学習スペース(学校団体の昼食場所を兼ねる)、大型バスの車寄せ約 1,000 ㎡(P27)


マックスバリュより狭いですよね。


現状では活用することができる補助金等は確認できていません。今後、地方創生交付金や寄附金など活用することができる財源について研究します。(P29)

もっと規模が大きい方が模索できるのではないか。「安物買いの銭失い」では困る。

維持管理費についてはもちろん「市の財政」からとなる。地方公共団体の税収は、企業の固定資産税等に拠る所も大きい。平たくいえば、富士宮市に本社を置く企業が増えてくれれば、嬉しいのである。そうすれば、他分野にも振り分ける余裕が生まれるのである。

こういう基本的な構造すら理解していない人が、よりによって行動力を有し、説明会等を介して「安物買いの銭失い」へと誘導するのである。行動力があるので、他方で「税収が期待できるモノ・コト」のきっかけを奪っていたりすることもある。これを、正義感を持って行うのである。こういう悪循環が地方には有る。


本博物館の敷地として利用することができる可能性がある市有地のうち、前述の敷地面積(約6,000㎡)を確保することができる場所は、次の3か所(4地点)です。現時点では新たに用地を取得することは想定していません。(P30)


公共交通機関や自家用車、大型バスでの来館がしやすい立地に設置します(P24)」という考えと相容れないでしょう。


本市の歴史文化資源を継続的かつ効果的に保存管理し活用していくために、 入館料を徴収します。入館料の額は、減免対象なども含めて、今後検討します。(P35)


良い。それ故にストイックに来場者数を求めていく姿勢が欲しい。一番必要な人材は、それを成すことができる人です。そのために努力できる人です。

以上が、資料「(仮称)富士宮市立郷土史博物館構想」に対する私見です。

ここで、ある小さな施設の話をしたい。私は隣町の山梨県南巨摩郡南部町にある「道の駅なんぶ」に行ったことがある。事前に知る所では無かったのだが、そこには「南部氏展示室」が設けられていた。見てみると、それはそれは小さな空間であった。


「道の駅なんぶ」HPより

しかし私は、その空間の小ささからは想像も出来なかった充足感に満たされた。これは紛れもなく、「効果的な演出」によるものである。と同時に、南部町でははっきりとした形で「南部氏」をアピールする試みが認められるのに、富士宮市は「富士氏」をアピールする試みが無いのだという失望を覚えた。これが「意識の差」なのである(自治体の規模を加味すれば尚更である)。

富士氏は富士宮市の領主であり、しかもそれは永に渡ったものであって、城主の時代もあった存在である。言うまでもなく、フラッグシップとも言うべき位置づけにある。南部町にとってのそれが南部氏であり、確かな「形」としているのである

また南部町は、町HPに「南部氏の郷」という独立したコーナーをしっかりと設けている。そのため、ブラウザで「南部氏」と検索すれば1ページ目にはしっかりと表示される。もちろん、富士宮市にはそのようなものはありません。言わずもがなですが、検索して表示されることもありません。そこには、「意識の差」などという柔い言葉では本来済まされないような現実がある。南部町の方が、遥かに進んでいます。

以下の古文書は、「南部氏展示室」で撮影したものである(撮影は「可」とあり)。


この古文書は既知のものであり、「日蓮の身延入山と富士宮市・富士市」でも取り上げている。私は「大宮の初見」と思っているのであるが、解説も極めて分かりやすいものであった。一方で富士宮市の展示で「分かりやすい」と思ったものは、正直これまであまり無かったように思う。

私は、基本構想の前提自体が危ういものであると感じる。そして、現在の問題点を早急に改善していかなければならないと思う。もう時間はあまり無いだろう。

2022年7月24日日曜日

梶原景時の変と駿河国在地武士、三澤氏と三澤寺

「梶原景時の変」の末に梶原一族は滅亡するが、実は梶原景時らが討たれたのは「曽我兄弟の仇討ち」の地である静岡県富士宮市のお隣、現在の静岡県静岡市であった。


梶原景時

『吾妻鏡』正治2年(1200)正月20日条には以下のようにある。


廿日 (中略)亥の刻、景時父子、駿河国清見関に到る。しかるにその近隣の甲乙人等、的を射んがために群集す。退散の期に及びて、景時途中に相逢ふ。かの輩これを怪しみて矢を射懸く。よって庵原小次郎・工藤八郎・三澤小次郎・飯田五郎これを追ふ。景時狐崎に返し合はせて相戦ふのところ、飯田四郎等二人討ち取られをはんぬ。(中略)また景時ならびに嫡子源太左衛門尉景季〈年丗九〉・同弟平次左衛門尉景高〈年丗六〉後の山に引きて相闘う。しかるに景時・景高・景則等、死骸を貽すといへども、その首を獲ずと云々。

非常に激しい戦闘であったことが見て取れる。またこの討伐には駿河国の在地武士が主体として参加しているため、駿河国の情勢を考える上でも参考となる。

梶原一族の討死を順番通り記すと、先ず梶原景茂が、その後兄弟四人(景国・景宗・景則・景連)が、そして景時景季景高が死している。景朝は生き残っている。このうち下線の人物は「富士の巻狩」にも参加した人物である。景時は所々で大役を努め、景季は矢口餅を陪膳した人物であり、景高は万寿(源頼家)の初鹿狩りを鎌倉へと伝えた人物である。

ほんの数年前まで幕府の実力者であったのにも関わらず、この立場の変化は驚くところである。『吾妻鏡』同21日条には以下のようにある。

廿一日 戊申 巳の刻、山中より景時ならびに子息二人の首を捜し出す。およそ伴類三十三人、頸を路頭に懸くと云々。

景時・景高・景則の頸が山中より探し出されたとある。景時は

「清見関」(清水区)→「狐崎」(清水区或いは駿河区)→「後の山」

と移動した後、討ち取られている。「後の山」は梶原山(静岡市葵区)に比定され、「梶原景時終焉の地」として現在も管理されている。

『吾妻鏡』同23日条には以下のようにある。

廿三日 庚戌 (中略)西の刻、駿河国の住人、ならびに発遣の軍士等参著す。おのおの合戦の記録を献ず、広元朝臣、御前においてこれを読み申す、その記に云はく、

正治二年正月廿日、駿河国において、景時父子、同家子郎等を追罰する事。

(中略)

一 廬原小次郎、最前にこれを追い責め、梶原六郎・同八郎を討ち取る

一 飯田五郎が手に二人を討ち取る〈景茂が郎等〉

一 吉香小次郎、三郎兵衛尉景茂を討ち取る〈手討〉

一 渋河次郎が手に、梶原三平が家子四人を討ち取る

一 矢部平次が手に、源太左衛門尉・平二左衛門尉・狩野兵衛尉、巳上三人を討ち取る

一 矢部小次郎、平三を討ち取る

三澤小次郎、平三の武者を討ち取る

一 船越三郎、家子一人を討ち取る

一 大内小次郎、郎等一人を討ち取る

一 工藤八が手に工藤六、梶原九郎を討ち取る

正月廿一日

(以下略)


とある。ここに梶原景時の武者を討ち取った人物として「三澤小次郎」が記される。この三澤氏と富士宮市との縁故を示す言い伝えがある。以下、(富士宮市;2019)より引用する。


三沢小次郎について、安永8年(1779)に編まれた日諦の『本化高祖年譜』には、「淡州ノ人移駿州 富士郡大鹿村富士十七騎之一、延慶二年五月十八日没、法号三沢院法性日弘、其居為精舎号弘法山三沢寺朗公為開祖」、つまり「淡路の出で富士郡大鹿村へ移り住み、延慶2年(1309)死去し、遁世して三沢院法性日弘を名乗り、日朗を開祖に住居を寺にした」と加筆している。延宝8年(1680)に三沢寺日相が書写した『三沢寺縁起』(『芝』)は、『吾妻鑑』に載る、奥州合戦等で軍功を挙げた三沢小次郎の孫昌弘が、日蓮から消息を受け取った人物としている(『芝』)。同内容は『駿河記』『駿河国新風土記』(文化13(1816)-天保5(1834))にも記述されるが、これらはいずれも後世の編纂物であり、三沢寺と三沢小次郎・昌弘を直接結び付ける同時代史料は今のところ確認できない。


三澤寺(富士宮市大鹿窪)が、その成立を三沢氏に求めているということが分かる。

ここで注目したいのは、三沢氏をはじめとする駿河国の武士の面々である。この一連の記述の中で、「庵原氏」「飯田氏」「吉川氏」「渋河氏」「矢部氏」「三沢氏」「船越氏」「大内氏」「工藤氏」の名が見えるのである。

中でも吉川友兼は実力者であり、曽我兄弟の仇討ちの際の「十番切」の人物でもある。『吾妻鏡』正治2年(1200)正月23日条には「駿河国内に吉香小次郎は第一の勇士なり」とあり、吉川友兼を強く称える構成となっている。

有力者の討伐ということもあり、通常では記されないであろう在地武士の名が記されたという意味で、この一連の記録は貴重である。戦国時代の史料には庵原氏や矢部氏の名が度々見られるが、『吾妻鏡』の「庵原」「矢部」といった面々はその祖先と考えて良いと思われる。ただ、戦国時代の吉原の商人「矢部氏」と『吾妻鏡』の「矢部平次」「矢部小次郎」らが同じ系譜であるのかは検討を要する。

また真名本『曽我物語』にはいわゆる「二十番の狩り」の場面で「洋津(興津)」「萱品」「神原(蒲原)」「高橋」らの名が見える。

また、以下の古文書が好例であるので示したい。




この古文書は年未詳で時代比定もやや分かれるところであるが、永享6年(1434年)辺りであるとされる。駿河国守護である今川家のお家騒動に関連して室町幕府により発給された文書である。今川家当主であった今川範政は、後継者に嫡子である「彦五郎」ではなくまだ幼い「千代秋丸」を推し、これがきっかけとなりお家騒動は生じた。駿河国の国衆間では、「彦五郎支持派」と「千代秋丸支持派」とで分かれた。

幕府は彦五郎(今川範忠)の擁立を決定し、反対勢力(千代秋丸派)を鎮圧した。その後今川貞秋が駿河国へ入国することとなったが、当文書は当時千代秋丸派に回った駿河国の国人ら(室町幕府に従わない勢力)に忠節を命じる文書である。

画像では各人の名が順に記されているが、実際は同文のものが各人にそれぞれ発給されている。「富士大宮司」と「富士右馬助」の両人にそれぞれ発給されているのは驚くべきことであり、室町幕府より別個の武力単位として把握されていたことを意味する。これは「富士家の家中関係考、富士大宮司とその子息および浅間大社社人」の大久保氏の仮説を支持する材料と言えるのかもしれない。

この文書には、上で挙げた「興津氏」「庵原氏」が記される。時代を越えて継承されていったと捉えて問題ないと考える。富士氏の場合『吾妻鏡』の「富士四郎」「富士員時」が当てはまるだろう(「富士氏家祖の謎と吾妻鏡に記される和田合戦の富士四郎および富士員時」)。

『吾妻鏡』や『曽我物語』に記されない一族も居たと思われるが、様々な「変」や「乱」で淘汰されていってしまったのだろう。

  • 参考文献
  1. 富士宮市教育委員会(2019)「史跡大鹿窪遺跡保存整備基本計画」
  2. 杉山一弥(2014)『室町幕府の東国政策』178-179頁,思文閣出版
  3. 裾野市教育委員会(1995),『裾野市史 第二巻 資料編 古代中世』319-321頁