富士宮市というところは、「無縁的」な場所が多く存在していた場所とされる。「無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和」には以下のようにある。
今川氏の分国、駿河・遠江国には、「無縁所」が多い。駿河についてみれば、弘治2年(1556)に今川義元、永禄3年(1560)に氏真の判物を与えられ、諸役等の免除、不入を認められた富士郡の久遠寺、同じく永禄3年、氏真判物で同様の特権を保証された本門寺(北山)、天文3年(1534)の氏輝、天文5年の義元、永禄3年の氏真判物によって「門前之内棟別」等の諸役を免許された大石寺、天正11年(1583)、徳川家康朱印状により「寺内諸役免許」を保証された妙蓮寺等があり…(中略)こうした諸寺は今川氏当主の代々の判物を与えられていること、つまり今川氏との縁によって支えられていたのである
とある。「久遠寺」「本門寺」「大石寺」「妙蓮寺」はすべて富士宮市に在地する寺院である。つまりは言い換えると、「富士宮市は無縁所が多い」と言う事ができる。
これら富士五山とも称される寺院が軒並み「無縁所」とされていたことを考えると、富士宮市を「無縁」という概念で総合的に捉えてもよいはずである。当時富士上方という地域が内外により「無縁所的集約地」と把握されていた可能性もある。
若挟国に万徳寺(旧正昭院)という寺があり、その寺は戦国期に「駆込寺」としての性質を持っていた。当時若挟国は武田氏が守護を務めており、当国に関わる文書を発布していた。その過程で武田元光により発給された文書には、正昭院を「無縁所」であるとした上で武田氏の祈願所と定める旨の内容がみられる。そして子の武田信豊の発給文書には「正昭院を駆込寺の特権をもつ寺」として保証する旨の内容が含まれている。これらの事実を合わせ、「無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和」では以下のように説明している。
注目すべきは、さきの文書で、この寺が「無縁所」であった、といわれている点である。元光はそのことを前提としたうえで、「寺法」を定め、祈願所としているのであり、とすれば、課役免除、徳政免除を含む掟書も、また信豊が公認・保証したさきの駆込寺の規定も、まさしくこの寺が「無縁所」だったことに淵源をもっているとみて、まず、間違いないと思われる。とすれば、縁切りの原理は、戦国時代、「無縁」といわれていたことを、ここに確認することができる
とある。駆込寺といういわば「縁切り」としての性質は、「無縁」という概念があってこそ成り立っているということになる。「無縁」は物でもあてはまるようで、物の場合「無縁的なものとなる」ことで、世俗的な争いが踏み入れないものとなると見なされていたようである。
「「神慮」にみる中世後期の富士浅間信仰」には「仮名目録追加」十四条の「違法な訴訟に対してその取次をした奏者の罰金を浅間社造営費とする」という内容について以下のように説明している。
ここでは浅間社造営費と称して係争地や罰金が処理されることに注目したい。これは単なる浅間社保護政策に留まらずに、係争地や罰金を造営費として寄進することで、対象を「神物」へと変化させる法的な行為で、これにより係争地や罰金が世俗と縁の切れた「無縁」のものになることで、論争の対象から切り離されることを意図したものと解釈できよう。この前提には、「神物」に転化させることによる「無縁」性が当時の人々の共通理解の中で納得される処理の仕方であったこと、その神の意志である富士浅間信仰の影響力を垣間見ることができる
と説明している。ある種「容易に介入できないもの」に変化している点では、同質のものに思える。これは「無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和」で「織田信長の雲興寺に対する禁制」への解釈の部分と共通するものがある(P45-49)。
また「無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和」では以下のような記述がみれれる。私はこれが、まさに大宮と一致するように思えてならない。
もう1つ注目すべき点は、金屋、正昭院の位置する遠敷川がきざんだ谷の入口に、遠敷市といわれた古くからの市場があり、北川の川上の山の1つへだてた谷にある東市場と相対していることである。遠敷市は若挟国二宮、若挟姫神社の門前、国分寺の傍にあり、金屋の谷を遠敷川にそって遡ると、谷の奥近くに一宮若狭彦神社が鎮座しているので、この市場は一・二宮、国分寺の門前の市場とみてよかろう。(中略)遍歴する「芸能」民、市場、寺社の門前、そして一揆。これらはじつはみな、「無縁」の原理と深い関係をもっているのであるが(P40)…
ここから浅間神社の門前、そしてその門前にて施行された楽市令につなげていきたいと思う。有名な「織田信長制札」について網野氏は以下のように説明している。
いわばこの第1条は「無縁」「公界」の原理を、集約的に規定したものであり、「楽」の原理もまたまさしくここにあるといわなくてはならない。前掲の多くの例と同じく、この市場も「無縁」の場であった。そしてこう考えてくれば「無縁」「公界」「楽」が全く同一の原理を表す一連の言葉であることを疑う余地は全くあるまい。(P108)
そして「富士大宮楽市令」で安野氏は「無縁の原理」について触れている。
「楽」とは「娑婆」の世界と対比される「極楽」の意味だと云われている。先に反転する世界としての「市場」を,ⅰ~ⅸの9つの特徴を持つものとして説明したが、今川領のように、小領主たちが「政所」等々の施設を通じて市場に介入することは、市場を「神仏事興行」から遠ざけ、限りなく「娑婆」の世界に近づけるものであった。それ故市場本来の在り方を求める人々からすれば、権力介入の排除は当然で、その「楽市令」は網野氏の云う「無縁論」の展開として位置づけられよう。(中略)このような中での「楽市」とは何かを云えば、外来商人達を定住商人達である市場住人の「法の保護下」に置くこと、定住商人達と外来商人達が1つの共同の法の下にあることを作り出すことであった。
だとすれば、この富士大宮楽市令によりアジール的性質をもつ場所が大宮に形成されたととっても良いと思うのである。そしてそれは、駿州往還を行き来する者、道者などにとっても大きく影響を与えたものだと思う。
「1つの共同の法の下にある」といういわば守られた空間であり、一方「法を破ると然るべき処罰を受ける」という空間だと思うのである。
そしてそのアジール性は、富士信仰のもう1つの拠点である村山も同様に思える。「戦国期における村山修験」はそれを指摘している。以下は天文22年5月の今川氏による掟判物である。
この判物について以下のように説明している。
こうした禁止令が出されている以上、その裏側の事実は、現実にあったことであると見なければならない、。「汚穢不浄者」が、あるいは物乞、乞食等の所謂「無主・無縁」の人々をさすのなら、それは後に触れる村山の持つアジール的性格によるものとも考えられる。
ほとんどの条において、この空間内における保証や平等性を示しており、この判物は村山のアジール性を強く示している。
また以下のようにも記している。
こうした村山のアジール的性格が何時の時代から発生し、発展してきたかは不明であるが、その解決の糸口として、村山の「山」としての性格を考えたい。網野善彦氏は、その著『無縁・公界・楽』の中で、中世前期には、山林そのものが-もとよりそのすべてというわけではないが、-アジールであり、寺院が駆込寺としての機能を持っているのも、もともとの根源は、山林のアジール性、聖地性に求められる。と述べられているが、この掟判物にみられる村山のアジール的性格も、その根源的基盤は富士山が太古から持っていた、山としての神秘性、聖地性にあるのではなかろうか。
一条目の「村山室中」という特殊な表現は、はやり空間としての特殊性を示しているとみて良いと思う。そして他の条もそれにかかるものだと思う。
「無縁」的なものが「信仰的空間・モノ」を媒介としやすいことは間違いないと言える。そして無縁所が多いという事実は、富士上方が信仰上有意義な場所であったからである、と思うのである。そしてそれは「富士山」という存在があって成立していたのだと思う。富士上方という場所が、「富士山を背景とする総合的無縁所」と言える状況にあったのだと考えている。
- 網野善彦,『無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和』(増補版),平凡社, 1996
- 安野眞幸,『富士大宮楽市令』弘前大学教育学部紀要,2002
- 近藤幸男,「戦国期における村山修験」『地方史静岡第13号』,静岡県立中央図書館,1960
- 大高康正,「神慮」にみる中世後期の富士浅間信仰,帝塚山大学大学院人文科学研究科紀要8, 2006